●無秩序と二つの秩序
古代と近代とを問わず、認識の問題が惹き起こす困難のほとんどが以上のような混同から生まれたものであることは疑えないように思えます。実際、法則の一般性と類の一般性とが同じ言葉で示され、同じ観念に包摂されたために、幾何学的な秩序と生命的な秩序とが混同されることになり、類を重視するか法則を重視するかに応じて、法則の一般性が類の一般性によって説明されたり、類の一般性が法則の一般性によって説明されたりしました。今挙げた二つの観点のうち、前者は古代哲学に特徴的なものであり、後者は近代哲学に特徴的なものです。しかしいずれの哲学においても、「一般性」という観念はどっちつかずの曖昧なものでしかなく、そこでは互いに両立し得ない対象や要素がその外延においても内包においても一つに纏められます。そしていずれの哲学においても、事物に対する行動を容易にする点で似ているに過ぎない二種類の秩序が同じ概念に分類されます。(対立する)二つの項が、全く外的な類似によって近づけられるのです。この外的な類似は、実践においては確かに二つの項を同じ言葉で言い表すことを正当化してくれるかも知れませんが、思弁の領域においてそれらに同じ定義を与え、両者を混同することまで許してくれるわけではありません。
古代人が問題にしたのは、実際、何故自然は法則に従うのか、ということではなく、何故自然は類に従って秩序付けられるのか、ということでした。類という観念は、特に生命の領域における一つの客観的な実在に対応しており、遺伝という疑いようのない一つの事実を伝えています。その一方で、個別的な対象が存在しなければ類も存在しません。ところで、有機体が自ら有機的組織化することによって、言い換えると自然によって物質全体から切り取られるのに対して、惰性的な物質を相互に異なる物体に分割するのはわたしたちの知覚です。このとき知覚は、行動上の利害関心によって導かれ、わたしたちの身体が素描する生まれかけの反応によって、つまり、前著で示したように自らを形成しようと熱望する潜在的な類によって導かれています。したがって類と個体は、ここ(惰性的な物質の領域)では事物に対するわたしたちの未来の行動に全面的に依存しているほとんど人為的と言ってよい操作によって相互に規定し合っています。にもかかわらず、古代人は躊躇うことなくすべての類を同列に置き、それらに同じ絶対的実在性を付与しました。こうして実在は諸々の類の体系となり、法則の一般性は類の一般性(つまり生命的な秩序を表現している一般性)に帰着させられる他はなくなります。この点に関しては、物体の落下に関するアリストテレスの理論と、ガリレイがそれに対して与えた説明とを比較してみると興味深い違いが浮き彫りになるかも知れません。アリストテレスは、「高い」と「低い」、「本来の場所」と「借り物の場所」、「自然な運動」と「強いられた運動」といった概念にひたすら固執します。アリストテレスにとって、石を落下させる物理法則は、その石がすべての石にとっての「自然な場所」、すなわち地面を取り戻すことを表現しています。彼によれば、石は正常な場所に存在しない限り、完全には石とは言えません。石がその正常な場所に向かって落下するとき、その石は成長する生物のように自らを完成させ、それによって石という類の本質を完全に実現しようとしているのだと言います。もし物理法則に関するこうした考え方が正しいとすれば、法則は最早精神によって打ち立てられる単なる関係とは言えなくなるでしょうし、物質の物体への分割は最早わたしたちの知覚能力に相対的なものでもなくなるでしょう。すべての物体は生物と同じ個体性を持つことになり、物理的宇宙の諸法則は実在的な類同士の実在的な類縁関係を持つことになります。ここからどんな物理学が生まれたか、ということや、また古代人が、実在の全体を包含し、絶対的なものと一致するような唯一の決定的な科学が可能だと信じたために、却って物理的なものを大なり小なり大雑把に生命的なものに翻訳することで満足する他はなかった経緯については周知の通りです。
もっともこれと似たような混同は近代人のうちにも見られます。ただ古代人の場合と違うのは、一つは、二つの項(類と法則)の関係が逆になり、法則は最早類に帰着させられるのではなく、類が法則が帰着させられる点、もう一つは、科学が唯一のものであると考えられている点では古代哲学と変わりはないものの、古代人が望んだようにそれが絶対的なものと完全に一致するものではなく、全く相対的なものと想定されている点です。近代哲学において類の問題がすっかり影を潜めたのは、一つの注目すべき事実です。わたしたちの認識論は、ほとんど常に法則の問題をめぐって展開されています。(近代哲学では)、どういうやり方であれ、類は何とかして法則と折り合う手段を見つけなければなりません。それは何故かと言えば、わたしたちの哲学が近代の天文学や物理学における大発見を出発点としているからです。わたしたちの哲学にとって、ケプラーやガリレイの法則が常にあらゆる認識の理想的な唯一の典型となってきました。ところで、法則とは諸事物相互の、或いは諸事実相互の関係です。より正確に言えば、数学的な形式を持つ法則は、或る量が、適切に選ばれた他の一つ或いは幾つかの変数の関数であるということを表しています。ところが様々な変数を選ぶこと、自然を諸々の対象や事実に分けることには、何かしら偶然的なもの、規約的なものが含まれています。それを認めた上で、そうした選択がすべて経験によって指示され、経験に押し付けられたものでさえあると仮定してみましょう。それでもなお、法則が関係であることに変わりはありません。そして関係とは、本質的に一つの比較を意味しています。したがって法則は、複数の項を同時に表象する知性にとってしか客観的な実在性を持ちません。この知性は、わたしの知性でもあなた方の知性でもありません(下記参照)。法則にかかわる科学が客観的なものたり得るのはそのためです。つまりわたしたちは、経験にあらかじめ含まれていたこの客観的な科学を、ただ経験から吐き出させているだけなのです。