いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ (5)「神様の計画」

2013年09月26日 | 聖書からのメッセージ

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ヨハネの福音書 1章1節~5節を朗読。

この4節に、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。 この地上の旅路を歩む時、いつも喜び、感謝し、望みに輝いて生きたいと願います。暗くなって、失望落胆しながら、嘆き悲しんで人生を送りたいと思っている人は一人もいません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」とテサロニケ人への手紙にありますように、誠にその通りだと思うのです。常に喜んで、どんな事でも感謝ができる者でありたいと願います。ところが、実際はそういう風に事が進まない。原因は、私たちが何処に喜びを、望みを見出そうとしているかに掛かっているのではないでしょうか。自分で計画し、自分が考え、願っている事を望みます。子供がこうなったら、あるいは生活がこういう風に変わったらと、具体的な事柄に期待します。もっとこうなってくれたら良い、今の自分はこうだけれども、やがてこうなるに違いないと、将来に対する期待を手がかりにして、望みを持とうとします。しかし、この世は、なかなかそう願うようにはいきません。それは当然です。というのは、私たちがこの世を動かし、造り出しているのではなく、神様が私たち一人一人を育て、はぐくみ、持ち運んでおられるからです。神様のご計画があり、御思いがあって、一人一人の地上の生涯が導かれているのです。生まれてから死ぬまでの生涯は、自分の努力と計画、知恵を働かせて、成功しようと願います。しかし、それは神様が願っていらっしゃることではありません。

詩篇の139篇に詠われているように、神様に造られ、生かされ、今日ここにあるのです。ですから、神様は一人一人に、地上での一歩一歩の歩みを決めて下さるといいますか、導いておられるのです。イザヤ書にありますように、我が道はあなた方の道とは異なっている。我が思いはあなた方の思いとは異なっているとおっしゃいます。天が地よりも高いようにと…。天と地の開き、雲泥の差という言葉がありますが、神様の思いと私たちの思いというのは到底計り知ることの出来ない大きな隔たりがある。そういう神様の御思い、ご計画によって、絶えず私たちを導いて下さっておられるのです。

私たちは自分にとって幸いという出来事にも遭います。また、時には悲しい、嫌な願わない事の中にも置かれます。しかし、どんなことの中に置かれても、私たち一人一人にそこを通る必要があり、神様の何かのご計画があるからに違いありません。自分の選んだ、あるいは自分の願った道だけ与えてもらえば良い。願わない事、悲しい事、辛い事は避けていきたいというのは、身勝手な願いです。自分中心の願いを言えばそうです。ところが、現実の問題の中では、やはり、そうはいかなくて、さまざまな問題や事柄に遭います。そうすると、こんな嫌な事、辛い事ばかりで、私の人生は無駄に終わったとつぶやきます。何の役にも立たなかった。人生は虚しいとよく言います。しかし、神様のなさることは、それこそ茄子の花ではありませんが、千に一つの無駄がない。決して、無駄なことをなさらない方です。ただ、私たちが神様に立ち帰って、神様の前に身を低くする時、そのことを悟ることができます。この辛かった事も、苦しかった事も、なるほど、神様は次なる恵みを私に与えるために、ここを通して下さったと教えられるのです。

私は自分自身の過去を振り返ってみても、今はしみじみとそう思います。願わないこと、思いもしなかった出来事や事柄の中に導かれて来ました。その時は、失望落胆して、望みを失います。どうしてこんなになったのだろうかと、うろたえたり悩んだり、苦しんだりします。しかし、神様に近づいて、神様の力と御愛と恵みを思い巡らしていく時、そうだった、これはきっと神様が何かここで教えて下さるに違いないと主を求めました。神様のなさる事は不思議です。その人自身だけではなく、家族にまで及びます。「先生、 私はこんな悩みに遭いました」。あるいは「こんな苦しみに遭いました。私だけがどうしてでしょうか」と言われますが、ご本人一人だけが苦しんで、辛い思いをして、無駄な時間を過ごしてしまったと思うのは大間違いです。実は、ご本人に対して神様が語られること、願っていることがあると同時に、周囲の者たち、家族あるいは友達、関わりのある一人一人に、神様はその人の悩みや苦しみを通して働きかけて下さることがあるのです。

