「マタイによる福音書」16章21節から28節までを朗読。
24節「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。
この記事は、イエス様と弟子たちがピリポ・カイザリヤ地方に出かけられたときお話になったことです。そのときイエス様は弟子たちと共にピリポ・カイザリヤ地方へ出かけられました。イエス様と弟子たちの静かな交わりの時だったと思われます。そのとき、イエス様は弟子たちにいろいろなお話をなさったでしょうが、話の中で「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。「人の子」とは、イエス様ご自分のことです。世間の人々はわたしのこと、イエス様をどういう人だと言っているか、と尋ねられたのです。弟子たちは自分たちが見たり聞いたりしている事柄、世間の人々がイエス様について語っていることを伝えたのです。「ある人々はバプテスマのヨハネ」また他の人たちは「エリヤ、また旧約時代の有名な預言者の再来である」というようなことを言っている。人のことを言うのは簡単です。「世間ではこんな話でした」「他の人はこう言っていました」と言えばよかったのですが、そこでイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。そのときシモン・ペテロが、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。実に正解、100点です。イエス様が期待された答えをペテロは出したのです。あなたは生ける神の御子でいらっしゃいます。救い主、キリストとは救い主ということであります。それを聞いてイエス様は大変喜ばれました。「あなたはさいわいである」と。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」とおっしゃいました。それは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白することができたのは、ペテロが努力したから、頑張って徹夜で勉強したから、どこかの有名な学校へ行って学んできたから「良く頑張った。お前は正しい答えを出すことができた。立派だ」というのではないと言うのです。「肉によるのではない」と。ご存じのように、ペテロはガリラヤ湖畔で長年、代々漁師の家に育ちましたから、決して高等教育を受けた人、パウロのような立派な神学的教育を受けた人物でもありません。いや、むしろほとんど教育も受けてなかったと思います。その当時学校へ行くことはほとんどなかったでしょうから。今でこそ私たちはこうやって文字を読みますが、その時代はほとんど読むことはできなかった。聖書だってペテロの時代は、自分で読んだわけではありません。各地にあるシナゴークといいますか、礼拝所がありまして、そこで安息日に神様の前に出て燔祭をささげたりしますが、そのとき聖書を朗読します。それは羊皮紙という羊の皮に書かれた聖書です。それをひも解いて祭司が朗読をする。朗読するのをただ聴くだけです。だから、旧約聖書を読んでみると、同じことの繰り返し、「誰々の子、そして誰々の子」と、それを2度も3度も繰り返されます。読んでいると鬱陶(うっとう)しい。あれは、そもそも読むために書かれたというより、耳に聞いて覚えるためです。だから、羊皮紙に書かれない前は、口承伝達といいますか、口伝えに受け継がれたものです。記憶力のいい人たちが覚えて語り継いだ。だから、神様が長い年月にわたって多くの人々に神の霊感を注いで、語り続けさせてくださった。いつの頃か分かりませんが、語り続けられてきた事を文字によって書き留められるようになった。それが巻き物となって、それを写して主だった礼拝所に置かれたのです。だから、今のように親しく直接聖書を手に持って読むことは、まずありません。
かつて日本も、戦前までの時代はそうだったのです。日本はそもそも仏教国ですから仏教的な価値観、いろいろな道徳的な規律、規範、生活上のルールがそこから導き出されて決まっていく。だから、お寺に行って「講(こう)」という集まりをする。いうならば、家庭集会のようなものです。いろいろな所へ行って、そこで仏教の経典に基づいた説話、仏教説話というのがありました。閻魔大王がいるとか、針山があるとか、血の池地獄があるとか、そのように怖い話のほうが多いですが、小さな子供のときからそういう説話を日常生活の中で聞いて育っていますから、身に付いたものになります。私の母はそういう所で育っています。母方の祖父はお坊さんでしたから、母が幼少の頃お寺の住職の奥さんに当たる方に育てられています。だから、母の考え方や、あるいは物の見方の中に極めて仏教的な色合いといいますか、そういうニュアンスが大変ありました。それは宗教的な意味はありません。宗教的な意味よりは道徳的な教訓としてでした。私も子供のとき兄弟げんかしたり、物の取り合いをしたりすると、そういう昔話のようなものを聞かせられました。
ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と、目の前に見ている人の姿をしたこの人が、神の子であり、私たちの救い主でいらっしゃることを告白したのです。まさに、これは人の努力、ペテロの精進のお陰ではない。まさに神様がペテロにそのことを悟らせてくださった、とイエス様ははっきりと教えてくださった。そして、更に続いて、
「マタイによる福音書」16章18、19節を朗読。
イエス様から大変褒められたわけであります。「あなたは素晴らしい。幸いなことよ」と。そして「あなたはペテロである」。「ペテロ」とは、「岩」という意味があるそうですが、「あなたの上に教会を建てよう」と言われた。「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。更に続いて19節には「あなたに天国のかぎを授けよう」と。だからペテロは私たち一人一人に天国のかぎを開けて入らせてくださる、そういう者だと。だから、後に、ペテロがローマで殉教しますが、ペテロが殉教した所にサン・ピエトロ寺院というローマ・カトリック教会の大本山が建てられたのです。そこは聖ペテロ寺院という名前ですが、ペテロの岩の上に立った教会、まさにこれこそキリスト、イエス様が許してくださった正統的な教会だ、というのがローマ・カトリックの自負するところ、誇りとするところであります。いずれにしてもペテロがそういう扱いを受けるようになります。そして、ペテロの肖像画は、いろいろな画家が描いていますが、いつもかぎを握っているので大抵ペテロだと分かる。「これはペテロだよ」と示すわけです。それほどイエス様から褒められたといいますか、大変喜んでもらった。