しかし比較は特定の個人によってなされるものではないとしても、少なくとも非人称的になされるものであり、法則についての経験、すなわち或る項と他の項とを関係付ける経験とは比較についての経験です。このような経験は、わたしたちがそれをかき集めたときには、既に理知性の雰囲気を通過してきたものに違いありません。したがって人間悟性に完全に依存する科学と経験という観念は、諸々の法則によって構成される唯一の完全な科学という考え方のうちに暗黙のうちに含まれています。カントは、この観念をそこから取り出したに過ぎません。しかし唯一の完全な科学というこの考え方は、法則の一般性と類の一般性とを恣意的に混同することから生まれたものです。諸々の項をそれら相互の関係によって条件付けるためには何らかの知性が必要だとしても、それらの項そのものは、或る場合には独立して存在し得ると考えられます。そしてもし、項と項との関係とは別に、経験が独立した項をもわたしたちに提示するならば、わたしたちの認識の少なくとも半分(半分というのは、生物の種は法則の体系とは全くの別物だからです)は「物自体」に、すなわち(生命的な秩序の)実在そのものに達することになります。ただしそのような認識は、最早その対象を構成するものではなく、逆にその対象に従わなければならないために極めて困難なものとなります。しかしその認識がたとえわずかでもその対象に触れることができれば、それは絶対的なものに食い込んだことになるでしょう。さらに、認識の残りの半分が逆の秩序(幾何学的な秩序)の実在に触れていることを証明することができれば、その残る半分の認識も、最早或る哲学者達が主張するほど根本的に、また決定的に相対的なものではない、ということになるでしょう。この逆の秩序の実在を、わたしたちは常に数学的法則によって、つまり比較を含意する関係によって表現しますが、それがそういう操作に応じるのは、(それが空間と完全に一致しているからではなく)、その実在が空間性を、従って幾何学という錘を付けているからでしかありません。いずれにせよ、古代人の独断論の背後に二種類の秩序の混同が認められるように、近代人の相対主義の背後にも同じ混同が認められる事実は覆うべくもありません。
(次章(第4章)を読めばわかりますが、唐突に出てくるこの考え方はカントのものです。この辺りの文章はカントの考えを要約したものです)
幾何学的な秩序と生命的な秩序との混同について、わたしたちは古代人と近代人それぞれの観点から考察しました。今や両者の混同の起源を示すことができる筈です。幾何学的な秩序と生命的な秩序との混同は、本質的には創造である「生命的」秩序が、その本質においてわたしたちの前に現れるのではなく、幾つかの偶有性において現れるところから生まれます。それらの偶有性は物理的、幾何学的な秩序を模倣し、幾何学的な秩序と同様、一般化を可能ならしめる数々の反復をわたしたちに示します。わたしたちにとって専ら重要なのは、まさにその点です。生命全体が、一つの進化、すなわち不断の変化であることは疑う余地がありません。しかし生命は、生命の一時的な受託者たる生物を媒介にしなければ進展することができません。生物が作り上げる新しさが成長し、成熟するためには、ほとんど同じ幾千、幾万の生物が空間と時間の中で反復される必要があります。それはちょうど、或る書物が一回に数千部ずつ、幾千回と版を重ねながら随時改訂されていくようなものです。両者に違いがあるとすれば、次々に出版されるそれぞれの版は同一で、同じ版で同時に印刷される書物の一冊一冊も同一であるのに対して、同じ種に属する成員同士は、空間上の相異なる点、時間上の相異なる瞬間において完全に類似することはない、という点です。つまり遺伝は、単に形質だけを伝えるのではなく、それらの形質を変化させるエランをも伝えます。このエランこそ生命そのものであると言っても過言ではありません。一般化の基礎として役に立つ反復は、物理的な秩序においては本質的であるのに対して、生命的な秩序においては偶有的であるというのはそういう意味です。物理的な秩序は「自動的」な秩序であり、生命的な秩序は意志を持つ秩序とは言わないまでも、「意志された」秩序に類した秩序です。
ところで「意志された」秩序と「自動的」な秩序とを明確に区別するならば、無秩序という観念の温床となっている曖昧さはたちどころに雲散霧消し、それと同時に認識論の主要な困難の一つも消え失せます。
事実、認識論における最大の問題は、いかにして科学は可能となるのか、換言すると、何故事物のうちに無秩序ではなく秩序が存在するのか、ということです。秩序が存在すること、これは紛れもない事実です。しかし他方、無秩序は秩序以下のものに過ぎないように見えるにしても、権利上は無秩序も存在しているように思えます。そのため秩序が存在することは解明すべき一つの神秘であり、いずれにしても何故秩序が存在するのかということは問われなければならない問題であることになります。もう少し具体的に言いましょう。わたしたちが秩序を基礎付けようとすると、その瞬間秩序は、事物の中ではそうでないにせよ、少なくとも精神の目から見ると偶然的なものに映ります。偶然的と判断されていないものについては、誰も説明を求めたりはしません。もしわたしたちが、秩序というものを、何かを征服すること、或いは何かに付け加えられたものという意味に解していなかったならば(何かとは「秩序の不在」のことだと言ってよいでしょう)、古代の実在論は、そこにイデアが付け加えられるような「素材」について語ることはなかったでしょうし、近代の観念論も、悟性が自然として組織する「感性の多様性」を想定することはなかったでしょう。あらゆる秩序は実際に偶然的であり、偶然的なものと考えられている、ということにはわたしたちも異論がありません。しかし秩序は、何に対して偶然的なのでしょうか。
