コリント人への第一の手紙15章50節から58節までを朗読。
この地上での生涯は、必ず、終わる時が来ます。しかも、その時は段々と間近に迫ってきたと言ってもいいと思います。若い方にとっては、まだ、10年20年30年、あるいは50年あると思われるでしょうが、いずれにしても人の一生は、限られたものです。必ずその終わりがやってきます。若い頃は、あまりそういう事を考えません。私も、終わる時が来るのだと、クリアーに感じ取る年頃になってきたと思います。60歳を過ぎたら、ゴールは目の前でありますから、70歳も80歳もあまり違いがない。そういう思いがいたします。
私自身が最近特に感じることは、「これをしていても、何時までも続くわけはないしなぁー」という思いです。何か一つのことでも、若い頃は、思いっきりそれにのめり込む、没頭することができたのですが、どうも最近は、それが無い。何故無いのだろうかと考えてみると、「もう、いくらやっても終わる時があるのだから」という思いが、常にあるのです。いくら頑張ってみても、「いずれ終わることだし、また、自分がいなくなった後は、どうなるか分からないのだから」という思いがあります。殊に、私には「子供がいないせいかなぁ」とも思います。お子さんがいる方にとっては、自分の続きがあると感じられるのかなぁとも思いますが、必ずしもそうではないでしょう。
この間も、ある会の後で、雑談の中で、車の話になりました。考えると、車を運転するにも、年齢的に考えて、これからそう長くは運転できない。90歳になって、ヨタヨタして耳も遠い、目もしょぼくれては、運転はできませんから、もちろん限界があります。何歳くらいまでだろうか。勿論、これには個人差があります。道路交通法では、70歳になると、今までのように免許を自動的に更新するだけでなくて、70歳以上の人は特別講習というものを受けなければならない事になっています。もう一度、実技をやってみたり、交通法規をちゃんと正しく理解しているか確かめる試験を受けたり、いろんなお話を聞いたりして、半日掛りで講習を受けて、やっと貰えるということです。という事は、国の全体的な考えとしては、70歳過ぎたらあまり乗らんでくれという政策かなと思います。それでも個人差があるから、がんばって乗れる人は、75歳、80歳くらいかなと思うでしょう。しかし、いずれにしても後15年くらいかなと思います。そうなると、今乗っている車を次に乗り替えるかどうか。もし、替えるとして、後4,5年経って替えるとしたら、私は今年で63歳になりますから、後5年したら、68歳、そのくらいで車を買い替えて10年乗ったら78歳、という事は、自分が乗れる車もせいぜい、あと一台、あるかないかだと思います。このように考えると、終わる時は、グッと現実化してくるのです。若い頃は、まだ40代の頃は、新車が出たというと、嬉しくて、買いもしないのに、ショールームを見て回って、夢を描いていたのです。今は、新車が出ようと何が出ようと、私には、もうせいぜい乗れて、後一台分しかない。考える余地はないのです。
そういう風に、先が狭まってくると、生きること自体に意欲をなくします。新しいことには、チャレンジできなくなる。そろそろ、宿営地を撤退する準備に入らなければいけないと思うようになります。だから、あまり人と議論をする気力が無い。若い頃は侃々諤々と夜を徹して議論をしました。今は議論していても「まぁ、そんなことを言ったって後10年だ」と思ってしまいます。いくら自分が頑張って、相手をやり込めて、スカッとしたって、どっちみち、こっちは死ぬのだしなぁと。まして、相手が若い人だったら、議論になりようがない。向こうの方が長生きするのですから、「まぁ、いいか」と言う風になってきます。終わりが分かっていて、今から熱心になる事ができないとなると、生ける屍だなと思います。まるで、閉店時間が間近なスーパーマーケットに入ったようなものです。棚はあちこち空になり、欲しいものを探しても、無いという状況に置かれているのです。それじゃ、黙して死を待つ、ただ、じっと座っていて何時死がやってくるかを、戦々恐々として怖々ただまっているかと言うと、神様はそうじゃないと言われる。
56節に「死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。今申し上げたように、いずれこの地上の生涯が終わる時、死の時を迎えます。だったら、今更、新しい事をしても無駄だ。私の両親も晩年よくそう言いました。新しい性能の冷蔵庫ができ、「これは便利だから買い替えたら」と言うと、父も母も、「いや、後10年生きるかどうか分からないから、買い替えなくていい、このままで…」と言いながら、10年以上生きました。そういう風に引っ込んでいくのは、死が全てを終らせてしまうのだと思っている。死が終わりだと私たちに思わせているのは、罪の仕業だというのです。この56節に「死のとげは罪である」とありますが、私たちが、今更頑張ってみても、死ぬのだし、残った者がどうするか、後のことは分からないから、あまり熱心になって、カッカして、血圧を上げても仕方がないと思わせるのは、罪の働きで、死を恐れさせるのです。恐れていないつもりですが、死が支配して全てのものを無に帰してしまうものだと思い込んでいる。死が神様になっている。ご自分の死を思う事も大切ですが、しかし、死が私たちを支配するものとなっているとするならば、これは罪の仕業です。