その後、先ほどお読みいたしました21節に「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。この時から、イエス様は具体的にご自分が受ける十字架の苦しみについて語り始められた、とあります。やがてエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者、その当時のユダヤ社会の指導者たちから苦しみを受ける。そして、殺されるだろう、でも三日目にはよみがえるよと、そういう話をイエス様はしていらっしゃる。イエス様がどのような道筋をたどって行かれるか、弟子たちは前もって聞いて知っていたわけです。でもそれを悟ることができない。“聞いて聞かず”です。これは私たちもよくやることであります。いま差し迫って問題になっていない話、イエス様がこれからこうする、ああする、と言われたって、現実まだピリポ・カイザリヤで楽しくやっているわけですから、想像することができない。「どうなるって、そんなのはなった時だ」というのです。それどころか、ペテロは22節に「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』」と。このときペテロはイエス様がとんでもないことを言う。受け入れられない、理解できない、信じられないのです。イエス様はその後「よみがえる」ともおっしゃったのです。でも信じられません。死んだ人間がどうやってよみがえる? 殺されることのほうがショッキングですから、そのほうが心にとどまる。ペテロがびっくりしてイエス様に「ちょっと、ちょっとこちらへ来てください」と「わきへ引き寄せて」、皆から離れた所へ連れて行き、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。イエス様、何ていうことを言うのですかと「いさめる」。叱(しか)るという意味です。厳しく「そんなことを言わないでください」と。私どもでもそうです。愛する人が「もう、私はそろそろ死にそうだ」なんて言うと「何を馬鹿な、滅相もないことを言って」と、叱るじゃないですか。それと同じで、イエス様がそういうので、「なんて、弱気なことを言う。殺されるなんて、もっと頑張って……」と、ペテロは「情けない」と思ったかもしれません。内心自分の生活を考えたかもしれない。イエス様と一緒にいればガリラヤ湖で漁なんかしなくていい。イエス様にくっ付いて行けば三食は食べられる。イエス様が死んでしまう、なんて言われたら「私はどうなるの? 」と思うに違いない。だから、ペテロは「そんなことがあるはずはございません」と。
ところがイエス様は23節に「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ』」とおっしゃったのです。厳しいお言葉です。つい先ほどまで、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と、喜んで「教会を建てよう。天国のかぎをやろう」とまで……、そこまで言っていいのか、と思うぐらいにイエス様はペテロを褒めています。ところが一転して「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ」。イエス様の邪魔をする者、これはサタンです。確かにそうだと思う。いうならば、私たちを神様から遠ざけようとするもの、これが悪魔、サタンといわれるものです。悪魔とかサタンは怖い恰好をして三俣のやりでも持って、あるいは怖い閻魔大王のような姿かたちをしてやって来るわけではありません。私たちの心にもサタンが宿っています。私たちが神様に心を、思いを向け、神様を求めようとすると、次から次へと妨げてくるものがあります。
朝、「ちょっと時間がある。聖書を読もうかな」と、聖書を前に置いた途端に「安売り、いつだったかしら」と、サタンが働きます。私どもが「説教テープを聞こう。この間のメッセージをもう一度聞いてみよう」と、スイッチを押す。聞いていると電話がなる。「うるさいな、はい、はい」と電話に出る。懐かしい人だったりすると、うれしくなってしゃべりこんでしまい、気がついたらテープは終わっていた。そのようにサタンは私どもが神様に近づこうとすると、必ず妨げてくるのです。これはいつもあります。だから、絶えず警戒する。「これはサタンだ」と「神様に近づこうとする私を妨げようとしている」ことを知っておきたい。
だから、この時もイエス様は「わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。私たちがいつも神様のことを考える。絶えず思っている。だから、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)といわれています。このイエス様をいつも思っているとき、心は穏やかで平安ですし、心に喜びもあるし、望みを持つことができます。しかし、その心が主から離れる。主から思いがそれて、人を見、いろいろなことを聞くと、一瞬にして心が神様から離れる。そして、人のことを思い始める。世のこと、いろいろな自分の人事百般、生活上のことを考え始める。すると私たちは力を失う。気がつかないうちに力が抜けて、それに替えて不安や恐れや失望があふれてくる。
この時、イエス様はペテロに向かって「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱りました。これはイエス様がペテロを叱ったばかりでなくて、同時にイエス様自身もここでご自分を励ましておられるのです。ペテロに「サタンよ、引きさがれ」と言われたのは、ペテロに対してばかりでなくて、自分自身の心の中にあるサタンとの戦い、これを戦っておられたと思います。というのは、私自身がそうだからです。家内が何かで誘ってくれる。「これをしよう」とか「ああしよう」と。誘ってくれると「そうか。それも良いかな」と思うとき、「いや、駄目だよ」と神様が引き止めてくださる。「このことをまずしなさい」と言っておられることを知りつつ「いいかな」と誘われる。誘う相手が問題ではなく、実は自分のなかにあるサタンとの戦いです。
イエス様は決してペテロを「お前が悪いんだぞ」とおっしゃっていないのです。イエス様は心の中でご自分に向かって叱責しているのです。自分の信仰をきちっとしたい。ですから、私たちもそのような誘惑の中にいつもあり、誘惑を受けやすい者であることを知っておきたいと思います。だから、ここでイエス様はペテロにそのように言われました。
それから、24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と。イエス様に付いて行く、主に従って行く。なぜならば、イエス様に従って行かなければ私たちのいのちは無いのです。というのは、先ほどペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。キリストとは救い主、救いを与えてくださる御方、この御方によらなければ人は救われない、ということであります。だから、イエス様と共にあるときに私たちは救いにあずかる。救われます。救われた状態とは、主と共にあることです。だから、イエス様の救いは、私たちがいつも神と共にあること、言い換えると、キリストと共に生きる者となると。これが私たちに与えられたイエス様の救いです。世間にもいろいろな宗教があって、「救い」を言います。「交通安全」とか「家内安全」「無事息災」「病の癒し」から何から、そういうものも確かに救いであります。しかし、もっと根本的な人の救い、それはイエス・キリストと共に生きる者に変わることです。キリストのものとなる。だから、イエス様を「あがない主」とも言います。私たちの罪を赦して、私たちを買い取ってくださった。ご自分の命を代価として私たちをサタンの力から買い取って、神様の所有、神様のものとしてくださった。これが救いです。そして、救われた者の生き方はキリストと共に生きることです。しかもイエス様を私たちの主として生きる。私たちのかしらとして、私の主でいらっしゃる。だから、私はイエス様の僕(しもべ)となる。主と僕という関係、父と子の関係などいろいろな形で神様と私たちの救われた関係があります。だから、その関係を続けたいなら、わたしについてきなさいと言われるのです。24節の言葉の意味です。イエス様に付いて行きたくなければ、それはそれでいいかもしれない。しかし、そこには救いがない。イエス様に付いて行くこと、イエス様の救いとは、対症療法的に一回だけで、打ち身で痛いから湿布薬でも貼(は)って「痛みが取れた。良かった」、湿布薬がいらなくなったら「はい、さようなら」と、そういう意味の救いではない。何かのときに「イエス様、助けてください」と祈って、「良かった。これで助かった」、喜んで終り。願いが聞かれて、事が上手くいくようになった。「これでもういい、イエス様、有難う。もうしばらく用事がないから」という意味の救いではありません。イエス様の救いとは、私たちの生き方、私たちの生涯といいますか、自分の人としての根底を覆(くつがえ)して、在(あ)り方を変えて、キリストにつける者となる。いうならば、休みなく死ぬまで、また死んでからもキリストと共に生きる、これが救いです。だから、世間で言うような、悩み事一つが解決したら「もうこれで用事がなくなった」と言うものではありません。