わたしたちの考えでは、その答えは明白です。或る秩序は逆の秩序に対して偶然的であり、またそれは逆の秩序に対してわたしたちに偶然的なものと見えるのです。ちょうど詩が散文に対して、また散文が詩に対して偶然的であるように。ところで散文ではないすべての言語表現は詩であり、必然的に詩と考えられますし、詩ではないすべての言語表現は散文であり、必然的に散文と考えられます。それと同様に、二つの秩序のうちの一方ではないすべての秩序は他方の秩序として存在し、必然的に他方の秩序と考えられます。ところがわたしたちは、自分が考えていることを理解せず、自分の精神に真に現前している観念を、靄のように模糊とした感情的状態を通してしか認識しないことがあります。日常生活において無秩序という観念がどのように使われているかを考えれば、そのことが納得できるに違いありません。例えばわたしが或る部屋に入り、中の様子を見て「無秩序だ」と判断したとします。このときわたしは何を言おうとしているのでしょうか。部屋の中にあるそれぞれの物の位置はそこで生活している人の自動的な運動によって説明することができますし、或いはその住人がそれぞれの家具、衣服などをその場所に置いた何らかの動力因によって説明することができます。したがってこの場合、秩序は第二の(自動的な秩序という)意味では完全です。しかしわたしが期待していたのは第一の意味での秩序、几帳面な性格の人が自分の生活に意識的に取り入れているような秩序、つまり意志された秩序であって、自動的な秩序ではありません。このような期待していた秩序の不在を、わたしは無秩序と表現したのです。実を言うと、二つの秩序の一方の不在において実在しているもの、知覚されているもの、考えられているものは他方の秩序の現前に他なりません。しかしわたしにとってさしあたり第二の秩序はどうでもよく、第一の秩序のみがわたしの関心の的となっています。そこでわたしは、第二の秩序の現前を言わばそれ自体の関数として表現する代わりに、第一の秩序の関数としてこう表現したのです。この部屋は無秩序だ、と。逆にわたしたちが一つのカオスを思い浮かべるとき、すなわち物理的世界が諸々の法則に最早従っていないような事物の状態を思い浮かべるとき、わたしたちは何を考えているのでしょうか。このときわたしたちが想像しているのは、気紛れに現れたり消えたりするような諸事実です。わたしたちはまず、通常認識されているような宇宙、結果と原因がぴたりと釣り合っている宇宙を頭に描きます。次に、わたしたちは無秩序と呼ばれるものが得られるように、恣意的な命令を次々に発してこの宇宙から原因と結果のいずれかを増やしたり減らしたり取り除いたりします。つまりわたしたちは、自然のメカニズムの代わりに意志を、言い換えると、「自動的な秩序」の代わりにわたしたちが想像する現象の出現や消失と同じ数だけの要素的な意志を置いたのです。これらすべての小さな意志が「意志された秩序」を構成するためには、確かにそれらはより高次な意志の流れに服していなければなりません。ところで詳しく検討すると、それらの意志の一つ一つはまさにその通りに振る舞っていることがわかります。カオスとして思い描かれる世界にはわたしたちの意志が存在し、それぞれの気紛れな意志として次々に自己を客体化しつつ、同じものが同じものに結び付かないように、結果が原因に釣り合わないように目を光らせています。要するにカオスを思い浮かべる際、わたしたちの意志は、単一な意志にそれら要素的な意志作用の全体を高みから支配させるのです。したがって二つの秩序の一方の不在は、この場合にもやはり他方の秩序の現前を意味しています。――無秩序という観念に極めて近いものに「偶然」という観念がありますが、この「偶然」という観念を分析しても同じような要素が見つかるでしょう。例えばルーレットの球が純粋に機械的な原因の作用によって或る数字のポケットに入り、わたしが賭けに勝ったとします。つまり、あたかも善霊がわたしの利益に配慮したかのようにそれらの原因が働いたとします。また例えば、純粋に機械的な風の力が屋根から瓦を引き剥がし、わたしの頭にぶつけたとします。つまり、あたかも悪霊がわたしに災いをもたらしたかのように風の力が働いたとします。この二つの例において、わたしは(自分を益したり害したりする)一つの意図を探し求め、それと出会う筈であったところに、いずれも一つのメカニズムを見出します。偶然という言葉を口にするとき、わたしが表現しているのはまさにそういうことです。逆に様々な現象が気紛れに次々と起こるようなアナーキーな世界についても、その世界は偶然によって支配されている、とわたしは言うでしょう。それは、わたしが期待していたのはメカニズムであるのに、わたしが目の前に見出すのは意志であり、或いは寧ろ命令である、という意味です。偶然という観念を定義しようとする際の精神の奇妙な揺らぎが、こうして説明されます。動力因も目的因も、偶然の定義を精神に与えてはくれません。精神は目的因の不在と動力因の不在という二つの観念の間を、どちらにも身を落ち着けることができないまま揺れ動きます。この二つの定義は、どちらも精神を他方へと送り返すのです。事実、わたしたちが偶然という観念を感情の混じっていない純粋な観念と看做している限り、この問題はいつまで経っても解決することができません。偶然という観念は、実際には、二種類の秩序の一方を予期していたにもかかわらず、他方の秩序に出会った人の心理状態を客体化したものに過ぎません。したがって偶然と無秩序とは、必然的に相対的なものと考えられます。それらを絶対的なものと看做そうとする人は、機織り機のシャトル(杼・梭)のように、一方の秩序の側にいると思った次の瞬間には他方の秩序に移動し、その結果自分が意図せず二種類の秩序の間を行ったり来たりしていること、またあらゆる秩序の不在と看做されているものが、実は二種類の秩序の現前であり、しかもそこには、いずれの秩序にも決定的に身を置くことができない精神の揺れがあることに気付くでしょう。事物においてもわたしたちの事物の表象においても、無秩序を秩序の基体と看做すのは論外としか言いようがありません。何故なら無秩序は二種類の秩序を含んでおり、両者の結合によって生み出されるものだからです。
