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「創造的進化」第三章の冒頭、ベルグソンは第一章と第二章を振り返って次のように述べています。
第一章ではまず無機的なものと有機的なものを区別しました。しかし無機物の考察から導き出されたのは、物質の対象(無機物)への分割は感覚や知性と相対的であり、したがって無機物は全体(物質界)から切り取られた抽象物でしかないこと、それらを存在一般に組み込むには個々の対象や個々のシステムを「このシステムが一部をなす具体的な全体」に再統合しなければならないこと、そして物質を全体として見た場合、それは「意識のように進展する」ある流れ(運動あるいは傾向と言い換えてもよいでしょう)と看做されるということでした。「このシステムが一部をなす具体的な全体」と不可分な全体としての物質は「互いに固く結び付いて」いますが、同じものではありません。たとえそうだとしても無機的なものと有機的なものを互いに接近させる道がこれによって開かれたのです。
第二章では本能と知性の間にも同じ種類の対立があることが明らかとなりました。そしてこれらは同じ起源から分化したものであり、この共通の起源(「普遍的な生命と外延を等しくする「意識一般」)こそ「進化の動的な原理」であるという結論が示唆されるに至ったのです。
簡単に書かれているので読み飛ばしてしまいそうなところですが、ここで確認のために「コップに入った砂糖水の話」をもう一度思い出してみることにします。「なぜ私は砂糖が溶けるのを待たなければならない」のでしょうか。「その現象の持続はある数の時間の単位に還元され、望まれているのは単位そのものである、という点で、物理学者にとってその持続は相対的なものである」。これはつまり仮に宇宙の流れの速さが変化したとしても、物理学者はこの時間の単位の「数」を変える必要がないという意味です。しかしもし「私がある意識に対して好きなように宇宙の流れの速さを変化させることができるとしたら、その意識は宇宙の流れから独立していて、その変化について持つ全く質的な感情によって変化に気づく」でしょう。この「変化について持つ全く質的な感情」を変えることなしに砂糖が溶ける「過程を早めたり遅らせたりすることはできない」という意味で、またそもそも「私の知覚や気質次第」でこの過程を変えることはできないという意味で、この現象の持続は意識的存在にとって絶対的なものです。「この持続の間私に待つことを強いているのは何か。もし(時間の)継起が、単なる(空間の)並置と区別されるものとして、実在的な実効性を持っていないなら、もし時間がある種の力でないなら、なぜ宇宙は、継起する自分の状態を、私の意識にとっては真の絶対であるような速さで展開するのだろうか。なぜこの規定された速さで、他の任意の速さではないのか。なぜ無限な速さで展開しないのか。(中略)この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に引き継いで起こる以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ」(「創造的進化」第四章)。要するにある物理的過程の持続が「私の意識」に絶対的なものとして現れるのはその現象の持続も「私の意識」も「全体」の一部だからであり、「砂糖が溶けるのを待たなければならない」、逆に言えば「すべてが一挙に与えられない」のは「物質的変化が進むのを止めることはできないが、生命はそれを遅らせることに成功している」(「創造的進化」第三章)ということではないでしょうか。新しいものが絶えず創造され、時間が生み出されるのは「砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれの(閉じた)システムにおいてではなく、このシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる「生命」の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている」(「創造的進化」第四章)。
