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サイプレス

鬱病になり不安定な毎日。今は宝塚熱が再燃して、これがいい処方箋になっています。

主の洗礼

2011年01月09日 | カトリック教会
今日は、「主の洗礼」と呼ばれるミサ。
元旦は、「神の母聖マリア」で、翌日曜日は「主の公現」だった。

ヨーロッパでは、主の公現は1月6日らしいが、日本では祝日とは
ならないので一番近い日曜日にこのミサが開かれるらしい。
ちなみに、キリストの生誕から1月6日までは、長い休暇で
それぞれの地域で長い冬の楽しみとしてお祭りが開かれる時期でもあるらしい。
この間を戯曲にしたのがシェークスピアーの「12夜」なんだそうだ。

で、今日の主の洗礼。

有名なヨルダン川で民衆に水で洗礼を授けていたヨハネ(戯曲 サロメに
出てくるヨハネである)のもとにイエスが訪れ、
ヨハネから洗礼を受けるというくだりだった。

個人的には、いつも「人間のヨハネ」が「神の子イエス」に洗礼を授ける意味が
よくわからないと、思っていたけれど最近、「神の子」だと高みに
いるのではなく人の姿をして民衆の前に現れ、皆と同じように
洗礼を受け、その後の迫害や苦難をも同じように体験された・・・
ことが、キリスト教徒の受難だけでなく、人間が人として生きていくのに
かかえる様々な苦悩に向き合う「イエス」の覚悟を示すくだりなのかな~
と、個人的に勝手に解釈するようになった。

神父様曰く、キリスト教では「水」は、命だけでなく、死をも連想させるもの
(死を連想させる一番のエピソードは、旧約のノアの箱舟の大洪水で
神様が自分でつくった人間の傲慢さ等に失望して・・・というくだり)なんだそうで、
昔は、大きな浴槽のようなところに水を張って、頭まで一度もぐって洗礼を
授けていたらしい。
この儀式は、それまでの自分は死に、洗礼によって新しいものへとなる
儀礼だったそうだ。

ただし、今日はマタイの福音書だったが、マルコもルカも簡単では、
あるけれどヨハネから洗礼を受けたことを記述している。

上の二つに比べると、マタイの福音書はいささか手が込んでいる。(笑)
想像するに、神の子が人間に洗礼を受ける正当な理由をマタイが
マタイなりに探していたからかな~と、思う。

もう、教会に通い始めて数年が立とうとしているが、その時々に
感じ方が違う自分を発見し、また、それぞれの使徒がどうやって
伝えようとしたかの個性が感じられる部分にあたると、
なんだかほっとする。