しかしわたしたちの知性は、そんなことは気にもかけず前へと進みます。そして「かく我は命ず」(古代ローマ時代の風刺詩人ユウェナリスの言葉)という身勝手な命令一つによって、「秩序の不在」としての無秩序を措定します。したがって知性が考えているのは一つの言葉、もしくは言葉の羅列であって、それ以上のものではありません。この言葉の下に一つの観念を置こうと努めれば、無秩序とはまさに一つの秩序の否定である一方で、この否定は逆の秩序の暗黙の確認であることに知性は気付く筈です。しかしわたしたちは逆の秩序には関心がないために、そうした確認の事実を見ようともしません。或いは今度は逆の秩序を否定することによって、つまり否定した秩序を復活させる(肯定する)ことによってその事実を見落としてしまいます。もし上記の通りであるなら、悟性が組織するとされている不統一な多様性についてどう考えるべきでしょうか。そのような不統一が実在するもの、或いは実在可能なものであるとは誰も考えていない、などと人々が弁明したとしてもそれは何の言い訳にもなっていません。不統一という言葉が口にされているからには、それについて考えていると人々は思い込んでいます。しかし実際に現前している不統一というこの観念を分析しても、無秩序の場合と同じく、見つかるのは恐らく関心のない秩序を前にした精神の失望か、或いは二種類の秩序の間を揺れ動く精神か、或いは何かを意味している語に否定の接頭語を付けて作られた空虚な語の単なる表象でしかないでしょう。ただ人々は、そのような分析をすることを怠っているためにそれに気付かないだけなのです。人々がそれを怠っているのは、まさに、彼らが二種類の秩序を、一方を他方に還元することができない二種類の秩序を区別することなど想像すらしたことがないからです。
先ほど述べたように、あらゆる秩序は必ず偶然的なものとしてわたしたちの前に現れます。秩序に二つの種類のものがあるとすれば、秩序のこの偶然性は自ずと説明がつきます。二つの秩序の一方は他方に対して偶然的なのです。わたしが幾何学的な秩序を見出すところには生命的な秩序が存在することも可能だったでしょうし、秩序が生命的なものである場合、それは幾何学的なものでもあり得たでしょう。しかしそれは一旦措き、ありとあらゆる秩序は同じ種類に属し、幾何学的なものから生命的なものへと至る段階的な差があるに過ぎない、と仮定してみましょう。その場合にも秩序が依然として偶然的なものとして現れ、さらにそれが最早別の種類の秩序に対して偶然的なものとはなり得ないとすれば、わたしは必然的に、その秩序がそれ自身の不在に対して偶然的である、つまり「秩序が全く存在しない」ような事物の状態に対して偶然的である、と思い込むに違いありません。そしてわたしは、そのような事物の状態を実際に自分が考えている、と思い込むでしょう。というのも、秩序の偶然性そのものにこの状態が含まれているように見えるからであり、しかも秩序の偶然性は否定しようのない事実だからです。そこでわたしは、ヒエラルキーの頂点にまず生命的な秩序を置き、次いでその下に生命的な秩序が下落したものとして、或いは生命的な秩序の複雑さが減少したものとして幾何学的な秩序を置き、最後に秩序の不在、不統一そのものをヒエラルキーの最下層に置いて、その上に秩序が積み重ねられていく、という風に考えます。不統一という言葉が、その言葉の背後に、実現されていないにしても少なくとも考えられるような何かが存在する筈だ、という印象を与えるのはそのためです。逆にわたしが、或る一つの秩序の偶然性に含まれている事物の状態とは、単に逆の秩序の現前に過ぎない、という点に気付き、その結果互いに逆向きの二種類の秩序を措定するならば、その二つの秩序の間に中間的な段階を想像することなどできず、ましてこの二つの秩序から「不統一なもの」に降りていくことなどできない、ということに気付く筈です。不統一なものとは、意味のない一つの言葉に過ぎません。或いはこの言葉に何らかの意義を与えることができるとすれば、それは不統一を二つの秩序の下に置くのではなく、両者の中間に置く場合に限られます。まず不統一なものが存在し、次いで幾何学的なものが、最後に生命的なものが存在するのではありません。単に幾何学的なものと生命的なものとが存在し、両者の間を精神が揺れ動く結果、不統一なものという観念が生まれるのです。それゆえまず秩序なき多様性が存在し、そこに秩序が付け加えられる、と考えることは、取りも直さず論点先取の誤謬を犯すことです。わたしたちが秩序の不在を想像するとき、実際には、一つの秩序が、或いは寧ろ二つの秩序が措定されているのです。
わたしたちは無秩序という観念を長々と分析してきましたが、以上の分析は、実在が反転することによって、緊張からひろがりへ、自由から機械的な必然性へどのようにして移行し得るのかを示すために必要不可欠なものでした。二つの項の間のこの関係が、意識と同時に感覚可能な経験によってわたしたちに暗示されていることを明らかにするだけでは不十分で、幾何学的な秩序は単に逆の秩序を削除したものに過ぎず、説明を要しない、ということを証明しなければならなかったのです。そしてそのためには、削除とは例外なく置き換えであり、また置き換えとしか考えようがない、ということを明らかにする必要がありました。ただわたしたちは、実生活上の要求によって、事物のうちに生じることについても精神に現前しているものについても自分自身を欺くような表現を示唆され、その点を見過ごしているに過ぎません。ここまでわたしたちは専ら反転の帰結を述べてきましたが、今度は、この反転そのものをもっと詳しく検討する必要があります。弛緩するだけでひろがりとなるような原理、そこでは原因の中断が結果の反転と等価であるような原理とは一体どんなものなのでしょうか。
(つづく)