57節に「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。神様が、主イエス・キリストによって、死に打ち勝つ力を与えて下さった。勝利させて下さった。それは生きていること自体、神様の手に握られていることであり、私たちの生涯の全ては、神様の中に記録されているのです。神様は、私たちを御自分の民として、永遠の命に加えて下さった。イエス様が十字架に、私たちの罪一切を担って下さって、罪を赦して、イエス・キリストを救い主と信じる私たちを、新しい命に生きる者として下さった。これが私たちの受けている神様の大きな恵みです。その結果、この地上が終っても、尚更に、永遠に私たちの全てのものが繋がっている事を、神様が保証して下さっているのです。
52節に「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」と記されています。これは、死が私たちに訪れた瞬間、それは新しい門出なのだと言っているのです。「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者に」私たちは変えられていく。死によってこの地上が終わりますが、それは永遠の命に入って行く入り口です。そして、53節にありますように「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」。もう二度と朽ちることのない、終わることのない永遠の命の中に、私たちは、朽ちないものを着る者と変えられるのです。確かに、私たちの地上の生涯は、やがて終わる時が来ますが、そこでスパッと切れてしまって、後は無になってしまうのではなく、そこからもう一度新しい命が始まる。それはこの肉体を持った、この形を持ったものとしてではなく、霊なるものとして、神様の手の中に、永遠の命の中に生きて行く者と変えられるのです。
私たちの全ての業は、神様の手の中に握られ、覚えられているのです。54節に、「死ぬものは必ず死なないものを着る」とあります。私たちの望みがここにあるのです。この地上のことだけを考えていますならば、望みがなくなってしまいます。望んでみたって仕方がない。どっちみち私は死ぬのだからと。死んでしまったらお終いだと、失望し望みを失うのではなく、永遠に生きる望みを抱いて生きている。だから、肉体が衰えようと、永遠の命を目ざしている私たちは死を区切りとして、それで全てがゼロになってしまうと考える必要はない。私の一生は死んでしまったら、全部忘れられてしまうのだ。何もかも忘れられて…。それはそうです、人には忘れられてしまう。どんなに愛する人を失っても、亡くなった時は、絶対この人の事は忘れまい、主人の事、家内の事は忘れまいと思いますが、それも3年くらいです。やがて、時々思い出す程度になる。10年も経ったら夫がいたことすらも忘れて元気になる。
ただ、忘れない方がいらっしゃる。神様は、私たちのことを忘れないどころか、永遠の命に私たちを移して、神と共に生きる新しい生涯に変えてくださるのです。これを絶えず望みとしていく。そうでないと、この地上の生涯を最後まで全力を尽くして生きることができない。闇の中を手探りのように、もう、そろそろ終りそうだ、もう、終るかもしれないと、腰は引けてしまって、毎日の生活をできるだけ小さく、小さくして、私は死ぬのだから、あれも止めとこう、これもと、何もかも…、そしてジーッとこもってしまうような生涯は、神様が私たちに願っているのではない。私たちが、最後まで命に輝いて生きる秘訣は、死を越えて向こうに、神様の手の中に帰って行くのだと、そして、神様が私たちを待っていて下さると信じることです。
ですから、ヨハネによる福音書14章1節から3節までを朗読。
1節に「心を騒がせないがよい」と言われます。私たちが心を騒がせる最大の原因は、死が間近になって、死ぬかも知れないということです。ところが、「神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃいます。神様は私たちの罪を赦して、代価を払って、ひとり子の命をもって、買い取って下さった。そればかりでなく、今2節3節で読みましたように、私たちのために、御国にすまいを備えて下さっている。天国に私たちの住むべき場所がある。だから、今という時に、死を恐れる必要はありません。あなた方には、永遠の御国が備わっているのだから、そこまでズーッと途切れることなく、全力で走っていきなさい。導いて下さる神様の手の中にあるのだと。晩年、父はこの御言葉でメッセージを繰り返してしています。今になって、どうしてこの御言葉だったのかなと考えますと、他にも理由があったかも知れませんが、父も大分身体が弱った時、何もしないで、あれも止めよう、これも止めようと、気持ちが縮こまって引っ込む方向にあったと思います。その気持ちを、前に向けてくれる御言葉がこれであったのだと思います。そうだ、私の命はこれでお終いではなくて、神様の所に帰る。帰るばかりかさらに永遠の命に続いている。だから、死でお終いではないと、自らが常に語って、神様から力を与えられて立っていたのだと、最近自分自身のことを重ね合わせながら思います。