私どもが病気をすると医者に行きます。自分が病気だと思わないときには医者に行きません。私は花粉症のとき、どうしてもたまらなくなると必ず行く耳鼻科があります。1年に1度行くか行かないかぐらいです。時には2年に1度ぐらいです。どうにもたまらなくなって掛け込む。そうすると、先生が「お久しぶりですね」と、私も「もうこの季節になりまして」と言います。申し訳ないですが、だからといって病気でもないのに出掛けて行って邪魔をするわけにもいきません。だから「先生、1年ぶりで申し訳ありません。普段ご無沙汰しておりまして」と。すると先生が「良いですよ。ご無沙汰が多いほうが健康ですから」と、確かにそうです。
イエス様をそういう御方と思っているなら大間違いです。イエス様の救いを病院のように用事のあるときだけ掛け込む。よくなったから、また1年後にと、時にそういう思い違いをしている方がおられて、年に1度クリスマスだけに来られる方もおられますが、私たちの信仰、救い、イエス様が私たちに与えてくださる救いは、私たちの生き方の根底が変わるのです。私たちがどういう者として生きるか? 神様、キリストと共に生きる者、「わたしについてきたいと思うなら」と、イエス様といつも一緒に生きる者となる。イエス様が私たちの主、かしらとなってくださる。だから、私たちがいつもイエス様に従う。これがイエス様と共に生きることです。
そのためにはどうするか? 「自分を捨て」とあります。ここです。自分を捨てる、これがなかなかできない。というのは、私たちには自分というものが100%凝(こ)り固まって大きな底岩(そこいわ)のごとくあります。自我というもの、「私」がという、これがありますとなかなか従えない。人に対してもそうでしょう。目に見える人に対しても、ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に従えない。子供が親にも従えない。なぜなら、自我がある、「我」がある。己というものがありますから「どうして? 」「何で? 」と、いつもつんつん突っかかる。そして「私はこれがいい」「私はこうでなければ」と、そういう思いが人と人がぶつかりますから大変です。イエス様は「わたしについてきたいと思うなら」、イエス様と共に生きるなら、そのために必要なのは、私たちが自分を捨てることです。空っぽになって、今度はイエス様が私と共にいて、私の心の中心に座っていただく。イエス様が私の全てとなっていただくこと、これが私たちの救いであります。
「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。「自分の十字架を負うて」とイエス様はおっしゃる。この「十字架」とは、何なのか? 私どもはよく教会に来るとあちらこちらに十字架を目にします。でも、十字架はそもそも飾るべき物ではありません。極悪非道な犯罪者を処刑する道具であります。死刑に使われる道具です。そんな物を後生大事にといいますか、有難がってぶら下げてみたり、掲げたりと何の意味があるかと。「キリスト教は野蛮だな」と思いやすいのですが、決してそうではありません。十字架は確かに刑罰の証詞であります。罪の裁きであります。じゃ、そこに誰が?イエス様が私たちのために十字架にかかってくださった。ゴルゴダの丘でイエス様が命を捨ててくださった。それは私たちが死ぬべきところ、私たちが神様から受けるべき呪いをイエス様が代わりに受けてくださった証詞です。それを悟るには、自分がどれほど罪人であるかを認めないことには、十字架を受け入れることができません。自分は正しい、自分はどこにも悪い所はない。私ほど立派な人間はいない。私もできる人間である。できのいい方だ、という間、私は「どうしてそんなに叱られないといけないの」と思ってしまう。「なかなか十字架が分からない」とよく言われます。その分からない原因は自分がどれほど値打のない、汚れた者であるか、それどころか、神様の御心に従えない自分であるかを知らないからです。まずそこを認めていくこと。そのためには罪が何であるかをはっきりと知っておかなければなりません。うそをつくとか、物を取るとか、人を殺すとか、これは確かに刑法上の罪です。しかし、その現れてきた犯罪、目に見える罪といわれるもの、それももちろん問題ですが、それよりももっと根本的な、そういうものが生まれてくる根っこが私たちのうちにある。それが自我、己というもの、そして、それは私たちの造り主、創造者でいらっしゃる神様を認めようとしない力、思い、これが罪です。神様を認められない。人の知恵、人の力とか、人の業、あるいは、もっと身近な自分の力を誇りとする。あるいは、自分の業を頼みとする。そして自分こそ正しいのだ、と思っている。そこには神様を認める余地がない。そういう生き方、そういうところが罪です。そのために、私たちの日々の生活にも喜べない、感謝ができない。絶えず不平不満、苛立ち、憤りが充満している。ここを「罪である」と神様はおっしゃる。神様のお言葉に自分を照らして行きますと、誰ひとり「罪のない人間」はいません。自分の心をよくよく探ってみますと、かたくなであり、傲慢であり、あるいは高ぶった者であり、己を義として神を認めようとはしない心があることを知っています。その心のゆえに人を愛せない。人を裁き、人を憎み、愛のない者となっている自分の姿があります。そうであるかぎり私たちはイエス様について行くことができない。イエス様の救いにあずかることができません。ですから、ここでイエス様が「自分の十字架を負うて」、いうならば、ゴルゴダの丘に2千年前十字架に命を捨てて死んでくださったイエス様、それをただ単にイエス様の死としてではなくて、そこに私も死んだ。私のこの罪のゆえにイエス様が十字架にかかってくださったのだ、ということをはっきりと認めることです。これが「自分の十字架を負う」こと。イエス様が私のために今日も十字架に流してくださったご自分の血を携(たずさ)えて「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と執り成し、赦しを与えてくださっている。この「十字架を負う」とは、そのことを絶えず自分のものと信じることに他なりません。
「コリント人への第二の手紙」4章7節から10節までを朗読。
10節「いつもイエスの死をこの身に負うている」。これが「自分の十字架を負う」ことです。今日も私はキリストと共に死んだ者として、自分を十字架に釘づけていく。自分をキリストに合わせていく。これが私たちの救いです。だから、私たちにとって十字架は命です。ここにパウロが「いつもイエスの死をこの身に負うている」、「それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」と語っています。イエス様の十字架によって自分が共に死んだ者となって、今度はイエス様がよみがえりの命をもって私たちを生きる者としてくださる。生かしてくださる。これがいま受けている恵み、救いです。私たちはまずそのために死ななければ駄目です。自分に死なないことには新しいいのちを頂くことはできません。「死ぬ」とはどうすることなのか? 何も肉体が死ぬわけではありません。私たちがイエス・キリストの十字架に自我を、自分の己というものを張り付けてしまう。キリストと共に死んだ者となる。