古代と近代とを問わず、認識の問題が惹き起こす困難のほとんどが以上のような混同から生まれたものであることは疑えないように思えます。実際、法則の一般性と類の一般性とが同じ言葉で示され、同じ観念に包摂されたために、幾何学的な秩序と生命的な秩序とが混同されることになり、類を重視するか法則を重視するかに応じて、法則の一般性が類の一般性によって説明されたり、類の一般性が法則の一般性によって説明されたりしました。今挙げた二つの観点のうち、前者は古代哲学に特徴的なものであり、後者は近代哲学に特徴的なものです。しかしいずれの哲学においても、「一般性」という観念はどっちつかずの曖昧なものでしかなく、そこでは互いに両立し得ない対象や要素がその外延においても内包においても一つに纏められます。そしていずれの哲学においても、事物に対する行動を容易にする点で似ているに過ぎない二種類の秩序が同じ概念に分類されます。(対立する)二つの項が、全く外的な類似によって近づけられるのです。この外的な類似は、実践においては確かに二つの項を同じ言葉で言い表すことを正当化してくれるかも知れませんが、思弁の領域においてそれらに同じ定義を与え、両者を混同することまで許してくれるわけではありません。
古代人が問題にしたのは、実際、何故自然は法則に従うのか、ということではなく、何故自然は類に従って秩序付けられるのか、ということでした。類という観念は、特に生命の領域における一つの客観的な実在に対応しており、遺伝という疑いようのない一つの事実を伝えています。その一方で、個別的な対象が存在しなければ類も存在しません。ところで、有機体が自ら有機的組織化することによって、言い換えると自然によって物質全体から切り取られるのに対して、惰性的な物質を相互に異なる物体に分割するのはわたしたちの知覚です。このとき知覚は、行動上の利害関心によって導かれ、わたしたちの身体が素描する生まれかけの反応によって、つまり、前著で示したように自らを形成しようと熱望する潜在的な類によって導かれています。したがって類と個体は、ここ(惰性的な物質の領域)では事物に対するわたしたちの未来の行動に全面的に依存しているほとんど人為的と言ってよい操作によって相互に規定し合っています。にもかかわらず、古代人は躊躇うことなくすべての類を同列に置き、それらに同じ絶対的実在性を付与しました。こうして実在は諸々の類の体系となり、法則の一般性は類の一般性(つまり生命的な秩序を表現している一般性)に帰着させられる他はなくなります。この点に関しては、物体の落下に関するアリストテレスの理論と、ガリレイがそれに対して与えた説明とを比較してみると興味深い違いが浮き彫りになるかも知れません。アリストテレスは、「高い」と「低い」、「本来の場所」と「借り物の場所」、「自然な運動」と「強いられた運動」といった概念にひたすら固執します。アリストテレスにとって、石を落下させる物理法則は、その石がすべての石にとっての「自然な場所」、すなわち地面を取り戻すことを表現しています。彼によれば、石は正常な場所に存在しない限り、完全には石とは言えません。石がその正常な場所に向かって落下するとき、その石は成長する生物のように自らを完成させ、それによって石という類の本質を完全に実現しようとしているのだと言います。もし物理法則に関するこうした考え方が正しいとすれば、法則は最早精神によって打ち立てられる単なる関係とは言えなくなるでしょうし、物質の物体への分割は最早わたしたちの知覚能力に相対的なものでもなくなるでしょう。すべての物体は生物と同じ個体性を持つことになり、物理的宇宙の諸法則は実在的な類同士の実在的な類縁関係を持つことになります。ここからどんな物理学が生まれたか、ということや、また古代人が、実在の全体を包含し、絶対的なものと一致するような唯一の決定的な科学が可能だと信じたために、却って物理的なものを大なり小なり大雑把に生命的なものに翻訳することで満足する他はなかった経緯については周知の通りです。
もっともこれと似たような混同は近代人のうちにも見られます。ただ古代人の場合と違うのは、一つは、二つの項(類と法則)の関係が逆になり、法則は最早類に帰着させられるのではなく、類が法則が帰着させられる点、もう一つは、科学が唯一のものであると考えられている点では古代哲学と変わりはないものの、古代人が望んだようにそれが絶対的なものと完全に一致するものではなく、全く相対的なものと想定されている点です。近代哲学において類の問題がすっかり影を潜めたのは、一つの注目すべき事実です。わたしたちの認識論は、ほとんど常に法則の問題をめぐって展開されています。(近代哲学では)、どういうやり方であれ、類は何とかして法則と折り合う手段を見つけなければなりません。それは何故かと言えば、わたしたちの哲学が近代の天文学や物理学における大発見を出発点としているからです。わたしたちの哲学にとって、ケプラーやガリレイの法則が常にあらゆる認識の理想的な唯一の典型となってきました。ところで、法則とは諸事物相互の、或いは諸事実相互の関係です。より正確に言えば、数学的な形式を持つ法則は、或る量が、適切に選ばれた他の一つ或いは幾つかの変数の関数であるということを表しています。ところが様々な変数を選ぶこと、自然を諸々の対象や事実に分けることには、何かしら偶然的なもの、規約的なものが含まれています。それを認めた上で、そうした選択がすべて経験によって指示され、経験に押し付けられたものでさえあると仮定してみましょう。それでもなお、法則が関係であることに変わりはありません。そして関係とは、本質的に一つの比較を意味しています。したがって法則は、複数の項を同時に表象する知性にとってしか客観的な実在性を持ちません。この知性は、わたしの知性でもあなた方の知性でもありません(下記参照)。法則にかかわる科学が客観的なものたり得るのはそのためです。つまりわたしたちは、経験にあらかじめ含まれていたこの客観的な科学を、ただ経験から吐き出させているだけなのです。