もし「物質と意識というこの二つの存在」の「一方が他方の逆であって、意識がたえず自分を創造し豊かにするはたらきのものであるのに対して、物質は自分をこわし、消耗するはたらきのものであるなら、物質も意識もそれら自身によっては説明できないということを、わたしはかつて証明してみたことがあります」(「意識と生命」。興味深いことに中央公論社の「世界の名著」シリーズでは「物質も意識もそれら自身によっては説明できない」という箇所が「物質も意識もお互いを切り離しては説明できない」と訳されています。実際これに関しては両方の意味を考慮する必要があります)。この文章が指しているのはまさに「創造的進化」第三章のことだと思われますが、「物質も意識もそれら自身によっては説明できない」ことの証明を試みたということは、逆から読めばこれまで物質も意識もそれら自身によって説明されてきたが、そのような説明では十分とは言えないということでしょう。ベルグソンが斥けるのは意識を知性の中に閉じ込め、なおかつ「はじめから知性をその本質的な点で与えられたものとみなしている」説明です(「創造的進化」の文章はちくま学芸文庫から引用していますが、これは例外的に白水社の「ベルグソン全集」から引用しました。というのもこの箇所は文庫と全集で訳文の意味が食い違っており、僕の判断では全集の訳文の方が適切であるように思えるからです。ただし原文が読めるわけではないので断定はできません)。これに対してベルグソンがまず試みるのは、知性の発生を跡付けることです。「われわれの知性の主要な線が、物質に対する行動の一般的な形式を描いていて、物質の詳細は行動の要求に従っているというのが真実なら、これら二つ(知性と物質)の発生の試みは明白に相関的なものである。知性性と物質性の詳細は、互いに適応することで構成されたのだろう。どちらも、より広く高い一つの存在形式から派生するだろう。まさにそこに知性性と物質性を置き直して、両者がそこから出てくるのを見なければならないだろう」(「創造的進化」第三章)。
たとえば動物心理学が「知性の漸進的な発達を動物の系列を通して辿るとき」、知性の誕生から完成された知性になるまでの過程が示されているように見えます。しかしどんな原始的な知性を想定するにせよ、それは知性以外の何物でもありません。動物が知的になればなるほど自らの行動とその結果を反省する傾向が強くなり、その延長線上に人間の知性があるとされます。事実、「動物の行動は、それ自体ですでに、人間の行動の主要な線を採用して」おり、「われわれ人間が見分けるのと同じ一般的な方向を、物質的世界のうちで見分けていたのだし、われわれ人間の場合と同じ関係によって結び付けられた同じ対象に依拠して」います。したがって人間の知性を動物の知性によって説明することは、単に「子供は成長すると大人になる」と言っているのとほとんど変わりありません。この説明は原始的な知性と動物の知性と人間の知性を同一線上に並べ、骨格標本を組み立てるようにそれらをつなぎ合わせて進化の軌跡を描いているに過ぎないのです。これでは知性の発生を説明することができないばかりでなく、動物の知性と人間の知性の違いがどこにあるかも理解することができません。
「(ハーバート)スペンサーが展開するような宇宙発生論」(ベルグソンはこれを当時の学説の一例として挙げているに過ぎませんが)はそこから一歩進めて、「合理性へと向かう精神の歩み(知性)と同時に」(「創造的進化」第四章)、「知覚可能なものへと向かう物質の進展」(同上)を進化の要因として付け加えます。「物質は諸法則に従い、対象同士、事実同士は一定の関係によって結ばれていて、意識がこれらの関係と法則の刻印を受け取っていることが示されるのだが、かくして意識は自然の一般的な形状を採用して、みずからを知性として規定する」、とされるのです。が、先ほど述べたように物質の対象への分割が感覚や知性と相対的なものである以上、対象(あるいは事実)を措定することは同時に知性を措定することであり、意識がそれらの関係や法則に倣って「みずからを知性として規定した」というのは自己言及以外の何物でもないのではないでしょうか。「スペンサーは外的な実在から出発して、それを知性へと再び濃縮」しましたが、たとえばフィヒテのように、「凝縮した状態で思考を取り上げ、それを膨張させて実在にした」逆の例もベルグソンは挙げています。これはつまり「ある者は、無機物から出発して、それを組み合わせて複雑にすることで、生命的なものを再構成すると主張」し、「また別の者は、まず生命をおき、巧妙に整えられたデクレッシェンド〔漸減〕によって、原物質へと進む」ということです。この場合、無機物(あるいは物質)を先に立てるか生命(あるいは意識・知性)を先に立てるかは哲学者の恣意でしかありません。いずれを先に立てるにしろ、「どちらにとっても、自然の中にあるのは、程度の差異――最初の仮説では、複雑さの程度、後の仮説では、強さの程度――だけ」なのです。物質と意識をそれら自身によって説明しようとする試みとは、恐らく以上のようなものではないかと思われます。
