画竜点睛

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「ジェノサイド」(5)

2011-10-04 | 雑談
一般観念といっても千差万別であり、それらすべてを一様に説明することはできません。ここでベルグソンが取り上げているのは「類似の知覚に基礎を置く一般観念」です。

簡単な例として、たとえば白という観念を考えてみましょう。人間は無数の事物を知覚し、それを言葉と結びつけます。その中から類似したものが集まって白という一般観念の下に分類されるためには、あらかじめ事物から白という共通の性質が抽象され、他の性質から区別されていなければなりません。しかし個々の事物から白という共通の性質を抽出し、それを類へと昇格させるためには、白という観念がすでに一般化されているのでなければならないでしょう。なぜなら百合の白さと雪の白さが違うように、単に事物から性質を抽象しただけではその性質は特殊性ないし個別性を失わないからです。

堂々巡りから抜け出すことができないのは、個別的対象の知覚から出発するからだとベルグソンはいいます。人間はたしかに対象を個別に知覚し、それが当たり前のことだと思い込んでいます。しかし生物全体を見渡してみれば、対象の個別的な知覚はすべての生物に平等に与えられたものではなく、一部の動物にのみ許された贅沢品だということがわかるでしょう。言い換えれば個別的対象の知覚そのものが一般観念が形成される過程で派生したものであり、経験の直接的な所与ではないということです。

したがって出発点とすべきなのは個体の知覚でも類概念でもなく、生物の欲求や関心を直接惹きつける「特徴的性質あるいは類似の漠然たる感じ」です。類似として知覚された性質は時間を保持する能力(記憶)によって他の環境との間に差異を生じ、そこからおのずと個体の知覚が生じてくるでしょう。記憶をほとんど持たない原生動物においては、生命活動と類似の知覚がほぼ一体化しているため、個体の知覚は生じようがありません。生物が進化するにつれて神経系が現れ、感覚器官と運動器官が形成されます。これらの構造上の特徴は、多様な感覚器官が中枢神経を介して同じ運動器官に結ばれているということです。実際、運動機構は一旦出来上がると、常に決まったパターンの反応しか返すことができません。このように多様な刺激に対して同じパターンの反作用が繰り返されるところに一般観念の萌芽があるとベルグソンはいいます。つまり「類似の漠然たる感じ」を記憶が個体の知覚として定着させ、同じ反応の繰り返し(習慣)に関する反省がそれを一般観念にまで高めるのです。

出発点にある類似と、一般化の到達点にある類似(類概念)は当然同じものではありません。出発点にある類似は自然発生的な類似であり、思考される前に自動的に実行される類似です。この習慣が行う操作を意識化するところに「類の一般観念」が現れます。「類の一般観念」を手中にした知性は自然の仕事を真似、無数の個別的知覚に対して有限数の反応が起こるような運動機構を構築します。この人為的な運動機構こそ有節言語と呼ばれるものです。

類の構築、一般化は永遠に完結することはなく、無限にやり直されます。一方でそれは言葉や態度という形をとり、他方では無数に散らばった記憶という形をとります。それら両極の間を途切れなく往復しつつ時々刻々と変貌しているのが一般観念です。精神はそのときの状況に応じ、行動の役に立つのにちょうど十分なだけの一般性と個体性を表象に付与するのです。

一般観念のほとんどはこうして人為的に作られたものであるため、人間はその内容や運用法を知悉しており、社会生活を営む上で万能なツールとして重宝されます。あまりに万能であるため、ツールとして使いこなしているうちにいつしか主従の関係が逆転し、ついには人間の方がそれに隷属するようになったとさえいえるでしょう。しかしそれがいくら有能なものだからといって、一般観念の形成に大きく関わっているのが「個人の利害を伴う社会の利害であり、会話や行動の諸要求」であるという事実は動かせません。「大多数の一般観念は、会話や行動を目的とする言語のために社会が作ったもの」であること、言語が認識を目的としたものではないことに変わりはないのです。

