いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(6) 「恐れるな」

2013年09月27日 | 聖書からのメッセージ

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マタイによる福音書 10章24節~33節を朗読。

28節に「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。
毎日の生活の中で不安があったり、失望したり、あるいは喜んでみたり、悲しんでみたりと、いろんなことがありますが、その中でも厄介なのは、「恐れ」というものです。恐怖心が芽生えてくる。何かことが起こると不安から、恐れへと心が変わります。28節に「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と、イエス様は語っています。また31節にも「恐れることはない」と言われます。恐れること、恐怖を覚えることが心からなくなれば、人生はがらっと変わってしまうでしょう。というのは、恐れるとき、私たちは力を失います。体から力が抜けた、腰が抜けた、立ち上がれず、へなへなへなと、まるで風船から空気が抜けたように、萎えてしまう。立つことができません。生きることも出来ないかもしれません。それほどに恐れは私たちを弱くするのです。

イエス様が語っている、「からだを殺しても、魂を殺すことのできないもの」とは何でしょうか。それは日常生活、日々の生活の中で出会うできごとや事柄、目に見える事情・境遇です。まず、病気を恐れます。私もそう言う経験をしました。病気に直結して死を恐れます。恐れると、力を無くします。しょげてしまいます。希望を失います。でも、イエス様はそんな肉体を衰弱させる病気であろうと、それは魂を殺すことのできないものとおっしゃいます。肉体が死ぬと魂も一緒に死んでしまうように思いますが、聖書には「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)と記されています。肉体は確かに病気に蝕まれ、衰弱したり、体力を失っていくに違いありません。しかし、だからといって、病気が私たちを支配しているのではない。私たちを支配しているのは神様以外にありません。だから、病気も神様の手に握られていることを忘れて、恐れが生じる。私も病気を宣告された時に、正直なところ恐れました。そして落ち込みました。しかし、その時に、父がよく言ってましたが、「病気で人が死ぬわけではない」という言葉を思い出しました。神様が「人の子よ、帰れ」と定められた時が来れば、例え若かろうと年寄りであろうと、どんな人でも、そこでその使命が終るのです。病気があるとか、ないとかが問題じゃない。周囲を見ていて、病気の人が全部死ぬわけではありません。死にそうだという人だって、神様の許しがなければ、決して死ぬことはありません。イエス様がそう言われたように、私たちの体は必ず滅びていくものです。時が来たら失われていきます。しかし、それは神様が定められた時が来るっていうことが大切。そうでない限り、何があっても決して死ぬことはない。また、神様の中に自分を置いていると、恐れないで生きることができるのです。

また、私どもは人を恐れます。あの人は苦手やなぁ、あの人に会うとまた何を言われるか分からんと、そういう経験があると思います。私も以前は、自分が非常に潔癖症でした。高校生、大学生のころ、正義感に溢れていましたから、「あの人は、ああいうところがあるから、もう嫌い」と思ったら、その人の顔を見るだけでも、青くなる。体が震えて来る。ましてや、同じ部屋でその人と一緒の空気を吸ってると思うだけで、息が詰まりそうに思う。あの人と会うのが嫌やだと、一種の恐れを持つのです。母が大変心配して、「どうしてそんなにまで、人を嫌わなきゃいけない」といわれましたが、自分でもどうにもならないのです。自分は苦しいですから、そうなりたくないと思いながら、恐れがグッと支配してきます。私は人が許せないという非常に狭い世界の中にいたのです。だから大変苦しかった。それでいて、自分は神様を信じている、信頼している、私はどこも非の打ち所のない立派な人間だと誇っていました。だから、見る人、会う人、皆が不合格で欠陥品ばかりです。合格点が与えられるのは自分だけですから。そんな思いで生きていましたので、なかなか、神様の愛がわからない。その結果、自分にほとほと疲れ、行き詰っていたのです。その時に聖書の「ルカによる福音書」にあるお言葉、イエス様の十字架の上で語って下さったお言葉、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)の言葉に出会った時に、「私を苦しめる人を許してやって下さい」と偉そうに言っていた自分を刺されました。自分はそれまで、イエス様が「許したまえ」、「あの人たちを許してやって下さい」と言う時に、自分もイエス様と同じ視点に立っている。あの嫌な人から自分はこんなに苦しめられているので、どうぞ許してやって下さい、と。

