いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ (5)「神様の計画」

2013年09月26日 | 聖書からのメッセージ

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ヨハネの福音書 1章1節~5節を朗読。

この4節に、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。 この地上の旅路を歩む時、いつも喜び、感謝し、望みに輝いて生きたいと願います。暗くなって、失望落胆しながら、嘆き悲しんで人生を送りたいと思っている人は一人もいません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」とテサロニケ人への手紙にありますように、誠にその通りだと思うのです。常に喜んで、どんな事でも感謝ができる者でありたいと願います。ところが、実際はそういう風に事が進まない。原因は、私たちが何処に喜びを、望みを見出そうとしているかに掛かっているのではないでしょうか。自分で計画し、自分が考え、願っている事を望みます。子供がこうなったら、あるいは生活がこういう風に変わったらと、具体的な事柄に期待します。もっとこうなってくれたら良い、今の自分はこうだけれども、やがてこうなるに違いないと、将来に対する期待を手がかりにして、望みを持とうとします。しかし、この世は、なかなかそう願うようにはいきません。それは当然です。というのは、私たちがこの世を動かし、造り出しているのではなく、神様が私たち一人一人を育て、はぐくみ、持ち運んでおられるからです。神様のご計画があり、御思いがあって、一人一人の地上の生涯が導かれているのです。生まれてから死ぬまでの生涯は、自分の努力と計画、知恵を働かせて、成功しようと願います。しかし、それは神様が願っていらっしゃることではありません。

詩篇の139篇に詠われているように、神様に造られ、生かされ、今日ここにあるのです。ですから、神様は一人一人に、地上での一歩一歩の歩みを決めて下さるといいますか、導いておられるのです。イザヤ書にありますように、我が道はあなた方の道とは異なっている。我が思いはあなた方の思いとは異なっているとおっしゃいます。天が地よりも高いようにと…。天と地の開き、雲泥の差という言葉がありますが、神様の思いと私たちの思いというのは到底計り知ることの出来ない大きな隔たりがある。そういう神様の御思い、ご計画によって、絶えず私たちを導いて下さっておられるのです。

私たちは自分にとって幸いという出来事にも遭います。また、時には悲しい、嫌な願わない事の中にも置かれます。しかし、どんなことの中に置かれても、私たち一人一人にそこを通る必要があり、神様の何かのご計画があるからに違いありません。自分の選んだ、あるいは自分の願った道だけ与えてもらえば良い。願わない事、悲しい事、辛い事は避けていきたいというのは、身勝手な願いです。自分中心の願いを言えばそうです。ところが、現実の問題の中では、やはり、そうはいかなくて、さまざまな問題や事柄に遭います。そうすると、こんな嫌な事、辛い事ばかりで、私の人生は無駄に終わったとつぶやきます。何の役にも立たなかった。人生は虚しいとよく言います。しかし、神様のなさることは、それこそ茄子の花ではありませんが、千に一つの無駄がない。決して、無駄なことをなさらない方です。ただ、私たちが神様に立ち帰って、神様の前に身を低くする時、そのことを悟ることができます。この辛かった事も、苦しかった事も、なるほど、神様は次なる恵みを私に与えるために、ここを通して下さったと教えられるのです。

私は自分自身の過去を振り返ってみても、今はしみじみとそう思います。願わないこと、思いもしなかった出来事や事柄の中に導かれて来ました。その時は、失望落胆して、望みを失います。どうしてこんなになったのだろうかと、うろたえたり悩んだり、苦しんだりします。しかし、神様に近づいて、神様の力と御愛と恵みを思い巡らしていく時、そうだった、これはきっと神様が何かここで教えて下さるに違いないと主を求めました。神様のなさる事は不思議です。その人自身だけではなく、家族にまで及びます。「先生、 私はこんな悩みに遭いました」。あるいは「こんな苦しみに遭いました。私だけがどうしてでしょうか」と言われますが、ご本人一人だけが苦しんで、辛い思いをして、無駄な時間を過ごしてしまったと思うのは大間違いです。実は、ご本人に対して神様が語られること、願っていることがあると同時に、周囲の者たち、家族あるいは友達、関わりのある一人一人に、神様はその人の悩みや苦しみを通して働きかけて下さることがあるのです。

かれこれ7,8年前ですけれども、一人の方が肺がんになりました。その頃、二人の息子がいました。まだ、高校生、大学生でした。奥様は大変心配をなさいました。その方はは、すべてが神様の手の中にあることを信じて、手術を受けました。私もその手術の終わった時に、彼の病室にお見舞いに行きました。手術室から連れて来られて、集中治療室に移される時、息子たちもそこに立ち会いました。その時、普段と違う父親の姿をみたのです。苦しみの中にあって、酸素マスクをして、まだ麻酔が切れるか切れないかで、苦しそうな顔つきをしながらも、先ず、家族に会った時に、彼がお祈りしました。「主よ、感謝します。こうして手術を終らせて下さって、もう一度命を与えて頂いた」と喜んで感謝しました。それまで子供たちも信仰のことは聞いてはいましたが、まだ真剣になっていなかった。ところが、父親がそういう苦しみの中にあって、祈っている姿に接した時、息子たちは激しく揺さぶられました。それから日ならずして息子達は「イエス様を救い主と信じます」と信仰告白して、洗礼を受けたのです。後になって、その方は「神様は不思議なことをなさいますね。私がこの病気になったのは、私の生活を改めさせる為だけではなく、もっと大きな御計画を持っていた」と語っていました。奥様はそれまでご主人と共に教会に励んでおられましたけれども、ご主人の病気を通して、自分の信仰が問われている。人ごとではないと、いよいよ真剣に主を求められる。あの痛みや苦しみは何の為だったんだろうかと思うと、息子さん、あるいは奥様も、こうして周囲の者たちがいろんな形で、新しくされるためだったのです。悩みに遭うとき、どうしてこんなひどい目に遭うかしらと思うけれど、神様の大きな御思いがそこにあるのです。それは、苦しみに遭い悩みに遭って、当事者である本人が、神様の御愛に会い恵みに会うことはもちろんですが、実はもっと大きな計り知ることのできない神様の御計画があることを知っておきたい。そうでなければ、私たちは嘆いたり悲しんだりして日を過ごさなければなりません。神様は、一つとして無駄なことをなさるわけではないことをしみじみ思います。

ところが、そうではあっても私たちはいつも現実の事柄の中で希望を失い、喜びを失ってしまいます。それは、私たち自身の中に喜びの源となるものを持たないからです。私たちには、命が無いのです。命が無いと死んでいるのかと言われますが、生ける屍の様なものです。ただ肉体が健康であるとか、病気が無いとか、あるいはまだ年齢の割には若いとか、気力に満ちているとか、そういうことが命ではありません。どんな悩みや困難や苦しみあっても望みを持ち、喜びに輝いて、感謝しつつ生きることができるかということです。実は、そこが本当の命なのです。そういう命を、初めから持っているのではありません。それは神様から受ける以外にないのです。

学校には校章があります。校章といえば桜の形にペンの印とか、学問に関わるようなものが多いですが、ある学校の校章は三日月なのです。月のマークなのです。それは月は自分で光ることができない。自分の中には光が無い。我々は夜空を見て、月が光っている、輝いていると言いますが、別に月自体が燃えて、輝いているわけではない。ただ太陽の光を反射しているのです。月自体は何も光らないけれども、太陽の光が当たるから、月は輝いて見えます。校章が月である意味はそこにあるのです。私たちは自分では輝けないのだと言うのです。だから、神様から照らされて初めて人は輝く事ができると言う意味。なぜ満月じゃないかというと、それはこれから段々と完成されると言うのです。なるほど、そう言われてみると、なかなか、良いマークだと思いました。自分で輝く事ができたら、失望することは無いでしょう。自分の中に滾々(こんこん)と湧き出て来る泉のように、尽きることの無い源泉を持っていたら、失望落胆する必要はありません。ところが、私たちにはそういう命が本来ありません。神様から造られた時からそうだったのです。私たちは地のちりをもって造られている。ただ、それだけだったら肉体的な力です。そこに命の息を吹きいれて人は生きる者になったとあります。この命の息は、神様から注がれるもの。だから、神様からの命を絶えず受けていかなければ、命が無い!毎日毎日神様から命を注いで戴かなければならない存在。そうしなければ、一時も生きることが出来ません。もし神様からの命が途絶えてしまったら…。

先ごろの新潟地震で多くの人々が避難せざるをえなくなりました。それはライフラインが破壊されて、生活できなくなったからです。ライフラインとは、水道であるとか、ガスであるとか、あるいは電気という生活の基本になる大切な部分をライフラインと言います。ライフと言うのは「命」といういみですね。命の管がストップしてしまう。肉体的な生活でもそうなのです。そのライフラインが崩れてしまったら、生活が成り立た、それこそ、緊急に水を運んでもらったり、あるいは携帯用のガスボンベを持って来たりしないと生活できないわけです。一時も絶やすことができません。ライフラインと言うのは24時間365日絶えず通じていなければ、生活は成り立たない。同時に、別の意味のライフラインが必要です。それは神様から私たちに注がれる命です。私たちはこちらを重要視しない所に問題があります。肉体を養う為の電気・ガス・水道などのライフラインは一生懸命に作ります。生活の為のそういう設備を用意しますが、肝心のもう一つの命、私たちが輝くべき光が注がれなければ、「生きる屍」、死んだも同然です。

エペソ人への手紙2章1節から3節まで朗読。

これは、私たちがどういう者であったかという過去の写真と見て頂いたら良いと思います。1節にありますように「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」。死んでいたと言うのです。罪と咎によって、神様から離れて、神様に罪を犯してしまった。言い換えますと、その命のライン、ライフラインを切ってしまった。そういう状態が罪に死んだ状態というのです。例え健康であっても、肉体的な年齢が年より10歳若くても、心にそれが無ければ…。

時々お電話をして下さる一人の方がいらっしゃいますが…。彼は90歳を越えて、奥さんも亡くなり、お子さんもいないので、今は介護施設にいらっしゃいます。非常に寂しいのです。時々「先生、私は世の中にたった、たった!独りぼっちです」と言われる。「そうですか、それは本当に辛いですよね」。そして「とても寂しい、もう死にたい。でも、私はどういうわけか健康が与えられて…」。その方の脳をお医者さんに診てもらったら、「『50歳代の脳をしている』と言われました。だから、何時死ねるか分かりません」と言うのです。脳が50歳代であって、確かに健康です。健康そのものですが、寂しくって仕方がない。生きていても何の意味もない。毎日がお先真っ暗。私は話を聞く度に、誠に気の毒としか言いようがない。私はその方を見ていると、肉体の命はあっても、その人生を輝かす、生きていること自体を喜べる命が無い!神様からの命です。これを絶えず受けていなければ、地上の命を、肉体の命すら全うすることはできません。

ですから、今読みました先の4節以下に「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛」によって「死んでいたわたしたちを」もう一度生きるようにして下さった。死んだ者の中に命を吹き入れて下さった。エゼキエル書(37章)を読みますと、神様は死んだ者たちの骨に向かって、神の言葉を語れと預言者エゼキエルに命じます。すると死んで枯れたガラガラの骨が、にわかに筋が付き、肉が付いて起き上がって来るという記事が記されています。神様の命が吹き入れられる時、枯れてしまって、望みを失って死んだ状態の者が命に溢れてくる。これが私たちに注がれる神様からの命です。切れていたパイプラインを修復して、神様からの命を流し込む為に、イエス様があの十字架に死んで下さった。イエス様の十字架によって、神様からの命を日々に頂くことができるのです。

ところが、電気は来ている、水道も来ている、ガスも来ているのだが、家の中は真っ暗で寒々している。時々、お年寄りの方のお宅に行くと、「先生、家は暗くて、失礼します」「どうして!」「いやぁ、電気がつかないのです」「スイッチを入れてないからでしょう」「ああ、そうですね、忘れていました」と、そういうことがあります。電気は来ているのだけれどもスイッチを入れない。火をつけないから暖かくならない。スイッチや栓を開けないから、暗く、寒く、過ごしている。イエス・キリストが来て下さって、皆さんの内にライフラインが繋がっているのですが、それに心を向けようとしない。その栓を開けなければ水は出ません。「いやぁ、今日は朝から水が出ていないから、今日は断水かも知れない」。一日中じっと眺めていてばかり、お隣の人に「今日は断水ですね」「いや、出ていますよ」「どうして?」「蛇口を開かなかった」「蛇口を開いても出ません。いや、元栓が止まっていました」と、そういうことがありますね。皆さんでもそうでしょう。外出から帰って来て、急いでお茶を沸かそうとして、ガスをカチッとしたら点かない。「どうしたんだろう」「ああ、そうだ。出かける前に元栓を閉めていた」。年をとると忘れますからね。神様からの命を毎日毎日受けていかなければ命を失う。受けるというのはただ黙ってじっとしていたら入って来るのではない。私たちが積極的に求めていかなければ、その栓を開かなければいけないです。

