◆犬の散歩◆

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自殺者を美化するな

2006年11月05日 12時58分04秒 | 政治・世相・スポーツ等
最近、自殺の報道が増えている。いじめ自殺だなんだといってるのがどうも見てて腹が立ってくるのだ。

最近の報道によれば、文科省のいじめによる自殺の認知数は0件だという。しかし、最近はよく「いじめられたので死にます」という遺書を残して死ぬ子供が後を絶たない。このような遺書があっても、文科省はいじめによる自殺だと認定しないのか、ふざけているという論調だ。
いくらなんでも、こんな遺書があればいじめによる自殺だろう。私も最初はそう思って見ていたのだが、話を聞いているとどうやら理由が分かってきた。

「いじめ」行為があったかどうか、これは聞き取りなどによってある程度特定できるのだろう。しかし、その「いじめ」行為が「自殺」の原因になったのか、つまりいじめ殺したのかというとそれは因果関係において疑問だというのだ。

つまり、いじめたことが原因で、めぐりめぐってその子が自殺したとする。遠因としていじめはあったのだろう。しかしそれが直接の原因かというと、不可避の因果関係があったのかどうかというと、それは難しい。

同じいじめを受けても死ぬ子と死なない子といる。また、普通じゃ死なないようなことでも死んでしまう子もいる。となると、どんな場合においても、結果として自殺をしたら、その原因が全ていじめにあると見てしまうのは問題なのだ。

軽く「オイ」と言っただけで死んでしまった子がいたとしよう。忘れ物をした子に対して「なんで忘れるんだよ」と言っただけでいじめに感じて、死んでしまったとしよう。これが「いじめによる自殺」だとすれば、それはあまりにいじめたとされた側にとっては荷が重くないか。

まずはその行為がどの程度のものか。人権を無視したようなものか、冗談や常識的な範囲の叱責だったのか。まずそれを考えてみなければならない。

でも、そうやって考えていくと、たとえボッコボコに殴られても、服を切り裂かれて放置されても、頭からうんこかけられたとしても、そういうことは犯罪であって、先生なり警察なりに言えば対処してくれるはずだ。これをできない子供の方にも問題はあろう。いや、ここでいう問題とは、いじめられたことに対してのものではなく、その後に対するものだ。
いじめ自体についてはいじめた側が100%悪い。いじめられる側に何らかの問題点があったとしても、能動的な行動に出て良い言われはないのだから、いじめ自体に関してはいじめた側が確実に悪い。しかし、対処の仕方が悪い場合がある。

そのような犯罪行為を甘受する必要はどこにもない。死ぬ必要もない。通報するなり逃げるなりすることは出来たはずだ。学校に行きたくなければいかなくてもいいのである。他に方法があるのに死を選ぶのは本人の勝手であろう。
いじめられたことに対する責任はいじめた側に100%あるが、死んでしまったことについての責任は、死を選んだ側に100%ある。これは確実である。しかし、結果として死んでしまったことで、いじめた側やそれに気づかなかった学校側の責任が重大になると勘違いしている人がいるのは問題である。自殺によって学校側の責任が過重されることは、絶対にあってはならない。

確かにいじめることは異常であって、人間的に問題があるのだが、だからといって命を奪うつもりでやってる人間は殆どおるまい。殺すつもりでいじめるのは殺人もしくは殺人未遂だが、そのような凶悪なものと一緒にしてよいものではない。
さらに、死ねば自分は困難から逃れられるが、残された者はどうなるのか。親がどれだけ悲しむと思うのか。そう考えると自殺とは自分勝手そのものである。
はっきりいって「世の中に死ななきゃならないほどの困難などない」のである。あるとすれば、回復の見込みのない病気で治療が苦痛な場合くらいだ。だいたい、死ななきゃならないほどのことってなんだ?