かれこれ7,8年前ですけれども、一人の方が肺がんになりました。その頃、二人の息子がいました。まだ、高校生、大学生でした。奥様は大変心配をなさいました。その方はは、すべてが神様の手の中にあることを信じて、手術を受けました。私もその手術の終わった時に、彼の病室にお見舞いに行きました。手術室から連れて来られて、集中治療室に移される時、息子たちもそこに立ち会いました。その時、普段と違う父親の姿をみたのです。苦しみの中にあって、酸素マスクをして、まだ麻酔が切れるか切れないかで、苦しそうな顔つきをしながらも、先ず、家族に会った時に、彼がお祈りしました。「主よ、感謝します。こうして手術を終らせて下さって、もう一度命を与えて頂いた」と喜んで感謝しました。それまで子供たちも信仰のことは聞いてはいましたが、まだ真剣になっていなかった。ところが、父親がそういう苦しみの中にあって、祈っている姿に接した時、息子たちは激しく揺さぶられました。それから日ならずして息子達は「イエス様を救い主と信じます」と信仰告白して、洗礼を受けたのです。後になって、その方は「神様は不思議なことをなさいますね。私がこの病気になったのは、私の生活を改めさせる為だけではなく、もっと大きな御計画を持っていた」と語っていました。奥様はそれまでご主人と共に教会に励んでおられましたけれども、ご主人の病気を通して、自分の信仰が問われている。人ごとではないと、いよいよ真剣に主を求められる。あの痛みや苦しみは何の為だったんだろうかと思うと、息子さん、あるいは奥様も、こうして周囲の者たちがいろんな形で、新しくされるためだったのです。悩みに遭うとき、どうしてこんなひどい目に遭うかしらと思うけれど、神様の大きな御思いがそこにあるのです。それは、苦しみに遭い悩みに遭って、当事者である本人が、神様の御愛に会い恵みに会うことはもちろんですが、実はもっと大きな計り知ることのできない神様の御計画があることを知っておきたい。そうでなければ、私たちは嘆いたり悲しんだりして日を過ごさなければなりません。神様は、一つとして無駄なことをなさるわけではないことをしみじみ思います。

ところが、そうではあっても私たちはいつも現実の事柄の中で希望を失い、喜びを失ってしまいます。それは、私たち自身の中に喜びの源となるものを持たないからです。私たちには、命が無いのです。命が無いと死んでいるのかと言われますが、生ける屍の様なものです。ただ肉体が健康であるとか、病気が無いとか、あるいはまだ年齢の割には若いとか、気力に満ちているとか、そういうことが命ではありません。どんな悩みや困難や苦しみあっても望みを持ち、喜びに輝いて、感謝しつつ生きることができるかということです。実は、そこが本当の命なのです。そういう命を、初めから持っているのではありません。それは神様から受ける以外にないのです。

学校には校章があります。校章といえば桜の形にペンの印とか、学問に関わるようなものが多いですが、ある学校の校章は三日月なのです。月のマークなのです。それは月は自分で光ることができない。自分の中には光が無い。我々は夜空を見て、月が光っている、輝いていると言いますが、別に月自体が燃えて、輝いているわけではない。ただ太陽の光を反射しているのです。月自体は何も光らないけれども、太陽の光が当たるから、月は輝いて見えます。校章が月である意味はそこにあるのです。私たちは自分では輝けないのだと言うのです。だから、神様から照らされて初めて人は輝く事ができると言う意味。なぜ満月じゃないかというと、それはこれから段々と完成されると言うのです。なるほど、そう言われてみると、なかなか、良いマークだと思いました。自分で輝く事ができたら、失望することは無いでしょう。自分の中に滾々(こんこん)と湧き出て来る泉のように、尽きることの無い源泉を持っていたら、失望落胆する必要はありません。ところが、私たちにはそういう命が本来ありません。神様から造られた時からそうだったのです。私たちは地のちりをもって造られている。ただ、それだけだったら肉体的な力です。そこに命の息を吹きいれて人は生きる者になったとあります。この命の息は、神様から注がれるもの。だから、神様からの命を絶えず受けていかなければ、命が無い!毎日毎日神様から命を注いで戴かなければならない存在。そうしなければ、一時も生きることが出来ません。もし神様からの命が途絶えてしまったら…。