5節以下に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」とあります。イエス様が死から甦って、闇を打ち破り、命に輝いて下さった。その命を私たち一人一人に注いで下さっておられるのです。ヨハネによる福音書の1章4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。「この言(ことば)に命があった」とあります。神様が日々注いで下さる命は、キリストの言葉、キリスト御自身から来るのです。毎日毎日、神様の言葉を求めて、そのお言葉に私たちの心を支配して頂くのです。これが生きる命を受け取る秘訣です。毎朝起きるなり、新聞を開いて「また人殺しだ、、またここで戦争がある」とそんなことばかりを読み、考えていると、まことの命は消えます。朝起きたら、最初に「お腹が空いた」と食べるでしょう?それと同じ様に、みことばを神様からいただいて食べるのです。これは私たちが絶えず求めるべき事です。その御言葉を信頼して歩む時に、私たちの内に命が湧いてくる。命が輝いてくる。失望している所に望みを与えてくださる。悲しみの涙をぬぐって下さるのは御言葉によるのです。人の言葉で慰めを、人の親切で希望を得ることはできません。

先ほどお話した方は、何度も電話してこられます。時には、一日に二度も三度も、続いて来ることがあります。「先生もそのうちお独りになるのですね」と言って、安心して電話を切られる。それでは命にならない!「先生も、自分のように孤独な年寄りになるなぁ」ということで、安心を得るようです。これでは、命にならないのです。肉の思いは死であるとあるように、肉の力、人の言葉では平安を得ることができません。あるいはニュースや新聞で読む言葉によってでもなく、聖書の一つ一つの御言葉を心に置いていく以外にない。「そしてこの命は人の光であった」と記されています。またこの命、すなわち、神の言葉が私たちのうちに宿る時、光を持つことができる。輝いて生きることができる。どんな困難や苦しみの中にも、光り、輝いて生きる秘訣はただこれだけです。私は自分の病気を通して、そのことを深く味あわせて頂きました。いろんなことを聞くことによって、あるいは自分の知識によって、さまざまな想像をします。ああなったらどうしょうか、こうなったらどうしょうか。ひょっとしたらこのくらいかも知れない。そんなことを考えだして夜中に目が覚めたら、眠れないのです。そして、心臓はパクパクして来るし、「一体、自分の信仰は何処にあるかしら」と思います。昼間と夜とでは大違いですね。昼間、同じ事を考えてもたいしたことないですが、夜独りで考えていると、衝撃的に心が沈んでいきます。だから、私はしみじみとこういう病気をして良かったと思うのです。同じ病や悩みにある方の思いが良くわかる。最近はそういう方のお話を聞くと、身につまされます。本当に苦しいだろうなって良くわかって、自分自身、何だか悲しくなって涙が出たりするんです。それほど、身近に感じる事ができる。これは、神様がそういう中に置いて下さったと思って感謝します。確かに悩みの中にある時、苦しみの中にある時は闇です。自己中心の思いばかりが先立ちます。真っ暗なトンネルの中に…、トンネルはまだ良いですよ、出口がありますから…、出口のないトンネル、深い闇に包まれてしまうのです。

そのような時、いつも立ち返るお言葉があります。詩篇23篇1節「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。この御言葉を繰り返し、繰り返し、どれほど自分自身に語りかけたか分からない。しかし、幸いなことにこの御言葉を思い起こして、スパッと心を定めると闇が消えていくのです。今まで望みがないと思って、震える思いをして、身を縮めていたところから、フッと何か栓が抜けるように光が差して来るのです。御言葉の力というのはそういうものです。主の御言葉を心にしっかりと、絶えず置いていきたいと思います。皆さんもご経験あることだと思いますが、夜、10時11時頃、止むを得ない用事で出かけて、暗闇の中を歩いて帰ってくる。特に外灯の少ない暗い所を歩いている時、足が段々速くなる。ところが、ぽつんぽつんと灯りがついて、明るい所に来るとちょっとほっとします。そして歩調が少しゆるくなる。また暗い所に来ると足が早くなる。光の中に来ることによって、喜びや安心や安らぎを得るのです。

この4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。この素晴らしい光の源、命をいただく事ができる。しかもそれは、まとめて一回だけではなく、「朝ごとに新しくなる」とおっしゃるのです。イスラエルの民が荒野を旅していた時、神様は朝ごとにマナをもって養いました。マナはまるで雪のように、朝になると地面に降り積もっていました。それを集めて一日の糧とした。中にはちょっとずるい人がいて、翌日分まで取っておいた。そしたら、翌日には腐っていたというのです。ところが、安息日の前日に集めた二日分は腐らなかった。不思議なことを神様はなさいます。今、私たちも神様からの命によって、日々養われている。これが救いに与った者の喜びであり、また、命です。さらに「光はやみの中に輝いている」。光は、闇が深いほど光ります。子供たちが、誕生祝いをする時、必ずローソクを灯します。ローソクに火をつけようとすると、「待って、待って!明かりを消して」と言います。明るい部屋でローソクを灯すと、輝いていることには変わりがないのですが、あまり綺麗に見えない。ところが、暗くするとローソクの火が明るく見えますね。暗ければ暗いほど明るい。しかも、よく夏に花火をする為に線香を灯します。あの線香の火というのは実に小さな火です。明るい所ではついているか、ついてないか分からない。消えているかも知れない。ところが闇の中では線香の光だけで足元がちゃんと見えます。光は不思議に暗ければ暗いほどますます輝きます。

私たちは、今皆さんが置かれている問題や事柄悩みの中で、失望落胆して闇が覆っているならば、心が晴れない思いがしているならば、尚一層御言葉の光が輝いてきますから、その命を心に受けていきたいと思います。絶えず御言葉に立ち帰って、励まされ、命を受けていきたい。物事を悪い方に考えて、落ち込んで、秋晴れの空が広がっていながら、一向に楽しめないで鬱々としているのでしたら、御言葉に立ち帰って、神様の言葉を一つで良いから握っていこうではありませんか。聖書を全巻これを暗記せよなんていうわけではないのです。

聖書は全部を暗記しなければならないわけではありません。御霊が、神様の霊が、その時その時に必要な御言葉を思い起こさせて下さる。だから、事が有る無しに関わらず、毎日毎日、聖書を読み続けていく。しかも、読む時に、日課として、お勤めとして、今日は一章さっさっさぁと、心ここに有らず、今日はあれしようか、これしようかと思いながらではダメです。「今日も主が私に何か語って下さるに違いない。主よ、あなたの御声を聞かせて下さい。しもべは聞きます」と心を主に向けて、しっかりと心を込めて読み、感謝して祈って一日を始める。そうすれば、何を読んだか忘れていてもいいのです。何かことが起こった時、今まで気がつかなかった、忘れていたはずの御言葉を思い起こさせて下さる。神様から一気に命が注がれて、大丈夫と安心を与えられる、光が輝いて来る。沈みきっていた心が晴れやかになって来る。これは御言葉の力です。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」とあります。どんなに暗い闇があっても、闇が灯を消してしまうということはあり得ません。光は闇に必ず勝つのです。私たちの心が不安と恐れと心配で、闇が覆っていても、命の言葉が輝きを与えれくれます。心が晴れやかになり、喜びに望みに輝くのです。どうぞ、日々に、毎日毎日この命を絶えず受けて、喜びと感謝とに輝いて生きる者となりたいと思います。これが私たちに求められている事です。

ですから最後に一言だけ読んでおきます。
ピリピ人への手紙2章12節から15節を朗読。

 この最後の所に「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で」、「彼らの間」というのは「曲った邪悪」な罪と咎とに死んだこの世にあって、私たちは「星のようにこの世に輝いている」。私たちが喜び感謝し輝いて生きる者となること、これが、神様が私たちを選び召して下さった目的であります。しょぼくれて、失望落胆して、悲しんで呟いて嘆いているのを神様は願っておられない。何故ならそこには命が無いからです。私たちに命を注いで、光を与えて下さる。輝いていくことができる者として下さる。どうぞ、私たちが遣わされていくところで、ここにありますように、「星のようにこの世に輝いて」いく者となりましょう。これが私たちに与えられている使命です。何ができなくても、何の値打ちもないと思うような自分であったとしても、喜んでいることはできます。輝いていくことはできます。それは、命の言葉を握っていけば、そこに光があるからです。どうぞ、私たちはこの命を、光を絶えず心において、生きる日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


聖書からのメッセージ(4) 「輝いて生きる」

2013年09月25日 | 聖書からのメッセージ

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ヨハネの福音書 1章1節~5節を朗読。

この4節に、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。 この地上の旅路を歩む時、いつも喜び、感謝し、望みに輝いて生きたいと願います。暗くなって、失望落胆しながら、嘆き悲しんで人生を送りたいと思っている人は一人もいません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」とテサロニケ人への手紙にありますように、誠にその通りだと思うのです。常に喜んで、どんな事でも感謝ができる者でありたいと願います。ところが、実際はそういう風に事が進まない。原因は、私たちが何処に喜びを、望みを見出そうとしているかに掛かっているのではないでしょうか。自分で計画し、自分が考え、願っている事を望みます。子供がこうなったら、あるいは生活がこういう風に変わったらと、具体的な事柄に期待します。もっとこうなってくれたら良い、今の自分はこうだけれども、やがてこうなるに違いないと、将来に対する期待を手がかりにして、望みを持とうとします。しかし、この世は、なかなかそう願うようにはいきません。それは当然です。というのは、私たちがこの世を動かし、造り出しているのではなく、神様が私たち一人一人を育て、はぐくみ、持ち運んでおられるからです。神様のご計画があり、御思いがあって、一人一人の地上の生涯が導かれているのです。生まれてから死ぬまでの生涯は、自分の努力と計画、知恵を働かせて、成功しようと願います。しかし、それは神様が願っていらっしゃることではありません。

詩篇の139篇に詠われているように、神様に造られ、生かされ、今日ここにあるのです。ですから、神様は一人一人に、地上での一歩一歩の歩みを決めて下さるといいますか、導いておられるのです。イザヤ書にありますように、我が道はあなた方の道とは異なっている。我が思いはあなた方の思いとは異なっているとおっしゃいます。天が地よりも高いようにと…。天と地の開き、雲泥の差という言葉がありますが、神様の思いと私たちの思いというのは到底計り知ることの出来ない大きな隔たりがある。そういう神様の御思い、ご計画によって、絶えず私たちを導いて下さっておられるのです。

私たちは自分にとって幸いという出来事にも遭います。また、時には悲しい、嫌な願わない事の中にも置かれます。しかし、どんなことの中に置かれても、私たち一人一人にそこを通る必要があり、神様の何かのご計画があるからに違いありません。自分の選んだ、あるいは自分の願った道だけ与えてもらえば良い。願わない事、悲しい事、辛い事は避けていきたいというのは、身勝手な願いです。自分中心の願いを言えばそうです。ところが、現実の問題の中では、やはり、そうはいかなくて、さまざまな問題や事柄に遭います。そうすると、こんな嫌な事、辛い事ばかりで、私の人生は無駄に終わったとつぶやきます。何の役にも立たなかった。人生は虚しいとよく言います。しかし、神様のなさることは、それこそ茄子の花ではありませんが、千に一つの無駄がない。決して、無駄なことをなさらない方です。ただ、私たちが神様に立ち帰って、神様の前に身を低くする時、そのことを悟ることができます。この辛かった事も、苦しかった事も、なるほど、神様は次なる恵みを私に与えるために、ここを通して下さったと教えられるのです。

私は自分自身の過去を振り返ってみても、今はしみじみとそう思います。願わないこと、思いもしなかった出来事や事柄の中に導かれて来ました。その時は、失望落胆して、望みを失います。どうしてこんなになったのだろうかと、うろたえたり悩んだり、苦しんだりします。しかし、神様に近づいて、神様の力と御愛と恵みを思い巡らしていく時、そうだった、これはきっと神様が何かここで教えて下さるに違いないと主を求めました。神様のなさる事は不思議です。その人自身だけではなく、家族にまで及びます。「先生、 私はこんな悩みに遭いました」。あるいは「こんな苦しみに遭いました。私だけがどうしてでしょうか」と言われますが、ご本人一人だけが苦しんで、辛い思いをして、無駄な時間を過ごしてしまったと思うのは大間違いです。実は、ご本人に対して神様が語られること、願っていることがあると同時に、周囲の者たち、家族あるいは友達、関わりのある一人一人に、神様はその人の悩みや苦しみを通して働きかけて下さることがあるのです。

