いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(7) 「強くなるには」

2013年09月28日 | 聖書からのメッセージ

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ピリピ人への手紙 4章10章から14節

13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」とあります。これは使徒パウロがピリピの教会の人々に宛てた手紙の一節ですが、11節には「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と語っています。よほど不遇の生まれだったのでしょうか。彼は、この前の第3章を読みますと、家も生まれも、氏素性も誇り高い一族であったようです。また彼自身学識も豊かで、よき教育を受けたローマ市民でした。ローマ市民であることは、その時代にあっては一番恵まれた境遇に置かれた人々でもあったのです。彼はそういう境遇に生まれ育ちましたから、恐らく、いわゆる貧乏とか、あるいは物に不足して困難を感じて、耐え忍んで窮乏生活を送ったという経験は無かったに違いありません。自分のしたいと思ったことができ、自分の願った道を歩んだ生涯でした。

パウロはパリサイ人で、クリスチャンを迫害する中心的な人物でした。ユダヤ人の中でもパリサイ派というのは、律法に厳格で、それを忠実に守る人たちだったのです。近頃の中東情勢を見たり、あるいはイラクやそういう所の人たちの動きを見ていると、規律や戒律を大切に重んじて生きています。パウロの時代はもっと厳しかっただろうと思います。しかし、それは苦しみのためにではなく、喜びのためにそれをしていたのです。彼は宗教的な熱心さの故に、クリスチャンをどうしても許しておけない。イエス・キリストが神の子だなんて、人が神になるなんて、何と冒涜的な…。こういう世の害悪になるようなものは、許されないという正義感によって、クリスチャンを迫害したのです。その時も、ダマスコにいるクリスチャンを迫害するために出かけていました。その途中で、まるで雷に打たれたような大音響と共に、目もくらむような光に包まれました。彼は地面に叩きつけられてしまいました。その時に、一つの声が聞こえてきました。「サウロよ、サウロよ。(パウロは以前サウロという名前でした)。なぜ私を迫害するのか」と。彼は「あなたはどなたですか」問うと、「お前が迫害するイエスである」と声が聞こえた。甦ったイエス様が直接声をかけて下さったのです。その時、供の者たちも一緒にいたのですが、彼らには何のことか分かりません。ただ、落雷にでもあったようなものでした。然し、パウロは、そのことを通してイエス様に出会ったのです。彼は目が見えなくなって、倒れておりました時に、アナニヤという一人の人が遣わされて来て、ダマスコに連れて行かれ、それから彼の人生が180度大きく変わりました。それからというもの彼は、イエス様を救い主と信じて生きる新しい生き方に変わったのです。それまで自分が誇りとしていたもの、自分の力を頼りとして、自分の業によって生きていましたが、それら一切のものを捨てて、ただ、イエス・キリストに従う生涯を歩みました。その生涯は波乱万丈です。次から次と、悩み悲しみ苦しみの中を、通ることになります。

一言読みましょう。コリント人への第二の手紙11章24節から30節朗読。

24節以下に大変な艱難と苦しみにあった様子が語られています。イエス様を信じなかったならば、あるいはイエス様に出会わなかったならば、彼は当時の社会の中で、優遇され、将来を期待され、嘱望され、バラ色の道が開かれていたはずでした。ところが、彼の生涯が変わって、悩みと悲しみの中に投げ込まれてしまったのです。今読みました24節以下にむちで叩かれたり、石で打たれたり、難船したり、あるいは苦しみや困難に出会い、27節には「たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき」とあります。これでもか、これでもかと痛めつけられるように、次から次へと苦しみと悲しみと困難…。彼はよほど頑丈でタフな、どんなことをされてもへこたれない人間だったように想えますが、そうではありません。30節に「わたしは自分の弱さを誇ろう」と、彼は自分が弱い者であるということをよく知っていました。さらに、12章の5節「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい」。ここでも彼は自分の弱さを誇ろうと言っています。しかも、彼はただ単に言葉の綾として、「私は弱いからできません」、「私は足らない人間です」と、口先で言っているだけではなかったのです。事実、具体的に、7節にありますように、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」と語っています。自分自身の肉体に困難な問題、これさえなければ、もっと強くなれると思う弱点、そういうものを具体的に持っていたのです。けれども、彼は様々な困難や苦しみを通らなければならなかった。これは、彼が好んでそこに入ったわけではありません。イエス様を信じて、救われ、どうしてもそうせざるを得ない、神様から促されて、じっとしておれなくて、選び取ったのです。29節には「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」。心が燃えて燃えて仕方がない。イエス様の救いに与らなければ人は滅びだと思ったからです。悲惨な人生を生きている人々に、罪の中に死んでいる人々に、何とかして命をもたらしてあげたい、イエス様を伝えていきたいという切なる、燃えるような思いがあったからです。自分ができるとかできないとかの問題ではなかった。気がついたら、そこに引き出され、持ち運ばれていました。彼は、ローマにまで連れて行かれ、地下牢の中で殉教する時まで、苦しみと悩みとの中にありました。

