画竜点睛

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「ジェノサイド」(19)

2012-12-26 | 雑談
話があちこちに飛びますが、今度は「物質と記憶」第三章の観念連合に関する分析を見てみることにします。前述したように、「現在の知覚にみなどこか似たところのある無数の記憶の中から、いかにして選択がなされるかということ、またなぜその中の唯一つだけが、――ほかの記憶よりとくにこの記憶が――、意識の光をあびて浮き上がってくるかということ」を、類似や近接によって説明することはできません。観念連合を類似や近接によって説明しようとする連想説は単に意識の状態が相互に結び付いた結果だけを見て類似や近接について語っているに過ぎず、それがどんな力に基づいているかを説明し得ないのです。一般に互いに独立したイマージュが無条件に与えられ、それらが何らかの「引力」によって引き寄せ合うのが観念連合だと考えられています。しかしこのように考えていたのでは、何故イマージュ同士が引き寄せ合うのかをいつまでも経っても理解することはできません。発想を変えて、互いに独立したイマージュはどのようにして形作られたのかを問題にしなければならないのです。この文章の前半で一般観念について触れた際に述べたように、動物にとっては「ある景観を他の景観から、ある場面を他の場面から区別する」ことは必ずしも必要なことではありません。動物はこれらを区別する前に「客観的に力として働く」類似を知覚するのであり、「近接した諸部分の集合においては、部分に先立って全体を知覚する」のです。人間も動物の一員である以上事情は同じです。「私たちは類似から類似した諸対象へと進みながら、類似というこの共通の布地の上に、個々の差違の多様性を刺繍する」ことによって、個々の知覚、互いに独立したイマージュを獲得するのです。角度を変えて見ると次のように言うこともできます。客観的に力として働く類似を知覚するとは、「有機体がそこから同じ有益な効果を引き出し」、類似が「身体に同じ態度を刻印する」ということです。「――或る場合には、知覚は当然、運動にまで延長される。運動的傾向、運動のシェーマ(図式)が、有用性を関数として、知覚されたもの(類似)を分解する」(「ベルクソンの哲学」第三章。ただしこの分解は第一段階のものであって、記憶が介入する際はこれに知性による第二段階の分解が加わります。ドゥルーズは注の中で次のように補足しています。「――とくに、運動的シェーマと力動的シェーマ(「知的な努力」で「動的図式」と呼ばれているもの)を混同してはならない。両者は、ともに記憶内容の現実化に介入するが、それは全く異なった面においてである。つまり、前者は純粋に感覚=運動的であり、後者は心理的・記憶的である」)。したがって連合という事実は、知覚を抜きにしては語ることができません。あらゆる記憶が他の記憶と一体になろうとする傾向は、イマージュ同士が引き寄せ合う力に由来するのではなく、分解された知覚の不可分の統一性に復帰しようとする精神の傾向に由来するのです。

したがって注意的再認の項で見たように、知覚と記憶は対象自体も含めて切っても切り離せない関係にあり、それらを自己同一的で互いに独立したものとして考えるところに連想説の根本的な欠陥があると言えるでしょう。注意的再認ではこの三者の関係が対象を中心とした回路として図示されましたが、第三章ではこれに身体(感覚=運動機構)と運動面が加えられ、倒立した円錐体として示されます。この二つの図がどういう関係にあるのかベルグソンは明示していませんが、回路が心理的次元における記憶の運動を表し、「意識の平面」を二次元的に表現したものであるのに対して、円錐体は存在論的次元で共存する記憶を表しているのではないかと考えられます。ベルグソンが「われわれの全人格は、記憶の全体を伴って、われわれの現在の知覚の中に、分かたれぬままはいってくる」というとき、語られているのはおそらく「それぞれの記憶内容が(たとえどんなに弛緩しているにせよ)そのレヴェルで、現実化され、イマージュとなるために経由しなくてはならない」収縮(「ベルクソンの哲学」第三章)でしょう。「(前略)知覚がかわるがわる異なった記憶をよび起こす」とき、より正確に言えば記憶が知覚の提供する枠組みに入り込むとき、問題となるのは最早「すべてのレヴェルが潜在的に共存する存在論的な強度の大きい収縮」ではないからです。「(前略)われわれが喚起またはイマージュの想起について語るときは、全く別のことが問題とされている。つまりわれわれが、記憶内容の存在しているレヴェルに身を置いた場合だけ、それらの記憶内容は現実化されようとするのである。