ところで以前、まず立てるべきなのは生命の原理であるという旨のことを書きましたが、これは今述べたことと矛盾しています。確かにそうだとしても、大筋においてこの考えが間違っているとは思いません。ただし条件を一つ付け加える必要があります。それは他でもない、無機的なものと有機的なものを区別する、という条件です。実際大多数の哲学者が悪循環に陥らざるを得ないのは、彼らが「有機物と無機物の間に断絶を見」ず、「自然の統一を肯定すること、この統一を抽象的、幾何学的な形式で表象することで一致しているから」です。「いったんこの原理が認められると、知性は現実的なものと同じ広さを持つことになる。なぜなら、諸事物に含まれた幾何学的なものが人間知性にとって完全に接近可能であるのは、反論の余地がないからだ。そして、幾何学と残りのものの連続性が完全である場合、残りのものもすべて、同じく知性によって理解可能なものとなり、同じく知性的なものとなる」。知性の「認識能力は、経験全体と外延が同じであるとすでに想定されているので、それを生み出すことはもはや問題にはなりえない」のです。そうである以上、哲学は「全体についての唯一で包括的な像(ヴィジョン)」以外のものではあり得ず、哲学者にはそのヴィジョンを一から構築する強大な権限が付与される代わりに、そのヴィジョンそのものについてはすべてを受け入れるかすべてを拒否するかの二者択一しか残されていないことになります。
逆にベルグソンが試みようとしている企てにおいては、経験の一方の側面について知性は何も知らないか、部分的にしか知り得ません。知性は「ある種の局所的な固形化によって形成された」ものであり、「全体へともう一度みずからを溶かし込む」なしにこの一方の側面について知る術がないからです。そうすることによって「知性は、自分の原理に吸収されながら、自分自身の発生をもう一度逆の方向から生き直すことになる」でしょう。しかしこのような試みは知性を超える努力を要するため、個人の力によって一気に達成することはできません。「それは、必然的に、共同で漸進的に行われる試みとなるだろう。それは印象の相互交換に存することになるだろう。互いに矯正し合い、重なり合いながら、これらの印象は最後にはわれわれのうちにある人間性を膨張させ、この人間性に自分を超えさせるに至るだろう」。
とはいえ知性によって知性を超えることが本当に可能なのでしょうか。先の自己言及とこの方法の間には一体どんな違いがあるのでしょうか。ここで以前説明を保留した次の疑問を思い出す必要があります。「行動は秩序ある世界で遂行されている。この秩序はすでに思考のものである。知性を行動によって説明するとき、論点先取を犯している。行動は知性を前提しているのだから」。――これは知性が行動の必然性と相関的であるという見方に対する反論として想定したものですが、この疑問が「自然の統一を肯定し、知性は経験の全体を認識できる」という前提に立脚していることは明らかです。ところで知性が行動の必然性と相関的で、物質の対象への分割が知性と相関的だとすれば、物質の対象への分割は行動の必然性とも相関関係にある筈です。「ある物体の物質性は、われわれがそれに触れる点で終止しないことは、物質の本性についてのどんな仮説とも無関係に、アプリオリに明白である。物体は、その影響が感じられるところならどこにでも現前している」。この物質と呼ばれる「普遍的な相互作用」の真っ只中に、それと根本的に区別される自動的あるいは随意的な行動を起こすものとしての有機体が出現します。有機体はすべての作用を受け容れてそれをそのまま素通りさせるのではなく、自分に係わりのある作用、影響力を行使し得る作用、斥けるべき作用を分離します。それゆえ「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」。この分離作用は、必ずしも知性の働きを必要としません。「例えば、軟体動物や昆虫のように、われわれとは別の構想に従って構築された動物たちが、われわれと同じ分節に従って物質を切り分けているかどうかは疑わしい。それらの動物には、物質を物体に分断する必要さえない。本能の指示に従うためには、対象を知覚する必要はなく、性質を見分ければいい」からです。「意識の物質に対する行動が準備されるに従って、つまり、知性が構成されるに従って」、知性は有機体の存在自体によって大まかに裁断された「これらの輪郭や通路」を強調し細分化していったと言えるでしょう。「精神をしてみずからを知性として、つまり判明な概念として規定させるに至る運動によって、物質は互いに外的な対象へと分割される。意識が知性化するに応じて、物質は空間化する」。つまり「物質が知性の形式を規定」したのでもなく、「知性が自分の形式を物質に押し付け」たのでもなく、物質と知性が同じ運動によって同時に形成されたというのが事の真相なのです。