私にはそのことが分からない時代がありました。常に自分は正しいと思っていたのです。「あの人が駄目だ」「こいつは……」と、いつも心の中に人を裁く思いがありました。そして、その一方で自分を義とする。「私はこんなに正しい」「こんなに立派な人間だ」「こんなに努力している」「こんなにしているのに報われない」「それは社会が悪い、人が悪い、これが悪い、あれが悪い」と心がまるでハリネズミのように、苛立っていました。その当時まだ学生であり、ちょうど学生運動が盛んな時代で、学生運動はそういう人の不満のはけ口でした。痛快であることは確かです。今まで偉そうにしている連中を罵詈(ばり)雑言非難するわけです。私も「そうだ!そうだ!」と、尻馬に乗っていました。ところが、そのような日々の中で初めて、イエス様のお言葉、「父よ、彼らを赦し給へ、その為(な)す所を知らざればなり」、あの十字架に架けられた最初のお言葉、「彼らを赦してください」の意味を悟ったのです。「彼ら」って誰のことか? それまで聖書も何度も読んでいましたし、このお言葉を知っています。「彼らを赦してください」と「イエス様を十字架につけた連中のことか、イエス様はえらいものだ。俺もイエス様に見習ってあいつらを許さなければいけない」と思った。人を許すのがイエス様に倣(なら)うことだと。そうではないのです。イエス様が十字架に死んでくださったのは、私たちも主と共に、一緒に死ぬためです。そのとき初めて「そうだった。許されなければならないのは私なのだ。私がこの十字架に滅ぼされてあるべきはずのところを、今日もイエス様の許しによって生かされている」と。神様の憐れみだったと思いますが、それを一瞬にして悟らせていただいた。そのとき、それまでパンパンに膨(ふく)らんだ風船のようだったのですが、一瞬にして心が静まった。それまでは「あいつがいけない」「こいつがいけない」と常に怒り、憤り、それは正義の怒り、そういうものが心にありすぎて苦しかったのです。それが一瞬にして消えました。スーッと力が抜けた。「そうだった。いま自分が生きているのは、私が生きているのではなくて、イエス様が許してくださったから、憐れみで生かされている」。私が生きているのではなくて、生かされている自分である。許された者なのだ。その途端、今まで「あいつが悪い」「こいつが悪い」と、憤っていた、義憤に感じていた心が消えていました。そのことを切っ掛けに、そういう学生運動の一角から私は離れて行きました。その恵みは本当に大きかったです。それからズーッとイエス様に従って行きました。その間……、ひと言で言いますが、ひたすらイエス様に従ったかと言われると、離れたことがあり、右往左往していますが、それでも憐れみによって今に至るまで神様は、見捨てないでここまで導いてくださったことを思います。何よりも大切なのは、自分を捨てることを絶えず繰り返して行くのです。
「コリント人への第二の手紙」4章10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている」と、パウロは言っています。それは毎日、日々に死んでいることです。毎日です。昔、イエス様を信じて死んだから大丈夫にはならない。私はそう思います。私自身もそういう経験をしましたが、それはスタート時点でのことです。それから繰り返し、繰り返し己に死ぬことを求められました。でも、幸いなのは常に原点である、死ぬべき場所、十字架がありますから、そこに帰るのです。「そうだった」と。だから、いろいろな問題があって、人とのいさかいや、あるいは、意見の違いがあってぶつかったりする。そういうとき「自分は正しいのに……」と思うでしょう。「私はこんなにしているのに、何で分かってくれないの」と。そのときに「はたして、私って正しいのだろうか? 」と、もう一度十字架に目を留める。「そうだった。誰が悪いのでもない。実は私だ」ということに気づく。これが十字架です。そうしますと、一瞬にして今まで「あの人はどうして分かってくれないの」と思っていた思いが、シュッと消えます。自分に死ぬというのは、そこです。そうすると「主よ、私は本当に死んで当然であった者が、今日もここまで、この問題、この事柄にかかわらせていただいたことは感謝です。あの方も事が分からないからあんなに言っているのですから、そうでした。私が裁くべきものではありません。主よ、あなたに従います。主よ、このことについてどうしたらいいでしょうか」と、今度は主に聞く者に変わります。これは不思議な神様の力です。だから、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」といわれるのはそこなのです。そして「自分の十字架を負え」と。私が死ぬべきところをイエス様が死んでくださったことを認めていく。そうすると、誰もかれも「ああだ、こうだ」と言うべき筋合いは何もない。実に心穏やかに過ごすことができるのです。一日、一日、日々に自分に死んで行くこと、自分を捨てて行く。そして十字架を負う。キリストと共に生きる。主の十字架と共に歩んで行く。
「マタイによる福音書」11章28節から30節までを朗読。
これも、大変幸いな神様からの招きのお言葉であります。「重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」、うれしいですね。私たちはいつも重荷を負い、苦労しています。だから、イエス様の所へ行ってそれを全部下ろしてしまえばいい。「よろしくお願いします」と。確かに私たちのいろいろな日常的に出会う出来事、事柄、生活上の問題、そういうものは重荷ですが、実はいちばんの重荷は自分なのです、己です。私たちは自分の心がいちばん重たい。負いきれない。許したいと思いながら許せない。愛したいと思いながら愛せない。受け入れたいと思いながらはじいてしまう自分の心にいつも苦しんでいるのが現実であります。だから「苦労している」というのは、そこです。ただ単にお金がないとか、あるいは時間がないとか、弱くて健康がすぐれないから苦しいとか、それ以上に私たちの心が重いのです。それは自分、己があるからです。だから、イエス様は「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
「主の休み」はどうやったら得られるか? 29節に「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。「イエス様のくびきを負う」とはどういうことなのか? イエス様と共に歩む。イエス様と一緒に十字架を負う者となって行く。「彼らを赦し給へ」とおっしゃる、主の御思いに自分自身も許された者となって、キリストと共に、イエス様の歩みについて行く。これによって休みが与えられる。魂に休みが与えられる。
十字架の大きな恵み、その奥義をしっかりと自分のものとしていただきたい、これを体験していただきたい。イエス様の十字架を仰いで、己、自我をそこに捨て、そして、主の御声に従う。このことを努めて行きますとき、私たちの心は安らぎ、どんなことにも耐える力、また喜びを主は与えてくださる。
「マタイによる福音書」16章24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。「わたしに従ってきなさい」、イエス様に従うということを徹底していく。いろいろな中に「いま主がここに私を置いてくださった。このことに主が私を用いてくださっておられる」と、いつも主を認めて「イエス様、主よ、あなたに従います」と心を定めて行こうではありませんか。そして、主と共に十字架を負う者となる。そのためにまず自分もキリストと共に死んで、主と一つになって、十字架の主と共に与えられた事柄の中を、問題を喜んで負う者となって行きたい。
