時空人 goo blog「脳トレ宇宙論ー人類の見果てぬ夢」

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脳トレ宇宙論 Coffee Break アナログ微分解析機

2020-03-31 20:57:36 | 脳トレ宇宙論

脳トレ宇宙論 

アナログ微分解析機  Differential analyzer in use at the Cambridge University Mathematics Laboratory, 1938

独立行政法人情報通院研究機構ニュース NICT NEWS No.449 2015 FEB
70年ぶりに動き出した機械式アナログコンピュータ
─微分解析機の再生にNICT試作開発スタッフが貢献─ 小室純一

(以下抜粋)微分方程式を解くには、逆の演算である積分を行う必要があります。微分解析機は、積分機などを用いて常微分方程式を解く大型の機械式アナログコンピュータで、1887年にイギリスのジェームス・トムソンが原理を発明しました。その実用機は1931年に、アメリカのヴァネバー・ブッシュが汎用性のある計算機として完成させました。日本でも、戦前に航空機の設計計算などを目的に3台作られ、そのひとつを大阪帝国大学で清水辰次郎教授(1887-1992)が非線形微分方程式の研究に使っていました。1961年に清水教授の異動に伴い、東京理科大へ移送され、それが国内で唯一現存している微分解析機となっています。東京理科大への移送時に、分解して鉄の地肌がむき出しとなり、部品の欠損や錆が発生しため、東京理科大の近代科学資料館では動作しないものの綺麗に組み立て、クリアラッカーで塗り固めた上で1993年頃から展示してきました。なお、この微分解析機は2009年に情報処理学会により「情報処理技術遺産」に認定されています。情報処理技術遺産は、国内のコンピュータ技術発達史上、重要な研究開発成果や国民生活、経済、社会、文化などに顕著な影響を与えたコンピュータ技術や製品が認定されるものです。 5年前にイギリスのマンチェスター大学でかつて使われた微分解析機を再生したという知らせを受けた和田英一氏(東京大学名誉教授、IIJ技術研究所研究顧問)が、この東京理科大の微分解析機を再稼動させようと、2013年3月に同大近代科学資料館の竹内伸館長(当時)、大石和江学芸員、NIIの橋爪宏達教授、そしてNICTの梅津純および筆者に相談され、微分解析機の再生プロジェクトが始まりました。(抜粋了)

・ヴァネーヴァー・ブッシュVannevar Bush1890 - 1974年

 の技術者・科学技術管理者。アナログ計算機の研究者、情報検索システム構想「メメックス」(memex) 提唱者、MIT副学長、また原子爆弾計画の推進者。

 ブッシュは、 MIT の副学長になったエリートだった。ブッシュは自分が天才であること、そして、凡人は天才の意見に従うべきだ、という強い信念を持っていた。つまりは、自分こそが正しくて反対するやつは気に食わん、という非常に困った考えの持ち主:人格破綻者とも言える。

  でも、天才ブッシュの意見は傾聴に値するものもあった。

1939年。ブッシュはワシントン・カーネギー研究機構の総長となった。政府に助言を行い、政策を左右する力もあり、アメリカの科学的権威の最高峰である。
 ところで、第1次世界大戦では、アメリカ軍は参戦したものの、非常に多くの戦死者がを出た。当時のアメリカはまだ「精神主義」で戦っており…つまり、気合さえあれば勝てる! と無謀な戦いを挑むことが多かった。
 ここでブッシュは1940年、ルーズベルト大統領と会談し、「科学的な戦い」の重要性を説き、国防研究委員会の設立を呼びかけた。わずか 10分で説き伏せ、国防研究委員会の議長の座についた

 これによってブッシュの権力は有事に於いて政府より強いものとなり、政府はブッシュが権力を握って政府を無視して事を進めるのを苦々しく思っていたが、 様々な「国防のための」計画を始めていった。ブッシュは、軍の資金を「科学の研究のため」にばら撒いた。ENIAC も、Whirlwind I もこの資金で作られ、原爆もこの資金で作られた。

 ENIAC の開発プロジェクトが始まってからも、「射表の計算は微分解析機を使うのが一番で、デ ジタル計算機など役に立たない」と発言しています。先に書いた通り、歯車計算機では計算量が膨大すぎて役に立たなかったのは事実です。そして、ブッシュは自分の考えが正しいと常に思っていました。幸い、彼が ENIAC への研究資金を引き揚げることはありませんでした。

