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日本では、教育や政治の場で宗教信条を表明することをタブー視される。そのためか、宗教に対するネガティブイメージが根強くある。
特定の宗教を信じていると言えば、「自由意思がなくなる」「洗脳され、思考停止となるのでは」と"心配"されることも多いかもしれない。だが、そうした"心配"の背景には、宗教に入ると、特定の価値観や行動様式を押し付けられ、逃れられなくなるという誤解がある。
確かに、食べ物や持ち物などに数多くのタブーを設け、行動の一挙手一投足まで縛り、信者の自由を制限する宗教があることは確かだ。さらには、他宗の教えや、他の思想書などに触れることを禁じ、他宗を信じる人を悪とみなす教団もある。そうした一部の過った宗教を見て、すべての宗教を同じものと見なすのは、それこそ「洗脳」であり、「思考停止」ではないか。
価値観によって物の見方や考え方は変わる
宗教は本来、人間を超越した存在である神仏の願いや価値観を、明確に教えるものだ。神仏の価値観に触れることで、人は自らの至らなさを振り返り、向上を目指して努力を重ねるようになる。
このように一定の価値観を押し付けること自体が、「自由意思の否定につながる」と見る人もいるかもしれない。
だが、私たち一人ひとりは、意識しているか否かは別として、何らかの価値観に基づいて考え、行動している。
一つの物事に接しても、各自の価値観によって見方や考え方が違ってくる。足腰が弱ったお年寄りに電車で席を譲る人の姿を見て、「素晴らしいな」「立派だな」と思う人もいれば、「おせっかい」「偽善だ」などと捉える人もいるだろう。
そうした価値観は、大人になる過程で自ら選び取って身につけることもあるが、幼少時に親や身近な人から教えられたり、学校教育やテレビなどの影響を受けて、無意識のうちに身につく場合もある。自分が今まで読んできた本や出会った人に、知らず知らずのうちに影響を受けることもある。
そうであるならば、特定の価値観を学ぶこと自体をネガティブに捉えるのはおかしなことだ。そうではなく、その価値観を身につけた結果、その人の考え方や行動が素晴らしくなったか否かという点に着目することが大切ではないだろうか。
宗教の正邪は「果実」で見分ける
思想や信条、価値観は自由だ。「人を殺してもかまわない」「人の物はオレのもの」といった価値観を持つことは自由だが、その価値観に基づいて殺人や窃盗を犯せば、刑法などで処罰される。
また、価値観には他の人の模範となるようなものもあれば、そうではないものもある。
例えば、「努力することは素晴らしい」「すぐに努力が報われなくても、頑張ったことは自分の力になる」という価値観に基づいて生きている人は、成功者の道を歩むことが多い。
一方、「努力なんて面倒で意味がない」「できるだけラクをして生き、よい結果だけ得たい」と思っている人がいたとしたら、成功する可能性は低いだろうし、その人の生き方を真似したいという人は少ないだろう。どんな価値観を学び、身につけるかによって、人生は大きく変わっていくのだ。
宗教も同じく正邪があり、正しさにもレベルがある。正しい宗教の教えを学んでいる人は、「神様に見られても恥ずかしくないように、他人に対する憎しみや嫉妬心を反省し、心を正していこう」と考え、他の人には寛容に、自分には厳しく努力を重ねていく。それによって人格が向上し、自分も周りも幸福になるという「果実」「結果」が現れてくる。
「宗教は自由を失わせる」という価値観にとらわれている人は、正しい宗教を学ぶことで、正しい価値観に基づいて自由に考え、行動できるようになり、自由が広がる道があることを知っていただきたい。
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