しかし比較は特定の個人によってなされるものではないとしても、少なくとも非人称的になされるものであり、法則についての経験、すなわち或る項と他の項とを関係付ける経験とは比較についての経験です。このような経験は、わたしたちがそれをかき集めたときには、既に理知性の雰囲気を通過してきたものに違いありません。したがって人間悟性に完全に依存する科学と経験という観念は、諸々の法則によって構成される唯一の完全な科学という考え方のうちに暗黙のうちに含まれています。カントは、この観念をそこから取り出したに過ぎません。しかし唯一の完全な科学というこの考え方は、法則の一般性と類の一般性とを恣意的に混同することから生まれたものです。諸々の項をそれら相互の関係によって条件付けるためには何らかの知性が必要だとしても、それらの項そのものは、或る場合には独立して存在し得ると考えられます。そしてもし、項と項との関係とは別に、経験が独立した項をもわたしたちに提示するならば、わたしたちの認識の少なくとも半分(半分というのは、生物の種は法則の体系とは全くの別物だからです)は「物自体」に、すなわち(生命的な秩序の)実在そのものに達することになります。ただしそのような認識は、最早その対象を構成するものではなく、逆にその対象に従わなければならないために極めて困難なものとなります。しかしその認識がたとえわずかでもその対象に触れることができれば、それは絶対的なものに食い込んだことになるでしょう。さらに、認識の残りの半分が逆の秩序(幾何学的な秩序)の実在に触れていることを証明することができれば、その残る半分の認識も、最早或る哲学者達が主張するほど根本的に、また決定的に相対的なものではない、ということになるでしょう。この逆の秩序の実在を、わたしたちは常に数学的法則によって、つまり比較を含意する関係によって表現しますが、それがそういう操作に応じるのは、(それが空間と完全に一致しているからではなく)、その実在が空間性を、従って幾何学という錘を付けているからでしかありません。いずれにせよ、古代人の独断論の背後に二種類の秩序の混同が認められるように、近代人の相対主義の背後にも同じ混同が認められる事実は覆うべくもありません。
(次章(第4章)を読めばわかりますが、唐突に出てくるこの考え方はカントのものです。この辺りの文章はカントの考えを要約したものです)
幾何学的な秩序と生命的な秩序との混同について、わたしたちは古代人と近代人それぞれの観点から考察しました。今や両者の混同の起源を示すことができる筈です。幾何学的な秩序と生命的な秩序との混同は、本質的には創造である「生命的」秩序が、その本質においてわたしたちの前に現れるのではなく、幾つかの偶有性において現れるところから生まれます。それらの偶有性は物理的、幾何学的な秩序を模倣し、幾何学的な秩序と同様、一般化を可能ならしめる数々の反復をわたしたちに示します。わたしたちにとって専ら重要なのは、まさにその点です。生命全体が、一つの進化、すなわち不断の変化であることは疑う余地がありません。しかし生命は、生命の一時的な受託者たる生物を媒介にしなければ進展することができません。生物が作り上げる新しさが成長し、成熟するためには、ほとんど同じ幾千、幾万の生物が空間と時間の中で反復される必要があります。それはちょうど、或る書物が一回に数千部ずつ、幾千回と版を重ねながら随時改訂されていくようなものです。両者に違いがあるとすれば、次々に出版されるそれぞれの版は同一で、同じ版で同時に印刷される書物の一冊一冊も同一であるのに対して、同じ種に属する成員同士は、空間上の相異なる点、時間上の相異なる瞬間において完全に類似することはない、という点です。つまり遺伝は、単に形質だけを伝えるのではなく、それらの形質を変化させるエランをも伝えます。このエランこそ生命そのものであると言っても過言ではありません。一般化の基礎として役に立つ反復は、物理的な秩序においては本質的であるのに対して、生命的な秩序においては偶有的であるというのはそういう意味です。物理的な秩序は「自動的」な秩序であり、生命的な秩序は意志を持つ秩序とは言わないまでも、「意志された」秩序に類した秩序です。
ところで「意志された」秩序と「自動的」な秩序とを明確に区別するならば、無秩序という観念の温床となっている曖昧さはたちどころに雲散霧消し、それと同時に認識論の主要な困難の一つも消え失せます。
事実、認識論における最大の問題は、いかにして科学は可能となるのか、換言すると、何故事物のうちに無秩序ではなく秩序が存在するのか、ということです。秩序が存在すること、これは紛れもない事実です。しかし他方、無秩序は秩序以下のものに過ぎないように見えるにしても、権利上は無秩序も存在しているように思えます。そのため秩序が存在することは解明すべき一つの神秘であり、いずれにしても何故秩序が存在するのかということは問われなければならない問題であることになります。もう少し具体的に言いましょう。わたしたちが秩序を基礎付けようとすると、その瞬間秩序は、事物の中ではそうでないにせよ、少なくとも精神の目から見ると偶然的なものに映ります。偶然的と判断されていないものについては、誰も説明を求めたりはしません。もしわたしたちが、秩序というものを、何かを征服すること、或いは何かに付け加えられたものという意味に解していなかったならば(何かとは「秩序の不在」のことだと言ってよいでしょう)、古代の実在論は、そこにイデアが付け加えられるような「素材」について語ることはなかったでしょうし、近代の観念論も、悟性が自然として組織する「感性の多様性」を想定することはなかったでしょう。あらゆる秩序は実際に偶然的であり、偶然的なものと考えられている、ということにはわたしたちも異論がありません。しかし秩序は、何に対して偶然的なのでしょうか。
