いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(214)「いつも喜べ」

2014年05月30日 | 聖書からのメッセージ

 ピリピ人への手紙4章4節から7節までを朗読。

 

 4節「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。

 私どもはいろいろな思いがけない事にあいますが、そういう出来事にあうと人の真価と言いますか、値打ちが計られます。だから、よく言われるように、突然災難に遭うとき、どういう行動をするか、何を第一にするかによって、その人が大切にしているものがわかります。火事になって大慌てで飛び出して持って出たのが枕だったとか、そのようなバカな話もありますが、普段は「こんなのは大丈夫、平気だ」と、強がりを言っているといいますか、強そうな人も、いったん事に遭うとクシャッとなります。だから、いろいろな人を見て、「あら、あんなに弱かったのか」と思ったりします。あるいは、なかには普段から弱々しく、あの人はこんな悲しいことに遭ったら、へしゃげてしまうだろうと思える人でも、いざとなったら元気になって、人は見かけによらないことを知ります。いろいろな事の良さとか弱点とかは、事件や問題にあわないと現れてきません。 “伝家の宝刀”という言葉がありますが、実戦で抜かなければ、真価は分かりません。多くの国々が軍備をします。ミサイルであるとか戦艦であるとか、いろいろな軍備をしますが、はたしてそれがどれほどの威力があるかは、使ってみないと分からない。だから、使いたがるのです。世の政治家はひとつこれがどのくらいの力があるのか試してみたくて、北朝鮮などが花火のように何かと打ち揚げますが、何なら使ってみたいと思っている。原爆にしろどのくらいの威力があるのか、計算上ではこうなるけれども、本当かどうかやってみたいと。人間にはそのようなところがあります。何でも使ってみよう、してみよう、そして本当にそうなのだろうか、知りたいと思う。日常的な事柄が思っていたのとは違っていた、裏腹だったとしても、それはお笑い草で済みます。

 

しかし、そうはいかない事があります。それは信仰です。信仰があるのかないのか、物事が順調にいっているときは、「感謝です。神様のお恵みです」と言いますが、いったん事があったとき、自分の願わない不幸や苦しみに当たったとき、「これも主の恵みでした。感謝です」と言えるか、問題はそこです。物事が順調で事もなくいっているときに喜んでおれる、感謝ができるというのは、別に信仰があるなしに関係がないと思うのです。信仰の真価が発揮されるのは、まさに火事場にあるとき、大変な問題や事柄に遭うときでしょう。神様がいろいろな事柄を起こしてくださるのは、そのためなのだと思います。普段、信仰があると自認して、礼拝も欠かさない、集会にも出てくる。聖書も読む、お祈りも欠かさずしている。私もまぁ及第点、80点にはいかないにしても75点ぐらいはあるだろうと。ところが、順調に事がいって、神様、神様と感謝しているその人にボーンと大きな悩みが与えられますと、「何でだろう」「どうしてだろう」ということになります。

 

その代表者がヨブです。ご存じのようにヨブも事が順調だったのです。子供たちも立派になるし、各家庭を持つし、また持ち物も豊かで、何不自由のない生活をしている。そのときヨブは神様を恐れて、感謝賛美して主を褒めたたえていた。神様もヨブを自慢していました。ところが、サタンが来て、神様に「ヨブがあんなにあなたを褒めたたえるのは事情や境遇が良いからだ」と言った。神様は「いや、そんなことはない。じゃ、お前が行って持ち物を取ってよろしい」と。それでヨブが持っていた財産、子供たちまでもみな取ってしまった。そのときにヨブは「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)と讃美したのです。本当に立派な信仰です。私たちはそこまで言えないかもしれません。私もひそかにそのようなときになって言えるだろうかと自信がありません。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。ああ、感謝、感謝」と、なかなかそのようには言えないかもしれない。ところが、そのときサタンは、また神様に言ったのです。「ヨブにはまだ残っているものがある。健康がある」と。物が無くなる、家族がいなくなっても、健康さえあればと、世の中でもそのように言います。何がなくても健康、健康第一、これがあればお金が無くたってそのうち稼げばいいのだからと、とにかく健康が第一だと。このとき神様は「それでは、ヨブの健康を取ってよろしい。ただし、命に手をつけてはいけない」と命じました。それでヨブはとうとう塗炭(とたん)の苦しみといいますか、皮膚病の中でもだえ苦しみます。そのとき、ヨブも「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」とは言えなかったのです。どこかで「どうしてなんだろう」「何でだろう」と。もちろん「神様、あなたはどうして私をこんな事に遭わせたのですか。もう、あなたなんか私は知りません」とは言わないが、「神様は与えてくださるとしても、どうしてこんなことになったのか、何でだろうか」という思いで、悶々(もんもん)としていた。「何がいけなかった」「どこが悪かった」「私の何が良くなくて」と。その原因を求めた。ところが、最後にとうとう神様はヨブに向かって「あなたは『どうして、どうして』と言っているけれども、じゃお前は何でもすべてを知っているのか」と、「全部お前は何もかも知ったうえでそういうことを言うのか」と問われた。知らないことが多い。誰がそれをしているか、神様ではないか。それを知ったときに「あなたはどんなことでもおできになる御方です。全能の神です」(ヨブ42:2)と、初めて降参した。お手上げです。