 1941年、NDRCはブッシュが局長を務める科学研究開発局の一部となり、同局はマンハッタン計画を含む戦時中の科学研究の調整・制御役を演じた。

 このように軍と科学の協力関係によって第二次世界大戦に勝利したと言っても過言ではない。レーダー科学者アルフレッド・ルーミスは「1940年の夏に、あの男たちが死んでいたら、その後は大変な惨状が待っていただろう。その第一は大統領であり、二番目か三番目にDr.ブッシュが挙げられる」と言った。

・メメックス

 1930年代、彼はmemexと呼ぶ概念を発表し、そして1945年7月の Atlantic Monthly誌に「As We May Think」という論文を発表した。この論文でブッシュは「全く新しい形の百科事典が出てくるだろう。項目同士が網の目のように関連付けられていて、memex に入れることによってさらに威力を発揮するだろう」と予言している。後にテッド・ネルソンやダグラス・エンゲルバートに読まれ、ハイパーテキストと呼ばれるアイデアのヒントになった。ハイパーテキストは情報検索システムとしてコンピュータのユーザーインターフェイス、Webブラウザなどで広く利用されている。

(Wikipedia,および Web ”ヴァネバー・ブッシュの命日(1974)
2014-06-30”から引用)


第13話 天文学と数値計算、数表、計算機械、人間の作業②

2020-03-28 14:20:53 | 脳トレ宇宙論

脳トレ宇宙論 第13話 

天文学と 数値計算、数表、計算機械、人間の作業②

  人類が社会生活において経済活動を営むようになると正しiい数量の計算が必要になる。人類の活動が高度化すると、さらに複雑な計算を精度よく行う必要に迫られる。

 さて天文学は、遥か紀元前から星々の観測が行われており、極めて古い学問である。その天体の運行に関しては、古代バビロニア、エジプト、ギリシャ、インド、中国、マヤ、ペルシャで考察されていて、その成果の多くは現代天文学の基礎の形成に寄与している。それに関連して天文学の起源はを作ることから始まったと考えられている。人類が農耕を行うようになると、農作物の栽培や収穫に最適な時期を知るために1年周期の季節変化を正確に把握する必要が出てきた。一方で人類は太陽や星々の観察によって、季節が変化する1年という周期が、恒星の位置および恒星に対する太陽の位置の移り変わりの周期でもあることを知っていた。このように、いかに正確な暦を作るかを追求することが古代における天文学の主要な役割であった。

・天体座標の発明

 天体の位置を座標で表すことに思い至ったのもギリシア人である。紀元前350年ごろ、ギリシアのユードクスは世界地図を作成した。次に、世界で初めて世界地図に相当する星図を作り始めた。ユードクスが優れていたのは基準となる座標を北極星にとり、北極星から全ての方向に広がる放射状の線(赤経)とこれに直交する線(赤緯)を考案したことである。これにより、正確な星図を作成する基礎ができた。

・古代から続いている天文計算

 天文学の進歩は、計算に大きく依存している。天体の動きを予測し,航海を導く緯度経度の計算を容易にするさまざまな数表の作成が重要な仕事であった。子午線の決定や外惑星の発見,彗星の回帰時期の予測など,さまざまな天文学上の発見にも天文計算および計算道具、計算機械(現代ではコンピューター)は活躍した。

・三角関数表
  三角関数の表は、古代ギリシャとインドで天文学と天体航法への応用のために使用さた。 それは、計算を簡素化し、劇的に高速化するために、電子計算機が安価で豊富になるまで広く使用され続けた。1551年、ドイツの数学者ラウヒェンは惑星の運動を計算する際に必要となる、それまでにない最も正確三角関数表を作成した.さらに、引数を角度に対する表とした(それまでは円弧に対して)。この表は太陽中心説と結び付いて,天文学の計算に飛躍的な発展をもたらした

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・ネーピアの対数(1614年)

  ジョン・ネイピアJohn Napier, 1550年 - 1617年スコットランドバロン数学者物理学者天文学者占星術師

 三角関数の計算の中に現れる大きい数の計算は天文学者を苦しめた。大航海時代は計算との闘いでもあった。彼らの計算を助けるために、1594年、ネイピアは新しい計算法を見つけ出す決心をし、その20年後の1614年、ついに「対数」を発明した。