ご一緒にお祈りをいたしましよう。
24節「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。
この記事は、イエス様と弟子たちがピリポ・カイザリヤ地方に出かけられたときお話になったことです。そのときイエス様は弟子たちと共にピリポ・カイザリヤ地方へ出かけられました。イエス様と弟子たちの静かな交わりの時だったと思われます。そのとき、イエス様は弟子たちにいろいろなお話をなさったでしょうが、話の中で「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。「人の子」とは、イエス様ご自分のことです。世間の人々はわたしのこと、イエス様をどういう人だと言っているか、と尋ねられたのです。弟子たちは自分たちが見たり聞いたりしている事柄、世間の人々がイエス様について語っていることを伝えたのです。「ある人々はバプテスマのヨハネ」また他の人たちは「エリヤ、また旧約時代の有名な預言者の再来である」というようなことを言っている。人のことを言うのは簡単です。「世間ではこんな話でした」「他の人はこう言っていました」と言えばよかったのですが、そこでイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。そのときシモン・ペテロが、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。実に正解、100点です。イエス様が期待された答えをペテロは出したのです。あなたは生ける神の御子でいらっしゃいます。救い主、キリストとは救い主ということであります。それを聞いてイエス様は大変喜ばれました。「あなたはさいわいである」と。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」とおっしゃいました。それは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白することができたのは、ペテロが努力したから、頑張って徹夜で勉強したから、どこかの有名な学校へ行って学んできたから「良く頑張った。お前は正しい答えを出すことができた。立派だ」というのではないと言うのです。「肉によるのではない」と。ご存じのように、ペテロはガリラヤ湖畔で長年、代々漁師の家に育ちましたから、決して高等教育を受けた人、パウロのような立派な神学的教育を受けた人物でもありません。いや、むしろほとんど教育も受けてなかったと思います。その当時学校へ行くことはほとんどなかったでしょうから。今でこそ私たちはこうやって文字を読みますが、その時代はほとんど読むことはできなかった。聖書だってペテロの時代は、自分で読んだわけではありません。各地にあるシナゴークといいますか、礼拝所がありまして、そこで安息日に神様の前に出て燔祭をささげたりしますが、そのとき聖書を朗読します。それは羊皮紙という羊の皮に書かれた聖書です。それをひも解いて祭司が朗読をする。朗読するのをただ聴くだけです。だから、旧約聖書を読んでみると、同じことの繰り返し、「誰々の子、そして誰々の子」と、それを2度も3度も繰り返されます。読んでいると鬱陶(うっとう)しい。あれは、そもそも読むために書かれたというより、耳に聞いて覚えるためです。だから、羊皮紙に書かれない前は、口承伝達といいますか、口伝えに受け継がれたものです。記憶力のいい人たちが覚えて語り継いだ。だから、神様が長い年月にわたって多くの人々に神の霊感を注いで、語り続けさせてくださった。いつの頃か分かりませんが、語り続けられてきた事を文字によって書き留められるようになった。それが巻き物となって、それを写して主だった礼拝所に置かれたのです。だから、今のように親しく直接聖書を手に持って読むことは、まずありません。
かつて日本も、戦前までの時代はそうだったのです。日本はそもそも仏教国ですから仏教的な価値観、いろいろな道徳的な規律、規範、生活上のルールがそこから導き出されて決まっていく。だから、お寺に行って「講(こう)」という集まりをする。いうならば、家庭集会のようなものです。いろいろな所へ行って、そこで仏教の経典に基づいた説話、仏教説話というのがありました。閻魔大王がいるとか、針山があるとか、血の池地獄があるとか、そのように怖い話のほうが多いですが、小さな子供のときからそういう説話を日常生活の中で聞いて育っていますから、身に付いたものになります。私の母はそういう所で育っています。母方の祖父はお坊さんでしたから、母が幼少の頃お寺の住職の奥さんに当たる方に育てられています。だから、母の考え方や、あるいは物の見方の中に極めて仏教的な色合いといいますか、そういうニュアンスが大変ありました。それは宗教的な意味はありません。宗教的な意味よりは道徳的な教訓としてでした。私も子供のとき兄弟げんかしたり、物の取り合いをしたりすると、そういう昔話のようなものを聞かせられました。
ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と、目の前に見ている人の姿をしたこの人が、神の子であり、私たちの救い主でいらっしゃることを告白したのです。まさに、これは人の努力、ペテロの精進のお陰ではない。まさに神様がペテロにそのことを悟らせてくださった、とイエス様ははっきりと教えてくださった。そして、更に続いて、
「マタイによる福音書」16章18、19節を朗読。
イエス様から大変褒められたわけであります。「あなたは素晴らしい。幸いなことよ」と。そして「あなたはペテロである」。「ペテロ」とは、「岩」という意味があるそうですが、「あなたの上に教会を建てよう」と言われた。「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。更に続いて19節には「あなたに天国のかぎを授けよう」と。だからペテロは私たち一人一人に天国のかぎを開けて入らせてくださる、そういう者だと。だから、後に、ペテロがローマで殉教しますが、ペテロが殉教した所にサン・ピエトロ寺院というローマ・カトリック教会の大本山が建てられたのです。そこは聖ペテロ寺院という名前ですが、ペテロの岩の上に立った教会、まさにこれこそキリスト、イエス様が許してくださった正統的な教会だ、というのがローマ・カトリックの自負するところ、誇りとするところであります。いずれにしてもペテロがそういう扱いを受けるようになります。そして、ペテロの肖像画は、いろいろな画家が描いていますが、いつもかぎを握っているので大抵ペテロだと分かる。「これはペテロだよ」と示すわけです。それほどイエス様から褒められたといいますか、大変喜んでもらった。