しかし生まれる前に自己を認識することはできないという単純な理由によって、知性自身がこの事実に気づくことはありません。そのため知性は自分自身を先に立てるか物質を先に立てるかのどちらかを選ぶしかないのです。それにしても、「物質が知性の形式を規定」した、あるいは「知性が自分の形式を物質に押し付け」たと述べることと、「物質と知性が同じ運動によって同時に形成された」と述べることとの間には単なる言葉の違い以上のものがあるのでしょうか。どちらの場合も物質と知性が互いに適応し合い、同時に形成されることに変わりはない以上、両者の間には些細な違いしかないように見えますが、実は決定的な違いがあります。以下その点について詳しく見ていくことにしましょう。
その前に、知性によって知性を超えることは可能なのかという前段の疑問に答える必要があります。哲学者が物質を知性によって、知性を物質によって説明しようとするのは、人間には知性しか与えられていない以上、知性によって知性以上のものを説明しようとすれば循環論法に陥らざるを得ないと無意識のうちに信じられているからです。ベルグソンはこのような疑問に対し実例を挙げて反論しています。たとえば泳ぎ方を知らない人が水の中に飛び込んだら、理屈の上から言えばその人はきっと溺れる以外になす術を知らないに違いありません。しかしもしその状況を脱する意志があれば、「最初は水と格闘しながらどうにか水の上に浮かんでいられるようになり、少しずつこの新しい環境に適応して」、泳ぐことへの第一歩を踏み出すことが可能でしょう。「こうして、理論上は、知性以外の仕方で知ろうとすることにはある種の不合理があるのだが、率直に危険を受け容れるなら、おそらく行動は、理屈が自分で結んでおきながら解くことのない結び目を断ち切るだろう」。この問題は単純そうに見えて、実はもっと大きな問題に連なっています。ベルグソンが比喩によって極力簡潔に説明しようとしているのもそのためだと思われます。その問題とは自由の問題です。自由については「意識に直接与えられているものについての試論」ですでに論じられており、「物質と記憶」でも取り上げられているので、重ねて詳述するのを避けたのでしょう。ここでもこれ以上深入りするのは止め、のちほど「創造的進化」の内容に沿った形でこの問題を取り上げてみたいと思います。
(つづく)
「創造的進化」第三章の冒頭、ベルグソンは第一章と第二章を振り返って次のように述べています。
第一章ではまず無機的なものと有機的なものを区別しました。しかし無機物の考察から導き出されたのは、物質の対象(無機物)への分割は感覚や知性と相対的であり、したがって無機物は全体(物質界)から切り取られた抽象物でしかないこと、それらを存在一般に組み込むには個々の対象や個々のシステムを「このシステムが一部をなす具体的な全体」に再統合しなければならないこと、そして物質を全体として見た場合、それは「意識のように進展する」ある流れ(運動あるいは傾向と言い換えてもよいでしょう)と看做されるということでした。「このシステムが一部をなす具体的な全体」と不可分な全体としての物質は「互いに固く結び付いて」いますが、同じものではありません。たとえそうだとしても無機的なものと有機的なものを互いに接近させる道がこれによって開かれたのです。
第二章では本能と知性の間にも同じ種類の対立があることが明らかとなりました。そしてこれらは同じ起源から分化したものであり、この共通の起源(「普遍的な生命と外延を等しくする「意識一般」)こそ「進化の動的な原理」であるという結論が示唆されるに至ったのです。
簡単に書かれているので読み飛ばしてしまいそうなところですが、ここで確認のために「コップに入った砂糖水の話」をもう一度思い出してみることにします。「なぜ私は砂糖が溶けるのを待たなければならない」のでしょうか。「その現象の持続はある数の時間の単位に還元され、望まれているのは単位そのものである、という点で、物理学者にとってその持続は相対的なものである」。これはつまり仮に宇宙の流れの速さが変化したとしても、物理学者はこの時間の単位の「数」を変える必要がないという意味です。しかしもし「私がある意識に対して好きなように宇宙の流れの速さを変化させることができるとしたら、その意識は宇宙の流れから独立していて、その変化について持つ全く質的な感情によって変化に気づく」でしょう。この「変化について持つ全く質的な感情」を変えることなしに砂糖が溶ける「過程を早めたり遅らせたりすることはできない」という意味で、またそもそも「私の知覚や気質次第」でこの過程を変えることはできないという意味で、この現象の持続は意識的存在にとって絶対的なものです。