いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(71)「主の道を備えよ」

2013年12月01日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書40章1節から5節までを朗読。

今朝は3節に「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。
考えてみますと、地上の旅路は、平坦ではないなぁ、と思います。年を取れば取るほど、痛切にそのことを感じます。問題があり、悩みがあり、苦しいことやつらいこと、悲しいことが、絶えず起こってきます。3節に「荒野」、「さばく」という言葉が出てきますが、普段、荒野を見たり、砂漠に旅をしたりということはありません。せいぜい、テレビの世界紀行などで、冒険家のドキュメントを見たりすると、砂漠とはこんな所かなと想像はつきますが、実際に体験することはありません。日本では身近に見ることができません。しかし、中近東や南米などへ行きますと、草木もなく、ごつごつと岩ばかり、砂地だったり、あるいは、高地で寒暖の差が激しく、厳しい土地柄がたくさんあります。ここに「荒野」とか「さばく」とか言われるのは、具体的な目に見える砂漠地帯、あるいは荒野で何かをせよと言っているのではありません。

「荒野」、「さばく」とは、私たちの人生、日々の生活です。今日までの一年を振り返ってみても、花咲く楽園のような一年であったと言える方は、数少ない。波乱万丈であった、荒波が多かった、苦しいことが多かった、つらい、悲しいことが多かったという一年だったと思います。言うならば、荒野のような、砂漠のような日々を送っています。砂漠とは、無味乾燥、潤いもなければ慰めもなく、ただ索漠とした、「砂をかむような」という言葉がありますが、そのような生活を体験します。必ずしも生活の場が、砂漠の中にあるわけではありません。周囲を見ると緑も豊かだし、いろいろなものが整って生活環境は快適になりました。しかし、現実に出会う事は、まさに、索漠として喜びがない、あるいは慰めるものがない、荒野であり、砂漠ではないでしょうか。

3節に「主の道を備え」「神のために、大路をまっすぐにせよ」と勧められているのです。なぜ、この人生で神様の前にこのような道を備えなければならないのか。それは、5節に「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」とあります。神様が、私たちをこの地上においてくださった目的の一つは、私たちを通して神様の栄光を現すことです。神様の栄え、神様の素晴らしさ、神様の輝き、光を輝かせていく者となる。この年頭に与えられました御言葉にありますように、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。キリストと同じ栄光の姿、神の御性質にあずかる者となるのです。神様は、私たちを通して栄光を現すために、「荒野」、「さばく」としか思えないような地上の生活の中におかれます。そこで主の道を備え、神様を求めよと言われる。あるいは、「大路をまっすぐに」、神様に向かう心を整えるのです。「神のために、大路をまっすぐにする」とは、神様に対する私たちの思い、信頼、信仰、神様をどのように信じているか、神様の前に姿勢をまっすぐにすることです。これが「大路をまっすぐにする」、神様の前に寄り道をしたり、くにゃくにゃ曲がった道ではなくて、スキッと一本道、まっすぐな心を整えること、これが大切なことだと記されています。

やがて後に、バプテスマのヨハネが現れたとき、世の人々にこの言葉をもって悔い改めを勧めました。神様の前に悔い改めて福音を信じなさいと。そうして、ヨハネが、私の後にもう一人の方がこられるから、その方によってすべてのものが新しくなるのだと、神の言葉を語ったのです。「主の道を備え、大路をまっすぐに」する、言い換えると自分の生活態度を悔い改めて、方向転換して、神様に対する思いを一つにしていくことです。これを、バプテスマのヨハネは勧め、多くの人々に警告を与えました。彼の後にくるイエス様の救いにあずかる備えをするためです。今、私たちも、イエス様の救いにあずかって、この地上の生活を歩んでいますが、今もなお肉体をもってこの地上におかれている。それは、地上の生活を通して、与えられた信仰に立って歩んで、具体化させていく。神様の前にピシッと思いを一つにして、混じり気のない純粋な信仰に立って、神様を信頼する者になるためです。神様の側の業はすべて終わっている。「事畢(おわ)りぬ」と完成してくださった。それに対して、私たちはそれを信じて、今度は自らを主にささげていく。このような生き方をするようにと、勧められているのです。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。殊に、私どもは、いろいろな問題や事柄に出会います。そのときにこのことが、問われます。さまざまな思いがけない事態や事柄に出会います。そのとき、信仰がふるわれるのです。試されます。そして自分が何を信じているのか、私は神様に対して信頼しているだろうかと、自らに絶えず問われるのです。