かれこれ7,8年前ですけれども、一人の方が肺がんになりました。その頃、二人の息子がいました。まだ、高校生、大学生でした。奥様は大変心配をなさいました。その方はは、すべてが神様の手の中にあることを信じて、手術を受けました。私もその手術の終わった時に、彼の病室にお見舞いに行きました。手術室から連れて来られて、集中治療室に移される時、息子たちもそこに立ち会いました。その時、普段と違う父親の姿をみたのです。苦しみの中にあって、酸素マスクをして、まだ麻酔が切れるか切れないかで、苦しそうな顔つきをしながらも、先ず、家族に会った時に、彼がお祈りしました。「主よ、感謝します。こうして手術を終らせて下さって、もう一度命を与えて頂いた」と喜んで感謝しました。それまで子供たちも信仰のことは聞いてはいましたが、まだ真剣になっていなかった。ところが、父親がそういう苦しみの中にあって、祈っている姿に接した時、息子たちは激しく揺さぶられました。それから日ならずして息子達は「イエス様を救い主と信じます」と信仰告白して、洗礼を受けたのです。後になって、その方は「神様は不思議なことをなさいますね。私がこの病気になったのは、私の生活を改めさせる為だけではなく、もっと大きな御計画を持っていた」と語っていました。奥様はそれまでご主人と共に教会に励んでおられましたけれども、ご主人の病気を通して、自分の信仰が問われている。人ごとではないと、いよいよ真剣に主を求められる。あの痛みや苦しみは何の為だったんだろうかと思うと、息子さん、あるいは奥様も、こうして周囲の者たちがいろんな形で、新しくされるためだったのです。悩みに遭うとき、どうしてこんなひどい目に遭うかしらと思うけれど、神様の大きな御思いがそこにあるのです。それは、苦しみに遭い悩みに遭って、当事者である本人が、神様の御愛に会い恵みに会うことはもちろんですが、実はもっと大きな計り知ることのできない神様の御計画があることを知っておきたい。そうでなければ、私たちは嘆いたり悲しんだりして日を過ごさなければなりません。神様は、一つとして無駄なことをなさるわけではないことをしみじみ思います。

ところが、そうではあっても私たちはいつも現実の事柄の中で希望を失い、喜びを失ってしまいます。それは、私たち自身の中に喜びの源となるものを持たないからです。私たちには、命が無いのです。命が無いと死んでいるのかと言われますが、生ける屍の様なものです。ただ肉体が健康であるとか、病気が無いとか、あるいはまだ年齢の割には若いとか、気力に満ちているとか、そういうことが命ではありません。どんな悩みや困難や苦しみあっても望みを持ち、喜びに輝いて、感謝しつつ生きることができるかということです。実は、そこが本当の命なのです。そういう命を、初めから持っているのではありません。それは神様から受ける以外にないのです。

学校には校章があります。校章といえば桜の形にペンの印とか、学問に関わるようなものが多いですが、ある学校の校章は三日月なのです。月のマークなのです。それは月は自分で光ることができない。自分の中には光が無い。我々は夜空を見て、月が光っている、輝いていると言いますが、別に月自体が燃えて、輝いているわけではない。ただ太陽の光を反射しているのです。月自体は何も光らないけれども、太陽の光が当たるから、月は輝いて見えます。校章が月である意味はそこにあるのです。私たちは自分では輝けないのだと言うのです。だから、神様から照らされて初めて人は輝く事ができると言う意味。なぜ満月じゃないかというと、それはこれから段々と完成されると言うのです。なるほど、そう言われてみると、なかなか、良いマークだと思いました。自分で輝く事ができたら、失望することは無いでしょう。自分の中に滾々(こんこん)と湧き出て来る泉のように、尽きることの無い源泉を持っていたら、失望落胆する必要はありません。ところが、私たちにはそういう命が本来ありません。神様から造られた時からそうだったのです。私たちは地のちりをもって造られている。ただ、それだけだったら肉体的な力です。そこに命の息を吹きいれて人は生きる者になったとあります。この命の息は、神様から注がれるもの。だから、神様からの命を絶えず受けていかなければ、命が無い!毎日毎日神様から命を注いで戴かなければならない存在。そうしなければ、一時も生きることが出来ません。もし神様からの命が途絶えてしまったら…。

先ごろの新潟地震で多くの人々が避難せざるをえなくなりました。それはライフラインが破壊されて、生活できなくなったからです。ライフラインとは、水道であるとか、ガスであるとか、あるいは電気という生活の基本になる大切な部分をライフラインと言います。ライフと言うのは「命」といういみですね。命の管がストップしてしまう。肉体的な生活でもそうなのです。そのライフラインが崩れてしまったら、生活が成り立た、それこそ、緊急に水を運んでもらったり、あるいは携帯用のガスボンベを持って来たりしないと生活できないわけです。一時も絶やすことができません。ライフラインと言うのは24時間365日絶えず通じていなければ、生活は成り立たない。同時に、別の意味のライフラインが必要です。それは神様から私たちに注がれる命です。私たちはこちらを重要視しない所に問題があります。肉体を養う為の電気・ガス・水道などのライフラインは一生懸命に作ります。生活の為のそういう設備を用意しますが、肝心のもう一つの命、私たちが輝くべき光が注がれなければ、「生きる屍」、死んだも同然です。

エペソ人への手紙2章1節から3節まで朗読。

これは、私たちがどういう者であったかという過去の写真と見て頂いたら良いと思います。1節にありますように「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」。死んでいたと言うのです。罪と咎によって、神様から離れて、神様に罪を犯してしまった。言い換えますと、その命のライン、ライフラインを切ってしまった。そういう状態が罪に死んだ状態というのです。例え健康であっても、肉体的な年齢が年より10歳若くても、心にそれが無ければ…。

時々お電話をして下さる一人の方がいらっしゃいますが…。彼は90歳を越えて、奥さんも亡くなり、お子さんもいないので、今は介護施設にいらっしゃいます。非常に寂しいのです。時々「先生、私は世の中にたった、たった!独りぼっちです」と言われる。「そうですか、それは本当に辛いですよね」。そして「とても寂しい、もう死にたい。でも、私はどういうわけか健康が与えられて…」。その方の脳をお医者さんに診てもらったら、「『50歳代の脳をしている』と言われました。だから、何時死ねるか分かりません」と言うのです。脳が50歳代であって、確かに健康です。健康そのものですが、寂しくって仕方がない。生きていても何の意味もない。毎日がお先真っ暗。私は話を聞く度に、誠に気の毒としか言いようがない。私はその方を見ていると、肉体の命はあっても、その人生を輝かす、生きていること自体を喜べる命が無い!神様からの命です。これを絶えず受けていなければ、地上の命を、肉体の命すら全うすることはできません。

ですから、今読みました先の4節以下に「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛」によって「死んでいたわたしたちを」もう一度生きるようにして下さった。死んだ者の中に命を吹き入れて下さった。エゼキエル書(37章)を読みますと、神様は死んだ者たちの骨に向かって、神の言葉を語れと預言者エゼキエルに命じます。すると死んで枯れたガラガラの骨が、にわかに筋が付き、肉が付いて起き上がって来るという記事が記されています。神様の命が吹き入れられる時、枯れてしまって、望みを失って死んだ状態の者が命に溢れてくる。これが私たちに注がれる神様からの命です。切れていたパイプラインを修復して、神様からの命を流し込む為に、イエス様があの十字架に死んで下さった。イエス様の十字架によって、神様からの命を日々に頂くことができるのです。

ところが、電気は来ている、水道も来ている、ガスも来ているのだが、家の中は真っ暗で寒々している。時々、お年寄りの方のお宅に行くと、「先生、家は暗くて、失礼します」「どうして!」「いやぁ、電気がつかないのです」「スイッチを入れてないからでしょう」「ああ、そうですね、忘れていました」と、そういうことがあります。電気は来ているのだけれどもスイッチを入れない。火をつけないから暖かくならない。スイッチや栓を開けないから、暗く、寒く、過ごしている。イエス・キリストが来て下さって、皆さんの内にライフラインが繋がっているのですが、それに心を向けようとしない。その栓を開けなければ水は出ません。「いやぁ、今日は朝から水が出ていないから、今日は断水かも知れない」。一日中じっと眺めていてばかり、お隣の人に「今日は断水ですね」「いや、出ていますよ」「どうして?」「蛇口を開かなかった」「蛇口を開いても出ません。いや、元栓が止まっていました」と、そういうことがありますね。皆さんでもそうでしょう。外出から帰って来て、急いでお茶を沸かそうとして、ガスをカチッとしたら点かない。「どうしたんだろう」「ああ、そうだ。出かける前に元栓を閉めていた」。年をとると忘れますからね。神様からの命を毎日毎日受けていかなければ命を失う。受けるというのはただ黙ってじっとしていたら入って来るのではない。私たちが積極的に求めていかなければ、その栓を開かなければいけないです。

5節以下に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」とあります。イエス様が死から甦って、闇を打ち破り、命に輝いて下さった。その命を私たち一人一人に注いで下さっておられるのです。ヨハネによる福音書の1章4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。「この言(ことば)に命があった」とあります。神様が日々注いで下さる命は、キリストの言葉、キリスト御自身から来るのです。毎日毎日、神様の言葉を求めて、そのお言葉に私たちの心を支配して頂くのです。これが生きる命を受け取る秘訣です。毎朝起きるなり、新聞を開いて「また人殺しだ、、またここで戦争がある」とそんなことばかりを読み、考えていると、まことの命は消えます。朝起きたら、最初に「お腹が空いた」と食べるでしょう?それと同じ様に、みことばを神様からいただいて食べるのです。これは私たちが絶えず求めるべき事です。その御言葉を信頼して歩む時に、私たちの内に命が湧いてくる。命が輝いてくる。失望している所に望みを与えてくださる。悲しみの涙をぬぐって下さるのは御言葉によるのです。人の言葉で慰めを、人の親切で希望を得ることはできません。

先ほどお話した方は、何度も電話してこられます。時には、一日に二度も三度も、続いて来ることがあります。「先生もそのうちお独りになるのですね」と言って、安心して電話を切られる。それでは命にならない!「先生も、自分のように孤独な年寄りになるなぁ」ということで、安心を得るようです。これでは、命にならないのです。肉の思いは死であるとあるように、肉の力、人の言葉では平安を得ることができません。あるいはニュースや新聞で読む言葉によってでもなく、聖書の一つ一つの御言葉を心に置いていく以外にない。「そしてこの命は人の光であった」と記されています。またこの命、すなわち、神の言葉が私たちのうちに宿る時、光を持つことができる。輝いて生きることができる。どんな困難や苦しみの中にも、光り、輝いて生きる秘訣はただこれだけです。私は自分の病気を通して、そのことを深く味あわせて頂きました。いろんなことを聞くことによって、あるいは自分の知識によって、さまざまな想像をします。ああなったらどうしょうか、こうなったらどうしょうか。ひょっとしたらこのくらいかも知れない。そんなことを考えだして夜中に目が覚めたら、眠れないのです。そして、心臓はパクパクして来るし、「一体、自分の信仰は何処にあるかしら」と思います。昼間と夜とでは大違いですね。昼間、同じ事を考えてもたいしたことないですが、夜独りで考えていると、衝撃的に心が沈んでいきます。だから、私はしみじみとこういう病気をして良かったと思うのです。同じ病や悩みにある方の思いが良くわかる。最近はそういう方のお話を聞くと、身につまされます。本当に苦しいだろうなって良くわかって、自分自身、何だか悲しくなって涙が出たりするんです。それほど、身近に感じる事ができる。これは、神様がそういう中に置いて下さったと思って感謝します。確かに悩みの中にある時、苦しみの中にある時は闇です。自己中心の思いばかりが先立ちます。真っ暗なトンネルの中に…、トンネルはまだ良いですよ、出口がありますから…、出口のないトンネル、深い闇に包まれてしまうのです。

そのような時、いつも立ち返るお言葉があります。詩篇23篇1節「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。この御言葉を繰り返し、繰り返し、どれほど自分自身に語りかけたか分からない。しかし、幸いなことにこの御言葉を思い起こして、スパッと心を定めると闇が消えていくのです。今まで望みがないと思って、震える思いをして、身を縮めていたところから、フッと何か栓が抜けるように光が差して来るのです。御言葉の力というのはそういうものです。主の御言葉を心にしっかりと、絶えず置いていきたいと思います。皆さんもご経験あることだと思いますが、夜、10時11時頃、止むを得ない用事で出かけて、暗闇の中を歩いて帰ってくる。特に外灯の少ない暗い所を歩いている時、足が段々速くなる。ところが、ぽつんぽつんと灯りがついて、明るい所に来るとちょっとほっとします。そして歩調が少しゆるくなる。また暗い所に来ると足が早くなる。光の中に来ることによって、喜びや安心や安らぎを得るのです。

