画竜点睛

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「ジェノサイド」(9)

2012-01-19 | 雑談
一方無機物につづけて、ベルグソンは有機体の特徴を以下のようにまとめています。無機物が科学によって人為的に切り取られたものであるのに対して、有機体は自然そのものによって孤立させられ、閉じたシステムを形作る傾向を持ちます。熱力学的には生物は開放系に属しますが、ベルグソンはそれがむしろ特殊な意味での閉鎖系、すなわち個体を形成する傾向がある点に着目します。人間においてさえ確かに個体性は完全なものではなく、「時間において永続したいという個体性が感じる欲求そのもののせいで、個体性が空間において完全になることは決して」ありません。が、たとえばヒドラなどに見られる再生という事実が示すように、個体性への傾向は有機的世界の至るところに遍在しており、「機会があり次第姿を現すと考えられ」ます。ただこの傾向は顕在化するや否や生殖という別の傾向の抵抗を受け、完全になることを妨げられているだけです。

有機体のもう一つの特性として、ベルグソンは「老化」を挙げています。老化とは個体に分与された胚から胚へと受け継がれていく生命の連続的な流れ以外のものであり得るでしょうか。個体性の場合とは逆に、空間において完全な個体となろうとする欲求によって、有機体における生命の流れは時間的に有限なものにならざるを得ません。つまり個体性と老化は相関関係にあり、相反する二つの傾向、二つの流れを象徴しているといえます。「ある瞬間、ある空間上の点で、はっきりと眼に見える、ある流れが生まれたのだ。この生命の流れは、次々と物体を有機的組織化してそれらを横切りながら、世代から世代へと移行した。この流れは、種の間で分割され、個体の間に散らばったが、その力を何ら失うことなく、むしろ前進するのに従ってみずからを強めた」。エラン・ヴィタル(生命の根源的躍動)に最初に言及した「創造的進化」第一章のこの記述は、熱力学第二法則に関する記述を髣髴とさせます。ひょっとするとエラン・ヴィタルの着想は、万物の始原に関するアンチノミーと熱力学第二法則についての考察から生まれたのかもしれません。

これ以外にも、エラン・ヴィタルは様々なイメージによって語られています。たとえば落下する錘を持ち上げようとする力や腕を持ち上げる動作、花火の燃え滓を照らす火花の散り際の一閃などです。エラン・ヴィタルがこのようなイメージを喚起するのは、それが常に物質の抵抗に出会うからです。腕を持ち上げる動作の場合、「この腕は、放っておけば、下に落ちるが、腕に生を吹き込んでいた意志の何かが、それを持ち上げようとしながら、そこに残っている、と想定しよう。みずからを解体する創造的な動作、というイメージとともに、われわれは、すでに物質について、より正確な表象を持つことになるだろう。そしてわれわれは、生命の行動性に、直接的な運動の何かがそれとは逆の運動の中に残っているのを、つまり、みずからを解体するものを横切ってみずからを作る、ある実在を見るだろう」。また「創造的進化」第一章の終わりには、視覚器官と視覚機能の比喩として、鉄の鑢(やすり)くずの堆積の中に手を差し込むイメージが示されています。これは分岐した進化の末端に働く力の例ですが、原初の衝撃は末端の隅々にまで行き渡るものですから、広い意味でエラン・ヴィタルを暗示していると言っても差し支えありません。この比喩においては、手が差し込まれるにつれて鑢くずの微粒も配置を変え、手の動きが止まると同時にすべての配置が決定します。手に押しのけられた鑢くずの配置の秩序は「抵抗の全体の形であって」、鑢くずに働いた手の作用を否定的に表しているに過ぎません。ところが手の動き、すなわちエラン・ヴィタルは空気のように人間の視界に入ることもなく意識に上ることもないためその作用は看過され、本来否定的な意味しか持たない鑢くずそのものの内的な力や鑢くずの微粒同士の相互作用にこの秩序の原因が求められてしまうのです。生物や生物の器官を機械と同一視したり、進化を現在によって説明しようとする機械論の錯覚もこの点にあります。それは結果を見るべきところに原因を見、否定を見るべきところに肯定を見ているのです。

しかし生物の進化を思い浮かべようとするとき、エラン・ヴィタルの比喩として最も相応しいのはやはり次から次へと連鎖的に炸裂していく砲弾のイメージでしょう。砲弾は発射されるや否や破片となって飛び散り、飛び散った破片のすべてがまた炸裂して砕け散る、というふうに際限なく分裂を繰り返していくのがこの運動の特徴です。分裂の進展は砲弾に含まれる火薬の爆発力と、それを包んでいる外殻の抵抗によって同時に説明されます。このため進化の運動を辿るにはエラン・ヴィタルに由来する本質的な要素と物質の抵抗に由来する偶然的な要素をあらかじめ区別してかかる必要があります。