 

私たちの信仰は、まさにそこまで行かなければ本当の信仰になりえません。神様が始まりであり終わりであり、すべてのものをご計画の下に一つ一つ導いてくださっていると知りながら、実際の事になると、それがどういう意味を持っているのか深く思わないで、「なぜだろう」「どうしてだろう」と思い煩う。何でそうなったのか理由が分からない。人は、その理由を知らないと落ち着きません。だからよく言いますように、お医者さんに行って「どうしてここが痛いのでしょうか」と言うと、「じゃ、レントゲンを撮ってみましょう。CTを撮ってみましょう。血液検査をしてみましょう」となる。そしてその結果「どこも悪くないけれども……」と言われても、「でも、ここの、おなかの片方が痛い」と訴える。先生がおもむろに「それは筋肉痛です」と。そうすると聞いたほうは「ああ、そうですか」と言って納得して帰る。すると翌日から安心になるのです。理由が決まるからです。それはどんな理由でもいいのです。そうすると本人は納得します。しかし、そこが罪なのだと思います。自分に分からないことがある、知らないことばかりなのだと認める。神様がご存じで、神様の手に握られて、神様が生かして持ち運んでくださるのであって、私が計画しているのではない。神様にあるご計画によって私たちが今このようにある。しかし、その理由は分からないのが当然です。だから、人間に不可解なことばかりなのは当然です。かつて藤村操という一高の優秀な学生が、日光の華厳の滝に「人生不可解」と言って、飛び込んで自殺したそうです。分かろうと思うのがおかしいのです。分かって当然だ、他人のことは分からないにしても、少なくとも自分の人生、自分の生活、自分の事については、私の許しなく、どうしてこんな事が起こったと思う。それは大きな間違いです。聖書にありますように、私たちは造られたものであって、造り主でいらっしゃる神様が、私たちに地上の日々を一つ一つ造り備え、命を与え生かしてくださる。私たちのするべきこと、なすべき事の一つ一つを備えてくださっている。今のこの事が将来どのような事につながっているか、分かりません。何も分からない。ただ、目の前の一歩、今日の一日、与えられたところを感謝して生きる以外にない。これから将来どのくらい生きるか、これも分かりません。自分が亡くなるときどのような死に方をするかなんて誰も分からない。全部神様にある。私たちは知らない事が多い。人生不可解とは、当然なことで分かろうとすることがおこがましい。そのように考えると随分楽になります。

 

だから、今読みました4節に「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。もし、「主にあって」という言葉を外して「あなたがたは、いつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」というだけだったら、これは道徳律か、処世訓です。そんな怒ったって仕方がない。心配ばかりしていないで喜んでいなさい。こういう良いこともあるではないか、こういうこともあるではないか、今は苦しいかも知らないが、そのうちうれしいことも来るに違いないから、まぁ、そんなことを言わないで喜びなさいと言われて、喜べるわけがない。「あなた、どうしてしかめ面をしているの、喜びなさい。くすぐってやろうか」と言われても、それで喜べるわけではない。ところが、4節に「あなたがたは、主にあって」と、またその少し前ですが1節に「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」とあります。ここでも「主にあって」と言われています。またもう少し先ですが10節に「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは」と、「主にあって」と繰り返して記されています。これは誠に大切な、これを抜きにしては考えられない事柄です。