わたしたちの考えでは、その答えは明白です。或る秩序は逆の秩序に対して偶然的であり、またそれは逆の秩序に対してわたしたちに偶然的なものと見えるのです。ちょうど詩が散文に対して、また散文が詩に対して偶然的であるように。ところで散文ではないすべての言語表現は詩であり、必然的に詩と考えられますし、詩ではないすべての言語表現は散文であり、必然的に散文と考えられます。それと同様に、二つの秩序のうちの一方ではないすべての秩序は他方の秩序として存在し、必然的に他方の秩序と考えられます。ところがわたしたちは、自分が考えていることを理解せず、自分の精神に真に現前している観念を、靄のように模糊とした感情的状態を通してしか認識しないことがあります。日常生活において無秩序という観念がどのように使われているかを考えれば、そのことが納得できるに違いありません。例えばわたしが或る部屋に入り、中の様子を見て「無秩序だ」と判断したとします。このときわたしは何を言おうとしているのでしょうか。部屋の中にあるそれぞれの物の位置はそこで生活している人の自動的な運動によって説明することができますし、或いはその住人がそれぞれの家具、衣服などをその場所に置いた何らかの動力因によって説明することができます。したがってこの場合、秩序は第二の(自動的な秩序という)意味では完全です。しかしわたしが期待していたのは第一の意味での秩序、几帳面な性格の人が自分の生活に意識的に取り入れているような秩序、つまり意志された秩序であって、自動的な秩序ではありません。このような期待していた秩序の不在を、わたしは無秩序と表現したのです。実を言うと、二つの秩序の一方の不在において実在しているもの、知覚されているもの、考えられているものは他方の秩序の現前に他なりません。しかしわたしにとってさしあたり第二の秩序はどうでもよく、第一の秩序のみがわたしの関心の的となっています。そこでわたしは、第二の秩序の現前を言わばそれ自体の関数として表現する代わりに、第一の秩序の関数としてこう表現したのです。この部屋は無秩序だ、と。逆にわたしたちが一つのカオスを思い浮かべるとき、すなわち物理的世界が諸々の法則に最早従っていないような事物の状態を思い浮かべるとき、わたしたちは何を考えているのでしょうか。このときわたしたちが想像しているのは、気紛れに現れたり消えたりするような諸事実です。わたしたちはまず、通常認識されているような宇宙、結果と原因がぴたりと釣り合っている宇宙を頭に描きます。次に、わたしたちは無秩序と呼ばれるものが得られるように、恣意的な命令を次々に発してこの宇宙から原因と結果のいずれかを増やしたり減らしたり取り除いたりします。つまりわたしたちは、自然のメカニズムの代わりに意志を、言い換えると、「自動的な秩序」の代わりにわたしたちが想像する現象の出現や消失と同じ数だけの要素的な意志を置いたのです。これらすべての小さな意志が「意志された秩序」を構成するためには、確かにそれらはより高次な意志の流れに服していなければなりません。ところで詳しく検討すると、それらの意志の一つ一つはまさにその通りに振る舞っていることがわかります。カオスとして思い描かれる世界にはわたしたちの意志が存在し、それぞれの気紛れな意志として次々に自己を客体化しつつ、同じものが同じものに結び付かないように、結果が原因に釣り合わないように目を光らせています。要するにカオスを思い浮かべる際、わたしたちの意志は、単一な意志にそれら要素的な意志作用の全体を高みから支配させるのです。したがって二つの秩序の一方の不在は、この場合にもやはり他方の秩序の現前を意味しています。――無秩序という観念に極めて近いものに「偶然」という観念がありますが、この「偶然」という観念を分析しても同じような要素が見つかるでしょう。例えばルーレットの球が純粋に機械的な原因の作用によって或る数字のポケットに入り、わたしが賭けに勝ったとします。つまり、あたかも善霊がわたしの利益に配慮したかのようにそれらの原因が働いたとします。また例えば、純粋に機械的な風の力が屋根から瓦を引き剥がし、わたしの頭にぶつけたとします。つまり、あたかも悪霊がわたしに災いをもたらしたかのように風の力が働いたとします。この二つの例において、わたしは(自分を益したり害したりする)一つの意図を探し求め、それと出会う筈であったところに、いずれも一つのメカニズムを見出します。偶然という言葉を口にするとき、わたしが表現しているのはまさにそういうことです。逆に様々な現象が気紛れに次々と起こるようなアナーキーな世界についても、その世界は偶然によって支配されている、とわたしは言うでしょう。それは、わたしが期待していたのはメカニズムであるのに、わたしが目の前に見出すのは意志であり、或いは寧ろ命令である、という意味です。偶然という観念を定義しようとする際の精神の奇妙な揺らぎが、こうして説明されます。動力因も目的因も、偶然の定義を精神に与えてはくれません。精神は目的因の不在と動力因の不在という二つの観念の間を、どちらにも身を落ち着けることができないまま揺れ動きます。この二つの定義は、どちらも精神を他方へと送り返すのです。事実、わたしたちが偶然という観念を感情の混じっていない純粋な観念と看做している限り、この問題はいつまで経っても解決することができません。偶然という観念は、実際には、二種類の秩序の一方を予期していたにもかかわらず、他方の秩序に出会った人の心理状態を客体化したものに過ぎません。したがって偶然と無秩序とは、必然的に相対的なものと考えられます。それらを絶対的なものと看做そうとする人は、機織り機のシャトル(杼・梭)のように、一方の秩序の側にいると思った次の瞬間には他方の秩序に移動し、その結果自分が意図せず二種類の秩序の間を行ったり来たりしていること、またあらゆる秩序の不在と看做されているものが、実は二種類の秩序の現前であり、しかもそこには、いずれの秩序にも決定的に身を置くことができない精神の揺れがあることに気付くでしょう。事物においてもわたしたちの事物の表象においても、無秩序を秩序の基体と看做すのは論外としか言いようがありません。何故なら無秩序は二種類の秩序を含んでおり、両者の結合によって生み出されるものだからです。