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 さてネイピアが考えていたかけ算とは三角関数どうしのものである。ネイピアは1°刻みの角度に対する8桁の三角関数に対する8桁の対数を20年かけて作った。驚くべきことにネイピアは指数も小数点の記法もない時代に対数表を作りあげたのである。ところで、ネイピアの対数の底は0.9999999という不思議な数であった。この思議な数は後に一人の天才によって謎が解かれ、そこから微分積分という新しい道が開けていった。

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 ネイピアの対数表は8桁であるが、その計算精度は7桁までは合っている。しかしこの表は人々に全く理解されなった。指数も小数点もないことに加えて、不思議な底のせいであった。しかしたった一人、天文学者ブリッグスがその本質を見抜き、1615年ネイピアに会い、ブリッグスがネイピアに対数の問題点をたずねると、なんとネイピアは既に新しい対数を考え始めていた。底が10の常用対数である。翌年1616年、現在の常用対数が二人の手によって完成した。ブリッグスはこの常用対数表の作成をネイピアと約束し、7年を費やしそれを果たした。しかしこの時、既にネイピアはこの世にはいなかった。ネイピアとその対数は忘れ去られ、ブリッグスの対数表が世界を席巻することになった。数学者ラプラスは「対数は天文学者の寿命を倍に延ばした」と言ったとのことである。

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(WEB参照:人と星とともにある数学 第5回:ジョン・ネイピア対数誕生物語)

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・計算機械の発展

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  天文学の進歩は、計算に大きく依存している。1614年のネーピアの対数の発明以来、天文学者は長い計算を行うのに対数表を頼りにしてきた。さらに複雑な計算を行う計算機械の必要性が高まる。ヨーロッパでは16世紀頃から精密機械技術の発達により計算機と呼べるものが作られるようになった。17世紀の半ばフランスのパスカルが税務官の父の計算を助けるために歯車式の計算機を作成した。ドイツではライプニッツはそれを改良してさらに高度な計算機を作成した。機械式計算機が市場に販売されるなようになったのは19世紀末になってからである。UK の数学者バベッジ(1791年ー1871年)は人間の骨の折れる作業から解放すると言うライプニッツの思想を受け継ぎ、バベッジの解析機関を考えた。

 ・数表の復権

 天文学の計算において機械は対数表より早いことを証明したが2つの点が広範囲の使用を妨げた。機械は高価だった。また使用するには別の数表―対数でなく自然数の三角関数表―が要求された。つまり、天文学の研究における計算機械の使用には対数表ではなく自然数の三角関数表が必要であった。しかしこのような数表はまだ出来ていなかった。皮肉なことに自然数表は対数がよく使われるようになって捨てられたものだった。300年後に自然数表は再出版され精度も上がって、天文学研究に計算機械が使用できるようになった。

 1896年W.ヨルダンは、300年前の「オーパス・バラチナム」から正弦・余弦表を再出版した。L.J.コムリー は

Leslie J. Comrie (1893-1950): astronomer and pioneer in mechanical computation

この数表は「機械の導入が自然数表の必要を復活させた最初の証拠」になったと述べている。またクレーレの数表は、多数回の掛け算が必要な研究をしている科学者に最もよく使われた。

 それらは、計算を簡素化し、劇的に高速化するために、電子計算機が安価で豊富になるまで広く使用され続けた。 対数表と三角関数は数学や科学では一般的であり、多くのアプリケーション向けに専門的な表が公開されてきた。
(コメント:数値計算と数表・計算機械の発展の様子が相互に関連していて丹念に調べると、その当時の社会や文化の雰囲気が分かる)

・A Short History of Mathematical Function Tables


 In the 18th and 19th centuries, scientists discovered that the elementary functions—powers, roots, trigonometric functions and their inverses—had their limitations. They found that  solutions for some important physical problems—like the orbital motion of planets, the oscillatory motion of suspended chains and the calculation of the gravitational potential of  nearly spherical bodies—could not always be described in a closed form using only elementary functions. Even in the realm of pure mathematics, some quantities—such as the  circumference of an ellipse—were also impossible to discuss in such terms. Functions describing solutions to these problems were often expressed as infinite series, as integrals or  as solutions to differential equations. 