 

それはここです。「主にあって」というこの一言に尽きるのです。私たちの信仰は「主にあって」です。神様が、イエス様が共にいてくださる。そして、主がこの事を知っている。神様がこの事を導いている。そこに立たなければどうにも救いようがない、行き止まりです。先日も病気で母親を亡くしたご家族に会いました。信仰がありませんから、愛する人を失い、ご主人は悲嘆にくれ、家族も望みを失って何も手に付かない状態でした。神様を知らないそのご家族にとっては、閉塞(へいそく)状態といいますか、もう逃げ道がない、絶望のふちに立っているわけです。何でこうなってしまったのか。死が全部を飲み込んでいくという、そのような中でどこに怒りをぶつけていいか分らない。悔しさといいますか、そのような思いにかられている。そこへ持ってきて「神様のなさる業ですから、感謝しようではありませんか」と言っても、通じない。そこが信仰のある者とない者との決定的な違いです。だから、「主にあって」ということが何よりも優先するべき事柄、大切なこと。私たちの前にいろいろな問題や悲しいこと、苦しいこと、つらいことが起こりますが、その中で絶えず今主がこの事を、神様が今この事を知っていらっしゃる。神様がこの事を持ち運んでくださっていると絶えず信じていく。自分自身の心に置いておかなければ流されていく。すぐにそのような悲しみや嘆きや憤りに私たちも押されていってしまう。

 

ローマ人への手紙5章1節から5節までを朗読。

 

1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。私たちと神様との関係が主イエス・キリスト、イエス様の十字架によって、神様の御愛によって、神様の前に妨げとなる一切の障害、壁を取り除かれて、今は神様を心から信頼することができる者と変えられている。神様に私たちは取りこまれた者であり、握られている。神様の中に置かれている。それが「神に対して平和を得ている」ということです。更に「この恵み」、この恵みとは何かといいますと、神様と私たちが愛に結ばれた関係に置かれていること。「この恵みに信仰によって導き入れられ」と、神様の約束の言葉を信じることによって、そのように変えていただいて、更に「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。そして、私たちは一切を神様にささげ、愛なる神様は私たちを握ってくださっていることを喜びとする。神様が私を導いてくださる。私の願いではない、私の考えではない、私の計画によるのではない。十字架を立てて、私たちを愛してくださった神様が愛のみ手をもって私たちを日々導いてくださることに喜んでいるでしょう?喜んでいらっしゃると思いますが、案外、私の思い通りにいかないから悔しいと言っているかもしれません。私たちにとって主にある生活とは、まさに毎日いろいろな出来事の一つ一つの中で、神様の手に自分が常に握られて、神様と十字架によって結ばれた者として生きること。そして神様が私を根こそぎにご自分のものとして握ってくださって、私たちに今日の一日を備えてくださると信じる生き方です。だから「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(テモテ 2:8)とパウロは言います。「イエス様をいつも思う」とは、これから先のことは分からない。今、今日このことも分からない。これがどういう意味なのか、こういう悩みに遭うこと、こういう悲しみに遭うことがどんな意味があるのか、私はさっぱり分からないけれども、主が、神様が愛をもって私を握ってくださっていると認めることです。だから、感謝します、喜びましょうというのがここに書かれている、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」ということです。

 