ピリピ人への手紙へ戻りますが、4章11節に「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」。神様によって引き回されて、むちで打たれたり、難船にあって一昼夜も海の上を漂ったり、あるいは、盗賊の難に遭い、また生きるか死ぬか分からないような中を通ることによって、どんなことの中にも耐えることを学んできたのです。ここだけを読みますならば、「艱難汝を玉にする」と世間の言葉にあるように、少々のことは打たれ強くなって、へこたれなくなるという意味にも取れますが、そういうことを言っているのではありません。12節「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。彼は自分がどんな所に置かれても、そこで満ち足りていくことができる秘訣を持っているというのです。私たちは考えてみますと、満足するということがありません。テモテへの第一の手紙に、「信心があって足ることを知るのは、大きな利得である」と言われています。「足ることを知る」、今置かれた所で、それを感謝して受けることができる。あるいは与えられた問題や事情・境遇の中で、耐えることができる力、これを満足という。どうでしょうか、毎日の生活の中で、満ち足りている、もうこれ以上文句の言いようが無いと思えるでしょうか。案外そうじゃないですね。周囲から見ると、あの人はあんなに恵まれて、幸いだろうと思うのですが、本人はそうは思っていない。あれが足りない、まだこれが足りない、もうちょっとここがこうなって、あそこがこうなってくれたらと思います。しかし、自分の思うような、願うようなどんなことをしてみても、決して満足に至りません。なぜならば、私たちはそういうもので満足することができないからです。私たちも彼と同じく、様々の問題や事柄の中に置かれます。生活の中で思いもかけないことが起こってきます。また自分の願わない道に、神様が導かれることもあります。ともすると、そんなことはできない、知恵がないからこれはできない。私は体力がないからこれはできない。いろんな事で自分の足らなさを感じます。それ故に、あれもできないこれもできない、人生は段々と尻すぼみ、あとはもう、死ぬを待つだけという風に、細くなってしまう。しかし、神様は決して私たちを先細りの人生に置いているのではない。

信仰によって生きる私たち、神様を信じてイエス様の救いを受け、神様の力によって生かされている私たちは、決して、年を取って、還暦を過ぎたから、あるいは喜寿のお祝いを家族からしてもらったし、これで私は引退だ!と、自分の力がない、記憶力も弱った、新しいことは何もできないと言って、段々、段々と自分を小さくする、これは信仰に立った生き方ではありません。私たちの生き方は、どんな状況の中に置かれても、神様はどんなことでも成し得る力を与えて下さると信じることです。そして、そこで足ることを知る、感謝し満足し、神様が用いて下さることに自分を捧げて生きるのです。パウロは様々な艱難や困難、苦しみの中を通って、飽くことにも、富むことにも、また、乏しいことにも、あるいは貧しいことにも、どんな道でも自分を置くことができる。置かれた所で力一杯生きることができると語りました。私たちもパウロと同じ信仰を与えられています。その信仰の秘訣は、今正にパウロが語っている「わたしを強くして下さるかた」にあります。私たちを生かして、地上に命を与え、日々の生活を備えてくださる方は、「わたしを強くして下さる」方でもあります。私たちには力がない、知恵もない、何かをする才覚もない。けども、どんなことでも満たす力がある方が、私たちの後ろ盾となり、私たちを握って下さって、持ち運んで下さるのだったら、私ができなくてもいいのです。私が足らなくてもかまわいません。必要な時に、必要な力を必要なだけ、どんなにでも満たすことができる神様が、私たちの味方となって下さっているのですから。パウロはそのことを様々な問題を通して体験してきたのです。パウロを先ほどお読みいたしましたように、次から次へと艱難や苦しみの中を通して、自分の弱さを徹底的に知りました。恐らく彼は私達と同じ様に、生身(なまみ)のからだを持った人間ですから、痛い時には痛い。悲しい時は悲しい。怖い時には怖いです。しかし、神様だけを信頼して、力を与えられ、神様の手に自分を捧げて持ち運ばれていく時、できないと思ったことを通り越して、できるものに変えられ、耐えられないと思ったところに、耐える力を与えられ、、思いがけない道に導いて下さった。そのような経験を通して、彼はその秘訣を語っているのです。私たちも、「わたしを強くして下さるかた」、神様が私を強くして、力を与えて導いて下さることを体験したいものです。

