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「ジェノサイド」(3)

2011-08-09 | 雑談
まず注意しておかなければならないのは、この「不確定性」が人間の知識や認識の不完全さから来ているのではなく、自然自体に由来しているということです。それは「客観的自然の客観的記述という物理学の基本的な仮定」が崩れ去ったということであり、量子力学はこの「不確定性」の上に成り立っている点で、「パラドックスを孕んでいる」といえます。そして「ハイゼンベルクが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルグソンが、そのソフィスムに、哲学の深い動機が存する事を、飽く事なく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだった」のではないかと小林秀雄は考えます。

「不確定性原理」とゼノンのパラドックスが対応しているというのは正直僕にはピンと来ないのですが、パラドックスといえば量子力学には有名な「シュレーディンガーの猫」と呼ばれるパラドックスがあります。そもそもパラドックスというのは性質の異なる要素の混同から生まれるもので、ここで小林秀雄が述べているパラドックスと「シュレーディンガーの猫」のパラドックスとでは混同されている要素は同じものではなく、したがって両者は別のものだという点をまず指摘しておきたいと思います。

「同一の実在を、或は粒子の像で、或は波の像で説明する困難に、数学的形式の柔軟性は充分に堪えられるという事と、粒子の像と波の像という全く互に排除し合うものの組合せというアンチノミイ(=二律背反)に理性は堪えられぬという事とは別であろう」。このアンチノミイに頭を悩ませた物理学者は、得られた実験の結果からいくつかの解釈を考え出します。その中で最も有名なものの一つがコペンハーゲン解釈といわれるものです。「シュレーディンガーの猫」はこれらの解釈をわかりやすく巨視化すると同時に、量子力学の不完全さを示す目的で提示されたものだという点に注意する必要があります。

粒子か波かという量子力学の孕むアンチノミイを非常にわかりやすくかつ端的に示した実験に、「二重スリット実験」があります。この実験が最初に行われたのが1961年ですから、「感想」執筆中(1958~62)の小林秀雄は辛うじてこの実験の存在を知っていたのではないかと思われます。その後二回にわたって行われたこの実験に小林秀雄は格別な興味をもって注目したのではないかと想像されますが、今となってはそれを確かめる術はありません。

「二重スリット実験」についてはこれをわかりやすく解説した本やサイトがいくつもあるので、詳細はそちらに譲るとして、ここではごくごく簡単にその内容に触れておくことにします。

実験は電子銃から真空中に電子を発射し、途中にある衝立に開けられた二本の細長い穴(スリット)を通過させて、その先にあるスクリーン(乾板)に当たった電子を感光させて映し出すというものです。

複数の電子を発射して行われた最初の実験では、スクリーン上に特徴的な模様、二つの波が干渉し合った際にできる干渉縞と同様の縞模様が描き出されました。この実験結果から、二本のスリットを別々に通った電子が波のように干渉し合い、縞模様を形作ったのだと推測できます。つまりこの実験を素直に解釈すれば電子が波であること、波動性を持つものだということが結論されます。

ところが次に行われた電子を一個ずつ発射していく実験では、一定間隔で次々に発射された電子の一つ一つはスクリーン上のランダムな位置に点として検出されます。このことが示しているのは、電子が一個の粒子であるという最初の実験とは明らかに矛盾した事実です。そしてそれよりもっと驚くべきなのは、この実験をつづけていくと、スクリーン上にランダムに散らばった点が最終的に最初の実験と同じ模様を描くこと、つまり干渉縞が現れるということです。

二番目の実験では電子は一個ずつ発射されたのですから、最初の実験のように電子同士が干渉し合う余地はないはずです。それなのに干渉縞が現れた事実を一体どう説明したらいいのでしょう。

以上のような二重、三重に不可解な実験結果を合理的に説明できる理論はまだ見つかっていません。わかっているのは、干渉縞を作る波は電子がどこで観測されやすいかという確率分布を表していること(波の高い位置では観測される確率が高く、低い位置では確率が低い)、この波の形は「波動関数」によって記述できること、波動関数の時間経過に伴う変化はシュレーディンガー方程式によって記述できることです。そして当然のことながら、電子が実際に観測され位置が確定した時点でこの波動関数は一点に収斂します。これを「波動関数の収束」といいます。

つまり簡単にいえば、電子は観測される前は波のような空間的な拡がりを持った状態で存在し、観測された時点で拡がりを失って一点に収束する(粒子になる)、どこで観測される確率が高いか(あるいは低いか)は波動関数によって予測できる、というのがコペンハーゲン解釈です。

ただし一見して明らかなように、コペンハーゲン解釈は単に現象がそのように見えるということを表明しているだけで、必ずしもこの解釈が現象の真相だと主張しているわけではありません。「シュレーディンガーの猫」はコペンハーゲン解釈をマクロの世界の出来事に翻訳したものですから、結局このパラドックスを回避するためには、それ単独で解決するというよりも大元の謎を解かなければならないことになります。

コペンハーゲン解釈のほかにもいくつか解釈が提起されており、また調べてみると個人サイトやブログで独自の解釈をしている人が少なからずいることがわかりました。それらを一つ一つ紹介していくわけにもいかないので、このへんで話をゼノンのパラドックスに戻すことにします。