その後、先ほどお読みいたしました21節に「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。この時から、イエス様は具体的にご自分が受ける十字架の苦しみについて語り始められた、とあります。やがてエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者、その当時のユダヤ社会の指導者たちから苦しみを受ける。そして、殺されるだろう、でも三日目にはよみがえるよと、そういう話をイエス様はしていらっしゃる。イエス様がどのような道筋をたどって行かれるか、弟子たちは前もって聞いて知っていたわけです。でもそれを悟ることができない。“聞いて聞かず”です。これは私たちもよくやることであります。いま差し迫って問題になっていない話、イエス様がこれからこうする、ああする、と言われたって、現実まだピリポ・カイザリヤで楽しくやっているわけですから、想像することができない。「どうなるって、そんなのはなった時だ」というのです。それどころか、ペテロは22節に「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』」と。このときペテロはイエス様がとんでもないことを言う。受け入れられない、理解できない、信じられないのです。イエス様はその後「よみがえる」ともおっしゃったのです。でも信じられません。死んだ人間がどうやってよみがえる? 殺されることのほうがショッキングですから、そのほうが心にとどまる。ペテロがびっくりしてイエス様に「ちょっと、ちょっとこちらへ来てください」と「わきへ引き寄せて」、皆から離れた所へ連れて行き、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。イエス様、何ていうことを言うのですかと「いさめる」。叱(しか)るという意味です。厳しく「そんなことを言わないでください」と。私どもでもそうです。愛する人が「もう、私はそろそろ死にそうだ」なんて言うと「何を馬鹿な、滅相もないことを言って」と、叱るじゃないですか。それと同じで、イエス様がそういうので、「なんて、弱気なことを言う。殺されるなんて、もっと頑張って……」と、ペテロは「情けない」と思ったかもしれません。内心自分の生活を考えたかもしれない。イエス様と一緒にいればガリラヤ湖で漁なんかしなくていい。イエス様にくっ付いて行けば三食は食べられる。イエス様が死んでしまう、なんて言われたら「私はどうなるの? 」と思うに違いない。だから、ペテロは「そんなことがあるはずはございません」と。
ところがイエス様は23節に「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ』」とおっしゃったのです。厳しいお言葉です。つい先ほどまで、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と、喜んで「教会を建てよう。天国のかぎをやろう」とまで……、そこまで言っていいのか、と思うぐらいにイエス様はペテロを褒めています。ところが一転して「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ」。イエス様の邪魔をする者、これはサタンです。確かにそうだと思う。いうならば、私たちを神様から遠ざけようとするもの、これが悪魔、サタンといわれるものです。悪魔とかサタンは怖い恰好をして三俣のやりでも持って、あるいは怖い閻魔大王のような姿かたちをしてやって来るわけではありません。私たちの心にもサタンが宿っています。私たちが神様に心を、思いを向け、神様を求めようとすると、次から次へと妨げてくるものがあります。
朝、「ちょっと時間がある。聖書を読もうかな」と、聖書を前に置いた途端に「安売り、いつだったかしら」と、サタンが働きます。私どもが「説教テープを聞こう。この間のメッセージをもう一度聞いてみよう」と、スイッチを押す。聞いていると電話がなる。「うるさいな、はい、はい」と電話に出る。懐かしい人だったりすると、うれしくなってしゃべりこんでしまい、気がついたらテープは終わっていた。そのようにサタンは私どもが神様に近づこうとすると、必ず妨げてくるのです。これはいつもあります。だから、絶えず警戒する。「これはサタンだ」と「神様に近づこうとする私を妨げようとしている」ことを知っておきたい。
だから、この時もイエス様は「わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。私たちがいつも神様のことを考える。絶えず思っている。だから、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)といわれています。このイエス様をいつも思っているとき、心は穏やかで平安ですし、心に喜びもあるし、望みを持つことができます。しかし、その心が主から離れる。主から思いがそれて、人を見、いろいろなことを聞くと、一瞬にして心が神様から離れる。そして、人のことを思い始める。世のこと、いろいろな自分の人事百般、生活上のことを考え始める。すると私たちは力を失う。気がつかないうちに力が抜けて、それに替えて不安や恐れや失望があふれてくる。
この時、イエス様はペテロに向かって「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱りました。これはイエス様がペテロを叱ったばかりでなくて、同時にイエス様自身もここでご自分を励ましておられるのです。ペテロに「サタンよ、引きさがれ」と言われたのは、ペテロに対してばかりでなくて、自分自身の心の中にあるサタンとの戦い、これを戦っておられたと思います。というのは、私自身がそうだからです。家内が何かで誘ってくれる。「これをしよう」とか「ああしよう」と。誘ってくれると「そうか。それも良いかな」と思うとき、「いや、駄目だよ」と神様が引き止めてくださる。「このことをまずしなさい」と言っておられることを知りつつ「いいかな」と誘われる。誘う相手が問題ではなく、実は自分のなかにあるサタンとの戦いです。
イエス様は決してペテロを「お前が悪いんだぞ」とおっしゃっていないのです。イエス様は心の中でご自分に向かって叱責しているのです。自分の信仰をきちっとしたい。ですから、私たちもそのような誘惑の中にいつもあり、誘惑を受けやすい者であることを知っておきたいと思います。だから、ここでイエス様はペテロにそのように言われました。
それから、24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と。イエス様に付いて行く、主に従って行く。なぜならば、イエス様に従って行かなければ私たちのいのちは無いのです。というのは、先ほどペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。キリストとは救い主、救いを与えてくださる御方、この御方によらなければ人は救われない、ということであります。だから、イエス様と共にあるときに私たちは救いにあずかる。救われます。救われた状態とは、主と共にあることです。だから、イエス様の救いは、私たちがいつも神と共にあること、言い換えると、キリストと共に生きる者となると。これが私たちに与えられたイエス様の救いです。世間にもいろいろな宗教があって、「救い」を言います。「交通安全」とか「家内安全」「無事息災」「病の癒し」から何から、そういうものも確かに救いであります。しかし、もっと根本的な人の救い、それはイエス・キリストと共に生きる者に変わることです。キリストのものとなる。だから、イエス様を「あがない主」とも言います。私たちの罪を赦して、私たちを買い取ってくださった。ご自分の命を代価として私たちをサタンの力から買い取って、神様の所有、神様のものとしてくださった。これが救いです。そして、救われた者の生き方はキリストと共に生きることです。しかもイエス様を私たちの主として生きる。私たちのかしらとして、私の主でいらっしゃる。だから、私はイエス様の僕(しもべ)となる。主と僕という関係、父と子の関係などいろいろな形で神様と私たちの救われた関係があります。だから、その関係を続けたいなら、わたしについてきなさいと言われるのです。24節の言葉の意味です。イエス様に付いて行きたくなければ、それはそれでいいかもしれない。しかし、そこには救いがない。イエス様に付いて行くこと、イエス様の救いとは、対症療法的に一回だけで、打ち身で痛いから湿布薬でも貼(は)って「痛みが取れた。良かった」、湿布薬がいらなくなったら「はい、さようなら」と、そういう意味の救いではない。何かのときに「イエス様、助けてください」と祈って、「良かった。これで助かった」、喜んで終り。願いが聞かれて、事が上手くいくようになった。「これでもういい、イエス様、有難う。もうしばらく用事がないから」という意味の救いではありません。イエス様の救いとは、私たちの生き方、私たちの生涯といいますか、自分の人としての根底を覆(くつがえ)して、在(あ)り方を変えて、キリストにつける者となる。いうならば、休みなく死ぬまで、また死んでからもキリストと共に生きる、これが救いです。だから、世間で言うような、悩み事一つが解決したら「もうこれで用事がなくなった」と言うものではありません。