原初の生命がどう振舞ったかについて、ベルグソンは次のように想像します。物質の抵抗に出会った生命は、最終的に籠絡し支配するためにまず物質に取り入り、物質の傾向と習慣を我が身に引き受けます。こうして生を享けた最初の有機体は極めて単純で、物質とも生命ともつかない未分化な原形質の塊りでした。物質のエネルギーをはるかに凌ぐポテンシャルを秘めたこの最初の有機体は自己の勢力を拡大すべく、次に可能な限り大きくなろうとします。が、拡張への志向はすぐさま抵抗に遭い、有機体は分裂することを余儀なくされます。分裂しつつ連帯し、連携しつつ増大するためには、幾世紀にもわたる気の遠くなるような時間と物質を懐柔するための巧妙な術策を要したでしょう。「このようにして、有機体は複雑でほとんど不連続であるにもかかわらず、単に増大しただけであるような連続的な生命の固まりのごとく機能する」。

分裂への引き金を引いたのは物質だとしても、分裂のより深い原因は生命自身にあります。「なぜなら生命は傾向であり、傾向の本質は、ただ増大するだけで、分岐する諸方向を創造しながら、束状に自身を展開することだから」です。様々な方向に分岐した進化の系列は、枝分かれした後も多かれ少なかれエラン・ヴィタルを分有しています。甚だしく隔たった進化の系統の末端にたとえば社会性という共通の要素が見出されるのは、それらが同じ起源を持ち、互いに補い合っていたことを物語っています。と同時に、人間の社会とアリやミツバチの社会という最も発達した二つの異なった社会を比較すると、アリやミツバチの社会が完璧な規律を示しつつ固定したまま変化しないのに対して、人間の社会が進歩に向けて開かれている代わりに常に内部闘争の危機を孕んでいることが示すように、萌芽状態において補い合い共存していた諸々の傾向は進化するにつれて両立不可能になり、対立しさえすることがわかります。この事実から読み取れるのは、エラン・ヴィタルは枝分かれしたすべての方向、すべての系列に等しく躍動を伝えることができたわけではないということ、対立しているもののうち一方は本質的で、他方は偶然的であること、人間の社会とアリやミツバチの社会の例で言えば、本質的なのはおそらく人間の社会の方だということです。

実際、数多くの種に見られるのは進歩よりもむしろ停滞であり、「逸脱や後退」です。生命はしばしばギリシア神話のナルキッソスのように「自分が生み出したばかりの形態に心を奪われ」、そこで進化の歩みを止めてしまうのです。重要なのは、逸脱や後退に満ちた進化の系譜の中から主要な線を見分けることです。その中でも特に「生命の大いなる息吹を自由に通せるくらい充分に広かったのは、脊椎動物を通って人間へと達する道だけ」です。したがって問題は、人間と動物界全体の関係、そして動物界全体と有機界全体の関係を知ることです。

まず動物界が有機界全体において占める位置を見てみると、動物と植物との間に最初の大きな分岐点があったことが見て取れます。しかし単純に比較しただけでは、植物と動物を明確に区別するのは実はそれほど易しくありません。というのも植物の特性は多かれ少なかれ動物においても見出すことができ、動物の特性も多かれ少なかれ植物において見出すことができるからです。もっとも両者は同じ幹から出てきたものである以上、考えてみればこれは至極当たり前のことです。幹に近ければ近いほど、つまり進化を遡れば遡るほど両者に共通する要素が数多く見出されるのはむしろ当然の結果でしょう。逆に言えば、それらがどの方向に向かっているか、どんな傾向を強めつつあるかという点を明らかにすれば、動物と植物の違いを明確に定義することができる筈です。そしてこのことはまた、進化において何が本質的で何がそうでないかを知るよすがにもなるでしょう。

植物と動物の違いで真っ先に目に付くのは、栄養の摂取の仕方です。言うまでもなく植物は大気あるいは水、土壌から直接必要な栄養、特に炭素と窒素を無機物の形で摂取することができます。一方、動物は同じ要素を蓄積した植物を直接食べるかその植物を口にした動物を捕食することにより、有機物という形でしかそれらを体内に取り込むことができません。それゆえ動物の得ている栄養がどこから来ているかを辿っていくと、最終的には植物に行き着くことになります。もちろんすべての植物がこの例に当てはまるわけではなく、たとえばモウセンゴケやハエトリグサなどの食虫植物はその名の通り昆虫などの有機体を捕らえて消化吸収しますし、植物のかなりの割合を占める菌類は動物と同様、栄養を有機物の形で摂取します。しかしまず食虫植物について言えば、それは昆虫を捕食するのと並行して、通常の植物と同じように大気中の二酸化炭素から炭素の固定を行い、根から養分を吸収します。したがって食虫植物は植物本来の栄養摂取の方法を完全に放棄したわけではなく、昆虫を捕獲、吸収する能力は特殊な環境において後天的に獲得されたものと見るのが妥当でしょう。また菌類については、そもそも他の植物と等しなみに扱えるものかどうか疑問です。「高等な植物において、新しい個体の胚の発達に先立って、胚珠の胚嚢の中で、ある組織が形成されるが、菌類がこの組織以上に有機体として進化することはなかった」という当時の学説をベルグソンは紹介していますが、この説が正しいなら、菌類は「植物界の未熟児」と形容できるかもしれません(ちなみに現在では菌類は植物に分類されることはなく、動物界や植物界と並ぶ界の一つと考えられているようです)。いずれにせよ栄養の摂取の仕方において植物を特徴づけているのは、「空気、土、水から直接獲得する無機物を使って有機物を創造する能力である」ということができます。