この4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。この素晴らしい光の源、命をいただく事ができる。しかもそれは、まとめて一回だけではなく、「朝ごとに新しくなる」とおっしゃるのです。イスラエルの民が荒野を旅していた時、神様は朝ごとにマナをもって養いました。マナはまるで雪のように、朝になると地面に降り積もっていました。それを集めて一日の糧とした。中にはちょっとずるい人がいて、翌日分まで取っておいた。そしたら、翌日には腐っていたというのです。ところが、安息日の前日に集めた二日分は腐らなかった。不思議なことを神様はなさいます。今、私たちも神様からの命によって、日々養われている。これが救いに与った者の喜びであり、また、命です。さらに「光はやみの中に輝いている」。光は、闇が深いほど光ります。子供たちが、誕生祝いをする時、必ずローソクを灯します。ローソクに火をつけようとすると、「待って、待って!明かりを消して」と言います。明るい部屋でローソクを灯すと、輝いていることには変わりがないのですが、あまり綺麗に見えない。ところが、暗くするとローソクの火が明るく見えますね。暗ければ暗いほど明るい。しかも、よく夏に花火をする為に線香を灯します。あの線香の火というのは実に小さな火です。明るい所ではついているか、ついてないか分からない。消えているかも知れない。ところが闇の中では線香の光だけで足元がちゃんと見えます。光は不思議に暗ければ暗いほどますます輝きます。

私たちは、今皆さんが置かれている問題や事柄悩みの中で、失望落胆して闇が覆っているならば、心が晴れない思いがしているならば、尚一層御言葉の光が輝いてきますから、その命を心に受けていきたいと思います。絶えず御言葉に立ち帰って、励まされ、命を受けていきたい。物事を悪い方に考えて、落ち込んで、秋晴れの空が広がっていながら、一向に楽しめないで鬱々としているのでしたら、御言葉に立ち帰って、神様の言葉を一つで良いから握っていこうではありませんか。聖書を全巻これを暗記せよなんていうわけではないのです。

聖書は全部を暗記しなければならないわけではありません。御霊が、神様の霊が、その時その時に必要な御言葉を思い起こさせて下さる。だから、事が有る無しに関わらず、毎日毎日、聖書を読み続けていく。しかも、読む時に、日課として、お勤めとして、今日は一章さっさっさぁと、心ここに有らず、今日はあれしようか、これしようかと思いながらではダメです。「今日も主が私に何か語って下さるに違いない。主よ、あなたの御声を聞かせて下さい。しもべは聞きます」と心を主に向けて、しっかりと心を込めて読み、感謝して祈って一日を始める。そうすれば、何を読んだか忘れていてもいいのです。何かことが起こった時、今まで気がつかなかった、忘れていたはずの御言葉を思い起こさせて下さる。神様から一気に命が注がれて、大丈夫と安心を与えられる、光が輝いて来る。沈みきっていた心が晴れやかになって来る。これは御言葉の力です。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」とあります。どんなに暗い闇があっても、闇が灯を消してしまうということはあり得ません。光は闇に必ず勝つのです。私たちの心が不安と恐れと心配で、闇が覆っていても、命の言葉が輝きを与えれくれます。心が晴れやかになり、喜びに望みに輝くのです。どうぞ、日々に、毎日毎日この命を絶えず受けて、喜びと感謝とに輝いて生きる者となりたいと思います。これが私たちに求められている事です。

ですから最後に一言だけ読んでおきます。
ピリピ人への手紙2章12節から15節を朗読。

 この最後の所に「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で」、「彼らの間」というのは「曲った邪悪」な罪と咎とに死んだこの世にあって、私たちは「星のようにこの世に輝いている」。私たちが喜び感謝し輝いて生きる者となること、これが、神様が私たちを選び召して下さった目的であります。しょぼくれて、失望落胆して、悲しんで呟いて嘆いているのを神様は願っておられない。何故ならそこには命が無いからです。私たちに命を注いで、光を与えて下さる。輝いていくことができる者として下さる。どうぞ、私たちが遣わされていくところで、ここにありますように、「星のようにこの世に輝いて」いく者となりましょう。これが私たちに与えられている使命です。何ができなくても、何の値打ちもないと思うような自分であったとしても、喜んでいることはできます。輝いていくことはできます。それは、命の言葉を握っていけば、そこに光があるからです。どうぞ、私たちはこの命を、光を絶えず心において、生きる日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


聖書からのメッセージ(3) 「恵みを受ける生涯」

2013年09月24日 | 聖書からのメッセージ

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詩篇73篇1節~12節を朗読。


 今朝はこの1節に、「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。 

私たちが生きて、生活している世の中には、神様を恐れて、神様に従う者ばかりが、住んでいるのではありません。むしろ、そうでない人の方が多いと言われています。日本のクリスチャン人口、イエス様を信じる人たちは全人口の0.5%ぐらいと言われています。実に微々たるものです。それ以外の99.5%は神様のことを知らない、あるいは、それぞれが自分なりの神様を信じてはいるのだと思います。ですから、現実は心もとない、実に少数派です。少数もいいところ、有るか無いか分からない様な存在です。ところが、私どもは幸いに神様の憐れみによって、この救いによって、生かされていることを、日々感謝しています。しかし、現実の生活を見ますならば、神様を知らないで生きている人たちと、私たちとどれ程の違いがあるだろうかと、考えてしまいます。自分の生活を振り返って見ると、あそこも出来ていない、ここも足らない、こういう悩みがある、こういう悲しいこともある、辛いこともある。勿論、嬉しいこともありますが、神様を信じたからといって特別変わったところはありません。それでいてクリスチャンであるがゆえに、イエス様を信じるがゆえに、あれもしてはいけない、こういうことは慎まなければいけないという風に、自分が縛られ、束縛された様な不自由を感じる。

時々、「先生、信仰に入ったのはいいが、その為に、苦労が多いです」と言われます。「今までは平気だったことが平気でなくなってしまった。こんなことしたらいかん、ああいうことをしちゃいかんと、ついつい心が責められます。毎日、毎日、悔い改めの連続です。これだったら、神様を知らなかった方が良かった。そうしたら、悔いることも無く、あいつが悪い、こいつが悪いと、人を非難していれば良かった。イエス様を知ったばかりに、自分が悪かったではないかと自己反省の連続です」と言うのです。「それは結構なことではないですか」と言いますが、本人は「こんな不自由な生活は大変です」と言われる。それを不自由だと感じているのはお気の毒だと思いますが、ともすると私どももそう思ってしまいますね。

この詩篇の73編を謳った人は、神様を信じ恐れ、神様に従う生活をおくってはいました。送ってはいましたが、「足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかり」、言い換えますと、しっかりと確信を持って、力強く大胆に、踏み歩くことが出来ない。あっちで引っかかり、こっちで引っかかり、あっちにふらふら、こっちにふらふらです。それが、「つまずくばかり、すべるばかり」と言うのです。なぜ、そうなったか。彼はその原因を探っています。3節に「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と告白しています。この詩篇の記者は、神様を信じて、従って、慎ましく、節制して、自分の行いや言葉や手の業を清めて、神様の御心にかなうようにと、一生懸命に励んでいる。ところが、自分の周囲の人を見たり、周りの人たちを見ると、悪しき者が栄えーーー悪しき者というのは、必ずしも何か悪いことをしていると言うわけではなくーーー神様を信じようとしない、神様をおそれることの無い人たちが栄えている。この世で多くの人たちから賞賛を受け、財に満ち溢れ、また、豊かで肥太っている。4節以下に「彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない」とあります。見ていると、苦しみが無いように思える。勿論、おそらく無いわけではないでしょうが、苦しみも、何もかも蹴散らして、威勢良く、肩で風切って世を渡っていく人たちの姿なのです。そういうものを見ていると、あの人たちは楽やなぁと思う。好きなことが出来て、その上、別に神様から懲らしめを受けるわけでもなく、また神様の前に落ち度がないか、抜かりはないかと戦々恐々と身を縮めて生きているわけでもない。しかも6節に、「それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている」と。

こちらの腹の中は煮えくり返って、一発殴ってやろうかと思うような憤りがある時でも、神様に申しわけないからといって、一生懸命に抑えて押さえ込んでいる。ところが、世間の人を見ると、腹が立つなり、ポカンと思い切りぶん殴って平然としている。あんなにやれればスカッとするだろうなぁと思ってしまう。まさに高慢は彼らの首飾りとなり、暴力を衣のように纏う。つまらない無いものを誇りとして、こんなものがある、あんなものがある。これが出来る、こういうものを持っていると自慢して得意顔でいる。テレビなどで、現代のセレブ、セレブ(有名人の意)ともてはやされ、皆がうらやましがるような屋敷に住んだり、あるいはそういう衣装を着たり、社交界にデビューする。まさに高慢を首飾りにする。
人はまたそれに憧れるのです。あんなふうになりたいと。まるで幸せそのものの様な光景を目の当たりにすると、自分を振り返る。振り返ってみると、なんだかしょぼくれて小さなところで縮こまって、あれしちゃいけない、これしちゃいいけないと、いつも縮こまって戦々恐々と身を謹んで生きていることが、ばかばかしい、どうしてこんなことをしているのだろうと思ってしまう。

最近、テレビを見ていますと、占い師のおばちゃんが出てきて、言いたい放題のことを言っておりましたが、「こんな厚かましいことをよく言えるものだ」と。聞いているだけで耳を塞ぎたくなる様な、高慢な物言いをしている。私はあ然としていましたら、若い者たちは面白がって笑っていました。そういうのが世の姿ですね。神様を知らない、神様を恐れない、神様を信じようとしないが故に、自信たっぷり、それに引き換え私達は、あれにも自信がない、これにも自信がない、自分の弱さばかりが目に付くのです。では私たちは一体どれ程神様から恵まれているのだろかと、疑います。また神様の恵みがちっぽけなものに、色あせて見えてくるのです。これはサタンの私たちに対する働きです。

8節に「彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る」。今の世の中を見ているとこの通りです。あざけり、悪意、しえたげ、そういうものが満ち溢れています。人のことをあしざまに呪い、また、最近のお笑いタレントを見ていると、結局は相手をくそみそに言うことで、笑いを取るという、実に安易な世の中、風潮になってきた。冗談だというけれども、半分以上は本心だと思うのです。それを聞いている連中もそれで、自分の鬱憤を晴らしていると言うところがあります。ここにありますように、あざけりとか悪意を持っており、そして、しえたげを語るとあります。弱きものを虐待する。家庭内暴力であるとか、あるいは幼児虐待であるとか、私たちの目の前に沢山のう暴力沙汰がはびこっています。世に中のそういうものを見ていると、神様がいらっしゃるのだろうかと思われます。                   

10節に 「それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない」。 本来非難されるべき者たちが、賞賛の的に変わっていくというのです。悪いことをしても、むしろ、それが賞賛され、若い人の憧れになっているとするならば、これは神様を恐れない姿としか言いようがありません。ここにあるように、彼らのうちにあやまちを認めない。そればかりではなく11節に 「彼らは言う、神はどうして知り得ようか」。 神様のことはどうやって知ることができるだろうか、神様は何処にいるのだと。おそらく皆さんの家族でも、神様のことをお話すれば、「神様がいるなら見せて欲しい」と言われるかも知れん。神様はどうやって判るか、何処で知ることが出来るか、世の中を見てみなさい。何処に神様の…、そんなもの邪魔だ、生きていく妨げにこそなれ何の役にも立たないと、こういうのが私たちの周囲の、世の姿です。そういうものを見ていると、つい私たちも心が引かれていく。それをねたましく思う。あるいは、うらやましく思う。そのため、この詩篇の記者は足がつまずくばかり、歩みがすべるばかり。もう真直ぐに神様に向けないのです。

13節以下に 「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。 もしわたしが『このような事を語ろう』と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた」。 13節にありますように、「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った」と言うのです。神様を恐れて、心をきよめ、また、罪を犯さないようにと、絶えず心して、手を洗ったと。一切のそういうものから自分の身を引いて、悪しき者の道から離れて慎ましく歩んでいました。けれども、14節に 「わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」。 私だけがとんでもない事になってしまう。一生懸命に聖書を読んで、神様を大切にし、御心を求めて祈りつつ、罪を犯さない様に、世の悪しきものから身を引いて、慎ましく生きていた。ところが自分に対しては次から次へと、悩みや苦しみや悲しみや病や、そういうものが絶えず起こってくる。一体これはどういうことなんだろうと、彼は良く分からないのですね。だから15、16節に何とかその理由を、どうしてそんなことになるのか、訳が知りたいと思っていろいろと考え…、だけども良く分からない。

