斉昭のお膳は質素だったそうですが、その一方、いつも、牛乳を飲み、彦根から取り寄せた牛肉を食べていたそうです。食養生には心がけていたようですが、それ以外は、汁飯、野菜塩豉(味噌味の野菜漬物?)、卵の羹(あつもの)くらいだったそうです。どれも、大名料理とは思えないものばかりのようです。没年齢は60歳だったそうです。写真は弘道館に展示されている、萩谷遷喬(はぎのやせんきょう)筆の斉昭肖像です。
斉昭が脚気(かっけ)になり、麦と小豆を炊いて食べたそうです。歯ざわりが悪く、米を少し交ぜなければ食べにくいだろうと周囲は心配したそうですが、養生だと厭(いと)うことはなく、ご飯の後には麦湯を飲んだそうです。
下野(しもつけ)烏山の牛蒡(ごぼう)と薩摩の錦草を植えたり、越前のウニの繁殖を試みたり、緑岡での製茶の余業に蜜蜂を飼育したり、蘭鶏(オランダ産の鶏なのでしょう)を飼ったりもしたそうです。
信濃松代藩主・真田幸貫(ゆきつら)が江戸の水戸藩邸に訪れたときの食事の内容だです。昼は、汁掛け飯に香の物で、菓子は吉原殿中だったそうです。夜は、麦飯、葱と鴨の卵とじ、香の物、大根味噌漬け、菓子は軽焼き煎餅で、酒は昼夜ともに泡酒だったそうです。これも、大名料理とはかけ離れているのでしょう。天保8年(1837)9月(今の10月)のことだったそうですので、泡酒はしぼりたての泡が出る新酒だったのでしょうか。
三大民謡の一つといわれる磯節に、「三十五反の帆を巻き上げて ゆくよ仙台石の巻」という歌詞があるそうですが、これは巷間、斉昭の作だともいわれているそうです。
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