イエス様も苦しみに遭って、相手をゆるしている。私も、あの人が嫌いだから、どうぞあの人を許してやって下さい、とこう読んでいる。ところがその時はさすがに違っていたのです。自分は今までイエス様と同じ立場に立って「彼らを」と、そういう向きで読んでいた。ところが、その時は、攻守逆転と言いますか、許されなければならないのは、他人ではない、あの人でもこの人でもない、私なんだと。まるで雷に打たれたような思いがしましたね。今でも忘れられませんが、「こうやってイエス様がわたしを赦して下さったから、イエス様がとりなして下さっていらっしゃるから、今日も滅びないで神様の赦しによって生かされている自分だ」と、心にどーんと悟ったのです。これは大きな体験でした。それから今まで、肩肘張ったといいますか、あいつが、こいつがと、まるでハリネズミのように、棘で一杯によろっていた自分のトゲが全部抜けていきました。それっきり、人がどうとかこうとか、あの人が気に入るとか気にいらんとか、そんなことは全然気にならなくなった。がらっと変わったのです。本当に神様の憐みだったと思います。そのことを教えられた時に私の心が変わった。それは、イエス様を体験した一つの出来事でもありました。それから人を恐れる事を、あるいは人を激しく憎んだりすることがなくなりました。恐れるから憎むのです。

恐れるから、恐怖を抱くから、それを打ち消そうとして、相手を攻撃するのですね。人を非難している時は、自分に弱みがある時です。自分が潰れそうだから、あえて攻撃するのです。これは私たちの心の赤裸々な姿です。恐れが絶えず私たちを攻めて来ます。あの人からどう言われるだろうか、この人から何を言われるだろうか。人の言葉や、人のすること、成すことについて、絶えず恐怖を覚える。何処かで、恐れを避けて、逃げて隠れているというのが、私たちの日々の歩み方です。でも、イエス様は28節に「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とおっしゃる。病気を恐れたり、人を恐れたり、あるいは経済的なことも恐れますね。寿命は長く伸びるけれども、貯金の方は減ってしまって空っぽになる。私の命が減っていくのと、貯金が減っていくのとどっちが早いかしらと心配でならない。皆さん、そういう不安、恐れを抱いている。

サムエル記上の18章12節から14節まで朗読。

12節に「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた」と記されています。ダビデは祭司サムエルによって油注がれ、次なる王に任命されました。でもまだ,サウル王様が君臨していました。王様であることに変わりはありません。ところが12節に「主がサウルを離れて」とありますように、サウル王様が神様の御心にそむいてしまったため、神様はサウル王様を見捨てられたのです。神様から離れてしまった時に、サウル王様の中に恐れが生まれました。「ダビデを恐れた」とあります。ダビデが次なる王様に任職の油を注がれたということは確かであります。しかし、だから恐れたのではなく、サウロ王様の心が神様から離れてしまった。言い換えると、サウロ王様の前から神様がいなくなってしまったのです。私たちもそうです。人を恐れたり、お金が無くなることを心配して恐れる時、心が主から離れているのです。その時、私たちに恐れが生まれてきます。いや、そんなことはない。私に有り余るだけのお金があったら、恐れはないと思うかも知れません。あるいは、踏んでもけってもどうされても病気にならない健康な体がありさえすれば、私は恐れないと思うかも知れません。しかし、私たちの目に見える条件をいくら重ねても、どんなことをしてみても、神様から心が離れてしまった時は恐れます。あの人のようになったら、私はこんなに恐れなく、戦々恐々と身を縮めて生きることはいらない。あの人のように健康があり、立派な家族がいて、お金もあって、あれもあって、あれだけ条件が整ったら、決して恐れないで生きることができると思いやすいのです。

