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いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(57)「祈りなさい」

2013年11月17日 | 聖書からのメッセージ
ピリピ人への手紙4章4節から7節までを朗読。

6節「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。

今年も早9ヶ月が過ぎまして、残すのは4分の1だけと、瞬く間に過ぎてきました。一方、日々の生活は、次から次へと思いがけないこと、考えもしないこと、願わないこと、思い煩いが尽きません。しかし、幸いなことに、今、神様に祈ることができます。どんなときでも、祈ることができる特権が与えられていますが、この特権を案外と使わない。宝の持ち腐れにしやすい。お祈りすればいいと、誰でも知っています。知っているだけでは、結果を得られません。やはり実際に祈らなければ、得られないのです。しかし、祈るよりも心配が先に立ちます。思い煩ったあげくの果て「そうだ、お祈りすれば」となる。最後になってしまう。神様は、繰り返し、わたしに祈りなさい、求めなさいと語っています。「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」と。求めない限り、神様は手を出さない。私たちは、ただ単に神様のロボット、神様に操られるものとしてではなく、一人一人が神に似た者として造られ、自らの決断と選択をはっきりすることを求められています。神様は自発的な意思と決断で、神様に求めてくるのを待っています。

最近の親は子供が欲しいものを何でも、はい、はい、と右から左に与える。子供が欲しがりもしない前から、これがいる、あれがいるのじゃないと、親が物を与えますから、子供は次第に求める能力を失っていく。生きるのは、ある意味で何かを獲得する、自分で勝ち取ることです。動物の世界でも、アフリカの野獣の生活を見ていると、命を養うために、常に自分で獲物をとらえに行く。草食獣であっても、常に自分の餌を、自分の命を養うに不可欠なものを得るために努力する。一生懸命に尽くすのです。一日の大半の時間を費やします。黙ってじっとしていたら与えてくれる世界ではない。自分で押しのけてでも獲得する。激しい競争の中で勝ち取っていくのが命です。ところが、最近の若い人を見ていると、その命が薄くなっている。消えかかっている。病気があるわけではないのですが、生きるためのエネルギー、生きるに必要なものを自分から積極的に獲得していこう気概がない。他人を押しのけ、け飛ばして、踏みつけてというわけではありませんが、少なくても自分の命、一日の命を生きようとする力、ファイト、求める力が乏しくなっている。だから、子供のときに、ある意味では乏しい生活、いろんなものに不足して、何とかしてそれを切り抜こうと体験させることが大切です。皆さんの若いころはそうだったと思います。欲しくても手に入らないから、とにかく手近にあるもので代用してみたり、工夫して使ったり、いろいろなことに知恵を尽くして、自分の求めるものを獲得したのです。ところが、今ではそれこそコンビニもあります。何でもあります。求めなくても、努力しなくても右から左に与えられるから、自分で生きている感覚がなくなる。いきおい生きている喜びがない。それで段々と人間の心が沈んでいく。力を失って、命が消えてしまう若い人たちが多いのです。

神様は、常にいろいろな思い煩いを与えてくれます。皆さん、悩みがなくなったら、生きていても楽しみがありません。喜びがありません。何か問題が起こったら、ああしようか、こうしようかと、寝る時間も忘れて思い煩います。で、思い煩ったあげく、道が開かれたときの喜びは大きいですね。「願っていたが、こういう風になった」という感謝が大きい、喜びがあふれてくる。それは一生懸命に求めるとき、得られるからです。求めていくのは、必ずしも楽ではありません。健康上の問題、家族の問題、自分自身の将来のこと、老後のことなど悩みますが、そこで、何とかそれを解決する道筋を努力する。それこそが、日々、生きていることの証詞でもあります。神様は、私たちにそうやって悩みを与え、問題を与え、事柄を起こして、神様を求めて欲しいと願っています。求めなければ神様は応えてくださらない。だから、祈りなさいと、イエス様は、繰り返し言っています。どんなときでも、主を求めて祈ることができます。これは大きな特権であり、また恵みです。祈ることは、私たちしかできないことですから、しっかりと主を求めていこうではありませんか。神様は、願い求める者に応えようとして待ち構えている。だから、思い煩いや悩みがあるならば、先ず祈ることです。ですからこの6節に「何事も思い煩ってはならない」と。思い煩うなというのは、思い煩いがなくなることではありません。思い煩いはあるけれど、それに捕われないで、早く神様に求めなさいという意味です。思い煩うな、と言われると、「これから我慢して思い煩うまい」と考えます。しかし、そうではありません。生きる限り、思い煩いはいくらでも出てきます。活性化する、力づけるため、励ますため、命を燃やすための燃料のようなものです。思い煩いがなくなったら、生きる力がなくなります。