私自身もいろいろなことを通して、信仰を絶えずふるわれます。病気をしたり、問題に遭ったり、事に会い、思いもかけないことが起こってくると、自分の心をふるわれるのです。一体、自分は、何を信頼し、何に従っているのだろうかと、心に問われます。ある意味では幸いなことです。ただ、そのときに間違うことが多い。ぶつかった問題の具体的な事柄に心が奪われて、神様を忘れていく。忘れはしないまでも、神様が薄くなってしまうのです。皆さんもご経験のあるところだと思います。何か問題が起こると、大変だ、早くこれを何とかしなければとそのことばかり、その事柄を解決することばかりに思いが傾いてしまう。そして、どうしようか、ああしようか、こうしようかとうろたえて、あちらこちら走り回るという醜態をさらします。そこで私たちに大切なのは、荒野、さばくといわれるような苦しいつらい問題に遭ったときに何をするか。まず、自分自身を省みて、神様の前に自分がどのような歩みをしているかを、信仰の姿勢を問わなければならない。

ところが、そのような事があるとき、そうならないのです。ある程度、事が落ち着いたら、そうだ、お祈りをしなければいけないと、なりやすい。私たちを造り変えて、神様の栄光を現す者となそうとしていらっしゃる。神様の栄光を現していただく秘訣は、荒野に、またさばくに主の道、神様の前に大路を整えることです。私どもは、具体的な問題や悩みや痛みや苦しみを何とか早く取り除きたい、この状況から、事柄から逃れたいという思いばかりが先に立つ。そうではなくて、そこで、今、私がしなければならないのは、問題の解決ばかりではなく、祈って、神様の前に自分の思いと信仰をきちっとさせることです。

歴代志下14章1節から5節までを朗読。

これは、アサ王様の時であります。お父さんであるアビヤという王様が亡くなられて、その子アサが王様となりました。アサは王の位に就いたとき、まず、したことがある。それは、2節に「その神、主の目に良しと見え、また正しと見えることを行った」。それまで、お父さんの代の習慣や、習俗、いろいろなことがありました。しかし、アサ王様は神様が喜ばれること、神様の御心は何かということを、まず第一に求めたのです。この姿勢が大切です。具体的に何をしたかと言いますと、3節以下に「彼は異なる祭壇」、「高き所」、「石柱」、「アシラ像」を取り壊す。お父さんの代は、イスラエルの民の中に、いろんな偶像を拝む人たちが増えてきたのです。そこに「異なる祭壇」とありますように、天地万物の創造者であるまことの神様に対してささげる祭壇ではなくて、ほかの異なる神々にささげる祭壇をあちらこちらに設けていた。また、「もろもろの高き所」と言うのは、犠牲やいけにえをささげる台です。そのようなものが国中のあちらこちらに設けられていた。これが神の民・イスラエルかと疑うような生活をしていたのです。まことの神様は、「十戒」の一番最初に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と、お命じになっているのに、イスラエルの民は、これが神の民かと思うようなさまざまな神々を神としている。ここに「異なる祭壇」、「高き所」とあるように、また、「石柱」、これもある神々を祭るための一つの道具であったと思います。石柱をあちらこちらに建てていた。いうならば、鳥居のようなものかもしれません。日本で、あっちにもこっちにも、高き所、異なる祭壇が街中にあふれています。そして「アシラ像」とありますから、とんでもないことですね。このユダの人々は、アシラ像まで祭って拝んでいた。