先ごろの新潟地震で多くの人々が避難せざるをえなくなりました。それはライフラインが破壊されて、生活できなくなったからです。ライフラインとは、水道であるとか、ガスであるとか、あるいは電気という生活の基本になる大切な部分をライフラインと言います。ライフと言うのは「命」といういみですね。命の管がストップしてしまう。肉体的な生活でもそうなのです。そのライフラインが崩れてしまったら、生活が成り立た、それこそ、緊急に水を運んでもらったり、あるいは携帯用のガスボンベを持って来たりしないと生活できないわけです。一時も絶やすことができません。ライフラインと言うのは24時間365日絶えず通じていなければ、生活は成り立たない。同時に、別の意味のライフラインが必要です。それは神様から私たちに注がれる命です。私たちはこちらを重要視しない所に問題があります。肉体を養う為の電気・ガス・水道などのライフラインは一生懸命に作ります。生活の為のそういう設備を用意しますが、肝心のもう一つの命、私たちが輝くべき光が注がれなければ、「生きる屍」、死んだも同然です。

エペソ人への手紙2章1節から3節まで朗読。

これは、私たちがどういう者であったかという過去の写真と見て頂いたら良いと思います。1節にありますように「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」。死んでいたと言うのです。罪と咎によって、神様から離れて、神様に罪を犯してしまった。言い換えますと、その命のライン、ライフラインを切ってしまった。そういう状態が罪に死んだ状態というのです。例え健康であっても、肉体的な年齢が年より10歳若くても、心にそれが無ければ…。

時々お電話をして下さる一人の方がいらっしゃいますが…。彼は90歳を越えて、奥さんも亡くなり、お子さんもいないので、今は介護施設にいらっしゃいます。非常に寂しいのです。時々「先生、私は世の中にたった、たった!独りぼっちです」と言われる。「そうですか、それは本当に辛いですよね」。そして「とても寂しい、もう死にたい。でも、私はどういうわけか健康が与えられて…」。その方の脳をお医者さんに診てもらったら、「『50歳代の脳をしている』と言われました。だから、何時死ねるか分かりません」と言うのです。脳が50歳代であって、確かに健康です。健康そのものですが、寂しくって仕方がない。生きていても何の意味もない。毎日がお先真っ暗。私は話を聞く度に、誠に気の毒としか言いようがない。私はその方を見ていると、肉体の命はあっても、その人生を輝かす、生きていること自体を喜べる命が無い!神様からの命です。これを絶えず受けていなければ、地上の命を、肉体の命すら全うすることはできません。

ですから、今読みました先の4節以下に「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛」によって「死んでいたわたしたちを」もう一度生きるようにして下さった。死んだ者の中に命を吹き入れて下さった。エゼキエル書(37章)を読みますと、神様は死んだ者たちの骨に向かって、神の言葉を語れと預言者エゼキエルに命じます。すると死んで枯れたガラガラの骨が、にわかに筋が付き、肉が付いて起き上がって来るという記事が記されています。神様の命が吹き入れられる時、枯れてしまって、望みを失って死んだ状態の者が命に溢れてくる。これが私たちに注がれる神様からの命です。切れていたパイプラインを修復して、神様からの命を流し込む為に、イエス様があの十字架に死んで下さった。イエス様の十字架によって、神様からの命を日々に頂くことができるのです。

ところが、電気は来ている、水道も来ている、ガスも来ているのだが、家の中は真っ暗で寒々している。時々、お年寄りの方のお宅に行くと、「先生、家は暗くて、失礼します」「どうして!」「いやぁ、電気がつかないのです」「スイッチを入れてないからでしょう」「ああ、そうですね、忘れていました」と、そういうことがあります。電気は来ているのだけれどもスイッチを入れない。火をつけないから暖かくならない。スイッチや栓を開けないから、暗く、寒く、過ごしている。イエス・キリストが来て下さって、皆さんの内にライフラインが繋がっているのですが、それに心を向けようとしない。その栓を開けなければ水は出ません。「いやぁ、今日は朝から水が出ていないから、今日は断水かも知れない」。一日中じっと眺めていてばかり、お隣の人に「今日は断水ですね」「いや、出ていますよ」「どうして?」「蛇口を開かなかった」「蛇口を開いても出ません。いや、元栓が止まっていました」と、そういうことがありますね。皆さんでもそうでしょう。外出から帰って来て、急いでお茶を沸かそうとして、ガスをカチッとしたら点かない。「どうしたんだろう」「ああ、そうだ。出かける前に元栓を閉めていた」。年をとると忘れますからね。神様からの命を毎日毎日受けていかなければ命を失う。受けるというのはただ黙ってじっとしていたら入って来るのではない。私たちが積極的に求めていかなければ、その栓を開かなければいけないです。