3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」とあります。「患難をも喜ぶ」、どうして患難、苦しいことが喜べるだろうかと思いますが、それは今申し上げたように、「主にあって」です。「神の栄光にあずかる希望」があるから、「患難をも喜ぶ」ことができる。言い換えると、神様の手に握られて今日も生かされている自分であり、持ち運ばれている自分だからこそ、患難や苦しいこと、試練といわれる事柄、苦しいつらい悲しい出来事に出会っても、それを喜ぶことができる。なぜならば、それは神様のなさっている、神様の手の中にあることだからです。だから、「主にある」という、この一点を外してしまったら、私たちはガラッとくずれていきます。私たちの信仰生活の根本といいますか、土台は主につながっていること、「主にある」ことです。これが何よりも大切なことだと、この度そういう事を通して教えられたのです。もし主なくして、主がいらっしゃらなければ、私たちの人生は誠に闇です。希望がない、望みがない、不安と恐れと絶望の中で立ち往生してしまうに違いない。それを今私たちが神様のご愛と恵みを知り、十字架によって神様との間の一切の妨げを取り除かれて、愛のゆえに主を信頼して、神様の手に握っていただける。これは私たちの、何と感謝してもしきれない大きな恵みです。私はさきほどのご家族のことを振り返りますと、誠に気の毒だと思います。愛する人を亡くしたことが気の毒というよりは、その事の中にあって希望を持てないでいる、慰めを得られないことが、どんなに気の毒なことだろうかと思う。どんなときにも喜んでいるためには、私たちが主に帰らなければ、神様のところへ立ち返ってこなければできないことです。

 

イザヤ書45章5節から7節までを朗読。

 

この5節以下に「わたしは主である。わたしのほかに神はない」と繰り返し強調されている。「わたしが主であるよ」と。そして、その主であるわたしが暗いことも、光をも、繁栄をも、わざわいをも創造する。一切すべてのものの支配者でいらっしゃる、主でいらっしゃる御方、この御方が私たちの神であり、また、ひとり子をも惜しまないほどに私たちを愛し、十字架を立ててくださった御方であります。私たちはこの主に連なっていれば不足はありません。主にあることとは、いつも主に結びついていることです。だから、生活の中で遭遇するどんなことも、主がご存じだから、主が今このことをしてくださっている。私には分からない、人にも分からない、誰にも分からない。神様だけがご存じのことがあると、絶えず認めていく。これは世間の人には分からない不思議な恵みです。だから、世間の人に「それは神様がご存じだから、主がなしてくださることだから心配しないで喜んでいたらどうです」なんて言っても通じません。「あなた、何を言っているの。この悲しいときに同情ひとつしないじゃないの」ということになりますから、なかなか難しい。しかし、私たちは絶えずそこに来ないことには、本当の喜びも慰めも望みもわいてこないのです。だから、願わくばすべての人がこの主に立ち返ってほしい。「主に帰ろう」と。本当に神様を知れば悲しむこともいらない、嘆くこともいらない。神様は私たちに「善にして善をなし給う」御方、詩篇の119篇に歌われているように「困苦(くるしみ)にあひたりしは我に善きことなり」(71・文語訳)と。「これによりて汝の律法(おきて)を学び得たり」(文語訳)と。言い換えると、神様が愛であり、力ある御方であり、すべてのものをご支配くださる御方だと、自分の苦しみを通して知ることができる。「苦しみに遭った、よかった」と言えるのは、「主にあって」です。神様を通して物事を見、悲しみを見、苦しみを見るときに、なるほど、私にとってそれがなかったらどうなっていたか分からないと理解できます。これは皆さんもご経験のとおりであります。ところが、もし神様を知らないで、ただ苦しみに遭うのだったら、これは苦しいばかりでしょう。悔しくて憤死するなり、怒り狂って我を忘れてしまうに違いない。闇のような世界に生きるしかない。ところが、主にあれば、神様がすべての事をご存じだと、そこにいつも思いを向けていく。そうすると、今、分からないことでも、私たちに見えないことでも、全部知っていらっしゃる御方がいるのだから、大丈夫ですと、いつも喜んでいることができる。問題があったとき、それをどのように神様がしてくださるだろうと期待する。ここにありますように「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。どんなことでもなしえ給う神様です。私たち一人一人に今の時を与え、今の事柄を与え、今の一つ一つ私たちが受けるべき事柄を備えておってくださる。だから、皆さん、問題が起こったとき、苦しいことがあります。いろいろな思いもかけない人とのトラブルや何かの中に巻き込まれます。そうすると「あの人がいけなかった」「この人が何とかだ」「こういう事情があったから」「こういう問題があったから」「私があのときああしておけばよかった。こうしておけばよかった」と悔やんだり嘆いたり人を非難したりしますが、そんなものは一切いらないのです。ただ主が今このことをしてくださっている。この苦しみにも主が置いてくださる。神様が今この事柄を起こしている。他人との問題の中にも、神様がそれを置いてくださっている。「主にあって」、この一言ですべてが解決します。

