哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

戦争とは何か(「集団的自衛権」)

2014年07月08日 | 哲学・心の病
『イラク戦争の折りに、ネット上で反戦の声を上げた若者たちを扱った番組を観た。
うーん、そういうことではないんだなあ。
痒くなるような感じがした。
気持ちはわからなくはないのだが、ものの考え方が、最初から的をはずしているのである。
同じ時代に、同じ地球上で、戦争が起こっているというのに、何もできない無力感を覚える。と、彼らは言っていた。
(中略)
つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。
自分のことではないと思っている。
しかし、戦争が起こっているこの地球のこの時代を生きているのは、まさしくこの自分である。
なんで他人事みたいに無力感など覚えていられるものだろうか。
(中略)
で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。
それがどうした?
やっぱり私はそう思ってしまう。
ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方が変わるわけでもない。
生きても死んでも大差ない。
歴史は戦争の繰返しである。
人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。
自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。』池田晶子


上記の文面は、池田晶子さんが戦争について書いたエッセイの一文である。
なかには、彼女の哲学に共感できない人もいるだろう。
とくに、物事を自分で深く考えたことのない人は。

それにしても、「戦争とは何か」ということを我が国の首脳陣は深く考えたことがあるのだろうか?
紆余曲折しながら深く考えた末の「集団的自衛権」ならば良いのだが、そうでなければもっと時間をかけて考えを深めてほしいと思うのは、私だけだろうか?

「哲学は何の役に立つのか」永井均

2014年07月07日 | 哲学・心の病
前回に引き続き「〈子ども〉のための哲学」永井均で、私が素晴らしいと思ったところを紹介したい。

【哲学は何の役に立つのか】

『そのことが、ときに哲学するひとになぐさめを与える。
もし世の中で哲学が何かの役に立つとすれば、ただそのことによってである。
だから、哲学で遊ぶひとがいる一方で、哲学にすがるひとも出てくる。
世の中で通用している価値とは別の次元に立つことが、世の中で傷ついた心のなぐさめになるからだ。
まったく同じ理由で、哲学をすることは、ときにどんな遊びよりも楽しい。
プラトンにとっても、カントにとっても、ニーチェにとっても、ウィトゲンシュタインにとっても、哲学は一面では救いであり、それゆえにこのうえない快楽でもあった。
にもかかわらず、哲学することそれ自体は、それにすがることとも、それで遊ぶこととも、別のことなのである。
(ここで問題にしているのは、できあいの思想によってなぐさめられたり遊んだりすることではない。そんなのは論外である。)』


上記の文章が書かれているところまでには、ある人にとっては共感するところがあるのかもしれないが、私にはなかった。
というか、ほとんど意味がないことをだらだらと書いている感じ、無駄が多いという感じ。
それも、何を言っているのかわからないところが多かった。

各テーマの文章が簡潔に書かれている池田晶子さんの本のように、エッセイ集のような形にした方が良いのではないでしょうか、永井均さん。

「〈子ども〉のための哲学」永井均

2014年07月06日 | 哲学・心の病
『哲学の視点から見ると、世の中で通用している常識的なものの考え方には、上げ底があるように見える。

たとえばぼくの哲学から見ると、世間の常識は、この本でこれまで論じてきたような問題(なぜぼくは存在するのか)を飛び越して、世の中を「個人と社会」とか「自己と他者」とか「主観と客観」という観点から見てすましているし、これから論じようと思う問題点(なぜ悪いことをしてはいけないのか)を無視して、「よいことをすべきで、悪いことはすべきでない」という前提に立って平気でいる。

つまり哲学とは、他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めていこうとする努力なのである。
だから、哲学の問いが、みんなに理解される公共的な問いになる可能性なんてありえない。
なぜって、その問いが問われないことによって世の中のふつうの生活が成り立っているのだから。

そして、もし上げ底がきっちりと埋まってしまえば、自分にとっての哲学はそこで終わる。』永井均


上記の文面は、私がうまく表現することができなかった「哲学とは何か」を的確でわかりやすく書いているが、始めから最後まで上記のような感じで書かれている本であれば、私は素晴らしい本だと思う。
(ちなみに、私は「〈子ども〉のための哲学」を読んだことはない。)

それに、池田晶子さんと違って同じ男性だからか彼の感性に親近感を感じる。

そして、いずれはこの本を通読して、「共感できるところ」と「共感できないところ」を記事にしたいと思っている。

なぜ生きるのが良くて死ぬのは悪いことなのか

2014年07月04日 | 哲学・心の病
――医者とはいったい何をする人なのでしょうか。――

『患者の側がジタバタしなくなったら医者は必要なくなるのでは。
そうなったら、患者をうまく死なせてあげる役割しか残らないと思います。
なぜ長く生きるのが良いことなのか、なぜ死ぬことは良くないのか。
医者も患者ももう一度問うてみないと。
死ぬのは、早いか遅いかの違いにすぎないと私は思ってるんですが、みなさんは十分な違いだと言う。
同じですよ。
長く生きるより、「善く生きること」が重要。
「善く」というのは精神の問題。
愚劣な人間が長生きしてどうするのか。
現世的な快楽への執着しか出てこないでしょう。
生存すること自体が価値なんじゃない。
善い精神性をもって生きるのが大事という、当たり前のことが通じない社会です。』池田晶子

と彼女は言っていますが、この記事を読んで下さっている貴方はどう思っているのでしょうか?

一日でも長く生きることは良いことだと思っている方は、その理由を言うことができるでしょうか?

また、彼女の言っていることに共感する方は、彼女が言っている「長く生きるより善く生きることが大事」ということのその理由を言うことができるでしょうか?

「なぜ私は私なのか?」永井均

2014年07月01日 | 哲学・心の病
「なぜ私は私なのか?」永井均

『無限の昔から、世界は<私>なしに存続してきた。
わずか数十年(長くてせいぜい百年)の例外期間を過ぎて、世界はまた<私>なしに存続してゆくであろう。

数十億の生きた人間、他の天体にも存在するであろう無数の自己意識的な生き物のうち、<私>であるという特殊な、例外的なあり方をした生物が存在している。

その例外的な期間とはなんであり、その例外的なあり方はなんであるのか。
それは神秘としか言いようがない。

それを説明する言葉はありえない。』


彼の上記のエッセイを読んで、私は以下の批判がうかんだ。

・彼が生きている期間は、例外というその根拠は何か?
・彼が死んだあとも、世界が存続するというその根拠は何か?
(死んだらどうなるか、わからないのではないのか。)
・自己意識を持った生命体が、この宇宙には無数にいるという根拠は何か?
・彼の存在が例外というその根拠は何か?
・なぜ神秘なのか?
(【神秘】人間の知恵では計り知れない不思議なこと。普通の認識や理論を超えたこと。)

以上であるが、私ならば次のように書く。

『「私とは何か」ということを、私は長い間考えてきた。
いくら考えても、答えを見つけることはできなかった。
かつての哲学者たちが、そうだったように。』


彼の上記のエッセイは、はっきりいって「哲学」ではなく「詩」である。
理解しがたい何か素晴らしいことをいっているかのように読者に感じさせるために「詩」の様式で書いているが、私にいわせればいっている中身は薄っぺらだ。
物事を深く考えたことのない若者が、哲学風に書いた「詩」のようだ。

意味のない文章を長々と、何もないのに何かあるような感じにお書きになるのはやめた方が良いと思いますが、永井均さん。