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徳川光圀の話あれこれ(7)

2020-05-08 19:43:58 | 水戸

写真は水戸市植物公園にあった綿を使った黄門さんです。

 

 徳川光圀は、7歳の雪の日に、「ふる雪か(が)おしろいならば手にためて 小がうか(が)顔にぬ(塗)りたくそ(ぞ)ある」という歌をよんだそうです。小がう(こごう)は父・頼房の命で、光圀を守りたてたという、男まさりな老女だそうです。

 

 江戸・神田明神の秋祭りの日、将軍・綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)が祭のねり物を見るために、江戸城の門前に桟敷席を作り、竹矢来(たけやらい 竹を組んで作った囲い)を結んで、人の往来を禁止したそうです。そのために、老中から邸への帰り道を変えるようにいわれた光圀は、それが将軍からの指図か聞いて、そうでないことを知り、御三家が従来回り道をすることはないと、竹矢来を破らせて帰っていったそうです。

 

 光圀の兄・頼重の長子・松千代(水戸藩3代綱條(つなえだ)の兄 綱條は、松千代が死去したため水戸藩主に)が、光圀の養子になる前、水戸城へ来てご馳走になったとき、光圀から渡された盃の酒を飲んで、相客にこのあと盃をどうしたらよいかと聞いたそうです。光圀は、盃のようなものの取り扱いを人に聞くようでは、後の政治が不安だといったそうです。すると、次の間で聞いていた小姓の木村秀重は敷居を隔てて、光圀に、「光圀は例の病気が再発した、松千代は御三家のことなのでわざわざ聞いたのであって、むしろ行き届いている」とその場で諌言したそうです。光圀は黙ってそれを聞いて、その後は楽しそうに酒宴を続けたそうです。光圀32-3歳頃のことだそうです。

 

 将軍・綱吉の生類憐れみの令を批判していた光圀は、水戸領内で毛並みの良い犬の毛皮20枚をそろえて桐箱に入れ、「上様も年をとったので、養生するよう、これを献上するので、上様に御披露の程を」といった手紙を付けて寵臣だった柳沢吉保のもとへとどけたそうです。中身を知らないでそれを綱吉に届けた柳沢は大変なことだったでしょう。そのことから光圀乱心の噂が出て、翌年江戸へ呼びつけられた光圀は、大学三綱領の講義や能を演じさせられたそうですが、それぞれに上々のできばえで、その噂は消えたそうです。しかし光圀の抵抗むなしく、生類憐れみの令は、さらにすすめられたそうです。

 

 光圀は老年になってから、家臣の安積澹泊(たんぱく 黄門話の格さん)に、「自分は小野言員(ときかず)によってなされた教導に、深く感謝している」ということを語っているそうです。このままではいけないという危機感から、小野が命をかけておこなった諌言(小野諌草(おのいさめぐさ))は確実に光圀に届いていたようです。小野諌草は小野家に伝わっていた草稿で、後に立原翠軒が見いだして西山遺聞にのせた、光圀の反抗時代がよく分かる資料だそうです。

徳川光圀の話あれこれ(6)


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