「この持続の間私に待つことを強いているのは何か。もし(時間の)継起が、単なる(空間の)並置と区別されるものとして、実在的な実効性を持っていないなら、もし時間がある種の力でないなら、なぜ宇宙は、継起する自分の状態を、私の意識にとっては真の絶対であるような速さで展開するのだろうか。なぜこの規定された速さで、他の任意の速さではないのか。なぜ無限な速さで展開しないのか。(中略)この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に引き継いで起こる以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ」(「創造的進化」第四章)。要するにある物理的過程の持続が「私の意識」に絶対的なものとして現れるのはその現象の持続も「私の意識」も「全体」の一部だからであり、「砂糖が溶けるのを待たなければならない」、逆に言えば「すべてが一挙に与えられない」のは「物質的変化が進むのを止めることはできないが、生命はそれを遅らせることに成功している」(「創造的進化」第三章)ということではないでしょうか。新しいものが絶えず創造され、時間が生み出されるのは「砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれの(閉じた)システムにおいてではなく、このシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる「生命」の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている」(「創造的進化」第四章)。
もし「物質と意識というこの二つの存在」の「一方が他方の逆であって、意識がたえず自分を創造し豊かにするはたらきのものであるのに対して、物質は自分をこわし、消耗するはたらきのものであるなら、物質も意識もそれら自身によっては説明できないということを、わたしはかつて証明してみたことがあります」(「意識と生命」。興味深いことに中央公論社の「世界の名著」シリーズでは「物質も意識もそれら自身によっては説明できない」という箇所が「物質も意識もお互いを切り離しては説明できない」と訳されています。実際これに関しては両方の意味を考慮する必要があります)。この文章が指しているのはまさに「創造的進化」第三章のことだと思われますが、「物質も意識もそれら自身によっては説明できない」ことの証明を試みたということは、逆から読めばこれまで物質も意識もそれら自身によって説明されてきたが、そのような説明では十分とは言えないということでしょう。ベルグソンが斥けるのは意識を知性の中に閉じ込め、なおかつ「はじめから知性をその本質的な点で与えられたものとみなしている」説明です(「創造的進化」の文章はちくま学芸文庫から引用していますが、これは例外的に白水社の「ベルグソン全集」から引用しました。というのもこの箇所は文庫と全集で訳文の意味が食い違っており、僕の判断では全集の訳文の方が適切であるように思えるからです。ただし原文が読めるわけではないので断定はできません)。これに対してベルグソンがまず試みるのは、知性の発生を跡付けることです。「われわれの知性の主要な線が、物質に対する行動の一般的な形式を描いていて、物質の詳細は行動の要求に従っているというのが真実なら、これら二つ(知性と物質)の発生の試みは明白に相関的なものである。知性性と物質性の詳細は、互いに適応することで構成されたのだろう。どちらも、より広く高い一つの存在形式から派生するだろう。まさにそこに知性性と物質性を置き直して、両者がそこから出てくるのを見なければならないだろう」(「創造的進化」第三章)。
たとえば動物心理学が「知性の漸進的な発達を動物の系列を通して辿るとき」、知性の誕生から完成された知性になるまでの過程が示されているように見えます。しかしどんな原始的な知性を想定するにせよ、それは知性以外の何物でもありません。動物が知的になればなるほど自らの行動とその結果を反省する傾向が強くなり、その延長線上に人間の知性があるとされます。事実、「動物の行動は、それ自体ですでに、人間の行動の主要な線を採用して」おり、「われわれ人間が見分けるのと同じ一般的な方向を、物質的世界のうちで見分けていたのだし、われわれ人間の場合と同じ関係によって結び付けられた同じ対象に依拠して」います。したがって人間の知性を動物の知性によって説明することは、単に「子供は成長すると大人になる」と言っているのとほとんど変わりありません。この説明は原始的な知性と動物の知性と人間の知性を同一線上に並べ、骨格標本を組み立てるようにそれらをつなぎ合わせて進化の軌跡を描いているに過ぎないのです。これでは知性の発生を説明することができないばかりでなく、動物の知性と人間の知性の違いがどこにあるかも理解することができません。