認知症などになって、記憶が薄らいで何も覚えていない人がいます。そういう方を見ると、「あんなふうに全く分からなくなったら、よほど幸せだろうな」と思われるでしょう。必ずしもそうじゃないのです。物事が、日常的なことが分からなくなった人は、思い煩いがなくなるわけではない。それなりの悩みがあるのです。だから、時に出会うのですが、町内を散歩していると、自分がどこへ行こうとしているか分からなくなっているお年寄りがいます。自分が分からないから、悩んでいるのです。どんな状況の中にあっても、悩みは尽きない。だからうかつに、こんなに悩みが多いなら、直ぐ忘れてしまう認知症になったほうがいいかなと思う。それは大間違いです。みんな同じなのです。思い煩いがあるからこそ、ある意味では元気でおれる、今日も生きることができるのです。では、元気の源だから何でも悩もうかと、悩んでばかりいてはいよいよ心がすさんできます。物事に恐れを抱き、戦々恐々として、縮こまってしまう。そうならないために、その思い煩いを通して、神様からの力をいただくこと。神様の力によって、生きる者となることを願っています。

思い煩いが消えるわけではないけれども、絶えず起こってくる思い煩いに捕らわれない、それに固執しない、それを自分の力で何とかしようと思わないで、神様の所に持っていく。6節に「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ」、「ただ、事ごとに」というのです。事ごとにとは、一つ一つという意味です。十把一からげで、朝起きて「天のお父様、感謝します。今日一日すべてをお任せいたします」、これでよし、と。これは事ごとではありません。朝起きて顔を洗う、食事をする、買い物に行く、掃除をする、その一つ一つ、ことごとく、いつも祈り続ける。そんなことをしていたら、生活ができない。お祈りするたびにひざまずいて、かしこまって神様の前に……と。そんなことではありません。お祈りするのは、確かに一日のある時間を神様の前にささげて、人を離れて、静まって祈ること、これも大切なことです。ですからよく言われるように、朝の五分の祈りはその人の人生を変える、と。五分間でいいから、先ず起きたら、静まって、神様に祈る。聖書の言葉を開いて、心を整えて、一日を始める。たったそれだけのことですが、これが356日、10年、20年、30年たってくると、私たちの心と思いが作り変えられます。ですから、マタイの福音書6章にあるように「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」、「戸を閉じて」とまで言われる。自分の部屋の戸を閉じてと。密室で、人から離れて、この世から離れて、世の思い煩いから離れて、神様に近づいて静まる。これは私たちにとって最高の恵みです。ときたまではなく、思い出したようにではなく、毎日それを習慣にする。そうしないと一日が始まらないし、終らないと言うぐらいに、身に付いてきますと、イエス様が絶えず共におられることを、身をもって体験することができます。

ところが、私どもは、ともすると、朝起きるなり今日はあれをしなければいけないと、前日、寝るときから計画を立てて、明日は朝早く起きて、こうして、ああしようと、翌日、目が覚めるなり、天気がよく青空で「こんないい日はない。どこか行楽に行こう」とバタバタしてしまう。ちょっと心に引っ掛かりながら、お祈りをしなきゃ、でも先にあれをしとこう、その後でと。それを終ったら次に、これもしとこう、でも、お祈りが……、いや、もういい!と、次!次!と、気がついたら一日終わる。今日は朝、静まれなかったから、夜にしようと座った途端クーッと眠くなった。神様、ごめんなさい、もう寝ます。こういう日を365日やって御覧なさい、明らかに神様から遠ざかる。まだお祈りを忘れた、悪かったと思っている間はいいですよ。一週間くらいたったらそれも感じなくなる。ですから、聖書にもありますけれども、敬虔を修行せよ、信心を訓練しなさいと。黙っていて身に付くことではありません。いろんな事を犠牲にして、初めて得られる恵みです。だから、天国は、多くの人々から襲われる、奪い取られているとイエス様は言われました。奪い取らなければいけないのです。毎日、主を自分の前におく訓練をすることは大切です。それと同時に、「ただ事ごとに」と、今度は、日々の生活の一コマ一コマのわざをするとき、終わるとき、絶えず感謝して祈る。また、思い煩いを自分の中にためないで、直ぐに神様のところへもっていく。「心を注ぎだせ」と詩篇にうたわれています。心を空っぽにする。これが祈りの恵みです。