でも、これは絶対にあり得ない。その証拠にですね。お金がこれだけ有ったら安心と思って、それだけ持って御覧なさい。安心しないですよ。やっぱりこれではちょっと足らない。私もそうだったのです。初めて社会に出て勤めた時、その頃は月給4万2千円でした。で、最初に給料貰った時、びっくりしました。こんなに貰っていいのかしら、こんなに貰うほど働いてないのだけど、申し訳ないことをしたと思いました。でも嬉しかった、感謝しました。半年くらい経ったら、次第にこんなものかなぁと。一年くらい経ったら、ちょっと足らないじゃないかと思う。次の年には給料があがりましたが、それでも満足しないのです。「いや、やっぱりちょっと不満やなぁ」と。足る事を知れと聖書にありますように、足ることを知る者は幸いです。皆さん、満足するっていうことはありますか。何時も何かが不満です。確かにある所まで来ると、一瞬、良かったと、思いますが、次の瞬間、大丈夫だろかと心配になります。有り余るほどお金があったらよかろうと思ったら、今度はそれを減らすまい、無くすまいと別の恐れが生まれてきます。

だから、イエス様は、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者」、そういうものを「恐れるな」とおっしゃったのです。その恐れは何処から来るかというと、今読みましたように「主がサウルを離れて」、神様から人が離れた時に恐れるんです。だから世の中の人は神様を離れていますから、毎日毎日何かを恐れている。私たちもかつてはそうだったのです。ところが、今はそうじゃないですね。イエス様によって、神さまのところに帰らせて頂いた。イエス様は私たちを救って命の源となって下さった。そして、恐れることの無い永遠の命、魂を決して亡ぼすことの無い、恵みの中、救いの中に入れて下さった。だから、何も恐れなくていいのです。ところが、恐れることが多々あります。それは、心が神様から離れているからです。

一方、14節に「またダビデは、すべてそのすることに、手柄を立てた。主が共におられたからである」。ダビデには、神様が共についていて下さって…。神様との交わりの中に置かれたのです。これが、恐れを取り除く秘訣です。というのは、神様に立ち帰って、神様と共にある時、恐れることの無い生涯を生きることができる。その実例が創世記の始めに記されている。エデンの園の生活には恐れが無かったのです。アダムとエバと共に神様がいて下さって、そこでは裸で恥じないというのです。何一つ恐れと不安を抱かせる陰は無かったのです。何時から人は恐れるようになったのでしょうか。それは神様を離れた時です。エデンの園の記事を思い出して頂きたいと思いますが、蛇に誘われてエバが木の実を取り、そして夫に与えました。「彼らの目が開けて」とあります。彼らは、自分が神になろうとした時に恐れが生じてきました。神様に顔を合わせられなくなって、神様を避けて彼らは茂みに逃げて、隠れてしまいました。隠れてしまうってことは、恐れの始まりです。