私どもが病気をすると医者に行きます。自分が病気だと思わないときには医者に行きません。私は花粉症のとき、どうしてもたまらなくなると必ず行く耳鼻科があります。1年に1度行くか行かないかぐらいです。時には2年に1度ぐらいです。どうにもたまらなくなって掛け込む。そうすると、先生が「お久しぶりですね」と、私も「もうこの季節になりまして」と言います。申し訳ないですが、だからといって病気でもないのに出掛けて行って邪魔をするわけにもいきません。だから「先生、1年ぶりで申し訳ありません。普段ご無沙汰しておりまして」と。すると先生が「良いですよ。ご無沙汰が多いほうが健康ですから」と、確かにそうです。
イエス様をそういう御方と思っているなら大間違いです。イエス様の救いを病院のように用事のあるときだけ掛け込む。よくなったから、また1年後にと、時にそういう思い違いをしている方がおられて、年に1度クリスマスだけに来られる方もおられますが、私たちの信仰、救い、イエス様が私たちに与えてくださる救いは、私たちの生き方の根底が変わるのです。私たちがどういう者として生きるか? 神様、キリストと共に生きる者、「わたしについてきたいと思うなら」と、イエス様といつも一緒に生きる者となる。イエス様が私たちの主、かしらとなってくださる。だから、私たちがいつもイエス様に従う。これがイエス様と共に生きることです。
そのためにはどうするか? 「自分を捨て」とあります。ここです。自分を捨てる、これがなかなかできない。というのは、私たちには自分というものが100%凝(こ)り固まって大きな底岩(そこいわ)のごとくあります。自我というもの、「私」がという、これがありますとなかなか従えない。人に対してもそうでしょう。目に見える人に対しても、ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に従えない。子供が親にも従えない。なぜなら、自我がある、「我」がある。己というものがありますから「どうして? 」「何で? 」と、いつもつんつん突っかかる。そして「私はこれがいい」「私はこうでなければ」と、そういう思いが人と人がぶつかりますから大変です。イエス様は「わたしについてきたいと思うなら」、イエス様と共に生きるなら、そのために必要なのは、私たちが自分を捨てることです。空っぽになって、今度はイエス様が私と共にいて、私の心の中心に座っていただく。イエス様が私の全てとなっていただくこと、これが私たちの救いであります。
「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。「自分の十字架を負うて」とイエス様はおっしゃる。この「十字架」とは、何なのか? 私どもはよく教会に来るとあちらこちらに十字架を目にします。でも、十字架はそもそも飾るべき物ではありません。極悪非道な犯罪者を処刑する道具であります。死刑に使われる道具です。そんな物を後生大事にといいますか、有難がってぶら下げてみたり、掲げたりと何の意味があるかと。「キリスト教は野蛮だな」と思いやすいのですが、決してそうではありません。十字架は確かに刑罰の証詞であります。罪の裁きであります。じゃ、そこに誰が?イエス様が私たちのために十字架にかかってくださった。ゴルゴダの丘でイエス様が命を捨ててくださった。それは私たちが死ぬべきところ、私たちが神様から受けるべき呪いをイエス様が代わりに受けてくださった証詞です。それを悟るには、自分がどれほど罪人であるかを認めないことには、十字架を受け入れることができません。自分は正しい、自分はどこにも悪い所はない。私ほど立派な人間はいない。私もできる人間である。できのいい方だ、という間、私は「どうしてそんなに叱られないといけないの」と思ってしまう。「なかなか十字架が分からない」とよく言われます。その分からない原因は自分がどれほど値打のない、汚れた者であるか、それどころか、神様の御心に従えない自分であるかを知らないからです。まずそこを認めていくこと。そのためには罪が何であるかをはっきりと知っておかなければなりません。うそをつくとか、物を取るとか、人を殺すとか、これは確かに刑法上の罪です。しかし、その現れてきた犯罪、目に見える罪といわれるもの、それももちろん問題ですが、それよりももっと根本的な、そういうものが生まれてくる根っこが私たちのうちにある。それが自我、己というもの、そして、それは私たちの造り主、創造者でいらっしゃる神様を認めようとしない力、思い、これが罪です。神様を認められない。人の知恵、人の力とか、人の業、あるいは、もっと身近な自分の力を誇りとする。あるいは、自分の業を頼みとする。そして自分こそ正しいのだ、と思っている。そこには神様を認める余地がない。そういう生き方、そういうところが罪です。そのために、私たちの日々の生活にも喜べない、感謝ができない。絶えず不平不満、苛立ち、憤りが充満している。ここを「罪である」と神様はおっしゃる。神様のお言葉に自分を照らして行きますと、誰ひとり「罪のない人間」はいません。自分の心をよくよく探ってみますと、かたくなであり、傲慢であり、あるいは高ぶった者であり、己を義として神を認めようとはしない心があることを知っています。その心のゆえに人を愛せない。人を裁き、人を憎み、愛のない者となっている自分の姿があります。そうであるかぎり私たちはイエス様について行くことができない。イエス様の救いにあずかることができません。ですから、ここでイエス様が「自分の十字架を負うて」、いうならば、ゴルゴダの丘に2千年前十字架に命を捨てて死んでくださったイエス様、それをただ単にイエス様の死としてではなくて、そこに私も死んだ。私のこの罪のゆえにイエス様が十字架にかかってくださったのだ、ということをはっきりと認めることです。これが「自分の十字架を負う」こと。イエス様が私のために今日も十字架に流してくださったご自分の血を携(たずさ)えて「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と執り成し、赦しを与えてくださっている。この「十字架を負う」とは、そのことを絶えず自分のものと信じることに他なりません。
「コリント人への第二の手紙」4章7節から10節までを朗読。
10節「いつもイエスの死をこの身に負うている」。これが「自分の十字架を負う」ことです。今日も私はキリストと共に死んだ者として、自分を十字架に釘づけていく。自分をキリストに合わせていく。これが私たちの救いです。だから、私たちにとって十字架は命です。ここにパウロが「いつもイエスの死をこの身に負うている」、「それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」と語っています。イエス様の十字架によって自分が共に死んだ者となって、今度はイエス様がよみがえりの命をもって私たちを生きる者としてくださる。生かしてくださる。これがいま受けている恵み、救いです。私たちはまずそのために死ななければ駄目です。自分に死なないことには新しいいのちを頂くことはできません。「死ぬ」とはどうすることなのか? 何も肉体が死ぬわけではありません。私たちがイエス・キリストの十字架に自我を、自分の己というものを張り付けてしまう。キリストと共に死んだ者となる。
