いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(99)「主に仕えて」

2013年12月29日 | 聖書からのメッセージ
ローマ人への手紙14章1節から12節までを朗読。

8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」とあります。
1節から6節までには、食べる、食べない、あるいは日を重んじる、重んじないということが記されています。パウロの時代、旧約聖書の世界、律法の中で生きている人々がたくさんいました。しかし、イエス様が救い主となって、律法の完成者、また終わりとなったのです。神様は律法を通して私たちに義なる者となるべき道をお示しくださったのですが、それを全うする力はありません。人の業でそれを完成することはできませんでした。それゆえに神様は、イエス・キリストを信じる者を、律法を全部行ったのと同じ、律法を落ち度なく守った者として受け入れてくださる。これが「義なる者として」という言葉に言い換えられるのです。本来だったら、神様が求められた律法の一つ一つを欠けなくすべて行わなければ、神様の前に立つことができない。永遠の滅びに定められるべき私たちです。ところが、律法を守ることが不可能です。私たちはちょっとしたことでも、心に定めてこうしようと決心しても、守り通せない。

よく言われるように“一年の計は元旦にあり”と、「今年は日記を書きましょう」と決心しても、“三日坊主”という言葉があるように、三日続けば良いほうで、二日ぐらいから後は白紙。半年が過ぎて、あのとき決心したことを忘れていることがよくあります。自分のことですらもそうですから、まして、神様の求めること、そのたった一つでも死ぬまで守り続けることができるかと言われると、これはできない。そうなると、自分の力で、自力で神様の前に義なる者となろうとすることは完全に不可能。それが無理だと神様はご存じだったのです。

神様はそのような無理難題を私たちに押し付けたのかと言うと、実は、律法は義なる者となる基準をあらわしているのです。と同時に、私たちがそれからどれほど遠いものであるか、神様の求め給うところから大きく離れてしまって、天と地、雲泥の差どころではない、どうにもならないほどに、罪にまみれてしまっている。全く度し難いといいますか、救い難い者であることを徹底して教えるためです。だからパウロが、律法は私たちを福音へ導くための守役であると語っています。私たちをキリストの福音へ導くための大きな力だという。なぜなら、律法を読むとき、その求められることに自分を照らしてみると、到底不合格、欠陥品であることが、重々よくわかる。イエス様の福音がなければどうにもならないのだと自覚するのは、律法があればこそなのです。これがなければ、自分がどれほどの罪人であるのかわからない。

「十戒」という、わずか十か条の戒めですが、その一つとして生まれながらに守り通すことはできません。イエス様は、物を見て「あれが欲しい」と思ったら、それは盗んだのと同じだと言われる。そこまで神様が求められるならば、私たちは到底救われません。しかし、そのような絶望的な滅びの状況にあるところへ、イエス様が降ってくださった。だからこそ、どんなに大きな恵みでありましょうか。自分を見るとどうにもならない。しかし、そこへイエス様が来てくださった。主イエス・キリストを救い主とただ信じて、イエス様の十字架こそが私の罪のゆえであることを認め、イエス様と共に生きる者へと変えられる。キリストと共に死んで、イエス様が私と共にいて、私を生かしてくださっている。ここに立つとき、私たちはキリストの義を着るものとなるのです。私たち自身にはどこにも義なるものはない。義と認められるべきものはないのですが、ただ一方的にイエス様の犠牲によって、神様は私たちを義なる者として受け入れてくださっている。「今は恵みのとき」と言うのはここです。イエス様によって、神様は私たち一人一人を罪なき者として、完全な者と認めてくださっている。私たちが完全になったというのではない。まだまだ不完全なところ、足らないところ、欠けだらけであっても、神様はイエス様のゆえに、私たちを義としてくださっているのです。だから、私たちは何一つ誇るべきものはありません。

今、私たちはイエス様のものになっている。神様のものとして「代価を払って買い取られて」、自分のものではないのです。1節から6節までの所に、「軽んじ」たり「さばい」たりしてはならないと言われています。ここで教えられることですが、私たちの信仰は「私と神様」との関係です。皆さん一人一人と神様との関係。イエス様がよみがえられて、ガリラヤの湖畔で弟子たちとお会いになりました。イエス様はペテロに「わたしに従ってきなさい」と言われた。そのときペテロが横にいたヨハネを見て「この人はどうなのですか」と問うと、イエス様は「あなたにはなんの係わりがあるか」と答えられた。私たちは常に「神様と私」という関係に置かれている。