ゼノンのパラドックスは4つあり、有名なものにアキレスは亀に永遠に追いつけないとする「アキレスと亀」のパラドックスがあります。小林秀雄が取り上げているのは「飛ぶ矢飛ばず」(飛んでいる矢は止まっている)のパラドックスで、これは飛んでいる矢は或る瞬間には必ず或る場所に位置しなければならない、或る瞬間と或る瞬間の間隔を無限に短くすれば矢はその位置から動くことができず、ずっと同じ場所に留まっていなければならない、ゆえに矢は飛ばない、というものです。

ベルグソン流に言えば、これは矢の運動という不可分な持続を瞬間という空間で再構成しようとするところに生じるパラドックスです。飛んでいる矢の位置を知るのは知性ですが、矢が飛んでいるのを知るのは直観であり、二つの認識は全く異質なものです。矢が飛んでいると認識するというだけでは不十分で、正確には矢が飛んでいると直観する、というべきでしょう。

知性(科学)は直観を離れ、ひたすら矢の位置と運動量を確定しようとする方向に進みます。「矢の運動という経験的事実は、微分解析によって矛盾なく記述出来」、「飛ぶ矢の或る瞬間に於ける座標が、時間空間的位置を定義しているなら、時間座標の導函数は、矢の運動傾向を定義する」。しかしこの考えは「物理現象の連続性という仮説」を前提としたものであり、運動と空間を同一視し、ゼノンのパラドックスをやり過ごしてこられたのも、ニュートン力学で万事うまく事が運んでいたからです。ところが量子の出現によって、様相は一変します。粒子の位置と運動量を同時に確定することはもはや不可能となり、物理学者は否応なしにゼノンのパラドックスが含んでいたもう一方の要素、絶対的な運動に直面せざるを得なくなります。運動を掴まえたと信じて疑わなかった物理学者たちは、それが錯覚に過ぎないことに気づかされたのです。

自然は人間が誕生する以前から存在し、人間は自然の上に文明を築き上げ、最後に科学がこれを「実用的」(プラティック)な世界として完成させます。科学はプラティックな世界に深く根を下ろすことによってそれが自然にまで届いていると信じていたのですが、量子力学はこの分厚い殻の下に全く未知の大陸があることを発見します。この「運動性」(モビリテ)の世界の一角が実際に観測によって捉えられたことで、ベルグソンの直観の正当性が部分的にせよ裏付けられたともいえます。

この世界では運動は「系の幾何学的配置と力学的状態という互に独立した、決定的な二要素から成立しているとは、もはや断言出来」ません。「実在の「不確定性の関係」は、直観された実在のモビリテの上に投射された知性、プラティックな世界で生き行動する為に生れ、その方向に洗練されて来た知性のアンチノミックな構造に他ならぬ」のではないかと小林秀雄は推論します。

このように見てくると、小林秀雄がベルグソンの知覚=物質理論を重要視した意味、「感想」の後半で量子力学を取り上げた意味がよくわかります。それを最もよく表しているのが次の一文です。「ベルグソンの物質理論は、彼のメタフィジックのほんの一部を成すものだが、彼が、自分の仕事を、ポジティヴィスム・メタフィジックと呼んだ真意は、今日のフィジックが明らかにした筈だ」。

     *

「感想」はこのあと延長と非延長の対立、質と量の対立が人為的なものだとする「物質と記憶」第四章の議論をトレースし、二元論の問題を取り上げ直したところで連載が途切れます。僕もこのあたりのことを確認するつもりで「物質と記憶」の第四章を読み返しているうちに、ベルグソンが考える科学像についてもう一度考え直して見る必要があるのではないかと思い始めました。奇しくも「感想」の最後の文章はベルグソンが科学をどう捉えていたかという点を問題にしており、これが繰り返し取り上げる必要のある微妙な問題であることを窺わせます。

「物質と記憶」の序文で、ベルグソンは自分の立場を精神の実在と物質の実在を肯定する点で二元論的だと説明しています。しかし二元論は二つの実在を肯定するといいながら、それらの関係を説明する段になると、いずれか一方を絶対視してそこから他方を演繹しようとするのが常です。たとえばデカルトは物質を延長と同一視し、数学的秩序を絶対的なものと看做したのに対して、バークレー(バークレーは二元論者とはいえませんが)は知覚を絶対視し、科学を知覚の象徴的表現に過ぎないと看做しました。が、目の前にある物が(バークレーの主張のように)観念の中にしか存在しないなどと言われたら、一般の人は「そんな馬鹿な」とこの説を真っ向から否定するでしょう。物体は観念から独立に存在することを疑わない筈です。しかしまた、物体が知覚とは無関係に存在し、目に見える色も触覚もいわば錯覚に過ぎないといわれて納得する人もいないでしょう。色や触覚は物体そのものの性質に属し、観念とは別物だと反論する筈です。このように二元論は(否定的な形で)半ば無意識のうちに常識によって受け入れられており、ベルグソンもこの常識の立場を支持します。ではベルグソンが出発点とした常識の立場とはそもそもどんなものなんでしょうか。

(つづく)
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