私は自分の人生を振り返って、一番幸いであったのは、神様を信じて、祈ることができる、祈りを教えられたことです。牧師の家庭でしたから、三度の食事はもちろん、朝晩の祈りをします。父や母はことごとくいろんな事がある度に、必ず祈ります。こちらも巻き添えになります。その当時は嫌で仕方なかったけれど、本当にいい訓練をしてもらったと思います。何かあると直ぐに引き据えられて、祈ります。そうすると、自分でもお祈りをするようになりました。それが幾つの歳であったか記憶はありません。幼少のころから祈る訓練をすることは幸いですね。私は子供のころから気が弱くて、心配性なのです。何か事があるとハラハラ、ドキドキする。心配な事があると、ちょっと部屋の隅に行って、「神様、今こういう心配があります」とお祈りをする。そうすると心が晴れるのです。神様が知っていてくださると確信が与えられる。振り返ってみると、本当に幸いでした。今でも、歩いていようと、車を運転していようと、不安があるとき、思い煩うとき、「主よ、今こういう不安があり、こういう思い煩いの中に捕らわれていますから、取り除いてください」と祈ります。そうすると、瞬時に心を変えてくださるのです。こんなことを思うのは止めよう、止めようと、一生懸命に頭を振り払ってみても駄目です。役に立ちません。ただ、祈ることです。そうしますと、心に平安が与えられ、感謝がわいてきます。

6節に「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。「感謝をもって祈と願いとを」、先ず感謝してとあります。感謝してと言われると、つい考えてしまう。何か感謝することがあるかなぁ、あれはもう前に感謝したしなぁ、と。もう一度するのかな、と。二度でも三度でも、悩みがあるときに「神様、こういう悩みの中にあります。主が与えてくださった悩みですから感謝します」と祈る。感謝するというと、自分の利益になること、都合のよいこと、恵みにあずかったことを感謝しようとするでしょう。それはここで言うところの「感謝をもって」と言うことではない。感謝することは、神様を褒めたたえ、神様のわざであることを明らかにするのです。だから、病気になったら、「神様、こんな病気にしていただきまして感謝します。しかし、私は悩んでいますから……」と、最初に感謝をもってくることは、いくらでもできます。「私はこんな失敗をして、大怪我をしました。主よ、あなたがここに導いてくださったことを感謝します。でも、痛いから早く癒してください」と、次に求めていく。だから、どんなことでも、先ず感謝するのです。良いとか悪いとか言わない。何でも感謝する。先ず感謝して受ける。そうすると、テモテへの第一の手紙4章にあるように「感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。そうやって感謝して受けて祈ります。すると、文字どおり感謝に変わるようにしてくださる。

「すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と約束されています。「こうして病気になって、こういう悩みの中におかれて、こういう苦しいつらい中におかれている」。それを「神様が、こうして私をここにおいていらっしゃることを感謝します」と祈ります。お祈りの途中で、感謝した途端に心が変わるのです。そうすると、悩んでいたけれども、いや、悩みじゃなかった、これはむしろ喜ばしいこと、うれしいことじゃないかと。世の人々が気の毒と言う事や事柄の中でも、感謝して受けることができる。そして、私たちの思うこと、願うこと、どんなことでも「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。神様に全部打ち明けるのです。これは私たちの特権、恵みだからです。
エステル記5章1節から3節までを朗読。

これはユダヤ人が、バビロンに捕囚になったときに、アハシュエロス王様の妃(きさき)としてエステルが選ばれました。彼女は、ユダヤ人の出身だったのです。ところが、王様の信頼するハマンという人がいました。彼はユダヤ人嫌いでした。何とか自分の国にいるユダヤ人を抹殺しようと、王様に取り入ってユダヤ人を全滅させる法律を作りました。それが施行されようとする直前、ユダヤ人社会のリーダーだったモルデカイが、姪のエステルの所にやってきた。今、あなたの民族が滅亡の危機にひんしている。こういうとき、あなたが王宮にいながら自分だけ助かると思ったら大間違い。この日この時のために、神様があなたを王宮において、王妃としているのではないか。王様に願って、ユダヤ人を守ってもらうように、助けるように求めなさい、と伝えました。ところが、その当時、妃であっても王様から声が掛からなければ、勝手に王様の前に行くことが許されなかったのです。もし、王様の許可もなく、王様の所に来たならば、処刑されました。命を失う。それでエステルは悩みました。まだ王様が声を掛けてくれないのに、自分から出て行くわけにはいかない。もし行ったら、私は死ななければいけない。しかし、エステルは覚悟をしまして、王様の前に出て行きます。

それが、今読みました5章の1節に書いてあります。王妃エステルは、きちんと正装しまして、王宮に入って行きますそのとき王様は、2節に「王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばした」。王様が笏を前に伸ばすと、「よろしい」という合図です。そこにありますように「彼女に恵みを示し」と。彼女が王様の前に出る資格も値打ちも実はなかった。ただ、王様のあわれみによって、その前に近づくことが許された。このエステル記には、イエス様のことだとか、救いのことは書いてありません。しかし、エステル記そのものが実は、やがて私たちが受ける福音の証詞です。私たちも、エステルと同じように、神様の前に出る資格も値打ちもない。もし、生まれながらの私たちが、神様の前に出るならば、罪の故に、穢(けが)れの故に、即刻永遠に滅ぼされます。私たちが勝手に、「天のお父様」、と呼びかけても、聞いていただく値打ちもない。今は、王様が、王妃エステルに笏を伸べたように、尊いひとり子の十字架を立てて、それを金の笏として、私たちに伸べてくださいました。金や銀のような、朽ちゆくものではなくて、主のあわれみの故に、恵みの故に、神様に近づくことができる者と変えられています。こういう素晴しい特権、恵みの身分を与えられている。お祈りをするとき、そのことをよく味わっていただきたい。こうして祈らせていただけるのは、ただひとえに、御子イエス様が、十字架にあがないとなって命を捨ててくださった故に、神様のほうから、私に笏を伸べて、招いてくださったのだと。