5節以下に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」とあります。イエス様が死から甦って、闇を打ち破り、命に輝いて下さった。その命を私たち一人一人に注いで下さっておられるのです。ヨハネによる福音書の1章4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。「この言(ことば)に命があった」とあります。神様が日々注いで下さる命は、キリストの言葉、キリスト御自身から来るのです。毎日毎日、神様の言葉を求めて、そのお言葉に私たちの心を支配して頂くのです。これが生きる命を受け取る秘訣です。毎朝起きるなり、新聞を開いて「また人殺しだ、、またここで戦争がある」とそんなことばかりを読み、考えていると、まことの命は消えます。朝起きたら、最初に「お腹が空いた」と食べるでしょう?それと同じ様に、みことばを神様からいただいて食べるのです。これは私たちが絶えず求めるべき事です。その御言葉を信頼して歩む時に、私たちの内に命が湧いてくる。命が輝いてくる。失望している所に望みを与えてくださる。悲しみの涙をぬぐって下さるのは御言葉によるのです。人の言葉で慰めを、人の親切で希望を得ることはできません。

先ほどお話した方は、何度も電話してこられます。時には、一日に二度も三度も、続いて来ることがあります。「先生もそのうちお独りになるのですね」と言って、安心して電話を切られる。それでは命にならない!「先生も、自分のように孤独な年寄りになるなぁ」ということで、安心を得るようです。これでは、命にならないのです。肉の思いは死であるとあるように、肉の力、人の言葉では平安を得ることができません。あるいはニュースや新聞で読む言葉によってでもなく、聖書の一つ一つの御言葉を心に置いていく以外にない。「そしてこの命は人の光であった」と記されています。またこの命、すなわち、神の言葉が私たちのうちに宿る時、光を持つことができる。輝いて生きることができる。どんな困難や苦しみの中にも、光り、輝いて生きる秘訣はただこれだけです。私は自分の病気を通して、そのことを深く味あわせて頂きました。いろんなことを聞くことによって、あるいは自分の知識によって、さまざまな想像をします。ああなったらどうしょうか、こうなったらどうしょうか。ひょっとしたらこのくらいかも知れない。そんなことを考えだして夜中に目が覚めたら、眠れないのです。そして、心臓はパクパクして来るし、「一体、自分の信仰は何処にあるかしら」と思います。昼間と夜とでは大違いですね。昼間、同じ事を考えてもたいしたことないですが、夜独りで考えていると、衝撃的に心が沈んでいきます。だから、私はしみじみとこういう病気をして良かったと思うのです。同じ病や悩みにある方の思いが良くわかる。最近はそういう方のお話を聞くと、身につまされます。本当に苦しいだろうなって良くわかって、自分自身、何だか悲しくなって涙が出たりするんです。それほど、身近に感じる事ができる。これは、神様がそういう中に置いて下さったと思って感謝します。確かに悩みの中にある時、苦しみの中にある時は闇です。自己中心の思いばかりが先立ちます。真っ暗なトンネルの中に…、トンネルはまだ良いですよ、出口がありますから…、出口のないトンネル、深い闇に包まれてしまうのです。

そのような時、いつも立ち返るお言葉があります。詩篇23篇1節「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。この御言葉を繰り返し、繰り返し、どれほど自分自身に語りかけたか分からない。しかし、幸いなことにこの御言葉を思い起こして、スパッと心を定めると闇が消えていくのです。今まで望みがないと思って、震える思いをして、身を縮めていたところから、フッと何か栓が抜けるように光が差して来るのです。御言葉の力というのはそういうものです。主の御言葉を心にしっかりと、絶えず置いていきたいと思います。皆さんもご経験あることだと思いますが、夜、10時11時頃、止むを得ない用事で出かけて、暗闇の中を歩いて帰ってくる。特に外灯の少ない暗い所を歩いている時、足が段々速くなる。ところが、ぽつんぽつんと灯りがついて、明るい所に来るとちょっとほっとします。そして歩調が少しゆるくなる。また暗い所に来ると足が早くなる。光の中に来ることによって、喜びや安心や安らぎを得るのです。