 17節にありますように 「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」。 この詩篇の記者は、神の聖所、教会に行った。神殿に行って、聖書の解き明かし、神様のみ思いを聞いていた時に、実は神様は彼らを放置しておられるのではない。彼らの好きにさせていけれども、やがて終わりの時に、全ての人の上に裁きが臨むことが分かりかした。神様は、ペテロの第二の手紙にある様に、私たちを放ったらかしているのではない。全ての人が悔い改めて救いにいたることを望んで、長く忍耐している。一日を千年のごとく、千年は一日のごとく、一日千秋の思いと語られています。神様は、彼らが悔い改めるべき時を備えて待っていらっしゃる。だからといって神様は裁きを、滅びを取り消しにしたわけではない。必ず、最後には裁かれる時が来ることを、聖書によって悟ったのです。18節に「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」。神様が裁きをなさる時は、一瞬にして一切のものを亡ぼされる。まるで、氷の滑り台のように、一瞬にサーッと、留まることが出来ない。あれよあれよ! 待って! どこかに手を掛けて、逃れようとすることも出来ない。それ程の勢いを持って、全てのものを滅ぼされてしまう。

そればかりか20節に 「あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」。神様を恐れない人が滅びにあった時、まるで、夢を見て目を覚ました時のように、あっと息をのむ恐怖の中にあった。私達も、夜の悪夢にうなされて、怖いものが追いかけられ、逃げるに逃げられない。走っているんだけども全然進まない。もう捕まると思い、ショックで目を覚まし、全身から、サーッと冷や汗が出てきて、恐怖心が湧いてくる。その様に、彼らの気づかない所で、まるで落とし穴に落ちるがごとく、神様の滅びが臨む。これを知った時に、詩篇の記者は、それまでそういう人が羨ましいなぁ、あんな人なら良かったのにと思っている自分の心が刺される。この21節に「魂が痛み、心が刺される」とあります。申し訳ないことを言っておった、とんでもないことを考えておったと…。 彼は「愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」と記しています。自分はこれまで一生懸命に神様を大事にしてきたつもりであった。ところが、今振り返って見ると、神様に対してまるで、自分の欲得ばかりを主張していた。彼はここで悔い改めた。初めて神様が、義なる方、正しい方、裁き給う方であることを悟ったのです。この世の中で一時的に、財を成し健康で艶やかで、悪を悪とも思わず、もう、厚顔無恥と言いますか、恥も知らず何もかも蹴散らして、飛ぶ鳥を落とすごとく世に生きている人たちを見て、あんな風だったら良かったのにと思っていた。そうではない、神様は滅びを来たらせる。一瞬にして一切のものを滅ぼしてしまう。しかも、それは永遠の滅びであることを知ったのです。その時、申し訳なかった、私は獣の様な自分であったと悟りました。

23節以下に 「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。 神様を信頼するものに備えて下さる永遠の命の生涯、御国の生涯がどういうものかを、また、そこに至らない前、この地上にあって、神様が常に私たちと共にいてくださる。神様と共に生きる者として下さった。そのうえ、絶えず私たちを守り支えて下さる…と。それまでは自分が努力して、自分がやっていたと思っていた。神様はいらっしゃるか知れないけれど、それでも私が一生懸命神様に信頼し、神様を求めているから、今があるのだと思っていたのです。しかし、そうではないのです。神様が憐れんで下さって、ご愛の故に、神と共に生きることが出来る者にして下さった。そればかりか、右の手を握って下さって、支えて、力となって導いて下さる。

24節に 「さとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。私たちを戒め、何が善であり正しいことであるか、何が神のみ旨か、そういうことをちゃんとわきまえ悟ことが出来る者として下さっているではないか。今まで、あの人を羨み、この人を羨み、世間の生き方を憧れていた。それを深く反省したのです。そして25節に「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。詩篇の記者は素晴らしい結論にいたりました。あなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。天にも地にも私の慕うもの、信頼するべき御方、より頼むべき御方は、ただ、あなただけですと。そればかりか、「わが身とわが心とは衰える」。確かに私たちは年をとってきますと、心身ともに衰えていきます。しかし、「神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。神様だけが私の心の力、内なる人を日毎に新しく作り変えて、そして私の受け継いでいく素晴らしい財産なんですと、告白しています。
  
最初の1節に 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。これが詩篇73篇の結論なのです。心の清い者にむかい、正しい者にむかいとあります。正しい者というのは、必ずしも品行方正であるとか、あるいは嘘をつかないとか、盗みをしないとか、そういうことを言っているのではありません。正しい者、神様に対して心を一直線に向けていく者のことです。神様を恐れる者となることです。神様を尊ぶものとなること。これが正しい者です。また、心の清い者、清いというのは一つ心になることです。神様を信じているけれども、あっちも良い、こういう生き方もあるかなというぐあいに、思いが千々に乱れのです。問題や事柄に遭うと、神様を信頼しているつもりだけれども、あの人に頼り、この人に頼り、あれがあるから大丈夫、これがあるから…と。神様だけに信頼するとはならない。そうである限り、神様の祝福と恵を受けることが出来ません。これは、私たちが神様から恵んで頂く黄金律、絶対的な条件です。私たちが心を一つに神様を信頼するということに尽きるのです。

この詩篇を謳った人は、25,26節に「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」と悟りました。私達も神様に対して心を清く、正しい思いを持つ者となりましょう。そこにあります様に、「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。心の力となって下さる方は、神様、あなた以外にはありませんと、はっきりと告白し、信じていくのです。神様以外のほかのものに、目に見えるものであったり、持っているものであったり、世の様々な事柄に心引かれる時、神様からの祝福を受けることは出来ません。

新約聖書のヤコブの手紙4:6~10節に 「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。 7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。 10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。 この8節に 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」。私は、神様あなたから捨てられたら、滅びですと、心を定めて神様に近づく。そこにあります様に、「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ」と。二心、これが穢れたものです。神様以外の何かを頼りに、神様以外の何かが自分の役に立つに違いないと思う。

柘植先生の『ペンテコステの前後』を読みますと、そのことが記されています。先生が献身の生涯に入って、神様に従って歩んでおられる時、これから生涯神様に従っていこうと心を定めて、一切のものを捨てて献身しました。先生の住んでいた借家の町内皆が、一斉に大掃除することになり、自分たちの家財を外に出して虫干しをする。そうした時に、全く忘れていたのだけれども、一つの風呂敷包みが出てきた。それを開けてみたら、若い時に自分の得た出願許可を受けた売薬の株券がそこに入っていた。実は、その株券は、ひょっとして何か行き詰った時、これ売れば相当の価格で売れる。自分の心のどこかに、伝道者として行き詰まったら、これを生かそうという思いがある。その為に、捨て切れないで包んで、これは持っていても持ってなくても、神様に奉げたものだからと思ったのです。別に邪魔になるわけではなくて、押入れの隅っこに、ちょっと入れておけば良いことだからと思った。ところが、その風呂敷包みをみた時、心が刺された。自分はなんだかんだと言い訳をしながら、どこかで神様以外のものに頼ろうとしていた。だから自分には神様の力が無い。その時すぐに、疲れてうとうとしつつあったけれども、奥さんにそれを持ってこさせて、火で焼いてしまった。そういう証しが出ています。柘植先生も信仰の人ではありますが、その始まりはそういう二心三心でした。ましてや、私達は、五つも六つもあっても可笑しくはないでしょうから…、だから良いというわけではありません。それは神様に喜ばれない。神様の栄光に与ることが出来ない。柘植先生はそれを処分した時、神様の霊に満たされ、やがて聖霊のバブテスマを受けることが出来た。彼は、背水の陣、後ろへ退く道を断ち切ってしまったのです。

私たちも神様の前に心を定めなければならない。心を一つにする、二つの心を一つに変えてしまう。これが神様の祝福を受け、恵をうける道筋。9節に 「苦しめ、悲しめ、泣け」とある。苦しめ、悲しめ、泣けと、聖書らしくない。聖書だったら悲しまないでとか、泣くことはないとか、優しいことを言ってくれそうなものを、苦しめ、悲しめ、泣けと、と言う。「あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とおっしゃる。なぜでしょうか。それは、私たちが悲しみ、苦しみの中にある時、心が一つになるのです。行き詰まった時、苦しみの中、悲しみの中にある時、私の頼るのは神様あなただけですと言えるのです。ところが、ことが順調になって、物事がうまくいくようになると、あれも良いかなこれも良いかな。あの人に頼り、この人に頼り、心が三つにも四つにも分かれてしまうのです。だから、笑っていて神様を離れるくらいだったら、悲しみの中で神様を求めることが出来たら、この方が幸いではないでしょうか。だから、苦しめ、悲しめ、泣けと。今苦しみの中にあるならば、感謝しなきゃなりません。その時こそが恵の時だからです。そこで、心を清く神様だけに信頼することを迫られます、呼び求めることを迫られます。だからイエス様もそうおっしゃる。あなた方のうちに、罪を犯す者があるならば、罪を犯す手を切り捨てなさい。目が罪を犯すなら、その目をえぐり取って捨てなさい。五体満足で滅びにいたるよりは、例え体が不自由であろうとも、天国にいる方が良いではないか。私たちは、そこが問われているのです。

ですから、詩篇、73編1節に戻りますけれども、 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。神様は正しい者、心の清いもの、神様を恐れ敬い、神様に信頼し、そして、ただ神様だけに心を一つにして、信頼していく者に、神様は必ず恵んで下さる方であります。これは確かです。旧約聖書のアサ王様がそうですね(歴代下14-16)。アサ王様は、エチオピアの軍隊が攻めてきた時、神様に祈りました。 「私は何も力がありません。あなたに頼る以外に方法がありません」 と、主を求めます。それで神様は力をあらわして下さって、エチオピアの大軍を追い払ってくださいました。彼は神様の前に身を正して真剣に歩みました。30数年、彼の治世の間平安であったのです。やがて今度はイスラエルが戦争を仕掛けてきた。ところが、この時、彼はスリヤに援軍を求めました。神の人ハナニがアサ王様の所にやって来ました。王様に「あなたは何ということをしたのですか。あのエチオピアが来た時、神様に頼ったので、神様はあなたを助けて下さったではないか。今度のことではどうしてスリヤに頼ったのですか」と。アサ王様は 「ごめんなさい」と言わなかった。 「結構です」。預言者はアサ王様に言いました。「神様はご自分に向かって心を全うする者の為に力をあらわすとおっしゃる」。 ところが、神の人ハナニを捕らえて牢屋に入れてしまう。その時、アサ王様は大変な失敗をしていまうのです。彼は病に倒れて死んでしまいます。せっかく素晴らしい信仰をもって始まった生涯でありましたが、彼は豊かになり、そして、安心を得た時、他のものに心を移して神様から離れていきました。これは昔の話ではない、今もそうです。私たち一人一人が神様にどういう心を持って、神様を信頼していくのか、このことが問われているのです。

今読みました73編の1節に 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」と書いてあります。どうぞ私たちも世の様々なものに心を奪われない様に、心を一つにして真剣に、ただ、主だけを信頼して生きていきたい。私たちは、この地上の命が終わるその瞬間まで、神様だけに心を向けて生きたい。世のものに頼らず、人に頼らず、様々な事情境遇によらずに、天にも地にも私の慕うべきものは、あなた以外にはありませんと、この神様だけに、心と思いを奉げて生きたい。それに対して神様は決して、放ったらかしになさらない。いや、必ずそのことにちゃんと報いて下さる、恵深い方です。どうぞ、どんな事情境遇、問題、事があろうとも、私の慕うものは、神様、あなただけですと心を一つにして、主を呼び求める、主に信頼して、主の恵に与りたいと思います。

ご一緒にお祈りしましょう


聖書からのメッセージ(2) 「喜ぶべき事」

2013年09月23日 | 聖書からのメッセージ

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ルカによる福音書 10章:17節~20節を朗読。

 今朝はこの20節に、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。」 イエス様がご自分のお弟子さん達72人を選び、二人を一組にして村々町々へ、神様の福音を述べ伝えるために、お遣わしになったという記事がその前に記されています。それぞれの町や村に行き、家々を訪ねて、そこで神の国が近づいたと、神様の福音が、そばに来ていることを、皆に知らせなさい。イエス様の救いが実現する時が来たと、人々に伝えるために遣わしました。人々が彼らの言う言葉を聞いて、神様を信じるならば、救いに与ることが出来る。しかし、拒むなら、その祝福や祈った平安は、あなた方のものになるのだと。遣わされた弟子達を受け入れる者は、遣わしたイエス様を受け入れることです。また、拒む人はイエス様を拒むこと、言うならばイエス様の名代として遣わしたのです。やがて、彼らが戻って来ました。自分たちが行った時、何が起こったか報告しました。それが今読みました17節、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。神様の福音を述べ伝えると、いろいろな不思議な事が起こった、と語っています。お祈りをすると、病人が癒されたこともあったでしょう。あるいは、悩みの中にあった人が喜びに変えられたでしょう。弟子たちが遣わされた家に、問題や悩みがあり、困難にあった人々が、新しい恵に、救いに与った喜びを体験しました。生活の中に具体的な不思議な事が起こりました。

