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「介護もトライアスロンも楽しんで」

95歳の母を介護の日々ですが、合間に走って泳いで、バイクにも乗って年数回のトライアスロン大会参加を目標に楽しんでいます。

兄のこと

2021年06月08日 12時34分11秒 | 我家

6月4日に肺がんのため亡くなった兄ですが、今日近親者のみでの葬儀を終えることができました。

 

この兄との思い出はあまり良いことは残っていません。それほど仲の良い兄弟ではありませんでした。2歳の年の差だったのでお互いの結婚後ももっと交流があって良さそうなものなのですが、お互い気が合わなかったのだと思います。

 

いつまでも忘れられない記憶と言えばもう30年近く前のことになりますが、新橋の駅そばの雑居ビルの、何の看板も掲げていない小さな組事務所へ兄の借金を返しに私が一人で行ったことでしょうか。駅に着いてから電話をして場所を聞き、薄暗い階段を上がって行ったことを今でも鮮明に覚えています。部屋の中には机と椅子が2組ずつあったような記憶です。そしてチンピラの二人が居て支払いをし、兄が預けていた運転免許証を返してもらったのでした。

当時私は山手線で一駅隣の浜松町にある会社に勤めていたので仕事の合間に行ってきたのです。この時兄は自殺未遂を起こし一命を取り止め病院のベッドの上でした。

チンピラに「お前の兄さんはどうしようもないやつだが弟はまともな社会人なんだな。」って言われたことも今でもハッキリと覚えています。「あんたに言われても嬉しくもないわ。」と思いましたが、表情一つ変えずに返してもらった運転免許証をスーツのポケットに入れてそそくさと退散してきました。あんな空間に長居は無用です。

 

兄は小さい時からお金の使い方を知らないで育ってしまったのでしょう。母から毎月お小遣いをもらっていましたが、毎回それだけでは足りていなかった様でその都度母が足りない分を渡していたそうです。私は貰った分しか使っておらずこのことは後に成人してから聞いたのでした。

そして兄はその後も金銭にだらしがなく、趣味と言えばパチンコに明け暮れていました。結婚して親と同居生活をした兄夫婦ですが、兄の金銭感覚は破綻していて常に借金を抱えていたのです。年子の娘二人が出来ても家族を顧みることはなく一時は生活費を入れることもしていなかった様です。このため義姉が一生けん命働いて娘二人の学費を捻出していたのでした。

後から聞いた話では娘二人が小学生の時、兄は子供がトイレに行った隙にその子供の貯金箱を壊して中の小遣いまで持ち出していたとのこと。それ以来子供達はトイレに行く際には自分達の貯金箱を抱えてトイレに入っていたそうです。

 

その後も兄の素行は治まらず諸々あって家族4人で実家を離れ別の家に住んでいました。詳しい話は聞いていないのですが、借金の取り立て屋が家に来て子供達がたいそう怖い思いもしたそうです。そしてその後は兄が一人でアパート暮らしをする様にもなってしまいました。義姉はさっさと離婚してしまえば良かったのでしょうが、諸事情あって籍を抜くことはしていませんでした。

そして一昨年の6月に脳梗塞で倒れた時も市内のサラ金に借金が残っていてその返済をしてきたのも私です。

 

妻と娘二人がいる兄でしたが、私が両親の他に彼の面倒まで見なくてはならなかったのは兄家族がそれを拒んだからに他なりません。「そりゃそうですね。」と兄が脳梗塞で入院した当時私としても納得せざるを得なかったのでした。「こんな男を誰が面倒看てやるものか!」

引き取り手がない以上弟の私が面倒看るしかありません。なので何で俺が、と言う気持ちは捨てて面倒を看てきました。健康診断後の再検査で肺がんが見つかり昭和大学横浜市北部病院に入院した際も兄は抗がん剤と放射線治療をすれば直ぐに出てこれるぐらいにしか考えていなかった様です。ノー天気な兄でもありました。

その後肺に水が溜まり再入院し、ステージ4と宣告されたのでした。彼はその時どの様な気持ちで先生の話を聞いていたのでしょうか?自分の今まで歩んできた人生を振り返ったりはしなかったのでしょうか?

そして兄には人生の最終章が何でこうなったかという事を通院の際の往復の車の中で懇々と説教もしたのです。兄は毎回黙って聞いていましたが、心には何も響いていない様でした。義姉やその家族がどれ程の辛い思いをし続けてきたのか、その報いを今受けているのだとも伝えたのですが、彼は沈黙を守っていたのです。

 

私は好き好んで介護をしている訳ではないことは兄にハッキリ伝えました。誰も面倒を看てくれない状況の中、弟という立場上の義務感だけだと言うことを伝えてもあったのです。兄は心の中でどの様な葛藤があったのか私に言うこともなく、私もそれを聞きだす努力もしませんでした。

 

脳梗塞と肺がんという二つの重い疾病を患ってしまった兄に対して普通の感覚であればもう少し優しく接して当然なのでしょうが、私にそれは出来ませんでした。突き放してもいました。毎日の洗濯や食事の世話、排泄の処理、通院の付き添い、半身麻痺のために日常生活で出来ないことがとても多かったのでその都度の介助など必要なことは全てきちんと行ってきましたが、心の寄り添いと言う面での介助・介護は出来ませんでした。

 

ここまで書いてきて、生活環境のバックグラウンドをもっと詳しく説明しないと理解し得ない所が多々あると思いますが、諸事情によりそこらへんの事は省かせていただきました。

 

 

兄が肺がんで入院中に、兄が万一亡くなった時に葬儀に出るのかどうかを義姉とその子供達2人に聞いたことがありました。応えは揃ってそれも即答で「出ません。」と言う言葉でした。流石に私もビックリしましたが、それ程辛い思いと兄に対する大きな不満を抱えていたんだろうと実感させられたリアクションでした。

しかし実際に亡くなってみていざ葬儀となった時には、義姉が喪主を務めてくれることになり3人揃って参列してくれたのでした。

 

兄は最後まで私に心を開いてはくれませんでした。私も説教したり怒ったりばかりでしたから重い口が尚更開くことがなかったのでしょう。私の一方的な思いからの文章で、本人が反論ができないことは不公平なブログのページになりましたが、義姉が葬儀社に安置されている兄に線香をあげに行った日、彼女がお棺に入っている兄の顔を見るなり「何の苦労もなく安らかな顔で眠っている様ね。」とポツンと言った言葉が印象的でした。きっと兄は彼なりに自分の世界で落ち着いた平常心のままの最後だったのかも知れません。

コメント (12)
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