「(ハーバート)スペンサーが展開するような宇宙発生論」(ベルグソンはこれを当時の学説の一例として挙げているに過ぎませんが)はそこから一歩進めて、「合理性へと向かう精神の歩み(知性)と同時に」(「創造的進化」第四章)、「知覚可能なものへと向かう物質の進展」(同上)を進化の要因として付け加えます。「物質は諸法則に従い、対象同士、事実同士は一定の関係によって結ばれていて、意識がこれらの関係と法則の刻印を受け取っていることが示されるのだが、かくして意識は自然の一般的な形状を採用して、みずからを知性として規定する」、とされるのです。が、先ほど述べたように物質の対象への分割が感覚や知性と相対的なものである以上、対象(あるいは事実)を措定することは同時に知性を措定することであり、意識がそれらの関係や法則に倣って「みずからを知性として規定した」というのは自己言及以外の何物でもないのではないでしょうか。「スペンサーは外的な実在から出発して、それを知性へと再び濃縮」しましたが、たとえばフィヒテのように、「凝縮した状態で思考を取り上げ、それを膨張させて実在にした」逆の例もベルグソンは挙げています。これはつまり「ある者は、無機物から出発して、それを組み合わせて複雑にすることで、生命的なものを再構成すると主張」し、「また別の者は、まず生命をおき、巧妙に整えられたデクレッシェンド〔漸減〕によって、原物質へと進む」ということです。この場合、無機物(あるいは物質)を先に立てるか生命(あるいは意識・知性)を先に立てるかは哲学者の恣意でしかありません。いずれを先に立てるにしろ、「どちらにとっても、自然の中にあるのは、程度の差異――最初の仮説では、複雑さの程度、後の仮説では、強さの程度――だけ」なのです。物質と意識をそれら自身によって説明しようとする試みとは、恐らく以上のようなものではないかと思われます。
ところで以前、まず立てるべきなのは生命の原理であるという旨のことを書きましたが、これは今述べたことと矛盾しています。確かにそうだとしても、大筋においてこの考えが間違っているとは思いません。ただし条件を一つ付け加える必要があります。それは他でもない、無機的なものと有機的なものを区別する、という条件です。実際大多数の哲学者が悪循環に陥らざるを得ないのは、彼らが「有機物と無機物の間に断絶を見」ず、「自然の統一を肯定すること、この統一を抽象的、幾何学的な形式で表象することで一致しているから」です。「いったんこの原理が認められると、知性は現実的なものと同じ広さを持つことになる。なぜなら、諸事物に含まれた幾何学的なものが人間知性にとって完全に接近可能であるのは、反論の余地がないからだ。そして、幾何学と残りのものの連続性が完全である場合、残りのものもすべて、同じく知性によって理解可能なものとなり、同じく知性的なものとなる」。知性の「認識能力は、経験全体と外延が同じであるとすでに想定されているので、それを生み出すことはもはや問題にはなりえない」のです。そうである以上、哲学は「全体についての唯一で包括的な像(ヴィジョン)」以外のものではあり得ず、哲学者にはそのヴィジョンを一から構築する強大な権限が付与される代わりに、そのヴィジョンそのものについてはすべてを受け入れるかすべてを拒否するかの二者択一しか残されていないことになります。
逆にベルグソンが試みようとしている企てにおいては、経験の一方の側面について知性は何も知らないか、部分的にしか知り得ません。知性は「ある種の局所的な固形化によって形成された」ものであり、「全体へともう一度みずからを溶かし込む」なしにこの一方の側面について知る術がないからです。そうすることによって「知性は、自分の原理に吸収されながら、自分自身の発生をもう一度逆の方向から生き直すことになる」でしょう。しかしこのような試みは知性を超える努力を要するため、個人の力によって一気に達成することはできません。「それは、必然的に、共同で漸進的に行われる試みとなるだろう。それは印象の相互交換に存することになるだろう。互いに矯正し合い、重なり合いながら、これらの印象は最後にはわれわれのうちにある人間性を膨張させ、この人間性に自分を超えさせるに至るだろう」。