私にはそのことが分からない時代がありました。常に自分は正しいと思っていたのです。「あの人が駄目だ」「こいつは……」と、いつも心の中に人を裁く思いがありました。そして、その一方で自分を義とする。「私はこんなに正しい」「こんなに立派な人間だ」「こんなに努力している」「こんなにしているのに報われない」「それは社会が悪い、人が悪い、これが悪い、あれが悪い」と心がまるでハリネズミのように、苛立っていました。その当時まだ学生であり、ちょうど学生運動が盛んな時代で、学生運動はそういう人の不満のはけ口でした。痛快であることは確かです。今まで偉そうにしている連中を罵詈(ばり)雑言非難するわけです。私も「そうだ!そうだ!」と、尻馬に乗っていました。ところが、そのような日々の中で初めて、イエス様のお言葉、「父よ、彼らを赦し給へ、その為(な)す所を知らざればなり」、あの十字架に架けられた最初のお言葉、「彼らを赦してください」の意味を悟ったのです。「彼ら」って誰のことか? それまで聖書も何度も読んでいましたし、このお言葉を知っています。「彼らを赦してください」と「イエス様を十字架につけた連中のことか、イエス様はえらいものだ。俺もイエス様に見習ってあいつらを許さなければいけない」と思った。人を許すのがイエス様に倣(なら)うことだと。そうではないのです。イエス様が十字架に死んでくださったのは、私たちも主と共に、一緒に死ぬためです。そのとき初めて「そうだった。許されなければならないのは私なのだ。私がこの十字架に滅ぼされてあるべきはずのところを、今日もイエス様の許しによって生かされている」と。神様の憐れみだったと思いますが、それを一瞬にして悟らせていただいた。そのとき、それまでパンパンに膨(ふく)らんだ風船のようだったのですが、一瞬にして心が静まった。それまでは「あいつがいけない」「こいつがいけない」と常に怒り、憤り、それは正義の怒り、そういうものが心にありすぎて苦しかったのです。それが一瞬にして消えました。スーッと力が抜けた。「そうだった。いま自分が生きているのは、私が生きているのではなくて、イエス様が許してくださったから、憐れみで生かされている」。私が生きているのではなくて、生かされている自分である。許された者なのだ。その途端、今まで「あいつが悪い」「こいつが悪い」と、憤っていた、義憤に感じていた心が消えていました。そのことを切っ掛けに、そういう学生運動の一角から私は離れて行きました。その恵みは本当に大きかったです。それからズーッとイエス様に従って行きました。その間……、ひと言で言いますが、ひたすらイエス様に従ったかと言われると、離れたことがあり、右往左往していますが、それでも憐れみによって今に至るまで神様は、見捨てないでここまで導いてくださったことを思います。何よりも大切なのは、自分を捨てることを絶えず繰り返して行くのです。
「コリント人への第二の手紙」4章10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている」と、パウロは言っています。それは毎日、日々に死んでいることです。毎日です。昔、イエス様を信じて死んだから大丈夫にはならない。私はそう思います。私自身もそういう経験をしましたが、それはスタート時点でのことです。それから繰り返し、繰り返し己に死ぬことを求められました。でも、幸いなのは常に原点である、死ぬべき場所、十字架がありますから、そこに帰るのです。「そうだった」と。だから、いろいろな問題があって、人とのいさかいや、あるいは、意見の違いがあってぶつかったりする。そういうとき「自分は正しいのに……」と思うでしょう。「私はこんなにしているのに、何で分かってくれないの」と。そのときに「はたして、私って正しいのだろうか? 」と、もう一度十字架に目を留める。「そうだった。誰が悪いのでもない。実は私だ」ということに気づく。これが十字架です。そうしますと、一瞬にして今まで「あの人はどうして分かってくれないの」と思っていた思いが、シュッと消えます。自分に死ぬというのは、そこです。そうすると「主よ、私は本当に死んで当然であった者が、今日もここまで、この問題、この事柄にかかわらせていただいたことは感謝です。あの方も事が分からないからあんなに言っているのですから、そうでした。私が裁くべきものではありません。主よ、あなたに従います。主よ、このことについてどうしたらいいでしょうか」と、今度は主に聞く者に変わります。これは不思議な神様の力です。だから、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」といわれるのはそこなのです。そして「自分の十字架を負え」と。私が死ぬべきところをイエス様が死んでくださったことを認めていく。そうすると、誰もかれも「ああだ、こうだ」と言うべき筋合いは何もない。実に心穏やかに過ごすことができるのです。一日、一日、日々に自分に死んで行くこと、自分を捨てて行く。そして十字架を負う。キリストと共に生きる。主の十字架と共に歩んで行く。
「マタイによる福音書」11章28節から30節までを朗読。
これも、大変幸いな神様からの招きのお言葉であります。「重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」、うれしいですね。私たちはいつも重荷を負い、苦労しています。だから、イエス様の所へ行ってそれを全部下ろしてしまえばいい。「よろしくお願いします」と。確かに私たちのいろいろな日常的に出会う出来事、事柄、生活上の問題、そういうものは重荷ですが、実はいちばんの重荷は自分なのです、己です。私たちは自分の心がいちばん重たい。負いきれない。許したいと思いながら許せない。愛したいと思いながら愛せない。受け入れたいと思いながらはじいてしまう自分の心にいつも苦しんでいるのが現実であります。だから「苦労している」というのは、そこです。ただ単にお金がないとか、あるいは時間がないとか、弱くて健康がすぐれないから苦しいとか、それ以上に私たちの心が重いのです。それは自分、己があるからです。だから、イエス様は「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
「主の休み」はどうやったら得られるか? 29節に「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。「イエス様のくびきを負う」とはどういうことなのか? イエス様と共に歩む。イエス様と一緒に十字架を負う者となって行く。「彼らを赦し給へ」とおっしゃる、主の御思いに自分自身も許された者となって、キリストと共に、イエス様の歩みについて行く。これによって休みが与えられる。魂に休みが与えられる。
十字架の大きな恵み、その奥義をしっかりと自分のものとしていただきたい、これを体験していただきたい。イエス様の十字架を仰いで、己、自我をそこに捨て、そして、主の御声に従う。このことを努めて行きますとき、私たちの心は安らぎ、どんなことにも耐える力、また喜びを主は与えてくださる。
「マタイによる福音書」16章24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。「わたしに従ってきなさい」、イエス様に従うということを徹底していく。いろいろな中に「いま主がここに私を置いてくださった。このことに主が私を用いてくださっておられる」と、いつも主を認めて「イエス様、主よ、あなたに従います」と心を定めて行こうではありませんか。そして、主と共に十字架を負う者となる。そのためにまず自分もキリストと共に死んで、主と一つになって、十字架の主と共に与えられた事柄の中を、問題を喜んで負う者となって行きたい。
ご一緒にお祈りをいたしましよう。