 On further investigation, scientists noted that a relatively small number of these special functions turned up over and over again in different contexts. What's more, they noted that  many other problems could be solved in the form of a comparatively simple combination of these newer functions with the elementary functions known to the ancients. Functions that  cropped up most frequently in scientific calculations were given names and notations that have come into common usage: Bessel functions, Struve functions, Mathieu functions, the  spherical harmonics, the Gamma function, the Beta function, Jacobi functions and most of the others . 

 In the second half of the 19th century mathematicians also started to investigate these special functions from a purely theoretical perspective. Alternative representations—as 
differential equations, series, integrals, continued fractions or other forms—were found for many. Important publications on the topic at the turn of the century include the four- volume masterpiece on the elliptic functions by J. Tannery and J. Molk (published 1893–1902), containing hundreds of pages of collected formulas; I. Todhunter's treatise on Laplace,  Lamé and Bessel functions (1875); E. Heine's treatise on spherical harmonics (1881); and A. Wangerin's work on the same topic (1904). 

 Large tables with numerical values for the special functions also began to appear, along with three-dimensional "graphs" made of wood or plaster—masterpieces of precision  sculpting—showing the behavior of functions such as P and the Jacobi functions. Many of these models are still on display in math departments throughout the world and the  graphics on this website can be thought of as their modern, computer-drawn counterparts. 

  Charles Babbage, who designed but was unable to build the "difference engine," planned a printing device allowing the machine to generate large tables automatically. A Swedish  publisher named Georg Scheutz and his son Edvard later built a difference engine that could set type. In 1857, the Scheutzes produced a mechanically generated table of common  logarithms to five decimal places for the integers from 1 to 10,000; each value took about thirty seconds to calculate. Funktionentafeln mit Formeln und Kurven, the first modern handbook of special functions—that is, one containing graphs, formulas and numerical tables—was published in 1909 by  Eugene Jahnke and Fritz Emde.   Parallel to the handbooks dealing with series expansions, differential equations, functional identities and so forth of special functions, many integral tables were developed in the 20th  entury. 

  Application of the electronic computer resulted in many massive volumes containing hundreds of pages of tables for Bessel functions, elliptic integrals, Legendre functions and so on. 
 An important handbook containing graphs, formulas, and compute-generated numerical data was assembled by Milton Abramowitz and Irene Stegun. This work was published in 1964  by the National Bureau of Standards as the Handbook of Mathematical Functions with Formulas, Graphs and Mathematical Tables. Individual chapters were compiled by various  authors, leading to a certain unevenness in the quality of the material and its presentation. Nevertheless, the Handbook of Mathematical Functions remains a standard reference and is  still in widespread use. 

 Ironically, the computer that led to the creation of such mammoth numeric tables is now eliminating the need for them. The ready availability of computer processing time and  technical software now allows technical users to calculate the values of any needed function without recourse to reference works. Mathematica can calculate every special function to any desired precision for any real or complex values of the arguments and parameters. Additionally, Mathematica can symbolically and numerically calculate values for  integrals or other operations and transformations involving these functions, providing far more information than any single handbook could possibly tabulate. 

・ベッセル関数

 スイスの数学者・物理学者ダニエル・ベルヌーイDaniel Bernoulli, 1700年 - 1782年) によって定義され、ドイツの数学者・天文学者のフリードリッヒ・ベッセルによって一般化された関数

 
 

(Friedrich Wilhelm Bessel, 1784年 - 1846年

 物理で扱うベッセル関数は、電磁放射など、特定の振動数で同心円状または同心球状に広がる波動の方程式であるヘルムホルツ方程式の軸対称または点対称の系を取り扱うときに、半径方向の波の振動の解として現れることに由来する。
 実際にベッセルが、惑星運動論において、太陽の周りを回る惑星の軌道を2体問題として扱うケプラー方程式を解くために、このベッセル関数を用いた。
 (Wikipedia 参照)

 


脳トレ宇宙論 コーヒ-タイム

2020-03-22 10:53:12 | 脳トレ宇宙論

  脳トレ宇宙論 

マイケルソン(Albert Abraham Michelson,1852-1931.78歳没)

 プロイセン王国(現在ポーランド領)に生まれ,2歳のとき,アメリカに移住し,1869年アメリカ海軍兵学校に進み,光学、熱、気候学、製図などを学ぶ。1873年に卒業後海軍に入隊し、2年間洋上で過ごす。兵学校で科学と物理の講師(1875-79)となる。