おそらく、皆さんでもそうだと思います。気に掛かってお祈りしていた人が、ある日、突然「私もあなたと一緒に教会に行って見たい」と言われると、天にも上るように嬉しいですね。「こんなことがあるのか。あの人は頑固だから、死ぬまで救われまい。死んでもおそらく地獄かな」と思っていた。ところが、その人が変わった。私がお祈りしたら、神様は祈りに答えて下さった。そういう喜びを体験することが確かにあります。あるいは、悩みや困難や問題の中にある時、どうにもならない、方法が無いという時に、お祈りしたら、思いがけなく、神様が道を開いてくださる。事態が想像も出来ない形で展開して、「これは素晴らしい、神様ってこんなこともして下さるのだ」という、驚きと喜びを体験します。
それと同じように、イエス様の事、神様の事を話しているうちに、悔い改める人が出てきるでしょう。また、病の中にあり、悩みの中にあった人に、新しいことが起こって喜びに満たされて帰って来た。だから、弟子たちは「良かった」と、まるで自分に力があったかの様に、喜んで帰ってきたのです。おそらく、出かけて行く時は、あまり期待していなかったでしょう。だから、帰って来て喜べるのです。初めからそうなると思っていたら、そんなに喜びは無かったかも知れません。ところが、どうなるか分からないと思っていたのですが、いろいろな驚くべき経験をしました。ですから、「主よ、あなたの名によっていたしますと」、イエスキリストの名によってするとき、驚くべきことが起こった。「悪霊までが私たちに服従します」と書いてあります。この言葉は、様々な問題や事柄、悩み、また、罪に囚われていた者たちが、開放されて恵に与る。そういう事態をこういう表現で語っています。ですから、弟子たちは神様の力が現されたと大変喜んだのです。私たちもそういう体験をしますならば、大いに喜ぶに違いありません。

しかし、この時イエス様は、18節に「彼らに言われた、『わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た』。」 イエス様はちゃんとお見通しだったです。弟子たちが行った所で、何が起こるか、どういうことが起こるかを。世の悪の霊、サタンとの戦いに勝利している姿を、イエス様は既に幻として見ていたのです。だから19節に「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう」。それは当然だよと、イエス様は言う。そういうことが起こって当たり前だよ。なぜなら、わたしはあなたがたに、全ての敵に打ち勝つ権威を与えているのだから。その権威は何処から来るか。イエス・キリストの名によってすることです。イエス・キリストの名代になって彼らは出かけて行った。彼らに力があったわけでもなく、知恵があったわけでもありません。ただ、イエス・キリスト、神の御子、救い主としての権威と力を受けて行ったのです。当然、あらゆる敵に打ち勝つ力、権威があるから、害を及ぼすものは全く無いと言われたのです。弟子たちは、イエス様も一緒になって喜んでくれるだろうと思ったのです。ところがとんでもない。イエス様は、そんなことで喜んでいるのか。それは当たり前だ。もっと大切なことがあるとおっしゃった。それがこの20節、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。「天に名がしるされている」と言うことは、神様の子供とされていると言うことです。神様からの力と恵と命が注がれている。神様が、霊を注いで神の子として下さる。このことを喜びなさいと。ですから、イエス様が「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」と語っている。これはキリストの霊を与えて下さったことです。弟子たちはイエス・キリストの名によってしたのです。

私どもでも、何々代議士とか言う名刺を持って、「実はこの方から…」と言うと、その人自身と同様に取り扱ってくれるでしょう。学校の卒業式や入学式などで、市長挨拶とかプログラムに書いている。卒業式に市長が出席するなら、どんな人か見てやろうと思っていると、事務員のような人が来て、何々市長の代理だと紹介される。普段偉そうにしている校長先生も一斉にその人に頭を下げる。市長自身は来ないけれども、市長の力と権威を受けている人ですから、校長先生が平身低頭しながら、「こちらへどうぞ」と先導する。普段は役所のどこかで事務をとっている人であったも、市長の名代というだけで、市長と同じ待遇を受けるのです。市長の代わりだから、いい加減にあしらっておこうというわけにはいきません。この二人一組で遣わされた弟子たちも、イエス・キリストの名によって遣わされた。彼らがイエス・キリスト自身ではありません。イエス様は別の所にいらっしゃる、だけれども、その身代わりとなって出かけて行った。だから、その様に神様は取り扱って下さる。権威も力も業も、イエス様と同じようになる。私たちも神の子とされたというのは、イエス・キリストと同じように神様は取り扱っていらっしゃることなのです。

ローマ人への手紙8章12節から17節までを朗読。 

この14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」とあります。私たちには何処にも、神の子らしい資質、性質も性格もありません。むしろサタンの子と言われた方がぴったりな自分であるということは、重々よく知っています。しかし、唯一つだけ、神の御霊に導かれていさえすれば、その人は神の子であるとあります。神の御霊に導かれる、これはイエス・キリストの名代になるということ。キリストと同じ霊を私たちは受けるからです。15節に「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである」。子たる身分、子供として下さる。イエス・キリストが神の子である様に、私たちにも同じく、キリストの霊を注いで下さった。私たちはこの地上にあって、穢れた者であり、チリにまみれた者に過ぎないけれども、神様の方が主イエス・キリストを遣わして、十字架に命を投げ出し、私たちを贖って下さった。私たちを潔めて、キリストの霊を置いて下さった。キリストと同じ神の子供として取り扱って下さるのです。これが今私たちが受けている恵みであります。このことを喜びなさいとイエス様は言われます。天に名が記された者というのは、キリストの霊に満たされていることに他なりません。ですから15節に「子たる身分を授ける霊」とあります。そればかりでなく「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」。天のお父様と信じて、心を込めて祈ることが出来るのは、神様の霊が宿って下さっているからです。いろんな問題や悩み、日々の生活の中で、天のお父様、父なる神様と、呼びかけて祈ることが出来るのは、キリストの霊によるのです。人に喜ばれるような事をしているわけではないし、神様の為に捧げ物をしたわけでもない。こんな者が神の子だろうか。わたしは神の子の身分とされているのだろうかと疑っているならば、大間違いです。

と言うのは、神様を信じることが出来るのは、神様の霊によるのです。自分で信じようと思っても信じることが出来ません。お祈りしようと思っても、祈れません。紙に書いたお祈りを読むこと位は出来ますよ。皆さん、イエス様を信じて、祈り続け40年も50年も経つ方もいます。そんなに長く続けるなど、私たちの力では出来ません。一つの事を長い年月続けて行くことは、私たちにとってあり得ないでしょう。商売していてもだいたい30年くらいのサイクルで変わっていく。それが皆さん、何と50年でも60年でも、イエス様を信じて、神様を信じて、その生涯を続けるわけでしょう。こんなことは人の力や努力では出来ません。

趣味でもそうですよ。若い時からしていますという人でも、ある時が来ればそれが出来なくなります。年老いて止めてしまう。昔こんなことをしていた、あんなことをしていたと言う人がいますが、今はどうしているかと言うと、あれは昔のこと、あんなに道具も揃えていたのに…と。私の知っている方は釣りが好きで、昔から道具を揃えて盛んにやっていたのですが、最近は、飽きてしまって止めましたとおっしゃる。「どの位やっていましたか」「2,30年続いたでしょうか」「あの道具はどうしましたか」「埃を被っていますよ」。そういう方がいらっしゃる。30年も40年も50年も死ぬまで、イエス様を求め、神様を信じて祈り、生きるのは、人ごとではない。神様の霊が私たちに宿って下さるから、それが出来るのです。神様が憐れんで、主の霊が私導いて下さったと言うほかありません。

ですから、15節の後半、「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」。どんなに人まねをして、神様を信じた振りをしても、この霊、キリストの霊によらなければ、すぐに消えてしまいます。私たちにキリストの霊が宿って下さっているからこそ、絶えず祈ることが出来るのです。また聖書の言葉を聞いて魂に喜び、躍動感、命を感じるのは、キリストの霊が私たちの内にあるからです。16節に、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」。神様の御霊が、私たちに神の子としての証しをして下さる。神の子らしく、神様を信じる心を与えて下さる。神様を喜ぶ者として下さる。また、神様に祈る心を与えて下さる。それによって皆さんお一人お一人が神の子であることを確信させて下さる。
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7節に「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。子ならば当然相続人です。私どもは親が資産家ではありませんから、相続するものは殆んどありません。相続人である私たちは、神様の全てを受け取ることが出来る。神様は宇宙とその中に満ちる物はみなわたしの物とおっしゃる方です。しかも、もっと素晴らしいことは、神のみ国を継ぐ者とされている。これが子供としての身分に伴う特典、恵です。神の子としていただいたのは名ばかりで、ただ単なる名誉的な称号に過ぎないというのだったら、有っても無くてもいいものです。名誉何とかと言う称号があります。名誉教授とか名誉領事とか。よほど何か恩典や特典でもあるかと言うとそうではありません。名誉でありますから、それ以外に利益は何も無いのです。むしろ、犠牲を払うことになります。

私たちは「名誉神の子」ではないのです。神の子なのですよ。実質神の子なのです。しかも、神の子でありますから相続人、神の国を受け継ぐ身分としてくれています。これが、私たちに今与えられている大きな恵であり、特権であります。ですから、お祈りしていたら、あの問題も、この問題も、ああなってこうなって、良かったと喜ぶ。しかし、イエス様はそんなことを喜ぶなと言われる。勿論、喜ばないわけにはいかないから、喜んでいいのですが、喜ぶべきことが他にある。それは私たち、一人一人を神の子として下さっている。神の霊を与えて下さっている。どうぞこのことをはっきりと自覚して頂きたい。こんな私だけれども、神の霊が注がれている。キリストの霊が与えられている。その上、何か問題がある時、不安な時、恐れがある時、悲しみの時、「アバ父・天のお父様」と神様に親しく呼び求めることが出来る。これは大きな特権であります。

この17節に「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」。ここに「苦難をも共に」とあります。イエス・キリストが神の子でありながら、この世にあって、悲しみの中をも、苦しみの中も通りました。私たちも、この地上にあって、苦しみと悩みの中に置かれます。私たちは都合の良いところだけ、相続するわけにはいかないのです。時々そういう話を聞きます。「先生、実は、親が死んで遺産を相続することになりました」「お宅は資産家だから良かったですね」「いや、外目にはそう見えますが、有るには有るけれども、それ以上に負債があります。負債がなければいいんですが」「そうですか、それでは負債はお断りしたら良いじゃないですか」「それが、相続する以上、借金も相続しなければならないのです」「じゃ、それを避けるにはどうするんですか」「全部放棄する」「これだけの資産があるじゃないですか」「いや、それを相続するんだったら、借金も相続しなければ…」。イエス・キリストと神の国を相続しようとするのだったら、天国に入ることだけを相続して、あとの負債は切り離して、苦しいことは相続したくない。つらいことは避けていたい。それは無いでしょう。ここにある様に、(17)「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」。神様は、私たちに通れとおっしゃる悩みや困難や問題や悲しみをキリストと共に相続する。栄光を相続するために、神様が通される場所です。神の子でありますからそこを通らねば、相続することは出来ません。良いところだけ相続して、嫌なところは、切り捨ててとはならない。相続する以上両方です。

ですから、栄光を受けることが出来ると同時に、苦難をも共にしていかなければなりません。キリストと共同相続です。イエス・キリストが神の国を継ぐ者とせられた、それと同じく、私たちも共同相続する。遺産相続する時、子供が5人おれば5人に相続権があります。それと同じ様に、イエス様は神の子であって、私たちにとってお兄さん、長男です。私たちは次男か三男か分かりませんが、キリストと一つの家族です。彼の家族ですね。私たちも相続する権利がある。イエス・キリストと共同の相続人ですから、同じ祝福と恵を与えて下さいます。これは大きな恵です。私がどんなに人に嫌われるような性格であろうと、あるいは、良い人とか悪い人とかそんなことに関わらず、ただ、キリストの霊によって同じ子供となり、神の国の世継ぎとされ、やがて神の御国に帰って行くのです。

もう一つヨハネの黙示録20章12節~15節まで朗読。

 これはやがて終わりの時、天地万物が新しくなる、再臨の時です。世の終末を迎えた時に、全てのものが滅ぼされる。死んだ者は甦らされると記されています。そして神様の裁き
の座の前に立つ。で、その時どういう事態になるかということが今読みました12節に記されています。死んでいた者、これまで過去から現在に至るまでに死んだ者たちが、全ての者が甦らされる。審判を受けるため、み座の前に立つことになる。そこでいろんな書物が開かれたけれども、一番肝心なのは「命の書」である。12節の終わりの所に、 「死人はそのしわざに応じ裁かれる。」 命の書に名前を記されたものは永遠の命に移される。13節に「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し」とありますね。全ての死んだ者たちが甦って、神様の前に立たせられる。そこで命の書が開かれ、夫々に裁きを受けることになる。ところがこの命の書に名を記されている者たちは、永遠の命に与ることが出来る。そうでない者たちは第二の死に、火の池に投げ込まれる。この第二の死は永遠の滅びであると言うのです。