ところが、アサ王様は、それらの一切を整理してしまった。完全に取り除いてしまった。それに代えて、4節「ユダに命じてその先祖たちの神、主を求めさせ」と。自分たちが神に選ばれた民として、姿勢を整える。私たちもそうですね。イエス様の救いにあずかって、イエス様が私たちの罪を許し、神の子としてくださった。大きな御犠牲によって、愛の中に取り込まれている。何でも許してくださるから、いいじゃないかというのではない。もちろん、神様は忍耐して待ってくださっている。私たちをイスラエルの民として、召してくださった。私たちは、まず、自らを省みて、「アシラ像」「石柱」「高き所」など、目に見えるものではないかもしれないが、いろいろなものに心を懸けている。これが神様に対する妨げになっている。だから、神様は荒野、さばくといわれる中に、私たちを入れて、そういうものを取り除き、清めてくださる。

このとき、アサ王様はそうやってすべてのものを取り除いた上で、人々に命じて「先祖たちの神、主を求めさせた」のです。アブラハム、イサク、ヤコブ、先祖たちが信仰をもって信頼していた神様を求める者となったのです。5節に「ユダのすべての町々から、高き所と香の祭壇とを取り除いた」。徹底して、全部なくしてしまった。これは私たちも学ぶべき事です。日常生活の中に、気が付かないうちに、この息子たちがきっと助けてくれるに違いないとか、この保険が頼りになるに違いないとか、神様以外のいろいろなものを頼りとしている。案外とそのようなことがもろに現れてくるのは、問題があり、困難があり、試練に遭うときです。あれを頼もう、あの人がいる。こうしようと、自分の思い、経験、人間関係とか、いろんなものが、神に取って代わる。アサ王様はすべてのものを取り除いて、5節に「そして国は彼のもとに穏やかであった」。神様はそれに応えて祝福を与えてくださいました。6節に「彼は国が穏やかであったので、要害の町数個をユダに建てた。また主が彼に平安を賜わったので、この年ごろ戦争がなかった」とあります。アサ王様の神様に対する態度、さばくに道をきちっと整え、大路をまっすぐにする。神の道を整え備えていく。アサ王様がまずやったことです。その結果、神様は、国に平安を賜い、また戦争がなかった。

ところが、9節以下に「エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。10 アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした」。戦争もなく、平安であった。このまま最後までやってくれれば良かったと思います。しかし、神様は事を起こされるのです。エチオピヤびとが攻めてくるのも、神様の御思いだったのです。なぜならば、物事が順調にいくと、心が慣れてきます。恵みに慣れてくる。当たり前になり、感謝をしない。だから、時々ガシャ、バリッとふるわれる。皆さん、何か問題が起こったら、感謝したらいい。神様は私を愛してくださって、今、目を覚ませとおっしゃっている。私は眠り込んでいたと思って、そこできちっと道をまっすぐにしたらいい。それが私たちの恵みです。

この時、エチオピヤびとが大軍をもって、百万の軍隊と三百の戦車を率いて攻めてきた。イスラエルが南北二つに分かれましたから、アサ王様の国、ユダは小さな国になった。だから、一たまりもなくやられてしまう。ところが、その時、11節「時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、『主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください』」。これはすごいですね。アサ王様は、大軍が攻めてきた時に、大変だ、そら、軍備を増強しろ、もっとたくさん戦車を造ろうと、そっちに走ったのではなかった。11節に「時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った」。全てに先立って、神様の前に出る。アサ王様のように、何か事があったら、まず、サッと、神様を呼び求める、そして、神様の前に自分の姿勢をきちっと整える。これが勝利の秘訣です。このときアサ王様は、そうやって神様に向かって呼ばわった。何と言ったか。「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません」。その通りです。神様は、全能者ですから、どんなことでもおできになる。力の強い者を助けるのは、それは楽だなとか、この弱い人だったら、困ったな、これからしんどいなと言わない。人が助けるのだったら、そう言うでしょう。神様は、そんなことにお構いなしです。力が強かろうと、弱かろうと、神様が助けられるときは、そのような事はかまわない、異なることはない。そのことをアサ王様は、はっきりと神様に念押しをしている。「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません」。だから同じでしょと、あなたにできないことはないと。