7節以下に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」。「私と神様」との関係は、私が神様のもの、主のものとなりきってしまうことにほかならない。そのとき、横にいる人との関係は切れてしまいます。たとえ夫婦であっても、神様の前には「私と神様」なのです。だから、どんなに親しい人であっても、家族であっても、一人一人が神様とつながっていくことがすべてです。たとえ同じ屋根の下の住んでいる相手であろうと、その人に対して何の責任も、また関係もない、と言ったら極端な言い方ですが、実は関係がない。というのは、私たちが主のものとなりきってしまうことは、この世から主のものとして取り分けられてしまうことです。神様の所有となって、もはやこの地上での生活は自分の好きとか嫌いとか、儲かる儲からないとか、愛しているとかの問題ではない。これはえらいことになった、そうなると家族と別々なのか、夫婦別れをするのかしら、と思いますが、べつだん夫婦別れをするわけではありません。心のありようが変わる。私と神様です。では、私の横にいる人は誰か。それは神様が私に託してくださった者ではあるが、それもまた神様のものです。だから、私の主人がとか、私の家内がとか、私の子供がとか、私の孫ということを言いますが、もうそれはないのです。私の孫でもなければ、私の家内でもない、また私の主人でもないのです。私たちは一人一人が神様のものです。だから今一緒に生活している家内は神様がこの場で共に生活するように、私に委ねられたといいますか、ここに置いてくださった相手ではありますが、私のものではない。

時に、世の中の人はそのようなことを言います。「おれの家内だから、おれが煮て食おうと焼いて食おうと勝手やないか」と言うご主人がいます。奥さんにしろ、ご主人にしろ、これは主のものなのです。だから、粗末に扱ったら神様からしかられます。神様のものですから。その原則が崩れてしまっているから、世の中が完全におかしくなっている。子供でも孫でもどんな者でも、それは主のものです。ただ、私自身が主のものとなっていなければ、それが言えません。私が主のもので、神様は命を懸けて私を買い取ってくださったと徹底していくとき、今度はその横にいる奥さんにしろ、ご主人にしろ、子供にしろ、これも主のものです、と言えるのです。主のものですから、神様が責任者です。横から変なことを言えません。あんなのは駄目やとか、こんなのは駄目やとか、こうしなきゃおかしいとか、私どもが相手を批判することは神様を軽んじることです。

ここで言われているのはそういうことです。2節以下を少し読みますと、「ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから」。あいつはどうしようもない人間や、もうあんなやつとは付き合いたくないとか、あんなのは人間のくずだとか言って、人をけなしますか。でも、その人のためにも、イエス様は命を捨ててくださっている。ただ、その人がそれに気づいていないというだけであって、神様からするならば、その人も主のものです。

先だってもある方が、ご主人のことで悩んで、うちの主人はこういうところがある、と言って批判される。「これからは、主人と少し距離を置いて、いてもいないふりをします」と言います。主のものであったら、大切にしなければいけない。私たちが主のものであるように、そばにいるこの人も主のものなのだから、私たちがその人を大切にすることは、主のために大切にするのです。こんな主人のために、どうして私がこんなことまでしなければならない、もうやっておれん!と思うでしょうが、そこでもう一度、私は一体誰のものなのか。主のものである。こんな者をも神様はご自分のものとしてくださった。この隣にいる人も、この嫌な人でも主のもの。そうであるなら、その人のために、主が何を『せよ』とおっしゃっているのか。主に仕えていくとはこのことです。主のために今度はそれをさせていただく。これが私たちの生きる生き方、心の持ちようなのです。そうすると、どこにも文句を言うことはなくなります。皆さんが見ていて、あんなことをして嫌だわと、家族の振舞いなんかが、年を取ると余計に目につく。若いころはなんともなかったのに、主人の食べ方まで、ピチャピチャ音を立てて、皿をカチャカチャいわせて、何から何まで気になり始める。50年もこんな人と一緒だったのか、もっと若かったら別れたのにと思う。そのようなときに、主のものであること、この人のためにも、イエス様が命を捨ててくださった。それを信じられなかったら、自分が救われていることも信じられません。この人も神様が命を懸けて愛している。私を愛してくださっているように、この人も愛してくださっているのだ。そして、私のそばに主が置いてくださっているのは、私が神様のためにすべきことがあり、仕えていくべき場所がそこにあるということです。