どうぞ、私たちが何か恐れることがあるならば、その時、心が神様の臨在から、神様と共に有る恵みから離れているのです。それでも神様はあのアダムとエバを、罪を犯した彼らを捜し求めて下さいました。「あなたはどこにいるのか」と。今も、私たちに対して、その思いをもってらっしゃる。だから私どもは神様の近くにいると安心します。しかし、神様から離れると人は恐れます。神様の臨在から離れるということは、人が罪を犯すことなのです。だから私たちには恐れが生まれてきます。犯罪を犯した人が、捕まらないように逃げ隠れしている時、決して平安はありません。常に恐れがあります。私も経験が有ります。といっても、別に犯罪を犯したわけではありませんけれども…。高速道路を走っていると、時々赤いランプがくるくる回っている所があります。別にパトカーがいるわけじゃないのですが、そういう仕組みを置いているのです。120キロくらいで走っていると、その明かりを見てドキッとするわけです。スピード違反している事を知っているからです。罪を犯しているから恐れが生まれるのです。法定速度で走っていたら、後ろからパトカーが来ても悠然としている。スピード違反して、10キロ20キロオーバーして走っていると、前の方でちょっと赤いものが見えたらキュッとブレーキを踏むのです。自分がしてはいけない、あるべき場所、そのルールから外れているから、恐れるのです。人が人として生きるルールは伝道の書の12章にありますように、「神を恐れ、その命令を守れ。これは全ての人の本分である」と。言い換えると、神様の前に立って、いつも神様と共に生きること、これが人の本分です。本分を尽くしているとき、平安で、恐れが無い。ところが、まるでスピード違反した人のように、私たちがルールを外れて、人の本分から外れて、神様を離れて自分の力で突っ走っている時、人を恐れます。事情境遇を恐れます。いろんなものを恐れるのです。そして、力を失います。

もう一つその先を読んでおきたいと思います。サムエル記上18章28、29節朗読。

サウル王様は誠に気の毒です。神様から離れて、そして主が共におられないと知った時、彼の心が恐れに支配されていきます。しかも、その恐れはどんどん、どんどんと深まっていきます。やがて、この後、サウル王様は悪夢にうなされるようになります。精神が狂っていきます。これは人が神様を離れた姿です。一方、ダビデは神様が共にいらっしゃる事を信じていましたから、サウル王様を恐れません。力に満ちて、成す業が全て祝福に満ちている。ところが、このダビデも失敗します。

その先の21章の10節から13節を朗読。

ダビデは主が共にいて下さった時、彼はサウル王様を恐れることなく、その手の業を神様は祝福して下さいました。ところが、サウル王様がダビデの命を狙うようになって、サウル王様の手から、彼は逃げておりました。とうとう、祭司アヒメレクの所に逃れましたが、そこにもサウルの手下がいまして、ダビデが隠れているってことを通報されそうになり、大慌てで逃げました。10節に「ダビデはその日サウルを恐れて」とあります。その時、彼の心は神様を離れていました。そして、ガテの王アキシの所に行きます。ガテというのはペリシテ人のことですが、普段からイスラエルと敵対している国に身を隠さなければならない、まことに惨めな、憐れむべき状態に陥って行くのです。私たちも恐れた時に失敗します。何かを恐れた時に力を失います。ガテの王アキシの所へ身を隠しましたが、ペリシテ人たちが「どうもあの男は、ダビデというイスラエルの国の次なる王様じゃないだろうか」。イスラエルの人々が、サウル王より、ダビデの方が力があって立派だと歌っている人ではないかと、噂が流れた。12節「ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れた」。ここで、注目しておきたいのは、「ダビデは、これらの言葉を心におき」というのです。言葉によって、恐怖は生まれてきます。あの人があんなことを言った、この人がこんなことを言った。面と向かって言われたわけではないが、回りまわって聞こえてきた、その一言で人は得体の知れない恐怖に、心が囚われます。晴れやかであった心が一瞬にして曇って、不安が襲ってきます。恐れが大きくなると、人は夜が眠れなくなります。喜びを失います、力を失います。とうとう、ダビデは、「ガテの王アキシを、ひじょうに恐れた」と。サウル王様を恐れて、その恐れから逃れようとして、アキシを頼った所が、今度は、アキシの方をもっと恐れなければならない悲劇に陥っていくのです。