その後に「あなたの名によってこの大軍に当ります」。神様の前に姿勢を整えて、果報は寝て待て、俺は昼寝しとくから、神様一つやってくれというのではない。今から、あなたの名によって、あなたに従って、戦うべきならば出かけます。負け戦になることはわかっていても、そこで神様を信頼して、次に具体的な一歩を踏み出していく。これが大切です。私どもはともすると、神様に信頼したのだから、私は手も出さん、口も出さん、後は寝ておこうと、棚ボタ式に怠惰を決め込む。神様は私たちのためにしてくださいますが、与えられた小さな力を神様にささげるのです。アサ王様は自分のわずかな力を、神様、あなたにささげますから、これを用いてくださいと言っているのです。そのわずかな力を神様からいただいて、私は今から神様の戦いとして、出て行きますと姿勢をきちっと整えました。いろいろな問題に遭い、病に遭い、事に会うとき、こんな思いをして、こんなつらいことになって、こんな悩みを私に押し付けられてと、逃げ腰になるのではなくて、まず神様の前に出る。与えられた事について、神様の前に自分がどういう思い、信仰を持って立とうとしているかをきちっと整える。その上で、与えられた問題を、今度は神様からのものとして、信仰を持って受け取る。神様は力を現そうとしているのですから、自分をささげることが大切です。

アサ王様は、神様に自分をささげたのです。そして「あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。私に勝利を与えてくださいと言うのではなく、神様、あなたが勝利を得てください。あなたが勝ってくださいと言っている。神様の勝利を現してください。12節に「そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った」。彼らは戦いに出て行きました。力のない彼らですが、神様のほうが、はるかに上回る力をもって、エチオピヤ人を撃退してくださいました。そして彼らに平安が与えられたのです。

ですから、その後の15章3、4節を朗読。

これは、神の僕であるアザリヤという神の人が、アサ王様のところへ来て、「あなたは本当に素晴らしいことをしましたね」と褒めている。何をしたのか。3節に「イスラエルには長い間、まことの神がなく、教をなす祭司もなく、律法もなかった」とあります。神様に選ばれた、イスラエルの民でありながら、誰も神様を求めようとしなかった。ところが、あなたは、この悩みにあったとき、こうしてまず、神様を求めた。4節に「悩みの時、彼らがイスラエルの神、主に立ち返り」、イスラエルが、神様に立ち返って、神様を求めたので、「彼に会った」。神様が、ご自身を現してくださった。神様の業を見せてくださった。どうぞ、私たちも、これを体験しようではありませんか。

その後に、アサ王様は、更に、8節に「これらの言葉すなわちオデデの子アザリヤの預言を聞いて勇気を得、憎むべき偶像をユダとベニヤミンの全地から除き、また彼がエフライムの山地で得た町々から除き、主の宮の廊の前にあった主の祭壇を再興した」。ここで、アサ王様は、アザリヤから「あなたは良いことをしました。本当に神様の前に正しい歩みをしましたね。そして勇気を出してこのことをしっかりと続けなさい」と励まされました。「あなたがたのわざには報いがある」と。このわざとは、神様を求めること、「神様の前に歩みを整えたそのことが、必ず報われるのだから、更にこれを徹底しなさい」と勧められています。だから、アサ王様はなし得る限り取り除いたのですが、エチオピヤ人との戦いの後に、さらに心を低くして、もっと徹底して、8節に「アザリヤの預言を聞いて勇気を得、憎むべき偶像をユダとベニヤミンの全地から除き、また彼がエフライムの山地で得た町々から除き」ました。戦いで新しく獲得した町の中も清めて、そこの偶像も全部取り除いて、更に、「主の宮の廊の前にあった主の祭壇を再興した」。今度は、まことの神様を礼拝する場所を、礼拝の場所をきちっと再建したのです。これは、ユダの民にとって大きな業です。私たちも、生活の一つ一つすべての中に、いろいろな問題に遭うとき、主の前に大路をまっすぐに、荒野に道を備えて、神様の前に、取り除くべきものがあるならば、頼りとするものがあるならば、それを神様にささげきって、アサ王様のように潔く、神を第一とする歩みをしたい。