だからこの3節以下に「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」。だから、私たちが横にいる人を裁いたり、あるいは軽んじたり、さげすんだりしたりすることは、取りも直さず、神様のものに私たちがケチをつけているようなものです。皆さんは、自分が大切にしているものを人からけなされたらうれしいですか? これは私の命より大切だ、高いお金を出して買ってきたものをうれしそうにさげているとき、「あなたのバッグはダサイね。どこのバーゲンで買ったの? 」と言われてご覧なさい。無けなしのへそくりをはたいて、清水(きよみず)の舞台から飛びおりるようにして買ったものを、そんなことを言われたら「絶交よ!」となるでしょう。「うちの家内は駄目やな」とか、「うちの主人は、これは駄目や」と、そんなことを言ったら、神様は「わたしは、命を懸けてこの人を買い取った。私のものについて何を文句を言うか!」と。それどころか、「お前こそ、買った値打ちに値しない!」と。確かにそのとおりです。私たちの原点はいつもそこにあります。私どもは、かけがえのない者として、イエス様の、尊いひとり子の命を代価として払って買い取られました。それほどの値打ちも価値もない者を、今日も主は、「あなたはわたしのものだ」と言われます。それと同じように、隣の人も神様が責任者であり、神様が買い取ってくださったのです。

だから4節に「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」。神様がその人を立たせもするし、倒しもするし、滅ぼすことも救うこともおできになる。だから、家族の救いもそうなのです。私たちが家族を何とかして救おうなんて、できやしない。私は救われているけれどもあの家族は救われていない、イエス様を知らない、神様を……、私がこんなに熱心に教会に行っているのに関心ひとつ示さない、「教会ではどうだった」という一言だって聞こうともしない、「もうあの人は地獄よ!」と思う。それは実におかしい。地獄に落ちるかどうかはあなたが決めるのではない。神様がその人を裁かれるに違いない。私たちがなし得ることは、私のような者が救われたのだから、この主人だって、この子供たちだって、救われないはずがない、それどころか、神様は、既に子供たちを、家族を救ってくださっていると信じる。ただ、本人たちがそれに気づかないだけです。早くそれに気づいてくださいと、執り成すことであって、非難するとか、「先生、うちの主人は頑固で救われませんよ」と、そんな偉そうなことを言えた柄ではない。私たちは絶えず、自分が主のものであることがどういうことか、しっかりと知っておいてください。

5節「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」。神様の前に、一人一人、私がどうあるべきかだけです。あの人がどうとか、この人がどうとか、そのようなことはお前には関係がないと、神様は言われます。あの人のこと、この人のことは私が責任を持っている。奥さんのことだろうと、孫のことだろうと、神様が責任を持ってくださる。私たちは、今神様の前にどういう者として立っているのか。私は今神様から何を求められているのか。神様と私だけの世界がすべてです。なんだか利己主義、自分勝手のように思いますが、決してそうではありません。私たちは主を通してはじめて人を思いやることができる。人と交わることができます。ところが、神様を抜きにして人と交わろうとするから、好きや嫌い、あるいは、あいつが良かったとか悪かったとか、人を褒めたり、批判したり、軽んじたり、関係が複雑怪奇、悩みの種になっていくのです。絶えず神様だけを見上げて、主と私の関係の中で、横にいる人も主のものだ。そして主がその人の責任者でいらっしゃる。今、私と一緒にこの場に置いてくださったのは、私が選んだのでも、私が決めたのでもなく、私の主でいらっしゃる方が、そこに置いている。だったら、今この人のために何をしてあげるべきか、私がすべきことは何なのか、絶えず主が求められるところに従うことがすべてです。

7節に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」。私たち誰一人、どんな人も自分のために生きているのではない。では何のために? 主のために生きるのです。私たちは、言うならば献身者、すべてを神様にささげた者、主のために生かされているのです。病気をするならば、それは主のために病気をさせていただく。何か困難な中に置かれても、そこは主のためにすべきことがあるからです。どうぞ、いつもそのことを自覚していただきたい。私が今しているのは、人のためでも家族のためでも誰のためでもない。これは主のためにしているのだ。これがはっきりしていないと、不平不満、あるいは自分ができたといっては有頂天(うちょうてん)になり、高慢になります。いつも、主のために、主に仕える者として、心を切り替え、切り替え、思いを新しくして、主のために生かされ、これをさせていただきます。これが天に宝を積むことです。私たちの地上の歩みの中で、自分のためにしたり、あるいは人のためにしたり、あるいは世のためにしたことは、神様にとって何の役にもたちません。これは消えてしまう。ただ、主の名によって、キリストのためにすることだけが残ります。