とはいえ知性によって知性を超えることが本当に可能なのでしょうか。先の自己言及とこの方法の間には一体どんな違いがあるのでしょうか。ここで以前説明を保留した次の疑問を思い出す必要があります。「行動は秩序ある世界で遂行されている。この秩序はすでに思考のものである。知性を行動によって説明するとき、論点先取を犯している。行動は知性を前提しているのだから」。――これは知性が行動の必然性と相関的であるという見方に対する反論として想定したものですが、この疑問が「自然の統一を肯定し、知性は経験の全体を認識できる」という前提に立脚していることは明らかです。ところで知性が行動の必然性と相関的で、物質の対象への分割が知性と相関的だとすれば、物質の対象への分割は行動の必然性とも相関関係にある筈です。「ある物体の物質性は、われわれがそれに触れる点で終止しないことは、物質の本性についてのどんな仮説とも無関係に、アプリオリに明白である。物体は、その影響が感じられるところならどこにでも現前している」。この物質と呼ばれる「普遍的な相互作用」の真っ只中に、それと根本的に区別される自動的あるいは随意的な行動を起こすものとしての有機体が出現します。有機体はすべての作用を受け容れてそれをそのまま素通りさせるのではなく、自分に係わりのある作用、影響力を行使し得る作用、斥けるべき作用を分離します。それゆえ「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」。この分離作用は、必ずしも知性の働きを必要としません。「例えば、軟体動物や昆虫のように、われわれとは別の構想に従って構築された動物たちが、われわれと同じ分節に従って物質を切り分けているかどうかは疑わしい。それらの動物には、物質を物体に分断する必要さえない。本能の指示に従うためには、対象を知覚する必要はなく、性質を見分ければいい」からです。「意識の物質に対する行動が準備されるに従って、つまり、知性が構成されるに従って」、知性は有機体の存在自体によって大まかに裁断された「これらの輪郭や通路」を強調し細分化していったと言えるでしょう。「精神をしてみずからを知性として、つまり判明な概念として規定させるに至る運動によって、物質は互いに外的な対象へと分割される。意識が知性化するに応じて、物質は空間化する」。つまり「物質が知性の形式を規定」したのでもなく、「知性が自分の形式を物質に押し付け」たのでもなく、物質と知性が同じ運動によって同時に形成されたというのが事の真相なのです。しかし生まれる前に自己を認識することはできないという単純な理由によって、知性自身がこの事実に気づくことはありません。そのため知性は自分自身を先に立てるか物質を先に立てるかのどちらかを選ぶしかないのです。それにしても、「物質が知性の形式を規定」した、あるいは「知性が自分の形式を物質に押し付け」たと述べることと、「物質と知性が同じ運動によって同時に形成された」と述べることとの間には単なる言葉の違い以上のものがあるのでしょうか。どちらの場合も物質と知性が互いに適応し合い、同時に形成されることに変わりはない以上、両者の間には些細な違いしかないように見えますが、実は決定的な違いがあります。以下その点について詳しく見ていくことにしましょう。
その前に、知性によって知性を超えることは可能なのかという前段の疑問に答える必要があります。哲学者が物質を知性によって、知性を物質によって説明しようとするのは、人間には知性しか与えられていない以上、知性によって知性以上のものを説明しようとすれば循環論法に陥らざるを得ないと無意識のうちに信じられているからです。ベルグソンはこのような疑問に対し実例を挙げて反論しています。たとえば泳ぎ方を知らない人が水の中に飛び込んだら、理屈の上から言えばその人はきっと溺れる以外になす術を知らないに違いありません。しかしもしその状況を脱する意志があれば、「最初は水と格闘しながらどうにか水の上に浮かんでいられるようになり、少しずつこの新しい環境に適応して」、泳ぐことへの第一歩を踏み出すことが可能でしょう。「こうして、理論上は、知性以外の仕方で知ろうとすることにはある種の不合理があるのだが、率直に危険を受け容れるなら、おそらく行動は、理屈が自分で結んでおきながら解くことのない結び目を断ち切るだろう」。この問題は単純そうに見えて、実はもっと大きな問題に連なっています。ベルグソンが比喩によって極力簡潔に説明しようとしているのもそのためだと思われます。その問題とは自由の問題です。自由については「意識に直接与えられているものについての試論」ですでに論じられており、「物質と記憶」でも取り上げられているので、重ねて詳述するのを避けたのでしょう。ここでもこれ以上深入りするのは止め、のちほど「創造的進化」の内容に沿った形でこの問題を取り上げてみたいと思います。
(つづく)
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