現在の呼び掛けの下では、それらの記憶内容は、その純粋な記憶内容としての特徴を示す非効果性・非移行性をもはや持ってはいない。それらの記憶内容は、《想起》されることのできる、記憶内容としてのイマージュになる。それらの記憶内容は、現実化または具体化されるのである。この現実化には、あらゆる種類の明確な局面・段階・程度がある。しかし、このような段階や程度を通して、この現実化が(そしてそれだけが)心理的意識を構成する。そしてここにはあらゆる仕方でのベルクソン的転回が見られる。つまり、われわれは現在から過去へ、知覚から記憶内容へと行くのではなく、過去から現在へ、記憶内容から知覚へと行くのである」(同上)。注意的再認では、注意力が高まれば高まるほど次第に大きな円環が形作られ、より深い次元の記憶が投射されるという仮説を立てました。円環を「意識の平面」に置き換えて考えると、注意力が高まるとは意識全体が膨張し、より狭い円環からより広い円環へと、つまりピラミッドの頂点に近い平面から底面に近いより広い平面へと展開されることを意味します。より広い平面に展開されればされるほど互いに含蓄し合っていた表象が分裂し、高精度の望遠鏡で星雲や星団を観測したときのようにより豊かで鮮明なイマージュが形作られます。先ほど述べた「分解」とは、意識全体の膨張によって互いに含蓄し合っていた「ひとつの分割されない表象」(同上)、すなわち動的図式(力動的シェーマ)が明確なイマージュへと展開されることに他なりません。動的図式はイマージュへと「分解」されはするものの、もともとそれは過去のすべてのレヴェルが「ひとつの分割されない表象のなかに収縮し」たものである以上、説明を要するのはイマージュの連合ではなく、「意識がその内容の展開をひきしめたりひろめたりする収縮と拡張(膨張)の二重運動」です。この二つの運動は繰り返しになりますが「同じただひとつの基本的傾向、すなわちあたえられた状況から有益なものをとり出し、起こりうべき反作用を運動的習慣の形で保存して同様な状況に役立てようとするあらゆる有機体の傾向の相補う二面」に基づいています。有機体の持つこの基本的傾向は収縮と拡張の淵源であるのみならず、類似性と近接性の源泉でもあります。

試しに円錐体の頂点S、すなわち「感覚=運動的現象の座」に身を置いてみましょう。この極限ではすべての知覚は表象を生じさせることなくそのまま反作用にまで延長されます。何故ならそれ以前に知覚された「類似」がおのおのあらかじめ一定の複雑さを持った運動機構を作り上げており、一定の刺激に対して一定の反応を返すようプログラミングされているからです。現在の知覚は過去の知覚との類縁性によって働く以上、この機構の中には当然類似による連合のメカニズムが含まれています。また一旦運動(反応)が引き起こされるか意識に再現されれば、その運動と関わりのある無数の反応が連鎖的に生じ得ることからすると、この機構の中には近接による連合のメカニズムも含まれていると言えます。この二つの連合は演じられる(行動として現れる)ものであって、思考されるものではありません。が、先に述べた通りここにこそ類似と近接の源泉があるのです。

もう一方の極限、すなわち円錐体の底面ABに身を置いた場合はどうでしょうか。「ここでは私たちの過ぎ去った生活のあらゆる出来事が、細部までその姿をあらわして」います。そしてどんなにありふれた出来事や習慣であれ、人生において同じことが二度繰り返されることはあり得ない以上、現在の知覚と全く同じ記憶は存在し得ません。しかし別の意味からすると、現在の知覚と全く類似性を持たない記憶も存在しません。細部に目をつぶりさえすれば、何らかの類似点を見つけることは不可能ではないという意味で、あらゆる記憶が知覚と結び付く資格を有します。そして一旦知覚と結び付いた記憶は、頂点Sに身を置いた場合と同様、自分に連なる出来事の記憶を次から次へと無際限に再生していくでしょう。ただしそれは決して行動に移されることはなく、ただ単に「夢見られる」だけです。つまり頂点Sでは現在の知覚はそのまま運動へと延長されたのに引き換え、底面ABでは「ひとしく可能な無数の記憶に解消され」ます。「だから連合は、Sではちょうど宿命的な運行を引きおこしたのに、ABでは気まぐれな選択を引きおこすであろう」。