ここにあるように「その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった」。これは王のあわれみを受けることです。「はばかることなく恵みの御座にちかづこうではないか」とヘブル人への手紙4章に勧められているように、イエス様の十字架のいさおしによって、赦された者となり、神様の前に立たせていただけるのです。そのとき、3節に「王は彼女に言った、『王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう』」。素晴しいですね。エステルが命懸けで近づいてくる様子を見て、王様はきっと何か願い事があるに違いないと思ったのです。だから、「王妃エステルよ、何を求めるのか」と。神様は、天地万物の創造者、私たちが近づくことのできない間柄でありながら、神様のほうが、十字架を立てて、「何を求めるのか。あなたの願いは何か」と問うてくださる。なんと大きな恵みではないでしょうか。

今も神様は、皆さん一人一人に、お前の願いは何か? と聞いてくださいます。こんなことを言っちゃいけないだろうか。こんなことを祈ったら、神様は欲深と思うかもしれない。神様はそんなことを気になさるような方ではない。ここにありますように「国の半ばでもあなたに与えよう」。神様は、私たちにどんなことでもしたいと願っている。それに対して、私たちの求めるものは、なんとチャチなもの、ちっぽけなものでしょうか。もっともっと大胆に、神様、こうもしてください、ああもしてください。神様、あれも!これも!どうぞ!と大いに期待をしたいと思います。ことごとく祈れとおっしゃる。あなたがたの心にある思いのすべてを打ち明けなさいと言われます。天も我がもの、地も我がもの、世界とその中に満つるものは、すべてわたしのものだ、と言われる神様に、できないことはありません。こんなにまで恵もうとしてくださる主がいらっしゃるのです。それなのに、それを信じないで、人を頼み、ほかの事で埋め合わせようとする。そこに大きな罪がありますね。

ですから、ピリピ人への手紙4章6節に「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。あなたがたの求めるところを神に申し上げなさい。そして神様に一切を委ね、ささげ、思いを明け渡したら、心は平安になる。7節に「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」。神様の平安がある。私たちは事態や事柄で安心しようとする。目の前の問題がこうなったら、ああなったら、事情や境遇がこうなったら安心だと。そういう平安を求めます。しかし、神の平安、イエス様が「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」(ヨハネ14:27)とおっしゃった。ところが私どもは、この世の平安を求めようとするのです。ああなって欲しい、こうなって欲しいと、目の前の事柄や事態によって安心と言っている。この世の平安は、必ず直ぐにつぶれてしまう。しかし、神様の平安は、祈る度ごとに満たされていく。これは消えることがない。絶えず祈り続けさえすれば、神様は、魂を平安に満たして生きる喜びに輝かせてくださいます。そればかりでなく、祈った事柄について一つ一つに、主は応えてくださいます。

子供は親に全部打ち明けたら、ケロッと忘れてしまいます。私たちも神様に打ち明けたなら、それを忘れてしまうくらいに、安心しきって、主の手にお委ねしていこうではありませんか。そのとき神様は、着々と事を進めてくださいます。皆さんが、これまでも祈ったことを振り返ると、主は具体的に一つ一つ応えてくださいました。それを忘れて、まだ応えられていない、神様はどうして私の祈りに応えてくださらないのだろうか。答えられないことばかりに目くじらを立てている。神様が御自分の祈りに答えてくださったことをノートに全部書き出して御覧なさい。一年前、五年前、十年前、イエス様の救いにあずかってから、どれだけ祈ったか、何を祈ったか。そんなものは忘れている。しかし、今振り返ってみたら、ことごとく答えられている。しかも「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかにこえてかなえて下さる」(エペソ3:20)とありますように、私たちの願ったよりも、考えたこと以上の結果を出してくださっている。この主が今日も、祈りなさい、求めなさいと笏を伸べてくださいます。近づいて、主を信じて祈り続けていこうではありませんか。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。主は私たちの思いを、心を支え守り、平安に満たして、生きる喜びと感謝をもって主をほめたたえる者に、造り変えてくださいます。どんなことでも、祈りを忘れないように、祈り続けていく日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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