どうぞ皆さん、感謝しようではありませんか。神様は私たちを憐れんで下さって、主イエス・キリスト、御子の血潮によって、私たちを贖って下さり、それを信じる私たちの名を、神様は命の書に記して下さった。神の子としての身分を与え、永遠の命の神の御国を受け継ぐ者として下さった。地上の生涯が終わる時、神様のところに帰ります。そこで私たちは新しい者として生まれ変わる。ヨハネの福音書(14章1-3)に記されている様に、神様は永遠の御国備えて、場所を用意してくださっている。私どもは肉の体を脱ぎ捨てて、新しい
霊の体に変えられる。そのことがコリント人への第一手紙の15章に記されています。全て甦る者たちは霊の体に甦るのです。

先日、教役者会がありまして、I先生がご自分の書かれたものを紹介してくれました。タイトルは「天国紀行」です。それは自分が死んで天国に行く場面を思い描いています。○○年○月○日、○○病院で息を引き取った。数日前、ヘルパーさんのいる前で呼吸困難をきたし、提携病院に運ばれた。手厚い看護の後、ついにその息を引き取る。彼は天国を歩いていたと言うのです。時を同じくして、彼の妻もやがて召されて天国にやって来た。大勢の群衆で出会って、あそこに家内がいるなと思ったのです。だけれども復活した者たちは既に夫婦の関係、親子関係など、一切のそういう関係はリセットされる。解き放たれるというから、今更、夫である、妻であるということは分からない。彼女は歩いていてこっちを見ても何も気づかない様子であると。

確かにその通りだと思います。我々は親子だから夫婦だからといって、天国に行ってまで、夫婦になることはありません。イエス様が尋ねられたことがありました。サドカイ派の人たちは甦りを信じない、パリサイ人たちは甦りを信じる。で、サドカイ人たちがイエス様のところに行って、「パリサイ人たちは甦ると言っているが、甦った時、この人は何人もの妻を娶ったけれども、天国に行ったらどうなりますか」と尋ねた。イエス様が「天国に入るということは天使のようなものである。もはや嫁いだり娶ったりは無い」。言い換えると、そういう関係はリセットされてしまうと。だから、私たちは、キリストと私、二人だけの世界に入ることになります。主従の関係がなくなってしまうのです。私はもう一度そのことを考えさせられました。私たちは、御霊によって神の子としての身分を授けて下さった。今、地上にあって、様々な悩み悲しみ苦しみを通らなければならないけれど、それはキリストと共に栄光を相続するためのものなのです。既に、神の子としての身分が私たちに授けられている。ですから、私たちは神の国を受け継ぐだけなのです。その為には、良いとこばかりを受け継ぐわけにはいかない。その苦しみも悲しみも受け継ぎ、共に分かち合っていく、これが大事なことです。

ルカによる福音書の10章20節「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。皆さん、このことは決して取り消されないのです。これはもういかんから、ここで名を消してしまおうとは決して言われない。あいつは素性が悪いとか、品行が悪い、もうやめとこうとはならない。なぜならば、イエス・キリストは完全なる贖いを全うしてと、ヘブル人への手紙にあるように、イエス様を信じる私たち、私たちがどんな者であろうと、私たち名をを命の書に刻んで下さった。このことをはっきり確信して、喜び、感謝して日々を生きる者でありたいと思います。やがて、その所に帰って行きます。今、地上にあって、キリストと共に栄光を受け継ぐ者として、苦難をも共にし、その中で始めて、神の子としての身分が全うされるのです。イエス様は弟子たちに「あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と言われました。もう一度、はっきりと、そうでした、主よ、私はあなたのものです。あなたの子供として、命の書に名を記して頂いています、と大胆に信じ、信頼して、御霊に導かれ、神の子として、歩ませて頂きましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。


聖書からのメッセージ (1)「神は愛である」

2013年09月22日 | 聖書からのメッセージ

ヨハネの第一の手紙 4章7節~12節を朗読。

今朝はこの10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」 この箇所は、良くご存知の神様の愛を解きあかした一節であります。繰り返して愛という言葉が出てきます。愛と言う言葉を聞くと、心が和むと言いますか、安らぐ思いがします。愛は柔らかい、優しい、包んでくれるような、ほのかな暖かさを感じる。気持ちの良いものであると言うことは、この言葉からすぐに連想されます。また、キリスト教は愛の宗教だと受け取られます。クリスチャンは愛に満たされた、やさしい人が多いに違いないなどと誤解されます。そう言う人がいないわけではありません。しかし、必ずしもそうとばかりは言えません。でも世間の人々はクリスチャンと言うと、愛に満たされて、右の頬を打たば左の頬を出すぐらいに、叩いても怒りもしない、それどころか許してくれると考えます。何か物を求めれば何でも与えてくれる、それこそ上着を求めれば下着も与えてくれる。そんなに言うからには何でもしてくれるだろうと思っている人がいます。

時々、教会に物をもらいに来られます。「お金をくれ」とか「食べるものが欲しい」とか。私は殆んど断ります。あるとき一人の人がやってきまして、「実は今何処何処からの帰りで、ちょっとお金が無くなって、佐賀に帰る旅費が足らないので、何とかそれを恵んでもらえんだろうか」と言う。私は「そんな状況ならば、ここに来るよりは、近くに交番もあるし、そこに行って相談なさったら良い、私が電話でもしておきましょうか」と答えると、むかむかっと怒りを表して、「ここは教会だろう! キリスト教でしょうが。だったらこのくらいのこと、してやっても良いではないか、神は愛だろう!」と言って、こっちが説教されます。なるほど、神様が愛であると言うのはそういうことだと、私も知りませんでした。「しかし、いくらキリスト教の神が愛であっても、別にあなたにお金を恵む筋合いのものではない」と言ったら「お前はそれでも牧師か!」と言われました。その方は、神は愛であると言うことを誤解していると思いました。愛と言うと何か柔らかい、優しい、そして何でもしてくれる、わがままを聞いてもらえるのだ、許されているのだという、感覚を持ち易いのです。ところが、神様が私たちを愛してくださる愛は、そういう、ちゃちなものではない。

この10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、」とこうあります。神様が実は私たちを愛しておられるんですと宣言しているのです。私たちが神様を愛したのではなく、私たちがまだ神様を知らなかった時、既に神様は私たちを愛して下さったのです。ローマ人への手紙5章6節~11節を朗読。8節「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。」私たちが罪人であった、また、その前の6節「弱かったころ」あるいは「不信心な者たち」とも記されています。また10節には「敵であったとき」ともあります。私たちが神様を知らない、神様を恐れることがない、そして神様に背いて、わがままな、自己本位な、神様によって造られた自分でありながら、そんなことを忘れて、己を神とすると言いますか、自分が絶対正しい人間だ、自分には間違いがないと思い定めていた。これは、神様に対して敵対していたのだと聖書では語っています。意識して神様と喧嘩してやろうと思った人は誰もいません。ところが、生まれながらに、神様に背いて、わがままな自分の欲求、欲望のままに生きてきました。その結果、神様のことを知らないで過ごしたのです。その時、神様に対して敵対した存在、神様に対して罪を犯した者で、神様の祝福と栄光を受けられない者だったのです。しかし、神様の方が実は私たち一人一人を、生まれない以前からご自分の愛のうちに定めて下さった。ここに神様の愛の発端、始まりがあります。

では、神様が私たちを愛して下さって、何をしてくれたのだろうか? 私の願うこと、求めること、欠けたもの、不足しているものを与えてくれただろうか。求めたことをしてくれたのかと。頭は悪いし、体は弱い、健康はない。その上、いろんな悩みや困難ばかりが次々と押し寄せて来る。神様が愛で、私を愛して下さっているなら、なぜこんなひどい目に遭うのだろうか。自分の性情性格を考えてみる。愛されているのだったら、あの人のように優しく、この人のように淑やかで、行儀作法もわきまえて、品行方正な人間にしてくれても良かったじゃないか。
神様が愛していることと、自分の現実の間に苦しんでいるのです。神様が愛ならば、どうして世の中はこんなだろうか。時々、そういって電話してこられる親切な方がいます。「先生、神は愛であると書いてあるじゃないですか。それなのに、なぜ世界には悲惨な出来事が起こるのですか。あそこでは戦争、ここではテロがあって何十人、何千人と言う人が死んだじゃないですか。あんなことを神様は許しているのですか。それでも愛ですか」と言われますね。「すいません。ごめんなさい」と言うばかりです。説明しても理解していただけませんから。「いや、そうじゃないですよ」と言ったところで、愛というものはそんなことを起こさないものだと決めている。しかし、そこにありますように、8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。」 ここで神様は愛を示したといわれる。これはキリストが罪人の為に死んで下さったということなのです。

ヨハネの第一の手紙4章に戻り、10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」「ここに愛がある。」と言うのです。神様の愛は、私たちの罪の贖いの供え物として一人子である、大切な神の御子イエス・キリストを二千年前、ベツレヘムの馬小屋に人として、この世に送って下さった。そればかりでなく、30数年の地上の生涯の最後に、あの十字架の裁きを受けなさいました。しかもそれはイエス様が犯した罪の故ではないです。イエス様には何処にも罪のないお方であった。ピラトの法廷に立たされ、あるいはカヤパの屋敷で、あるいはヘロデの所に引き回されて、イエス様は細かく調べ上げられました。その時、ピラトは、「私はこの人に罪を認めることは出来ない」と断言します。何とかしてイエス様を、許してやろうと少し努力もします。それほどにイエス様は、非の打ち所のない人でした。それは当然です。神の御子であったお方が、人となったのですから。

ヘブル人の手紙にありますように、罪は犯されなかったが、全ての点で私たちと同じ人となって下さったと。弱きを知り給う方、悲しみの人で病を負って下さったとも、イザヤ書の53章に記されています。そういうお方が、十字架に架けられて、槍で胸を突かれ、両手両足を釘づけられ、茨の冠を被せられて、残酷な十字架の極刑を受けて下さった。それはイエス様を信じる者たちの罪を許して下さる為の、罪の贖いだったのです。私たちが本来受けるべきあの十字架の苦しみ、言い換えますと、罪を犯して神様から背き、神様に敵対して、神様から遠くへだたって、失われていた私たち、当然滅ぼされる者、神様から呪われて、永遠の地獄へ投げ込まれるべき私たちの為に、神様はやがて生まれてくるであろう2千年後の私たち、皆さんお一人お一人の罪の代償として、一人子イエス様を、ゴルゴダの丘に、十字架に架けて、私たちの罪の罰をイエス様に負わせられた。

福音書のイエス様の記事を読みますと、イエス様が「こと終わりぬ」と最後の一言を残して死に絶えて下さいました。イエス様は十字架に架けられながらも、「父よ、父よ」と父なる神様を呼び求めておられましたが、神様は、一人子であるイエス様を、子でもない、神でもない、罪人として、ついにご自分との関係を断ち切られたのです。その時イエス様は、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給もうや」と叫んでいます。それまで父なる神様との交わりの中にいたイエス様はそこで、神様との親子の関係を完全に絶ち切られてしまわれたのです。そして罪人とせられて、あの十字架の死、呪いを受けて下さったのです。

それは誰の罪でもない、実は私の為です。また、皆さんお一人お一人の罪の為なのです。ところが、そんなひどい罪人だろうかと思うのです。私達もそう思います。100%完全無欠とは言わないけれども、神様からひどい仕打ちを受けるほどの、大罪は犯していないと。どうですか、皆さん、心ひそかにそう思うでしょう。そりゃ、主人は私よりもひどかろうけれども、私はそれよりマシだと、こう思って…。とんでもないですね。私どもは神様の前に、本当に許されない存在である。なぜなんでしょうか。神様をないがしろにする心が私たちの内に絶えずある。自分を義とする、己を正しいとする、これが一番の罪なのです。

刑法上の罪、これは実に分かりやすい。物を盗んだとか、人を殺したとか、傷害を与えたとか、そう言う罪ははっきり分かります。「しまった。こんな事をしなきゃ良かった。悪かった」と言う。しかし、神様が私たちに問われる罪とは、自分を神にすることです。神になろうとする性質、罪の性質が、創世記に記されています。エデンの園にあるアダムとエバの原罪、抜きがたい人の中に巣食っている罪です。その結果、神様を受け入れることが出来ない、信じることが出来ない。神様を信じていると言いながら、どこかで自分の思いを握っている。どうしても譲れない思い、そういうことがあります。私も自分自身を振り返ると、そのことを痛切に教えられます。神様が私の主ですと、100%信じているかと言われると、そうではないのです。どこかで自分を信じている。私はこうなりたい、私はこうでありたい、これ以外は許せない、これ以外は受け入れられないと思っている自分があるのです。今は幸いに、神様の救いに入れられ、曲がりなりにもそのことが罪であることを知っていますから、そのことに気付く度毎に、主よ、ごめんなさい、あなたがいらっしゃるのに、私がこうでなきゃ嫌だと思っている、頑固な、頑なな者ですと認めることが出来る。これは幸いです。本当に感謝です。