ベルグソンがこのような極端な例を持ち出すのは、人間の精神活動がこの二つの極限の均衡の上に成り立っていることを示すためであり、それらに優劣や序列をつけるためではありません。逆に言えばこの均衡が崩れたとき、何らかの記憶の障害が引き起こされるものと考えられます。一方が他方の肩代わりをすることはできず、どちらが欠けても正常な精神活動の成立は覚束ないのです。一方の極、すなわち感覚=運動的状態を表す頂点Sは記憶に方向を与えます。身体のイマージュの集中するSは運動面Pの一部をなしており、Pを構成するすべてのイマージュから出てくる作用を受けたり返したりしています。「習慣が組織した感覚=運動系の総体からなる」Sはそれ自体「身体の記憶力」ともいうべき記憶力を有します。この身体の記憶力は「ほとんど瞬間的な記憶力」でしかありませんが、「過去の本当の記憶力」にとっては「現実的で活動的な極限」、「経験の動く平面(P)にさしこまれる動的先端」という意味を持ちます。実際本来の意味での記憶力は過去の全体とともに未来へと自らを推し進めることによって、自分自身の最大限可能な部分を現在の行動の中に差し込みます。このように「二つの機能が互いに支持を与え合うことによって」、円錐体の断面A´B´、A´´B´´等々で表される無数の可能的状態が生じます。「これらの断面の各々は、底面か頂点かに近づくにつれて、広くなるか狭くなるか」します。その意味は、断面が広ければ広いほど記憶は行動から遠ざかる分オリジナルな記憶に忠実になり、断面が狭ければ狭いほど「それだけ行動に近く、まさにそのため平凡であって、――既製服のように――現在の状況の新しさに適合」しやすい形をとるということです。これらの断面は「私たちの過去の生活全体の反復」であり、過去のすべてのレヴェルを「ひとつの分割されない表象のなかに収縮」した状態で含んでいますが、この表象(動的図式)のすべてが現実化されるわけではありません。感覚=運動的状態の枠に当てはまるもの、「行動を遂行する見地からみて現在の知覚に類似しているもの」だけが意識の光に照らされるのです。したがって「現在の状態の呼びかけに」対してなされる記憶の運動には、以下の二種類のものがあると言えるでしょう。「ひとつは並進運動であり、これによって記憶力は全面的に経験に向かって進み、こうして行動のために、分かたれることなく多少とも収縮する。いまひとつは自転運動であり、これによって記憶力は現在の状況へと方向をとりながら、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける。収縮のこのさまざまな段階に応じて、類似による連合の多様な形態がある」。
(ここで二つの点について補足しておきます。一つは訳語に関するものです。これまで「ベルクソンの哲学」を引用する際、「それぞれの記憶内容が(たとえどんなに弛緩しているにせよ)そのレヴェルで、現実化され、イマージュとなるために経由しなくてはならない」収縮を訳本通り「置換」、「収縮=置換」等々と表記してきましたが、ベルグソン全集やその他の「物質と記憶」の訳本では僕の確認した限り「並進」と訳されています(ちなみに小林秀雄の「感想」では「移転」となっています)。調べたところ、ここで使われている「並進」と「自転」という語は並進運動と回転運動という物理学の用語から取られたものであると見るのが正しいようです。並進運動はtranslational motionですが、ベルグソンが単にtranslationとしか表記しなかったので「置換」と誤訳される結果になったのではないでしょうか。したがってこれ以降収縮を表す「置換」という語は「並進」と表記することします。
もう一つは記憶の二つの極限に関するものです。これについて以前次のように書いたことがありました。――「社会生活における様々な状況を的確に判断し適切な対応をとるためには、つまり健康な精神生活を営むためには、「意識の諸面」を含むピラミッド(存在論的次元を表す円錐体と区別する意味でこの「ピラミッド」という言葉は使われています)の頂点に近い「行動の平面」と、底面に近い「夢想の平面」という二つの極限の間を絶えず往来する必要があります。そしてその際、もっと深い「存在論的次元」では円錐体が最大限収縮した状態にあるという事実を見過ごしてはならないでしょう。これと対照的に「行動の平面」か「夢想の平面」かどちらか一方のみに固執するとき、存在論的次元ではそれぞれに対応した円錐体のレヴェル(頂点に近いかまたは底面に近いレヴェル)しか存在しないかのように、収縮か弛緩かいずれか一方しか存在しないかのようにすべてが進行します。たとえば頂点に近い「行動の平面」に身を置くとき、あたかも弛緩が不可能になったかのように、過去の最も収縮したレヴェル「だけ」しか存在しなくなったかのように事態は進行します。そこでは最早記憶の助けを借りることはできず、まるで自動人形のように刺激が自動的な反応を惹き起こすのみです。反対に底面に近い「夢想の平面」に身を置くとき、「すべてはあたかも収縮が存在しないかのように、現在との記憶内容の極度に弛緩した関係が、過去そのものの最も弛緩したレヴェルを再生するかのように進行」(「ベルクソンの哲学」第三章)します。