私たちは、神様を信じ、イエス様を信じて、イエス様の手の中に、神様の手の中に握られて今日も生きている。私が自分の力で生きているのではない。そして私たちのために、永遠の御国を住まいとして備え、迎えて下さる時まで、神様に生かされているのだと、はっきり自覚していくこと。神様のために生きているのだ。神様は、私たちを生かして、神様のために今日も生きる者とされている事を、この御言葉を通して、繰り返し味わい、確信することです。自分のために、家族のために生きている人生は、死と共に終わってしまう。また、終るのだったら、今更新しいことをしても何時まで続くか分からない、止めておこうとなりますが、それでは神様のために生きているとはいえない。神様に従っているんじゃなくて、死を神様にしてしまっている結果です。 2節にありますように、イエス様は、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」。私たちのために、イエス様は先に行って、場所を用意して下さっている。もう大丈夫、受け皿はできているから、力一杯飛んできなさいと言われるのです。もう死ぬからとか、何時まで続くだろうか、少ない命だからなどと考えない。最後まで全力を尽くして、思いっ切り生きていく事。これが、神様の前に果たすべき私たちの責任です。
もう一度、コリント人への第一の手紙15章57節に「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。ここに、「主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わった」と語っています。この「勝利を賜わった」というのは、死に打ち勝って、私たちに命の希望を与えていただいている事に他なりません。私たちが、今申し上げたように、もう死ぬからお終いだとか、私の地上の生涯はこれでお終いだから、残り少ないからとか、どうのこうのと言っている時、私たちは死に負けているんです。私たちは、イエス様を代価として買い取られた者であります。そして、もはや、私たちは自分のために生きているわけではないでしょう。
コリント人への第二の手紙5章14,15節を朗読。
ここにはっきりと、私たちは、自分のために生きるのじゃなくて、「自分のために死んでよみがえったかたのために」生きる。それは、イエス様のため、神様のために生きる者とされているのです。私たちの日常生活、私たちが生きているのは、自分のためじゃない。ところが、自分のために生きていると思うと、もう死ぬのだからあれしてもしようがない、これしても仕方がない、もう、これは止めとこう、あれは止めとこうになるのです。私たちは地上での命の息が消えるその瞬間まで、キリストのために生きる者とされている。私たちはこの事をしっかりと心に留めておきましょう。これが先ほどの、「勝利を賜わった」という事に他ならない。私たちは甦った方のために生きる者と変えていただいて、それによって勝利を得ることができる。勝利の結果は死を乗り越えて、その遥か向こうにまで、永遠の命に生きる望みを持っていることです。ですから、この地上にある限り、死を恐れることはない。死ぬまで全力を尽くして行ったらいい。その先は神様が引き受けてくださる。
この15節に「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」。「自分のために死んでよみがえったかた」、イエス様のために私たちは、生かされている。だったら、私はもう死にそうだからあれ止めとこう、これ止めとこうという話にはならない。そんなことをしているんだったら、イエス様のために生きることができない。主のために、私たちはどんな事でも、今という時に果たすべき責任がある。段々年を取って、周囲の者から、家族の方から「もう、年だし、危うくなったんだし、何が起こるか分からんから、あれも止めときなさい。お父さん、これも止めときなさい、こうしなさい、ああしなさい」と言われても、そんな言葉にうかうかと乗っていては駄目です。「いや、私はイエス様のために生きているんだから、主が“よし”とおっしゃる間はこれをするんだ!」。「老いの一徹で、そんなに頑張らなくても…」と言う。老いの一徹じゃないのです。信仰の一徹ですよ。神様に対する信仰に立って、私が主に対して果たすべき責任は果たさなければならない。これが私たちの生きる使命です。
コリント人への第一の手紙15章58節「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。イエス様によって私たちは、今勝利を与えられている。死に打ち勝って、生きる者となっている。永遠の命に生きる身分にされている。それは、言葉を替えるならば、私が自分のために生きているのではなくて、甦って下さったイエス様のために、生かされているのだ。年を取っていようと何だろうと変わらない。主のために生かされているのは、若いぴちぴちしている間だけで、老いぼれたから必要ないと、イエス様は言われない。神様は永遠の命に、御国にすまいを備えて、私たちを持ち運んでおられる。その主の手の中に、私たちは握られて生きている。