ここで観念論と実在論に話を戻すと、一般観念が認識を目的としたものではないのと同様に、知覚も認識を目的としたものではありません。観念論と実在論は、一般観念と同様本来行動に向けられたものである知覚に思弁的役割を与え、それによって一方は物質の科学を、他方は知覚そのものを説明不可能なものにしてしまっていることに自ら気づいていないのです。観念論にとっても実在論にとっても、知覚することは認識することですから、知覚された対象は実体的なものと看做され、物体とその環境は「地」と「図」とに截然と区別されます。「地」を事物と考えるにせよ、「図」を表象と考えるにせよ、地と図の区分を最初に無条件に受け入れてしまった以上、それぞれの項を結びつけることができないのは当然の帰結です。ベルグソンは地と図の区別は絶対的なものではなく、事物も表象も意識の直接的所与ではないと考えます。物質が事物と表象に分離する以前の存在、事物でもあり同時に表象でもあるような存在をベルグソンは「イマージュ」と名付けます。

イマージュは「知覚されなくても存在することができる」(「物質と記憶」第一章)点で事物に準じた側面を持ち、意識と関係を持つ点で表象に準じた側面を持ちます。要するにイマージュとは常識的な意味に解された物質のことだとベルグソンはいいます。

同じ言葉が別のものを指すことはよくあることですが、それでは正確な記述は望めません。ここでわざわざベルグソンがイマージュという言葉を使う理由の一つは、記述の曖昧さと煩雑さを避けることにあったのではないかと思われます。

各イマージュは「それ自体として、周囲のイマージュから現実的作用を受ける明確な範囲で変化し」ます。このようなイマージュの総体を人間は宇宙と呼んだり物質と呼んだりします。「ここではいつも結果がその原因と比例を保ち、その特徴は中心をもたぬことであって、あらゆるイマージュが限りなく延長される同一平面上に展開されて」います。その一方で、各イマージュが身体という「唯一のイマージュに関係づけられ、その周囲で種々異なった平面に配置され、中心にあるこのイマージュの僅かな変化にさいしてもその全貌を変えるような諸体系」も存在します。これを人間は一般に知覚と呼びます。イマージュが同時にこれら二つの異なった体系を形成しうることは、あらゆる学説が等しく認めるところです。ではこの二つの体系は一体どんな関係を持ち、どんな理由で異なる体系を形成するのでしょうか。

実在論が前者から後者を演繹しようと試み、観念論が後者から前者を演繹しようと試みるのはすでに述べた通りです。しかしこの試みが成功しないことは誰にとっても一目瞭然でしょう。というのも二つの体系はいずれも他方に含まれておらず、おのおの独立しているからです。そのため実在論と観念論は知覚の原因をイマージュとは無関係に仮定せざるを得ず、脳内の変化は宇宙から独立しているように見えるところから、脳にその原因が帰されることになります。

ベルグソンの知覚理論は、実在論と観念論に二つの点で修正を加えます。一つ目は身体は知覚を生む装置ではなく、行動や活動の中心だということです。身体を認識の中心と考える限り、第一の体系(物質)と第二の体系(知覚)は地と図のように永遠に交じり合うことがありません。何故なら認識は第一の体系においても第二の体系においてもイマージュに関連づけることができず、あらゆるイマージュにとって仲間外れの異物でしかないからです。二つ目はある意味で一つ目の補足なのですが、知覚の発生を説明するためには中心(身体)から出発して周辺(イマージュの総体)に進むのではなく、逆に周辺(地)から出発して中心(図)に進まなければならないということです。

「求心性神経はイマージュである。脳はイマージュである。感覚神経によって送られ、脳に伝わる興奮もやはりイマージュである」。これらはすべて物質と呼ばれる体系の一部であって、物質が脳の一部をなすわけではありません。したがってイマージュの一部に過ぎない脳がイマージュ全体の表象を生み出すというのは明らかな矛盾であり、全体は部分に含まれるというのと同断でしょう。「どんな心理学者でも、少なくとも物質的世界、つまりは万物の可能的知覚を想定せずには、外的知覚の研究に手をつけることはでき」ません。表象は人間にとって実体的なものと見え、可能的知覚に何かが付け加わったもののように見えるため、感覚神経を通して伝わった興奮が脳内で新たな情報を付加され、完成された知覚となって外部に投射されるのだと通常考えられています。言い換えれば可能的知覚が「知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像され」たものが知覚だと考えられています。が、この一見尤もらしい仮説は身体と物質の関係を本当に正確に表しているのでしょうか。