 

ヤコブの手紙1章2節から4節までを朗読。

 

2節に「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」とあります。たいへんですね。名古屋におりましたときに通っていた教会の松原先生、そのご主人だった先生がまだお元気なころの有名な逸話があります。ある教会員の方のおうちが夕方火事になった。焼けまして、大慌てで先生の所へ電話をした。すると先生が駆けつけて来ました。来るなり最初に言った言葉、「ハレルヤ、感謝でしたね!」と言ったのです。それでその姉妹はカーッとなって怒って、「人がこんな悲しい思いをしているのに、何がこれが感謝だ。人の気も知らないで」と。先生が「お祈りをしましょう」と言ってお祈りをしてくれたのはいいけれども「火事に遭ってこの姉妹を恵んでいただいて有難うございます」と、そのお祈りにアーメンと祈れなかったというお証詞を聞きました。ところが、その後、何と神様がそのご家庭を顧みてくださって、その火事で焼けて失った物以上の恵みによって、新しい家が与えられる、地所が前よりも広くなる。さらに子供たちの家まで次々に増やしていただいた。あのときの先生の祈りに神様が応えて憐れんでくださった。自分はとんでもない思い違いをしておったと言った方を忘れられません。それ以来、その方は「どんな苦しいことがあっても感謝すればいいのですよ。私がそうだった」といつも言われました。ここにありますように「いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。嫌なこと、つらいことがあって、火事に遭ったり交通事故に遭ったり、どうしようかと当惑し失望しますが、感謝すればいい。喜びなさいと言うのですから。

 

ヨブの場合も、神様はそれまで以上に祝福してくださったと記されています。ある方が「あとになって祝福を受けるぐらいだったら、そんなつらい目には遭わんほうがいいと思います」と言いに来られましたが、苦しみに遭わなければ、神様の恵みを知り得ません。「主の祈り」に「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りますから、できるだけ試みには遭いたくない。これは正直なことで、それはそれで求め、お祈りをしたらいい。神様は負えない苦しみに遭わせ給わない、逃れるべき道を備えてくださる御方です。耐えられる試練を与えられるのであって、耐えられないものは与えられないのですから、それはお祈りをしたらいいですね。けれども、それでもなお「お前にはこれを恵もう」と与えてくださる試練があるならば、喜んで負おうではありませんか。「主にあって」喜ぼうではありませんか。これが、私たちがいつも神様を心に置いて、主を思う思いに日々生きる道です。

 

初めのピリピ人への手紙4章4節に、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。私たちが喜べないでいるとき、何か悶々(もんもん)と悩んだり苦しんだり、心の中でつぶやいていることがあったら、そのときもう一度自分の思いを振り返って、私は主に連なっているのだろうか、今与えられた問題を主のものとして、神様のものとして私は受けているのだろうかと、そのことをちょっと考えていただいたらいい。そうすると「そうだ。自分の思いばかりがはびこって、神様に対する思いが消えている」。そういうときがありますね。自分の心の隅から隅まで、全部自分の思いで膨れ上がっている。そこには神様を思う気持ちがひと欠けらも見えなくなってしまう。これは魂が死んだ状態です。そうならないために「主にあって」、いつもイエス様がこの事を与え、主がご存じでいらっしゃる。この問題も主が導いてくださる、主がどのように解決してくださるか、私はできないけれども、神様がしてくださるから楽しんで待ちましょうと、主を待ち望んでいくとき、心に喜びがわいてきます。力が与えられます。これは不思議な神様の恵みです。だから、「主にあっていつも喜びなさい」。時々ではなくて、「いつも」絶えず喜んでおられるのは、主に心を向けているとき、主に結びついているとき、主のものと自分がなりきって、ささげきっているときです。そのときは喜んで生きることができます。

 

私たちに主が求めているのは、このことですから、喜び、感謝し、主を褒めたたえて生きようではありませんか。そのために私たちはいつも主にある生涯、「主にあって」と、しっかり心に置いておきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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