今日から、仕事始めです。
仕事始めと言えば、初めて小樽でOLになった時に、生涯忘れられない商人、「故藤橋茂氏」にどうしてもぶつかってしまう。私の仕事の原点の人ということになります。
小樽旧拓殖銀行時代に、「小林多喜二」と盟友で、文学活動も、仕事も、1927年6月の労働争議の若手中心的リーダー3人の中のひとりであったと、退社後しばらくして知ることとなる。
生涯を通じて、多喜二との書簡を墓穴まで持って行って、世には出さなかったと窺っている。どれくらいすごい商人か少し書いてみたい。私は、今でもこの人を超える商人はいないと自負している。
①昼食は、戦争時代に使ったハンゴに「鮭一切れ・たくあん二切れ」外食や、接待以外の昼食は別に、老衰で亡くなるまでこのスタイルを貫いたという。
②紙切れ一枚のメモ用紙を私が、くずかごに捨てたら、それを見られて・・「これはいくらか?わかるか?」と聞かれたことがある。女性には直接話すことのない専務でしたが「50銭もするんだぞー!!」と19歳の私は、足の裏から地割れがするのじゃないかと思うほど、沢山の社員の前で叱られました。そして、2階の事務所でみんなに教えるように「これはなー・・これはなー・・50銭もするんだぞ!!!お前は会社の資産を捨てるのかあ!!」と死ぬほど一喝されました。(原価意識と、資産を教えられました、骨身に沁みて)
③営業マンの大学出身者には、会社の役職の道を、高校出身の市内ルートセールスには、全道各地のお得意さんから、商店の「婿養子」を頼まれ、「お前は、ここにいても出世はあまり望めんぞ・・○○商店ならそこの名士だ・・考えてみないか?」と言って、婿養子になったところと、太いパイプで結ばれる。
④今でも忘れられないのは、中堅の営業マンが、大手メーカーの手形を、一日延ばして欲しいと先方から頼まれ「本人決済」をして、2000万(今で言ったら2億でしょうか)専務に報告した時のことです。本人は有名メーカーですし、一日だと思ったのでしょう。
「ちょっと座りたまえ・・後ろを向きたまえ」とその営業マンを後ろ向きに座らせて、座禅の時に、肩を叩くようにそろばんで2度「ビシッ!ビシッ!」とすごい力で叩いたのです。周りはみんな、息を呑むばかり。顔面蒼白になったA氏に「俺に叩かれたと思ったら腹が立つだろう!!一日手形を延ばされたと言うことは、お前に信用がないからそうされたんだ!!お前が商人ならそろばんに叩かれたと思え!!」・・・専務がいなくなってから、泣きたいくらいびっくりした私が、「専務ってあそこまでしなくていいのにねー」ってA氏にこっそり告げたら・・「何言ってるんだ!!悪いのは俺なんだ!!」と逆に怒鳴られてしまいました。(この、信頼関係のすごさを思い知った訳です)
⑤市内のルートセールスで、お調子者で、大学は出ていても、要領のいいN氏が、今月一番の売り上げをした時です。
「ちょっと・・ちょっと・・N君・・。今月は一番おめでとう!!」でも専務の顔は、そのいい加減さを見抜いて、「まさか・・君の売り上げ一番は・・お客さまを・泣かせて立てた売り上げじゃないだろうなあ・・」と、目も、口も彼を、睨み付けているのです。
N氏はかなり動揺していました。(見抜いていたのですね・・押し付け営業を)
エピソードはつきません。小樽に「藤橋あり」と、日本中の、各メーカーから一目置かれた、商人道を貫いた人です。「何故、自分にもあれほど厳しく生きたのか?」と、自分の分身を育てたS氏に(後の専務)尋ねたら・・多喜二の分まで生きたんだろうよ・・と答えてくれました。その会社は、S氏在社の10年前は200億円の売り上げがありましたが、S氏が定年後会社は大幅に縮小しました。(主力商品に特化させたのです)
小樽の商人の歴史は、船場・近江商人の歴史です。1円2円50銭・何毛とそろばんをはじいて商談をしていたことが思い出されます。
今は、自分自身・・のんべんだらりと、故藤橋氏に墓穴から怒鳴られそうですが、今年は
このようなたくさんの教えを、思い出し、会社の独楽の芯になって、半分仕事人・半分川柳人になって日々楽しんで行きましょう。(大変な時代こそ、笑って超えることが、大事だと常々感じています。)
窓際から、日本の美しい四季の移ろいも感じながら、本物の雪も見ながら、いろいろな潮流と、原点を見つめ・・気負うことなくスタートです。