先ほど申しましたように、平安であったのに、どうしてエチオピヤ人との戦いが起こったのかと思いますが、じつはそれがあったので良かった。この戦いを通して、アサ王様は、自分の信仰を実証することができました。それに対して神様は、もう一つ深くユダの国を清めて、神様の恵みと祝福があふれるものと変えてくださったのです。今まで神様を礼拝する場所も消えていたのです。祭司もいなくて、律法を守る人もいない。神様の御言葉を求める人もいなかったユダの国が、アサ王様の時になって、神様を第一にするまことのイスラエルの民に造り変えられている。神様は、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えようとして、私たちを召してくださいました。そのために、私たちのうちに、いろんなことを起こしなさる。しかし、それは私たちをもっと主の栄光の姿に、キリストに似る者となそうとしているのです。だから、いよいよ熱心になって主を求める。主に出会う者となりたいと思います。

このとき、アサ王様は、神を礼拝する場所を造りました。9節に「彼はまたユダとベニヤミンの人々およびエフライム、マナセ、シメオンから来て、彼らの間に寄留していた者を集めた。その神、主がアサと共におられるのを見て、イスラエルからアサのもとに下った者が多くあったからである」。イスラエルの十二部族が、北イスラエルと南イスラエル(ユダを中心とした国)とに分かれました。ユダとベニヤミンという二つの部族が一つの国を造ったのです。エルサレムが首都になりました。北のイスラエルは、サマリヤを首都とした国となりました。ところが、アサ王様の時に、なんと、その分かれた北イスラエルの人々が、どんどん移り住んでくる。なぜなら、北イスラエルは神様を離れて、偶像を拝むようになってしまっていたのです。それに心を痛めていた人たちが、アサ王様の生き方を見て、やってくるのです。これは本当に素晴らしい。だから、私たちが、神様を恐れて、主を前において歩んでいくならば、主を求める人を、どんどん送ってくださるのです。ここにあるように、アサ王様は、それらの人々をともに集めて、国中で神様の前に礼拝をささげる。

10節に「彼らはアサの治世の十五年の三月にエルサレムに集まり、11 携えてきたぶんどり物のうちから牛七百頭、羊七千頭をその日主にささげた」。それまで失われていた礼拝をする民に変わっていくのです。12節以下に「そして彼らは契約を結び、心をつくし、精神をつくして先祖の神、主を求めることと、13 すべてイスラエルの神、主を求めない者は老幼男女の別なく殺さるべきことを約した」。厳しいですね。国中の人が誓約をしたのです。神様の前に約束をしました。これから、どんなことがあっても、イスラエルの神、主を求めます。ほかの神々により頼みません!と決めたのです。もし、それに違反する者があったら、老いも若きも年齢にかかわりなく、男女の別なく、すべてそういう者は殺されるべきです。死刑!と。そこまで言われたら、ちょっとおじ気つきますが、そのくらいの覚悟です。決して、生半可にできない。神様は、私たちに対してひとり子を賜うほどの大きな御愛を注いでくださいました。それに応えて、私たちも神様を第一にする姿勢をきちっと整えていきたいと思います。