世の中の生き方はそうではありません。世の多くの人々の考え方は、自分は何ができるか、自分の持っている力をいろいろと考えます。私にはこういう才能がある、私にはこういう資格がある、わたしはこういうものを持っていると。以前、ある娘さんの就職を、人に頼んだことがあります。そうしたら、「何か資格があるかね」と訊かれました。それで私が「高校を出ただけで、資格なんて何もない」と答えましたら、「それは駄目だ」と言うのです。「今どき、パソコンの資格もない、経理の資格もない、それでは使いものにならない」と。それを聞いて、現実認識が甘かったと思いました。世の中では、自分が誇りとするもの、人よりも優れている、これができるというものを持たないと、言うならば付加価値がない人間は屑になるという。何かできる、資格がある、そうでないと値打ちがないと言われるのです。皆さんはどうです。「私にはあの資格がある、この免許状がある、だから私は…」と誇れますか。でも、段々年を取って、何にもすることがない。人からも必要とされなくなってしまった。後は、ただじっと死を待っている。これが世の中の考え方です。しかし、パウロは、どんな境遇に置かれても「わたしを強くして下さるかた」がいらっしゃる。だから、神様が強くして下さるならば、私にできないことがない。先ほどお読みいたしましたように、パウロは自分が弱い者であることをよく知っていました。肉体的にも弱点があり、欠陥があり、こんな私じゃ何にもできないと思っていた彼を、神様が捕らえて下さって、「強くして下さる」。私を強くして下さるから、私はできないことがない者なのだ。そのことを、絶えず信じていきましょう。

だから、お孫さんやお子さんに、何か新しいことを求められたり、奥さんから「あなたもう少しこうして下さい」と頼まれるなら、「いや、俺はもうできん、もう年だから…」と逃げない。年だからそんなものできんというのは、神様を否定しているのです。「私はこんなだからできない」、「私はからだが弱いからできない」、「私は頭が悪いからそれはできない」と、それで終るのだったら、神様は何処にいるかと問われますよ。私にはできないけれども、神様が「よし」とおっしゃって下さるなら、神様が力を与えて下されば、私にできないことがない!これが私たちの信仰です。世間では、大抵「あなたは何ができるのですか」と必ず言われます。就職の面接でも「あなたは何ができますか」と訊かれます。「私は何もできません」、「それは良かった、じゃ、採用します」とはなりません。何ができるか、他人より一つでも多くの資格があり、能力があり、それをアピールして初めて採用される。ところが神様の前では、それは駄目です。「神様、私はこれができるからさせていただきます。私はこれがあるから、します」。そんなものはいらんと、神様は言われる。神様が求めているのは、私は弱いけれども、神様、あなたによって力が与えられたら、どんなことでもできますと、弱い自分を認めて、信頼する人を求めています。私は弱くてできない者ですが、こんな者で良かったらという者を神様は採用する。

だから、教会でもそうですが、「私はこんなことができる」、「こんな才能があるから、これを用いて神様の御用のために…」と張り切る。そんなものはいらないと神様は言われる。その代わり、私はできないけれども、能力がないけれども、どんなことでも、神様、あなたが許して下さればできないことはありませんとへりくだって、自分の弱さを認めていくところに、神様の、キリストの力が現わされるのです。私たちもそうです。「おばあちゃんはこんな年やからね。あなたの言うようなことはできないのよ」と、それだったら年齢が神様ですよ。年齢に支配されて生きる。