この58節に「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず」とあります。何に堅く立つかと言うと、信仰に立つのです。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃるその信仰に堅く立ち、私たちのために住まいを備えて下さったという主の御言葉を堅く信じて、目に見える現実や様々な事柄に動かされないで、堅く信仰に立つ。「家族がそう言うなら、私ももう、年だし、言う事を聞いとこうか」など、そんなことじゃ駄目ですよ。と言って、家族と喧嘩せよというのではありませんが、私たちは、神様に与えられた使命を、果たすべき責任を持っているのです。だから、家族が何と言ったって「もう年だし、あれは止めとけ、これはしない方がいいよ」と言われると、段々と自信をなくして、「私もそんな年か」と思って、クニャッと気持ちも萎えて、落ち込んでしまうのではありません。そうなると、神様から離れてしまいます。罪が働くところとなって、死が私たちを支配するようになります。そうではなく、堅く立って動かされず、いつも、しっかりと確信を持って、キリストのために生かされている私ですと信じて、全力を注いで生きることです。
58節後半に「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。神様は、私たちの全ての労苦を知っていて下さる。決して、それは無駄に終わらない。私たちが死んでしまったら、覚えている人は誰もいなくなるに違いないけれども、それでいいのです。神様は忘れないと言われます。神様は私たちが尽くした労苦を無駄に終わらせることはない。だから、事半ばで地上の生涯が終わろうとも、けっして無駄になることはありません。周囲の人が「お父さん、そんなに長生きするわけじゃないから、今更、新しい事をするのは、止めときなさい」とか、「どっちみち死ぬんだから、あれも整理し、これも整理して、身軽になりなさい」と言われて、「あぁそうか、それじゃ…」というのは、死に支配されている。そうではなく、大丈夫!神様が、生かして下さる間は、私はあれもする、これもする、これも主が「せよ」と言われるからします。勿論、自分のためではない。イエス様の御心に従って、果たすべき事に全力を尽くす。死んだらどうなるか、死んだら、神様が、全部ご存知です。中途半端に終ろうとも、神様が、それをちゃんと完成なさるに違いない。私たちがするわけじゃない。
「主の業」と言うのは、ヨハネの福音書(6:29)を読みますと、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」とあります。イエス様を救い主と信じること、言い換えますと、イエス様のために業を行うことです。だから、自分がしたいからするとか、自分が嫌だからしないとかではなく、神様の導き、御心を信じて、与えられた業を励む、全力を尽くすのです。神様は私たちの果たしたわざ、神様のためにと、尽くした事柄が、中途半端であろうと、途中で終わったものであろうと、神様は最後まで持ち運び、完成して下さいます。ヨハネの黙示録14章13節「またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。素晴しい約束の御言葉です。ここに「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」、私たち、主の救いに与って死ぬ者は幸いであるというのです。何故ならば、死は終わりではないからだと語っています。「御霊も言う」とあります。「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み」と言う。死は私たちにとって、休息を与えられる恵みのとき。じゃ、この地上で働いた私たちの業はどうなるのか、それは消えてしまって、誰にも覚えられなくて、雲か霞のように消えて跡形もなく、何もないのだったら、なんのために苦労して生きているのかと思いますが、ところがそうじゃない。キリストのために生きる者とされて、私たちにとって、死は一切の労苦を解かれて、休息が与えられる恵みの時であります。そして、「そのわざは彼らについていく」とあります。神様はちゃんと覚えていて下さる。私たちのなすわざ、私たちがこの地上で行ってきたこと、生きたことの全ては、神様が全部知っていて下さいます。だから、失望することは要らない、落胆することはない。私たちは、神様が「よし」とおっしゃる時まで、全力を尽くして、神様の御心ならばどんなことでも喜んで、全力を尽くして生きる。その途中で終わりになるかも知れない。「やりかけて、もう、子供たちが後始末をする時に迷惑やろうから、もう止めとこうか」と、そんな心配はいらない。
もう一度コリントの人々への第一の手紙15章58節に「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず」。私たちは自分の現状を見ると、こういう年だしとか、自分の肉体的な衰えを感じる時、「私もそろそろ楽隠居しましょう」と言って、後ろ向きになってしまう。そうならないように、前向きに行こうではありませんか。主のために、キリストのために生きている。私たちはどんなことでも、主のために、「せよ」とおっしゃることを喜んで、力一杯、日々を生きていきたいと思います。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)とあります。私たちに許されている時間は、今しかないのです。だから、今という時を、力一杯主の業に、主の御心に従って、主の御旨とあらば、財を惜しまず、時間を惜しまず、健康を惜しまず、先に向かって望みを持って生きようではありませんか。神様は全部ご存知ですから、それは決して消えることはない。一日一日、今という時にしかできないことに全力を尽くしましょう。
ご一緒にお祈り致しましょう。