そうやって素晴らしい国に変わったのです。しかも、16節に「アサ王の母マアカがアシラのために憎むべき像を造ったので、アサは彼女をおとして太后とせず、その憎むべき像を切り倒して粉々に砕き、キデロン川でそれを焼いた」。なんと自分のお母さんですよ。お母さんは、かつての習慣に従って、アシラ像を慕ったのです。だから、自分だけこっそりアシラ像を造って拝んでいました。それを見たアサ王様は、お母さんの皇太后の位をはずしてしまって、普通の人にしてしまいました。そしてアシラ像を粉々にしてキデロン川でそれを焼いた。ただ、このときアサ王様は、ちょっとお母さんをかわいそうに思ったのですね。その後の17節に「ただし高き所はイスラエルから除かなかった」とあります。これは「高き所」とは、アシラ像にささげる犠牲の台だけは残してしまった。ほんのちょっとしたことだったのです。しかし、それが後々アサ王様の大きな問題になってくるのです。
17節の後半に「アサの心は一生の間、正しかった」と記されています。その前の15節に「ユダは皆その誓いを喜んだ。彼らは心をつくして誓いを立て、精神をつくして主を求めたので、主は彼らに会い、四方で彼らに安息を賜わった」。この国は、神様の平安に満たされ、しかも19節に「そしてアサの治世の三十五年までは再び戦争がなかった」。神様は平安を与えて、栄光を現してくださいました。

しかし、そのアサ王様も16章にはとんでもない大失敗しています。後で詳しくお読みいただいたらよろしいかと思いますが、アサ王様の治世の時に、同じ民族でありながら、北イスラエルが攻めてきた。そのときに、アサ王様はスリヤの国に援軍を頼んだのです。35年間も平安が続いて安泰であった。どこか、心にすきがあったのです。それは先ほど申しました「高き所」を取り除かなかった一つの事が、おそらく、彼の心に弱さを生み出しているのです。先見者ハナニ、神様の預言者が来て、「あなたは一体なんということをしたのですか」と言ったときも、先見者を捕らえて獄屋に入れてしまった。とうとうアサ王様は病気になりました。16章の12節に「主を求めないで医者を求めた」。アサ王様は素晴らしいことをしたのですが、最後のところで大きくつまずきました。

どうぞ、私たちも、そうならないために、最後まで神様を一心に求めましょう。16章9節に「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」。ここで先見者ハナニが、神様は、絶えずすべての地を行きめぐり見ていらっしゃる。そして「自分に向かって心を全うする者」、一筋に神様に姿勢をピシッと整える者に向かって力を現してくださる。「ところが、今度のことでアサ王様、あなたはたいへん失敗をしましたね」。ここでアサ王様が、悔い改めて、「申し訳ない。私が悪かった」と、悔い改めれば良かったのですが、「なにくそ!えらそうなことを言うな!」とハナニを捕らえてしまった。とうとうアサ王様は病気になって、医者を求めて、神様を捨ててしまった。まことに無残な終わりを迎えます。

もう一度、初めのイザヤ書40章3節に「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。どうぞ、私たちは、いつも事があるたびに自らを省みて、高き所がないか、アシラ像がないか、異なる祭壇がありはしないかと、自分の心を探って、「神様、あなたに従います。主よ、私の頼むべき御方は、あなただけです」と詩篇で歌った記者のように、神様に心を向けていきたいと思います。ヤコブ書にありますように、二心の者は心を清めて一筋に神様に信頼する。そのとき4節に「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」。神様は、高い山のようにそびえ立つ問題を切り崩して、平地にしてくださる。神様は、絶望のふち、谷のような悩み、闇を埋めて平らにしてくださる。私たちは、力がなくても、知恵がなくても、神様が働いてくださいますから、勇気を出して、進めとおっしゃるなら、「はい」と進んでいく。あのイスラエルの民が、紅海を前にしたときに、神様は、モーセに「行け」「進め」とおっしゃいました。どうなるかわからないけれども、進んだとき、思いがけない道が開かれました。私たちに対して神様は、そういう不思議を行ってくださいます。神様の業が現れるために、主の道を、また、神のための大路をピシッと整えていこうではありませんか。そして5節「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」のです。神様の栄光がそこに現されます。私たちをして栄光の姿へと造り変えてくださいます。これは、主の働き、主の霊なる働きです。そのために絶えず、神様の前に自分をピシッと備えていく日々でありたいと思います。それを求めていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。








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