原生動物は刺激を与えられると運動を行いますが、その際生じる細胞の突起は「運動器でもあるとともに触覚の器官」であり、同時に防衛の手段でもあります。この場合、知覚と一体化した活動は刺激に対する機械的・必然的運動とほとんど変わるところがありません。高等な脊椎動物においては脊髄とともに脳が中枢神経を構成し、機械的反応(脊髄反射)と脳を経由する有意な活動が明確に区別されるに至ります。問題は、受けた刺激が脳を経由することによって何が変わるのか、機械的反応が起こる場合とどう違うのかということです。観察によってわかることは、受けた刺激は「求心性神経の末端の分枝とローランド溝の運動性細胞との間にある細胞のおかげで(中略)、随意的に脊髄の特定の運動機構にとりつくことができ」、その結果複数の選択肢から返すべき反応を選べるということです。それに加えて「脳髄の中では、おびただしい数の運動の通路が、末端からきた同一の興奮にたいして、全部一緒にひらかれることもできるので、この興奮は限りなく分散し、したがって、たんに生まれかけの域を出ない無数の運動性反応の中に散逸する可能性ももって」います。つまり脳とは「一種の中央電話局」のようなものであって、その役割は通信を一箇所に集めてそれぞれを適切な運動機構に導くこと、もしくは待機状態に置くことにあります。いずれにせよ脳は通信を中継するだけであり、受け取った運動(刺激)に何かを付け加えるわけではありません。それは「多数の可能的行動を一時に下ごしらえするか、それともその中のひとつを組織するだけ」だといえます。

このように神経系の発達が必然的反応からより自由な行動への移行を示しているとすれば、知覚もまた行動に適性を持ったものだと考えるのが自然ではないでしょうか。にもかかわらず脳が知覚の原因と考えられ、受け取った運動に新たな要素を付け加えると考えられるのは、一つには実際に知覚には主観的要素が付け加えられるからです。ただし主観的要素を付け加えるのは記憶であって、脳ではありません。どちらにしても知覚そのものと知覚に付け加えられたものを分離して区別しない限り、知覚のメカニズムを正しく理解できないことに変わりはありません。このためベルグソンは記憶を含まない知覚、「純粋知覚」を仮定し、これをもとに知覚の発生を跡付けようと試みます。

仮定された「純粋知覚」が単なる原生動物の知覚と異なるのは、原生動物の知覚が記憶の希薄さに比例して身体をほとんど超えることがないのに対して、純粋知覚は十分に発達した知覚から記憶だけを取り除いたものだという点です。したがって純粋知覚は現実に存在するものというよりも、理論上存在するもの、現実的知覚が結晶するための核のようなものだとベルグソンは断っています。

身体が行動の中心であり、神経系の構造が表しているのは運動の不確定性だとすると、この不確定性は「すべて(の作用)が平衡を保ち、補い合い、中和していた」イマージュ全体の内部で一種のフィルターのように働き、身体の行動に利害関係のある作用だけ残留(もしくは反射)させ、利害関係のない作用は素通りさせるものと考えられます。この全体から分離された作用、除去された作用の残余の部分こそ表象です。それは現存するイマージュと根本的に異なったものではなく、単に現存するイマージュから身体に影響しない作用を差し引いただけのものといえます。

たとえば光線が一つの媒質から別の媒質に移る際、光線は直進することなく屈折します。屈折率が大きい媒質から小さい媒質に光線が入るとき、一定の入射角以上になるともはや屈折が不可能となり、媒質と媒質の境界面が光をすべて反射します。この現象を全反射といいますが、知覚もこれと似たような現象だとベルグソンはいいます。それはイマージュの作用が身体という媒質を通過する際、その一部が自由(運動の不確定性)にぶつかって反射するところに現れるのです。