嘗ては、そんなこと思いもしなかった。当然、こうあるべきなのに、なぜ私の邪魔をするの。私が真直ぐ行こうとするのに、なぜあなたは立ち塞がるの! いろんな事柄が、癪の種、腹立ち、怒りの種。あっちで文句を言いい、こっちで突っかかり、自分の中に、どうしょうも無い自分があったのです。いや、今もあると言って間違いありません。しかし、そういう私を、神様の方が選んで、一方的に愛して下さった。そのままだったならば、滅びてしまう私の為に、ローマ人への手紙にあった様に、何にも神様の事を知らない時に、主イエス・キリスト、一人子をこの世に遣わして、私の罪の贖いの供え物として下さった。ここに愛があるのです。神様の愛っていうのはここにあるのです。ですから、今読みました10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」とあります。「わたしたち」と複数形で言いますと、なんだか、あまりはっきりしない。私の為にということなのです。ここを読む時は、「私たち」ではなくて、「私」の罪の贖いの供え物として、御子をおつかわしになったと読みます。イエス様がこの世に遣わされて、あの十字架に命を捨てて下さった。「ここに愛がある。」これ以外にないのです。

教会に来ると、あちこちに家紋のように、十字架のしるしがあります。あれは愛のしるしなのです。なんだか、矛盾した話です。というのは、十字架は、そもそも罪を処罰する道具です。そんなものを大事に掲げるのですから。教会で見る十字架は何の為なんでしょうか。それは神様の愛に出会うところが十字架だからです。イエス様がこんな私の為に今日も命を捨てて下さっている。この主の愛に出会うことが出来るのです。神様のご愛を知りたいと思うならば、私たちがどんなに罪深い者であるかを、徹底して知れば知るほど、神様の愛をいよいよ深く知ることが出来る。それ以外にありません。今日一日、神様は私に良いことをしてくれるだろか、そこに神様の愛はあるだろうかと期待します。が、そこにはありません。今日も主が十字架に命を捨てて、父よ彼らを許し給えととりなして下さる、主の憐み受け、イエス様の十字架の功しによって、罪科一切を完全に赦されているから、今日も神様から愛されている者だと証しすることが出来ます。

私はこのことを教えられた時に、感謝せざるを得なかった。自分が“義”なる人間、正しい人間、自分はどこにも悪いところが無いと思っていました。その結果、人を裁くのです。人を非難するのです。ひと時も心に安心というものがありません。平安がないのです。皆さん、何かのことで、心の中でぶつぶつ文句を言っている。子供のことや夫のことや奥さんのことや、あのことこのことが、どうしてあんなに成ったのだろかと、ぶつぶつ言っている時、自分が義なる者だと主張している。私は正しいのに、私は良いのに、何で! どうして!と。だから、何かのことで、どうして!と思った時、私たちは神様に成っている。神様を押しのけているのです。どうしてもこうしても、神様がそうして下さったと受け入れられないものがある。神様が今こうして下さったのだと感謝して受け入れられない、憤りの心があるからです。しかも、自分が怒っているときは、「そう当然よ、私が怒ったって当たり前よ」とか、「私がこれ位思うのは相手が悪いんだから」と、自分を正当化しようとするのです。

実は、私たちの内に罪があるから、神様に従えない。神様に憤っているものがあるから、私どもは素直になれない。それが証拠に、家族から、あるいは人から何か嫌なことでも、つらいことでも言われて御覧なさい。心にも無いことを言われたら、カーッとくるでしょう。カーッとくるのは、私たちが神様から離れているのです。自分は正しいのに、何でそんな言われなければならないの、という思いが心のどこかにあるからです。どうぞ、自分の心をしっかりと探って頂きたい。そして、こんな罪のかたまりである者の為に、イエス様が、私の身代わりとなって、十字架に釘づけられ、命を捨てて下さった。神様はこんな私を愛して下さっていらっしゃる!その愛に絶えず潤されて生きていくのです。

イエス様は「父が私を愛された様に、私もあなた方を愛した。私の愛のうちにいなさい」と勧めておられます。十字架に自分を見ていなければキリストの愛にとどまることは出来ません。また、自分が正しいなんて一言も言えません。お前はあんなじゃないか、こんなじゃないかと… 言われる時、「はい、その通りです」としか言いようがない。神様の前に徹底して罪人であると認めていくこと、これがイエス様の愛に出会うただ一つの道です。自分が、とことんどうにもしょうのない者であること、神様の前にへりくだれない自分であることを素直に認めようではありませんか。そして、主の憐れみにすがる時、主のご愛に満たされます。

私は自分の病気を通して、そのことを深く教えられました。この病気は神様から出たと事だと言いながら、絶えず抵抗している自分があることを教えられました。神様の前に己を立てようとしている。あるいは自分を主張していることを深く探られました。そういう者の為に主が命を捨てて、父よ彼らを許し給えと取りなしておられる。今日も主は許して、憐れんで下さる。この主の愛に触れる時、心は平安と喜びです。あれが良い、これが良いなど、そんなことどうでもいい、小さなこと、重箱の隅をつつく様なことを言っていること、そんなことは何の意味もなくなってしまいます。主の愛に心を支配して頂くこと。愛に満たされること。これが救いを受けた私たちの全てなのです。

神様が命をかけて私を愛して下さっていることを知る時、さまざまな問題や事柄の中にも、神様の愛を知ることが出来ます。ですからヘブル人への手紙12章5節~11節、6節に「『主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい」。一人子を賜うほどに愛して下さった神様は、私たちを見捨てておられるのではない。最初に申し上げたように、どうして神様が愛だといわれるのに、なぜこんな中におかれるのだろうか。それは、主が私たちを愛している故に、悩みや困難や問題の中に置かれるのだとおっしゃいます。それは、私たちを訓練して下さる為。確かに、神様は愛する者を放っておくのではない。愛する者に深く干渉なさいます。

人でもそうですね。自分の子供を愛するならば、嫌なことも、辛いことも言います。他人様はそんなこと言いません。相手を愛している訳ではないから…。夫婦でも、お互い愛し合っていればこそ、奥さんは夫に人が言わないことを言いますし、夫も奥さんに対して、他人が言わないことを言います。他人は耳当たりの良いことばかりを言ってくれるに違いない。しかし、愛をもって接していると、その人につらいことを求めますし、厳しいことを言うでしょう。それは神様も同じです。私たちを一人子を賜うほどに愛しておられるからこそ、少しでも神の性質に似るものとなって欲しい。神に造られた器にふさわしい者に作り変えたいと、焼けるような思いを持たれるのは当然です。お前たちを許したから、好きなこと何でもしなさいと言わない。神様は私たちに愛があればこそ、尚一層主の愛を知って欲しい。私の愛に繋がって欲しいと願うでしょう。
確かに、イエス様の十字架を知る時に、自分みたいなこんな者を愛して下さってと、愛を知ります。しかし、それは僅かです。主の愛を信じて毎日の生活の中で、悩みや困難や悲しい出来事に出会いつつ、そこで自分の罪をさらに深く知れされる。自分の思いの穢れたる者であることを、いよいよ深く知るようになります。そのことを通してまた、主の十字架の愛の深さを、さらに深く味わうことが出来る。だからパウロはそう言っています。「罪の増すところ恵もいや増す」と。自分の罪深さを知れば知るほど、神様の愛の大きさ、深さ、長さ、高さを味わい知ります。それはいろんな困難や事柄、問題に遭う時に、私たちの心に隠されていた思いが出てくるのです。事が無くて、順調な時はにこやかにしておられます。少々叩かれようとつねられようと、ヘらっと笑っておれますが、命に関わるようなのっぴきならない、どうにもならない問題にぶつかると、そんな生ちょろいこと言っておれません。「感謝です」と言い、信仰の模範生だと思っているでしょうが、そんなもの一晩で吹っ飛びますよ。そこで、こんな私であったことを、深く味わうことが神様の訓練です。何度でも、もうこれで良いという時はありません。

時々そういう事をおっしゃる方があります。「先生、もう私は清められたと思っておった。でも私という者はこんなに穢れた者、こうなったら私は救われません」と。「これでは何時まで経っても卒業が出来ませんから、やっぱり、キリスト教は私に合わないのでしょうか」と言うのです。それは間違いです。私たちは自分のことは自分が知っていると思っているかもしれないが、それは大間違いですね。実は知らない自分が沢山あるんです。神様は私たちをいろんな境遇や問題、事柄の中を通しなさって、叩いて、ひっくり返して、炉の中に入れて清めて下さる。神様の愛をいよいよ純粋に味わい知らせてくださる。だから、皆さん、まだこれからもいろいろありますよ。そして、そのことを通して、皆さんに、これまでにも増して、「神様、あなたは私をこんなに愛していらっしゃるんですね」と十字架の愛の深さを味わい、驚かせ、喜ばせて下さるのです。どうぞ、失望しないで、いや、むしろ「北風よ起これ、南風よ来たれ、わが園に吹きて香り放たん」と、雅歌にある様に、何でも来たら宜しい。その中で、神様のご愛を求めて行こうではありませんか。5節に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。あなた方は訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。ここに、問題や悩みを解決してもうことを考えるよりは、もう一つ大切なことがあります。それは「これまで以上に、神様、あなたの愛を知らせて下さい」ということです。

お祈りをする時、「どうぞ主よ、この問題があります。これを何とか早く、解決して下さい。この道を開いて下さい、これをこうして下さい」とお祈りする。それも大切だし、必要でしょう。それと同時にもう一つ、「主よ、このことを通して深くあなたの愛を、もっと深く知ることができるようにして頂きたい」と祈る。これは大切なことです。なぜならば、神様の愛に触れなければ、命が無いからです。神様の愛に満たされて、潤されて、あふれかえってくる時、目の前の状態がどんな状態でも、事柄でも、それを乗り越えて勝利して行くことが出来るのです。愛は勝利の力です。(ローマ8:35-39)

コリント人への第二の手紙 5章4節と5節を読みます。4節に、「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている」。誠にその通りですね。私たちは地上にあって、肉体を持って生きる故に、その弱さの故に、あれに苦しみ、これに悲しみ、思い煩い、さまざまな重荷を負って、苦しみ悶えています。しかし「それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり」ます。その上に着るっていうのは、キリストを着ることです。悩みにある、苦しみにある生活そのものを、キリストによって覆い隠してもらうこと。それは取りも直さず、神様の圧倒的な一人子を賜わった愛によって、私たちが包まれることです。そうする時、死ぬべきものが命に飲まれてしまう。これが私たちに与えられた解決です。圧倒的な力で押し寄せてくる大水の様に、キリストの愛に押し流される時、目の前の悩みや苦しみや思い煩いの一切を覆ってしまう。その死の中から、失望と落胆と絶望の淵から、私たちを命に輝くものへと変えて下さいます。キリストの愛に包まれることこそ、実は私たちが最も求むべき事柄ではないでしょうか。

ヨハネの第一の手紙 4章11節「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである」。ここで、わたしたちも互いに愛し合うべきであると言われると、途端に、私は愛の無い人間だが、これからもうちょっと優しく成ろう。言葉遣いも気をつけて、立ち居振る舞いも少しは淑やかにして、家族から愛のある人と思われるように、あるいは、嫌いな人だけどもあの人を愛する様になりたい。また、この人をこうしてあげたいなどと考えます。「互いに愛し合うべきである」。聖書がそう言っているから、そうしたいなぁと今思われる。でも家へ帰ると、途端にパーッと消えてしまって元の木阿弥です。
 
ここで言われている「互いに愛し合うべき」っていうのは、嫌な人を何とかして、この人をこうして、こうしなきゃいかんと言う意味で勧められていることではない。そのすぐ前に、「神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから」と。ここが大切なのです。神様がこんな者を愛して下さった、その愛に促され励まされ、感謝していると、今度は隣人を愛する者へと私たちを造り変えて下さる。自分でしょうと思っても出来ない。出来ないような罪人であることを認めて、キリストの愛に満たされていく時に、初めて主の愛に感じ、応答して、イエス様がこんな者を愛して下さったから、私もその主の為に、何かさせて頂こうと。主の愛に応えてと言う、この一点を抜きにして愛することは出来ません。キリストの愛に先ず満たされて、その愛に感謝、感動して、その主の愛に応えて、これをさせて頂きます。このことを私もさせて頂きます、と。主の愛から溢れ出てくる日々の業でありたいと思います。これが互いに愛し合うということなのです。ともすると、イエス様の愛を抜きにして、慈善であるとか、善行であるとか、功徳であるとか、孝行するとか、努力して人が何とかしょうとする時、それは偽善に陥ります。いつも主の愛が何処にあるのか、そしてその愛がどれ程のものであるかを、深く深く日々味わっていくものとなりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。