この4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。この素晴らしい光の源、命をいただく事ができる。しかもそれは、まとめて一回だけではなく、「朝ごとに新しくなる」とおっしゃるのです。イスラエルの民が荒野を旅していた時、神様は朝ごとにマナをもって養いました。マナはまるで雪のように、朝になると地面に降り積もっていました。それを集めて一日の糧とした。中にはちょっとずるい人がいて、翌日分まで取っておいた。そしたら、翌日には腐っていたというのです。ところが、安息日の前日に集めた二日分は腐らなかった。不思議なことを神様はなさいます。今、私たちも神様からの命によって、日々養われている。これが救いに与った者の喜びであり、また、命です。さらに「光はやみの中に輝いている」。光は、闇が深いほど光ります。子供たちが、誕生祝いをする時、必ずローソクを灯します。ローソクに火をつけようとすると、「待って、待って!明かりを消して」と言います。明るい部屋でローソクを灯すと、輝いていることには変わりがないのですが、あまり綺麗に見えない。ところが、暗くするとローソクの火が明るく見えますね。暗ければ暗いほど明るい。しかも、よく夏に花火をする為に線香を灯します。あの線香の火というのは実に小さな火です。明るい所ではついているか、ついてないか分からない。消えているかも知れない。ところが闇の中では線香の光だけで足元がちゃんと見えます。光は不思議に暗ければ暗いほどますます輝きます。

私たちは、今皆さんが置かれている問題や事柄悩みの中で、失望落胆して闇が覆っているならば、心が晴れない思いがしているならば、尚一層御言葉の光が輝いてきますから、その命を心に受けていきたいと思います。絶えず御言葉に立ち帰って、励まされ、命を受けていきたい。物事を悪い方に考えて、落ち込んで、秋晴れの空が広がっていながら、一向に楽しめないで鬱々としているのでしたら、御言葉に立ち帰って、神様の言葉を一つで良いから握っていこうではありませんか。聖書を全巻これを暗記せよなんていうわけではないのです。

聖書は全部を暗記しなければならないわけではありません。御霊が、神様の霊が、その時その時に必要な御言葉を思い起こさせて下さる。だから、事が有る無しに関わらず、毎日毎日、聖書を読み続けていく。しかも、読む時に、日課として、お勤めとして、今日は一章さっさっさぁと、心ここに有らず、今日はあれしようか、これしようかと思いながらではダメです。「今日も主が私に何か語って下さるに違いない。主よ、あなたの御声を聞かせて下さい。しもべは聞きます」と心を主に向けて、しっかりと心を込めて読み、感謝して祈って一日を始める。そうすれば、何を読んだか忘れていてもいいのです。何かことが起こった時、今まで気がつかなかった、忘れていたはずの御言葉を思い起こさせて下さる。神様から一気に命が注がれて、大丈夫と安心を与えられる、光が輝いて来る。沈みきっていた心が晴れやかになって来る。これは御言葉の力です。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」とあります。どんなに暗い闇があっても、闇が灯を消してしまうということはあり得ません。光は闇に必ず勝つのです。私たちの心が不安と恐れと心配で、闇が覆っていても、命の言葉が輝きを与えれくれます。心が晴れやかになり、喜びに望みに輝くのです。どうぞ、日々に、毎日毎日この命を絶えず受けて、喜びと感謝とに輝いて生きる者となりたいと思います。これが私たちに求められている事です。

ですから最後に一言だけ読んでおきます。
ピリピ人への手紙2章12節から15節を朗読。

 この最後の所に「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で」、「彼らの間」というのは「曲った邪悪」な罪と咎とに死んだこの世にあって、私たちは「星のようにこの世に輝いている」。私たちが喜び感謝し輝いて生きる者となること、これが、神様が私たちを選び召して下さった目的であります。しょぼくれて、失望落胆して、悲しんで呟いて嘆いているのを神様は願っておられない。何故ならそこには命が無いからです。私たちに命を注いで、光を与えて下さる。輝いていくことができる者として下さる。どうぞ、私たちが遣わされていくところで、ここにありますように、「星のようにこの世に輝いて」いく者となりましょう。これが私たちに与えられている使命です。何ができなくても、何の値打ちもないと思うような自分であったとしても、喜んでいることはできます。輝いていくことはできます。それは、命の言葉を握っていけば、そこに光があるからです。どうぞ、私たちはこの命を、光を絶えず心において、生きる日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。