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水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(6)

2024-03-29 21:36:16 | 水戸

 徳川頼房の実母は、江川太郎左衛門の養女ということで、家康の側室となった万(お万の方 養珠院)という女性だそうで、紀州藩主になった頼房の兄である賴宣(よりのぶ)の母でもあるそうです。同じ側室で、家康が寵愛していたという聡明なおかち(お梶の方 英勝院)の娘が死んだことから、家康は頼房をその養子にしたそうです。おかちは、頼房の跡取りとして選ばれた幼い光圀を、将軍・家光に対面させたそうです。おかちは家康没後尼となり、家光からもらった鎌倉の土地に尼寺・英勝寺を建てて住職になったそうです。写真は水戸市立博物館で見た頼房の黒印です。

 

 頼房は、儒学に興味を持ち、京都から人見卜幽(ぼくゆう 林塘(りんとう))と、辻端亭(たんてい)を侍講(じこう 君主に学問を教える人)として招いて学んだそうです。この二人は光圀の侍講にもなったそうです。また、萩原兼従(かねより)について唯一神道を学んだそうです。

 

 寛永11年(1634)に将軍・家光が京都にのぼることになり、その帰りがけに御三家の一つで、頼房の兄である尾張の徳川義直のもとに休息することになったものの、義直謀反が疑われたそうです。しかし、頼房の迅速な判断によって、家光は名古屋城に入ったそうです。ただし、これは水戸の文献にあるエピソードのようで、通説にはなっていないようです。

 

 将軍・家光の子である家綱の袴着の祝で、猿楽がおこなわれたそうです。頼房の進言で、この祝は一般に公開されたそうです。大変な人数が訪れたそうですが、来た者には折り箱の引き物まで出たそうです。さすがは水戸様だと大評判になったそうです。

 

 千波湖を横断する新道・柳堤(柳堤の名前は次代・光圀の時で、当時は新道といわれたそうです)が慶安4年(1651)にできたとき、通り始めに頼房が向かおうとすると、その前に鈴木石見守重好が騎乗で往復したそうです。怒色で何事かと頼房が問うと、重好は、もしものことを考えて不敬を顧みずおこなったとの答えで、頼房は機嫌を直して柳堤を渡ったそうです。

水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(5)


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