そこでは頂点と分断され感覚=運動機能に接続することができないため行動の足場が失われ、夢を見ているかのように記憶が気まぐれに再生されるだけでしょう」。――改めて考えてみると、この解釈は少々いい加減であったと言わざるを得ません。といっても今現在も正確に解釈できる自信はないのですが、少なくとも以下の点を確認しておきたいと思います。まず指摘しておかなければならないのは、過去を把握するのは現在においてではないということです。「われわれは物をそれ自体のなかには知覚せず、それがある場所において知覚するが、それと同じように、われわれは過去をそれ自体において、それが存在するところにおいてのみ把握するのであって、われわれのなか、われわれの現在においては把握しない。したがって、特定の現在の特殊な過去でないような《過去一般》が存在する。この過去一般は、存在論的要素としてあり、永遠でつねに存在する過去であり、あらゆる個別的な現在の《通過》のための条件である。あらゆる過去を可能にするものは、この過去一般である。ベルクソンは、われわれはまず第一に過去一般のなかにおのれを移行させると言っている。このようにして彼が記述しているのは、存在論への飛躍である。われわれは、存在、即自存在、過去の即自存在のなかへと実際に飛躍するのだ」。過去一般に飛躍したのち、「一種の想起のなかでわれわれの現実的必要に対応すると想定される特定の領域、つまり特定のレヴェルにも身を置くのである」。そのときの状況にしたがって「私は過去の同じ領域に飛躍せず、同じレヴェルに身を置かず、同じ支配的なものを求めない。私は失敗することもある。ひとつの記憶内容を探して、私はそれにとってはあまりに収縮し、あまりにも狭いレヴェルか、あるいは逆にあまりにも大きく、膨張したレヴェルに身を置く。そのときは正しい飛躍を見出すために、すべてをやり直さなくてはならないだろう」。「つまりわれわれが、(探している)記憶内容の存在しているレヴェルに身を置いた場合だけ、それらの記憶内容は現実化されようとするのである」。この記憶の現実化の運動には、上述のように二つのものがあります。一つは並進で、これは「記憶内容とそのレヴェルとが同時に現実化される運動」です。ドゥルーズは並進が記憶内容だけでなく、そのレヴェルも現実化する運動である点に注意を喚起しています。「ベルクソンの哲学」第三章の注の中で彼は「物質と記憶」(概要と結論)の次の文章を引用しています。《また、これらの面は、たがいに重なる、既成の物として与えられているのではない。それらの面はむしろ潜在的に存在する。それは精神的なものに固有の存在の仕方である。知性は、それらの面を分離する中間帯にそって動き、たえずそれらの面を再発見し、あるいはむしろそれらを新たに創り出す。……》。並進運動によって実現されるこのレヴェル、たえず再発見され、あるいはむしろ新たに創り出されるこの「面」とは動的図式のことです。「(前略)他方には回転があるとベルクソンは言っている。(中略)おそらく、記憶内容にはその個体性がある。しかしどのようにしてわれわれはそのことを意識し、それとともに現実化される領域のなかで、どのようにそれを見分けるのか。われわれは(ベルクソンが《力動的シェーマ》と呼ぶ)この分割されない表象から出発する。この表象においては、現実化されつつあるすべての記憶内容は、相互に浸透する関係にある。そしてわれわれはこの表象を、たがいに外的で、特定の記憶内容に対応する明確なイマージュに発達させる」。円錐体の頂点Sと底面AB、「行動の平面」と「夢想の平面」が事実上は到達することのできない二つの極限であると言われるのは、Sにおいては回転(自転)が、ABにおいては並進が不可能となるからです。これから述べることを先取りして言えば、再認の疾患において回転か並進かいずれか一方の過程が欠落したように見える場合があります。既述の通り、再認の疾患には感覚=運動機能の機械的障害と、感覚=運動機能の力動的障害という二つのタイプのものがあります。「障害が起きるのが単に自動的再認の運動にすぎないときでも(感覚=運動性の障害)、記憶内容の心的現実化は完全に保持されている。記憶内容はその《正常な側面》を保持しているが、運動にまで延長されることができない。その現実化の身体的段階が不可能になっているからである。注意のこもった再認の運動に障害が起きると(感覚=運動性の力動的障害)、おそらく心的現実化は、前の場合(感覚=運動機能の機械的障害)よりも一層危うくなる。――なぜなら、ここでは身体の態度は、実際に、心的態度のひとつの条件だからである。しかしここでもベルクソンは、いかなる記憶内容も《放散》していないと主張する。