 1877年、兵学校での授業の一環としてアナポリスで光速度測定実験を初めて行った。マイケルソンは科学に魅了され、特に光速度の測定という問題に惹かれるようになる。1879年ワシントンの航海年鑑局に異動、翌年休暇を取り,ヨーロッパ各地に遊学、2年間学んだ後、1881年に海軍を退官。このころマイケルソン干渉計を発明。1883年、オハイオ州クリーブランドのケース工科大学で物理学教授の職を得、そこで干渉計の改良に取り組んだ。

 1887年、エドワード・モーリーと共に有名なマイケルソン・モーリーの実験を行い、エーテルの存在を事実上否定することになった。その後天体干渉計を使った天体観測に転向し、天体の直径の測定や連星の距離の測定などを行った。 

  クラーク大学教授(1889),シカゴ大学物理学部門学部長(1892).1898年、サムエル・W・ストラットンとともに,フーリエ級数の160個の係数を決定できる機械的な装置を作った。

 1907年、「干渉計の考案とそれによる分光学およびメートル原器の研究」によりアメリカ人初のノーベル賞受賞。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)


第12話 天文学と数値計算、数表、計算機械、人間の作業・計算手①

2020-03-21 11:56:40 | 脳トレ宇宙論

脳トレ宇宙論 第12話

天文学と数値計算、数表、計算機械、人間の作業・計算手①

 天文学の起源は、はるか紀元前から星々の観測が行われている、極めて古い学問である。

天文学者や科学者ばかりが天文学の発展を推進したのではなく、社会や学問への需要や要請から宇宙の現象を解明する流れがあったからである。天文学の発明発見は宇宙の観測、測定、考察 理論ばかりではなく、数学、数値計算、数表、計算機械の発達、人間の作業・計算手に関連して、膨大なデータ解析のための大量の計算をするための道具を作る、機械を作るという物質的な条件も必要であった。

*計算機械 微分解析機 調和解析機 ENIAC,

 まだトランジスタの集積回路になる以前、真空管の熱の中で夥しいケーブルに繋がれ、計器の針が慌ただしく動き、パンチカードを音を立てて吐き出す機械だったことを思い起こさせる。観測結果など現実のさまざまな場面で生じる課題に挑んだ理論家・技術者たち、そして彼らの試行錯誤の末に生み出されたユニークな機械。いくつもの流れが交錯し、影響を及ぼし合いながら、未来に向かって宇宙論の完成へと夢見る過程を浮き彫りにする。電子計算機のような科学技術的進歩が、従来人間の頭と手で行なわれてきた作業に代行し、作業の能率と規模において革命的な変革を齎している。

①マイケルソン・ストラットンの調和解析器

   

Michelson and Stratton's Harmonic Analyzer (By IBM Archives)

A.A.Michelson measured the speed of light in air and water, establishing a quantitative foundation for the wave theory of light. For more precise calculation and measurements, Michelson built harmonic analyzers. These devices calculate which simple, regular waves are combined to produce complex waves, such as ocean waves, sound waves in a musical chord or the light waves from a star. In 1898, Michelson, working with Samuel W. Stratton, designed this 80 element harmonic analyzer to study light waves.

  マイケルソンは光がどのくらいの速さで空気と水の中を伝わるかとい重要な測定を行い、光の波動理論の量的な基礎を築いた。マイケルソンは計算と測定のための非常に精密な装置が必要だったので、測定による計算を行う機械、調和解析機を作った。初期の20素子の機械は1876年のケルビン卿の解析機をもとにしてマイケルソンによって作られた。1898 年、Michelson ・ Stratton  調和解析機を製作し、任意の関数に対して80次までのフーリエ成分を計算した。

 話は飛躍するがマイケルソン・モーリーの実験は特殊相対性理論を理解する上で最も基礎になる実験である。それは光の伝播速度が、その光を発した光源の速度に依存するのか?あるいは、音波の伝播速度がそれを伝える媒質(空気)に対して常に一定値であったように、光を伝える媒質(エーテル)が存在して、そのエーテルに対して一定の速度で伝播するのか?という疑問に関係している。
 この疑問には光が有限の速度で伝播することが解って以来の長い歴史があるが、光が電磁波の一種であるという考え方が確立してからますます重要な問題となった。