コロサイ人への手紙3章15節から17節までを朗読。

17節に「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず」、有形無形、いっさい合財、私たちのすること、生きていること自体が、「いっさい主イエスの名によってなし」、イエス様の名によってさせていただく。キリストの名代(みょうだい)となって、いろいろなことをさせていただく。これが主のものとなりきった生涯です。主のために生きる者です。だから「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし」、そして「彼によって父なる神に感謝しなさい」。

度々申し上げますように、これは非常に深い意味があります。私たちが感謝するときは、どのようなときでしょうか? 何かしてもらうときです。いろいろなことに恵まれるとき、何かいいことに出会うとか、人から親切にしてもらうと感謝します。ところが、ここでは、イエス様の名によってすることによって、それを神様に感謝しなさい。言い換えると、してもらうことで感謝するのではなくて、することができて感謝しなさい。人のために何かするとお礼の一言でも欲しい。「ありがとう」とか、「善かった」とか、「おいしかった」とかですね。先だっても、信徒会のときに、「夫婦が相手に望むこと」、妻が夫に望むこと、夫が妻に望むことを、ある新聞がアンケートをとった結果を紹介してくださった。二人の間に共通してあるのは、相手にしてやったことについて感謝されたい、という一項目がある。夫が妻に何かしたら、妻から「ありがとう」とか言って欲しい。また妻も夫のためにしたことについて、「ありがとう」とか「おいしかったよ」という言葉が欲しい。そういう結果が出ていたそうです。私どもには常にそのような思いがある。だから、しなくていいというのではありませんよ。それはいいことですから、家内に「ありがとう」と言うのは、損したようだと思わないで、「ありがとう」と言ったらいい。けれども、なぜそれを求めるのかと言うと、相手のためにしてやったという思いがあるからです。一生懸命に料理を作って食べさせても、「おいしい」の一言も言わないで、黙々と黙って食べて、黙って立って行って、私はどうしてこんな苦労をしなければいけないかと思う。その人のためにしていると思うからです。そうではなく、イエス様が私に「せよ」と言われるから、主に代わってさせていただいたのです。そこにありますように、したことによって今度は「神に感謝しなさい」。相手から感謝されることではなくて、ご主人のために、奥さんのために、一生懸命に何かして、「こうしてすることができました。神様!感謝します」と。

私たちが相手から感謝されることを求めている間、まだ自分が救われていないのです。主のものとなりきっていない。私たちがしてやったことを、喜んで神様に感謝することができる。そのためには、まず私たちが「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」。徹底して主のものとなりきっていかなければなりません。神様が知っていてくださる。神様が私の業を見ていてくださる。やがて私たちに報いてくださる時がくる。神様から「善なるかつ忠なる僕」と、喜んでいただけること、これこそが私たちのすべてです。その途中で、相手の誰かから「ありがとう」と言われたのなら、それは付録のようなもので、あってもよし、無くてもよしです。そこまで神様のものとなりきっていきたいと思います。そうしますと、感謝に変わる。喜べます。

「ローマ人への手紙」13章8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。私が主のものであるならば、その横にいる人も主のもの、私のものではない。私たちは主を中心にしてそこでつながることができるのであって、主を抜きにしては、お互いにつながることができません。つながっているようであって、それは神様から離れた不毛で無益な形でしかありません。

私たちは、神様の報いを望みみて、絶えず、キリストと共に死んで、主のものとなりきっていきたい。主が私を買い取ってくださいました。だから、何をするにしても「主イエスの名によってなし」と、ここが大切です。イエス様の名でそのことをさせていただく。それを基準に私たちの心を探っていきますと、随分しなくてもいいことをしたり、言わなくてもいいことを言ったりして、けんかばかりしていたことがよくわかります。「主イエスの名によって」と言われてご覧なさい。言おうとしたことが言えなくなります。これは主のためではないな、このことはどうだろうと、いつもそのことを照らし、主のために、キリストのためにという、この一点を外してはならない。そうしますならば、やがて、神様のほうが私たちに報いてくださる。

イエス様の救いにあずかって生きる生き方、その恵みが何であるかをしっかりと心に置いていただきたい。8節にありますように「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。どんなことの中でも、主のものとなりきって、絶えずそこに自分を置いていこうではありませんか。つい忘れますから、そのときは繰り返し、心を新たにして、主のものと、自分をささげて、主に導かれる者となっていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


























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