あのアブラハムもそうだったのです。父の家を離れ、国を出、そして親族に分かれて、私の示す地に行けと言われた時、75歳でした。その時彼が、もう還暦も過ぎたし、喜寿の祝いがもう近いから、私は止めますと言えば、それでお終いだったのです。しかし、彼はそこから行き先を知らないで、出て行ったのです。私たちに求められているのはそこです。私たちを救い入れて下さった神様の御目的は、足らない、できない、何も値打ちも、価値もない私たちを通して、神様の力を現すために、敢えて選んで下さったのです。神様が私たちを通して力を現そうとしているのですから、感謝しようではありませんか。神様が許して下されば、どんなことでもできると、主に信頼しましょう。神様は、思いもかけないことをさられるかも知れません。しかし、どんなことが起こってきても、「わたしを強くして下さるかた」がいらっしゃると、信頼していきあしょう。

若い方が、社会に出て初めて試練といいますか、困難の中に置かれます。「どうも、この職場は自分の性格に向いてない」とか、あるいは「この仕事は自分の生き方と違う」とか、「こんな辛い仕事は嫌や」、あるいは「もっと別の能力があるに違いない、こんな所で埋没しているわけにはいかない、やっぱり私の持っている能力を輝かせるような仕事がしたい」とか言い始めて、悩む方がいます。しかし、私はそういう方々を見ていて思うのですが、今置かれた所で神様を信頼していくことができたら、どんなに幸いかなと思います。「自分はこんなために生きているんじゃない」、「私はこれが苦手だ、こういうことは私の趣味に合わない、好みに合わない」あるいは「自分はそういうことのために生きているとは思えない」と言って、自分本位で神様を離れて考えるならば、それでお終いです。

ところが、「わたしを強くして下さるかた」が、私に「せよ」とおっしゃるならば、力を与えて下さるに違いない。信頼して、神様から力を与えられ、困難な中をも耐えることができるでしょう。私の知っている若い人もそうですが、ある有名企業に勤めました。ところが、三年くらい勤めてでしょうか、辞めてしまったのです。会社が期待して「将来お前をこういう風にしよう」と幹部候補生といいますか、そういうものに期待をされてしまったために、重荷になったのです。自分はそんなものに向いていない。あんまりややこしい責任を押し付けられたくない、あるいは部下を指導したりなど、自分はできない。私は彼に会って話を聞きましたら、「自分はそういう弱い者であり、また、そういう能力も無いことは人よりも自分がよく知っています」と言うのです。「知ってて、それでお終いなの」と、私は言ったのです。彼は「それ以上何をするんですか」と言われました。残念ながら神様のことを知らない方だったのです。しかし、私たちはそうではありません。イエス様は「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」(マルコ10:27)といわれました。

出エジブト記4章10節から12節まで朗読

モーセが、ホレブの山で燃えるしばによって神様に出会いました。そこで、神様から大きな使命を与えられました。あなたは今からエジプトに行って、そこで奴隷の苦しみに呻いている同胞であるイスラエルの民を救いなさい。この時モーセは80歳だったのです。これから何をするって! そんなの私にはできない。正にそうです。その時に神様は熱心に彼を口説いて、何とかこれで話は決まったと思った瞬間、この10節に「ああ主よ、わたしは言葉の人ではありません」と。私は人の前でしゃべるような、そんな資格も値打ちもない。口下手です、口の重い人間です。そう言って断ったのです。何度言ってもモーセは断り続けました。断るのが当たり前だと、私どもも思うに違いありません。そんな年になって、今更何か新しいことを…、家族も落ち着いて、静かな老後を迎えたいと思っていたところへ、突然「エジプトへ行って、救い出させ」と。その時、神様は、11節に「主は彼に言われた、『だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか』」、「お前は何を言っている。口下手だとか、口が重いといっているが、その口を作ったのは一体誰なんだ」といわれる。「私ではないか」。12節に「それゆえ行きなさい」。とにかく行きなさい。「わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。「私はあなたと一緒にいてしゃべれなかったら、しゃべれるようにしてあげるから、大丈夫行きなさい」と言うのです。しかし、13節に「モーセは言った、『ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください』」。モーセのことを笑っておれません。私達も同じことを言うのですから。「私には無理です。他の人をよろしくお願いいします。他の人を遣わして下さい」。とうとう14節に「そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた」。神様も堪忍袋の緒が切れて、「なんてしつこい奴か」、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう」、「あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、16 彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。