私たちも同じ事をやるのではないでしょうか。これが怖いと思ったから、別のものによって恐怖を逃れようと頼っていく。そしたら、そこでもっと大きな恐怖に捕らえられるという経験を、過去に何度もしてきました。それでもまだ、何か他のものが役に立つように思う。しかし、恐れを取り除くものは、神様に立ち帰ること以外に無いのです。ダビデはアキシを恐れて気違いの振りをしたとありますが、精神が正常に働かなくなるのです。あんなに素晴らしい神様の祝福に満ちていたはずのダビデでありますが、神様から離れた結果、心がおかしくなってしまう。常軌を逸した行動に出てます。我々も同じです。決してダビデが特別じゃない。また、あんなに信仰深かったといいますか、神様が共にいて下さったダビデでありましたが、ちょっとした小さなきっかけで、神様を離れて、恐れが心にスーッと忍び込んだ瞬間から、彼は大変惨めな、哀れな、情けない状態になっていく。この恐れを取り除くには、神様に立ち帰って、信頼する以外にないのです。

ですからもう一度始めに戻りますが、マタイによる福音書の10章28節「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。神様を恐れて、神様を大事にして、神様のみ声に先ず従っていくこと、そこに初めて、恐れを遠ざけていく、恐れに打ち勝っていく道があるのです。29節以下に「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」。すずめはありふれた鳥で、そこらを飛んでいても、誰も注目するような鳥ではありません。そんな鳥ですらも、神様の許しがなければ地に落ちることはない。人が捕まえようと思っても捕れない。神様の手の中に握られている。私どもはそれよりも優れたものではないかと。どうぞ、神様が私たちを養い、この地上の命を与え、生活する日々の一つ一つの業を備えてくださる方である事を信じていきたい。そこにいつも心を向けていますならば、恐れないで生きることが出来るのです。30節に「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」。私たちのことは何もかも全て知り尽くしていらっしゃる神様。自分のことは自分が一番知っているようで、案外に知りません。ここに有るように、頭の髪の毛の数も知りません。今朝10本抜けたから、残りは33万何千何百何十何本だな…、などとは言えません。熊本県の出水と言うところに鶴が渡って来ますが、「現在の鶴の数3225羽」と書いてある。私はそれを見て、良く数えるなと思います。この端数の5というのはどうやって分かるのかなって…。私達は自分の髪の毛一つ分からないのです。自分のすることは何一つ知らない。

ところが、詩篇の139篇を読んで御覧なさい。私たちの立つのも、座るのも、全て神様は知り尽くしていらっしゃる。言葉で言わない先から、私たちの心の思いを知っていらっしゃるというのです。この神様が私たちを養って下さる。私たちはその方の手に握られている。この事を、いつもしっかりと、心に置いていきたい。そうすれば「神様、あなたが私の主です。あなたが私を養って下さっておられますから、このこともあのことも、つい心配しがち、恐れを抱かせるものでしたが、大丈夫です」と言えるのです。どうぞ、ここにありますように、30節に「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。31 それだから、恐れることはない」。「それだから、恐れることはない」ですよ。あなたの事を全部知っているのだから、心配するな、恐れるなとおっしゃる。「誰が私のことを知っている人がいるだろうか?あれだけ言葉を尽くして語っているのに、ちっとも通じない。私の苦しみは私しか知らない」と、思っているのではないでしょうか。ところが、とんでもない。神様は全部ご存知でいらっしゃる。だから、神様の前に憚ることなく出て、神様の前に心を注ぎ出して、明け渡して、神様と共に生きることが出来ます。これが恐れないで生きる道です。これ以外にありません。そこにありますように31節に「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」。「あなたがたは多くのすずめよりもまさった者である」。だから、自分で何か恐れて、身を縮めている時、「あぁ、そうだ、私は今雀より劣っているんだな」と思って下さい。雀を見たら「あの雀より私は落第生やな」と…。しかし、こんな私だけれども、神様は命をかけて愛して下さっている。

「限りなき愛をもって、汝を愛せり」と、本当に愛して下さる主がおられるではないか。この神様こそが生殺与奪の権を持っている。生きるのも死ぬのも、この方が握っていらっしゃる。そして、私たちを永遠の御国に導きいれて下さる方である。どうぞ、そこまで信頼して、神様の前に絶えず自分を置いていきたいと思います。これが恐れないで人生を生きる秘訣です。この神様を絶えず前におき、右において、臨在と共に日々歩みたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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