人間は自分の存在を世界の中心と考え、そのため認識から出発して世界を説明しようと企てるのですが、世界が人間や認識のために存在しているなどとは考えられない以上、この企てがうまくいく筈がありません。逆にイマージュの総体から出発すれば知覚のメカニズムはおのずと明らかになり、その発生を跡付ける必要すらないことがわかります。知覚は「権利においては、全体のイマージュであるはずであり、事実においては、ただ利害関係のあるものに縮減されているのだから、説明すべきことは、知覚がいかにして生まれるかではなく、いかにして自己を限定するかということ」だからです。

しかし知覚のメカニズムがこのようなものだとしても、「脳の構造は、選択される諸運動の精密な図面であり、他面、外界のイマージュの、それ自身に立ちもどって知覚を構成するかに見える部分は、これらの運動が捉えるであろう宇宙のあらゆる点をまさしく現出するのであるから、意識的知覚と脳の変化は厳密に照応している」のもまた事実です。そこから短絡的に知覚は脳内部の運動から生じると判断され、脳の変化が知覚を決定付けると結論されるのですが、実際には意識的知覚と脳の変化という「この二項のいわゆる相互依存は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であること」に由来するのです。

知覚が表象の周辺から中心に向って自己を限定する証左の一つとして、ベルグソンは人間の表象が最初は非人格的なものであることを挙げています。児童の心理を観察すればわかるように、子供の表象は初めから人格を備えているわけではありません。「それが自分の身体を中心とするようになり、自分の表象となるのは、漸次、帰納の力によって」です。つまり身体の動作に応じて周囲の表象がめまぐるしく変化するのに対して、身体そのものの表象はほとんど変化しないという事実から、子供はあらゆるイマージュの中で自分の身体が特権的な位置を占めることを学びます。人間は「はじめから物質界全体に位置するのであり、やがて私の身体とよぶこの行動の中心をしだいに限定し、こうして他のすべてからこれを区別するに至る」のです。

人間が「はじめから物質界全体に位置する」というのは俄かに理解し難い話で、では知覚は身体の外にあるのかという疑問が当然生まれるでしょう。その通りだとベルグソンは答えます。

このような仮説がどんな意味を持つのかを述べる前に、「私は私の意識的自我から私の身体へ、ついで私の身体から他の物体へ進むというふうな主張がなぜなされるのか」という点をもう一度考えてみましょう。「私たちが純粋に内的な諸状態を外へ投射するというこの考えの中には」、身体の外部がひろがり(延長)を持った世界であるのに対し、身体内部の感覚は延長を持たないという無意識の信念が含まれています。この信念はやがて「不可分的延長と等質的空間との形而上学的混同」にまで育っていき、解決不能な数々の難問の温床ともなるのですが、そもそも人間は何を根拠にこのような信念を持つに至るのでしょうか。

この信念の根拠とされているものにベルグソンは一つ一つ論駁を加えていますが、中でもこの信念が最大の拠り所としているのは感情と呼ばれるものの存在です。

心理学者は脳内の運動だけで全宇宙を構成するのに十分と見えることから、まず全宇宙を身体に還元します。ところが身体は宇宙の一部に過ぎず、他の物体と異なる性質を持つものではない以上、最初にとった立場をいつまでも維持することはできません。そこで嘘を嘘で糊塗するかのごとく、全宇宙を身体の表面にまでスケールダウンしたまま、今度は身体そのものを延長を持たない感覚にまで縮めてしまいます。つまり地の領域を図の領域にまで広げた上で全体を身体の表面まで縮小し、もともと図の領域だったところを数学的な点にまで縮減してしまうのです。逆にこの数学的な点がいわば膨張してひろがりを持てば身体は延長を取り戻し、最終的に物質的宇宙が元通りの状態に構成し直されるでしょう。こうして実在は一方では延長を持たない感覚(観念)と他方では延長を持ったイマージュ(物質)とに二分されるのですが、このような見当違いの想定がなされるのは、感覚とイマージュという両極の間に感情という一連の中間的状態が存在し、一方から他方へ段階的に無理なく移行できるように見えるからです。しかし結論から先に言うと、知覚が強まることによって感情が生まれるのでもなければ、感情が弱まることによって表象が生まれるのでもありません。感情はあるときは結果になったりあるときは原因になったりする都合のよい存在ではなく、知覚(客体)に混入する異物(主観的要素)なのです。

(つづく)