《均衡の破壊》があるだけである。おそらく、現実化の二つの心的側面は残っているが、それらの側面がたがいに入りこんで結合されうる身体的態度がないために分解されているのだと了解すべきであろう。その場合には、置換(並進)と収縮がなされることになろう。しかしそこには回転という補足的運動が欠け、その結果、明確な記憶内容としてのイマージュが全く存在しないだろう(あるいは、少なくとも、記憶内容としてのイマージュのすべてのカテゴリーが廃棄されるように見えるだろう)。あるいは逆に、回転がなされ、明確なイマージュが作られるが、それらのイマージュは記憶から分離し、他のイマージュと連帯していないだろう」。「したがってここには、記憶内容の現実化の四つの側面がある。それは、並進・回転・力動的運動・機械的運動である。並進と回転は真に心的な契機を作る。力動的運動は、並進と回転という先行する二つの規定作用の均衡に必要な身体の態度である。最後に、機械的運動は運動のシェーマで、記憶内容の現実化の最終段階を示す。いずれの場合にも、重要なのは過去の現在への適応意、現在のために過去を用いること――ベルクソンが《生への注意》と呼ぶものである。第一の契機は、過去と現在との接点を確保する。過去は文字通り現在の方へ向かって、現在との接触(または収縮)の点を見出す。第二の契機は、現在のなかへの過去の移行・並進・膨張を確保する。記憶内容としてのイマージュは、現在のなかに過去の諸区分、少なくとも役に立つ諸区分を再生させる。第三の契機、つまり身体の力動的態度は、先行する二つの契機の調和を確保し、一方によって他方を修正し、両者を極限にまで連れて行く。第四の契機、つまり身体の機械的運動は、全体の固有の有用性を確保し、現在のなかにそれが戻ってくるのを確保する」。――ベルグソンの用いている並進・自転という比喩は必ずしもわかりやすいものではありませんが、このように考えれば幾分イメージしやすくなるのではないでしょうか。ただここでドゥルーズが記憶の現実化の第二の契機を「現在のなかへの過去の移行・並進(原文では置換)・膨張」の確保と表現しているのは少々解釈に悩むところです。おそらく「移行」と「並進(置換)」はほとんど同じ意味で使われているのでしょうが、収縮とセットで語られていた「移行・並進(置換)」がここでは「膨張」とセットになっており、片や収縮だけ単独で第一の契機を形作っているとされているからです。この点で参考になりそうなのは、「収縮があるのは、記憶内容がイマージュとなることによって、現在と《融合》するからである」という一文です。この「現在と《融合》する」という言葉は「物質と記憶」では並進とは直接関係のない箇所に出てくる表現なので、先に引用した「記憶内容の現実化の四つの側面」はベルグソンの記述をそのまま引き写したものではなく、ドゥルーズがベルグソンの文章から再構成したものと言えるでしょう。「物質と記憶」の該当箇所は次のようになっています。「私の現在とよぶものは、直接的未来に面する私の態度であり、私の緊急の行動である。だから私の現在はまさに感覚=運動的だ。私の過去のうちで、この行動に協力し、この態度にあてはまることのできるもの、要するに役に立ちうるものだけが、イマージュとなり、したがってまた少なくとも初発的な感覚になる。しかし過去は、イマージュとなるや否や、純粋記憶の状態を去って、私の現在の或る部分と融合する」(「物質と記憶」第三章)。ドゥルーズは過去のこの「現在との《融合》」を記憶の現実化の第一の契機と捉えているわけです。彼がそれを収縮と関連付けているのは、恐らく次のような理由からではないかと思われます。「過去ABは、現在Sと共存しているが、そのなかにはA´B´、A´´B´´などの断面がすべて含まれている。それらの断面は、それ自体は潜在的であって、過去の即自存在に帰属している。それらの断面のおのおの、またはそれらのレヴェルのおのおのは、過去の特定の要素ではなく、つねに過去の全体を含んでいる。ただ、この全体を多かれ少なかれ膨張または収縮したレヴェルで含んでいるにすぎない。したがってここには、収縮としての記憶が、記憶内容としての記憶のなかに記され、そして或る意味でそれをつないでいる正確な地点がある」。ここで述べられている「収縮としての記憶」は収縮=並進ではなく、「レヴェルの可変的収縮」だと考えれば、彼が記憶の現実化の第一の契機と第二の契機を上のように表現していることにも納得がいきます。しかしドゥルーズがそのように考える根拠については、今のところよく分かりません)

(つづく)

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