しかしわたしたちの知性は、そんなことは気にもかけず前へと進みます。そして「かく我は命ず」(古代ローマ時代の風刺詩人ユウェナリスの言葉)という身勝手な命令一つによって、「秩序の不在」としての無秩序を措定します。したがって知性が考えているのは一つの言葉、もしくは言葉の羅列であって、それ以上のものではありません。この言葉の下に一つの観念を置こうと努めれば、無秩序とはまさに一つの秩序の否定である一方で、この否定は逆の秩序の暗黙の確認であることに知性は気付く筈です。しかしわたしたちは逆の秩序には関心がないために、そうした確認の事実を見ようともしません。或いは今度は逆の秩序を否定することによって、つまり否定した秩序を復活させる(肯定する)ことによってその事実を見落としてしまいます。もし上記の通りであるなら、悟性が組織するとされている不統一な多様性についてどう考えるべきでしょうか。そのような不統一が実在するもの、或いは実在可能なものであるとは誰も考えていない、などと人々が弁明したとしてもそれは何の言い訳にもなっていません。不統一という言葉が口にされているからには、それについて考えていると人々は思い込んでいます。しかし実際に現前している不統一というこの観念を分析しても、無秩序の場合と同じく、見つかるのは恐らく関心のない秩序を前にした精神の失望か、或いは二種類の秩序の間を揺れ動く精神か、或いは何かを意味している語に否定の接頭語を付けて作られた空虚な語の単なる表象でしかないでしょう。ただ人々は、そのような分析をすることを怠っているためにそれに気付かないだけなのです。人々がそれを怠っているのは、まさに、彼らが二種類の秩序を、一方を他方に還元することができない二種類の秩序を区別することなど想像すらしたことがないからです。
先ほど述べたように、あらゆる秩序は必ず偶然的なものとしてわたしたちの前に現れます。秩序に二つの種類のものがあるとすれば、秩序のこの偶然性は自ずと説明がつきます。二つの秩序の一方は他方に対して偶然的なのです。わたしが幾何学的な秩序を見出すところには生命的な秩序が存在することも可能だったでしょうし、秩序が生命的なものである場合、それは幾何学的なものでもあり得たでしょう。しかしそれは一旦措き、ありとあらゆる秩序は同じ種類に属し、幾何学的なものから生命的なものへと至る段階的な差があるに過ぎない、と仮定してみましょう。その場合にも秩序が依然として偶然的なものとして現れ、さらにそれが最早別の種類の秩序に対して偶然的なものとはなり得ないとすれば、わたしは必然的に、その秩序がそれ自身の不在に対して偶然的である、つまり「秩序が全く存在しない」ような事物の状態に対して偶然的である、と思い込むに違いありません。そしてわたしは、そのような事物の状態を実際に自分が考えている、と思い込むでしょう。というのも、秩序の偶然性そのものにこの状態が含まれているように見えるからであり、しかも秩序の偶然性は否定しようのない事実だからです。そこでわたしは、ヒエラルキーの頂点にまず生命的な秩序を置き、次いでその下に生命的な秩序が下落したものとして、或いは生命的な秩序の複雑さが減少したものとして幾何学的な秩序を置き、最後に秩序の不在、不統一そのものをヒエラルキーの最下層に置いて、その上に秩序が積み重ねられていく、という風に考えます。不統一という言葉が、その言葉の背後に、実現されていないにしても少なくとも考えられるような何かが存在する筈だ、という印象を与えるのはそのためです。逆にわたしが、或る一つの秩序の偶然性に含まれている事物の状態とは、単に逆の秩序の現前に過ぎない、という点に気付き、その結果互いに逆向きの二種類の秩序を措定するならば、その二つの秩序の間に中間的な段階を想像することなどできず、ましてこの二つの秩序から「不統一なもの」に降りていくことなどできない、ということに気付く筈です。不統一なものとは、意味のない一つの言葉に過ぎません。或いはこの言葉に何らかの意義を与えることができるとすれば、それは不統一を二つの秩序の下に置くのではなく、両者の中間に置く場合に限られます。まず不統一なものが存在し、次いで幾何学的なものが、最後に生命的なものが存在するのではありません。単に幾何学的なものと生命的なものとが存在し、両者の間を精神が揺れ動く結果、不統一なものという観念が生まれるのです。それゆえまず秩序なき多様性が存在し、そこに秩序が付け加えられる、と考えることは、取りも直さず論点先取の誤謬を犯すことです。わたしたちが秩序の不在を想像するとき、実際には、一つの秩序が、或いは寧ろ二つの秩序が措定されているのです。
わたしたちは無秩序という観念を長々と分析してきましたが、以上の分析は、実在が反転することによって、緊張からひろがりへ、自由から機械的な必然性へどのようにして移行し得るのかを示すために必要不可欠なものでした。二つの項の間のこの関係が、意識と同時に感覚可能な経験によってわたしたちに暗示されていることを明らかにするだけでは不十分で、幾何学的な秩序は単に逆の秩序を削除したものに過ぎず、説明を要しない、ということを証明しなければならなかったのです。そしてそのためには、削除とは例外なく置き換えであり、また置き換えとしか考えようがない、ということを明らかにする必要がありました。ただわたしたちは、実生活上の要求によって、事物のうちに生じることについても精神に現前しているものについても自分自身を欺くような表現を示唆され、その点を見過ごしているに過ぎません。ここまでわたしたちは専ら反転の帰結を述べてきましたが、今度は、この反転そのものをもっと詳しく検討する必要があります。弛緩するだけでひろがりとなるような原理、そこでは原因の中断が結果の反転と等価であるような原理とは一体どんなものなのでしょうか。
(つづく)
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