17 あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。この時、神様にはチャンと御計画があったのです。

「何だ、そんなんだったら、神様、早く言ってくれよ、……」と言うのですが、それは私たちが結果に頼ろうとするからです。見えない、先のことは分からないけれども、神様が私を強くして下さると言われた約束を信じて、踏み出して行く。この時、あまりにもしつこかったから、神様も、彼のためにその先っぽをちょっと見せてあげたのですね。そして、兄弟アロンを呼んで下さって、アロンの方が口がたつことは良く知っているから、お前が語るべきことを、とにかくアロンに話せ、そしたら、彼がスピーカーになってくれるからと言うのです。お前は私の言うことを聞いておけばよろしいと。そして、お前の杖を持って行きなさい。その杖というのは、神様の力を現す信仰の杖なのです。20節「そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執った」。素晴らしいですね。「モーセは手に神のつえを執った」。ここで初めて、モーセはそれからの40年間神様から引き回される生涯へ、新しく人生を踏み出していくのです。この時、彼には妻もいました、子供もいました。彼らを連れて、かって逃げ出して来たエジプトの地、奴隷の地へと戻っていくのです。どうぞ、私たちも、「年を取って口が重いから、知恵がありませんから、健康がありませんから…、神様、この辺で辞めときます、誰か適当なほかの人を」と言わないで、「主よ、こんな私で良かったら、どうぞ、あなたの力を満たして遣わして下さい」と、信仰に立って歩もうではありませんか。これが私たちに今与えられている生涯です。

ピリピ人への手紙に戻りますが、「わたしを強くして下さる」神様は、どんな方であるか。19節に「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。神様の中にある無尽蔵の富を用いて、私たちの一切の必要を、どんなものでも満たすことがおできになる。だから、この神様に信頼して、神様を呼び求めて祈って、主から毎日毎日朝ごとに新しい力を与えられていこうではありませんか。神様が私たちを強くして、用いて下さるからです。

士師記を読みますと、サムソンが神様から選ばれて士師となった時、ある所でライオンに出会います。その時、彼はそのライオンの顔を引き裂いて力を現しました。大力サムソンと言われますが、実は、彼には大力はありません。その記事を読みますと神の霊が彼を奮い立たせてとあります。神様から力が注がれた時、ライオンを素手で打ち倒すだけの力が与えられた。ペリシテ人と戦う時、彼は孤軍奮闘しましたが、手には何も武器がなかったのです。ふと見ると、ろばが死んで干からびた、あご骨が転がっていた。彼はそのロバのあご骨を取って、千人のペリシテ人を殺したと記されています。素晴らしい力があったり、銃があったり、道具があったわけではない。彼は、ろばの骨、それも干からびてもろい骨を使って、神様はサムソンに力を注いで敵に打ち勝たせて下さる。彼がそうやって神様の力の中に自分を置いている時、神様はできないことをできるようにして下さった。

「私はこんなことは無理、もうできない」と言う。そんなことはありません。19節に「あなたがたのいっさいの必要を」とあります。すべての必要を満たして下さいます。ただ,神様は必要を満たすのであって、いらないものまでは満たされません。きちんと、必要なものを必要なだけ、その業に足るだけのものを与えて下さる。サムソンもそうです。ですから、ことに当たる度毎に神様は霊を注いで、サムソンに力を現して下さいました。パウロもその力に導かれ、満たされて、あの過酷な伝道旅行をまっとうしたのです。私たちも同様です。今自分の力でこの世を渡ろうなんて、到底できません。日々、神様からの力によって、強くしていただく。神様を後ろ盾にして、私は弱くてもいい、足らなくてもいい、必要な時に必要なだけ、ちゃんと、神様が力を注いで下さいます。私たちを持ち運んで下さるのですから、どうぞ、この方に堅く信頼して、「せよ」とおっしゃること、神様が求めたもうところに、大胆に、力強く従っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。