対照的に動物は炭素や窒素を直接摂取することができないので、それらを含んだ植物や動物を求めて移動する必要があります。かくして最も原始的なものから最も高等なものに至るまで、動物の生は空間内における可動性によって特徴づけられます。原始的な動物においては仮足や鞭毛や繊毛などによって気まぐれで不確かな運動が引き起こされるだけですが、動物の進化に伴って感覚器官と運動器官、それらをつなぐ神経系が発達し、可動性もより確実さを増していく様が見られます。植物はこれと正反対で、細胞がセルロースの膜に覆われていることが象徴するように不動性へと習慣づけられており、高等な植物になればなるほど不動性あるいは固定性への傾向が強まります。動物の可動性(あるいは運動性)と植物の不動性(あるいは固定性)には当然例外もありますが、これら相反する二つの傾向が動物と植物の進化の方向を指し示しているのは誰の目にも明らかでしょう。

しかし動物の運動性も植物の固定性も、より根本的な差異を象徴的に表しているに過ぎません。神経系の発達は運動性の発達と比例していると同時に、意識と密接に関係しています。あるいは意識は自由と密接に関係している、と言った方がより正確でしょうか。何故なら意識は脳など特定の器官に依存しているわけではなく、神経系は意識の原因ではないからです。神経系の発達も運動性の発達も、自由を象徴的(間接的)に表現しているに過ぎません。いずれにしても自由(行動)のあるところには意識があり、したがって最も原始的な動物でさえもその運動には意識の刻印が打たれていると言えます。逆に固定性の方向に傾いている植物は、本質的に無意識的なものです。ただしここで無意識的という言葉を使うのは、誤解を招く危険があるかも知れません。意識的、無意識的というのは目覚めた意識、眠り込んだ意識という意味であり、フロイトのいう無意識とは違います。ベルグソンが無意識という言葉を使うとき、「意識の外側にある心理的実在を示すためにではなく、心理的でない実在を示すために用いている」(「ベルクソンの哲学」)場合がほとんどです。他方、ベルグソンは意識という言葉を(無意識という言葉と同様)「心理的でない実在を示すために」用いる場合と、フロイト的な意味での無意識の同義語として使用する場合があります。フロイトの無意識は心理的実在であり、現在において働くものですが、これはベルグソンにとって意識以外の何物でもないからです。したがって対立する二つの傾向を表すためには意識的、無意識的という言葉を使うよりも、目覚めた意識、眠り込んだ意識と表現する方が的確です。動物は進化すればするほど覚醒し、植物は進化すればするほどより深く眠り込むのです。

現在において働く意識の反意語を求めるなら、「創造的進化」で実際にベルグソンも使用している「無感覚」という言葉が適当でしょう。無感覚という言葉は神経系が存在しないことを言外に表しており、それはそのまま植物の特質に合致します。植物も意識を持ち得る以上単に無意識というだけでは不十分で、無意識と同時に神経要素の不在をも含意している無感覚という言葉の方がより適切なのです。実際、意識を持ち得る植物は存在しても神経要素を持った植物は存在しません。「植物は、炭酸ガス中の炭素と酸素の結び付きを断ち切るために太陽の放射エネルギーを使うとき、そのエネルギーの方向を曲げる。思うに、植物において動物の指導意志に対応するのは、この方向の変更である。植物において動物の感覚能力に対応するのは、そのクロロフィルの全く特殊な感光性である」。ここでベルグソンが述べている「動物の指導意志」とは、動物の行動する能力、すなわち運動性のことでしょう。動物の神経系は「感覚と意志の媒介として役立つメカニズム」であり、植物においてこれに該当するのは「クロロフィルの感光性とでんぷんの産出の媒介物として役立つメカニズム、あるいは独特な化学的過程である」と思われます。つまり運動性への傾きが動物に神経や神経中枢をもたらしたとすれば、固定性への傾きが植物にもたらしたものこそクロロフィルの機能だったに違いありません。

(つづく)
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