人間関係?リセットしてしまえ
いじめ?通報するか、やりかえすかしろ
借金?自己破産してしまえ
鬱?病院にいけ

このように、死ななければならないことなどこの世にはない。これらに対処することが出来ないから、死を選ぶのであろう。それはもう、自己責任である。
確認してほしいのは、たとえどんなに苦しくても「死ぬのは本人の自由意志によるもの」であり「自分勝手な行為」だということだ。そもそも自殺は犯罪だ。単に死んだ人が罰せないだけのことだ。自分への同意殺人ということになろう。つまり、自殺は悪いことなのである。

それと問題なのは、自殺した子の親だ。さも学校が悪いかのようにいう。学校など何十人もの子を見ているのだから、お前の子供だけ見てられるかっての。なんで我が子の気持ちを理解してやれないのか。親に相談しやすい環境であれば、死を選ぶ前に親に相談していただろう。親が学校に行かせないこともできたろう。自殺の責任は、いじめた奴以上に親にあると私は思う。なぜ、親がいじめを察知して学校に通報しないのか、いじめた奴を問いつめてその親に文句を言わないのか。改善できないなら別の学校に通わせるなどの対策をしないのか。それらが出来るのは親しかいないというのに。

学校が気づかなかったのが悪いと取り乱して教師や校長を罵倒している映像が流れているが、何を偉そうにしているのかと思う。もしその子がその光景を見ていたら、お前もだろと言ってるだろう。
そして、一部の遺族や支援団体の、これらを美談にしたがる動き。これには反吐すら出る。今朝、報道2001を見ていたら、ジェントルハートという団体の人が出ていた。いじめに関する活動をしているようなのだが、死ぬ前に子供が言った言葉を、素朴なイラストとともに掲げているのだ。なにかの標語みたいでもあるし、ちびギャラリーの作品みたいでもある。自分勝手に死んだ者の発言をこのような素敵な絵にしようと思うのが分からない。それを感動に転化させようとするのも分からない。死を美談にしようとしている動きには、邪悪なものを感じてしまう。偽善とか言うまえに末恐ろしいものを感じてしまう。
自殺は自分勝手な悪行か、もしくは精神状態が異常であったために突発的に起きた事故であって、美談などでは断じてない。

それと、遺書が公開されて、学校やいじめた相手が相当の悪人だったかのように報道されてしまうのも問題だ。仕返し感覚でエキセントリックな遺書を残して死ぬことを助長してしまう。なにより死を美しいものとして、かわいそうかわいそう言うものだから、そう扱われたくて死んで行く者も出てくるだろう。
暴走行為をかっこわるくする目的で暴走族のことを珍走団という動きがあるが、いじめや自殺についても、同様なかっこ悪い名前を付けるべきだ。どちらも自分らが悪いことをしている自覚がないのが一番の原因だろう。
いまの報道では、いじめも自殺者も抑制しているとはとうてい言えない。


名前も知らない、無関係な他人が死んだからといって涙を流せる人は相当の偽善者であろう。他人なんて所詮そんなものである。自分の身内が死んで欲しくないなら、自分で守ってやれ。それが出来なかったことを悔いるのならまだしも、他人のせいにするなど愚の骨頂である。
もし私の身内が自殺したなら、可哀想とか思うまえに、ふざけるなと思う。死ぬ前にできることはいくらでもあるだろうに。そして、それを防げなかった自分を悔いることだろう。原因となった人間がいるなら殺しに行くかもしれないが、それは単なる自己満足に過ぎないことは理解できる。
しかし、かわいそうだの、他の誰かが気づかなかったのがどうだとかみっともない八つ当たりはしない。その事柄に関する感情は、全て自分の責任で片付けるべきである。他人のせいにするなど愚の骨頂である。



ついでに、死ぬとか死にたいとか言っている人と、本当に死んでしまう人は同列ではないことを指摘しておく。
落ち込んでいて、死にたいと言っている人の延長が、本当に死んでしまう人だと思っている人がいるが、そうではない。
死にたい死にたいと殊更に主張する人は、死なないでくれと言われたいから言っている、構って欲しいから言っているだけなのだ。こういう人はたいてい死なない。たまに行動に出ることもあるが、大したことができない。動脈を傷つけずに体を切るか、すぐに切れるヒモで首を吊るか、少々多めに薬を飲むか、酒を一気飲みするかである。

これらの行動は、死ぬ死ぬ言う行為を正当化するためにするポーズであって、本当に死のうとしているわけではない。だから、確実に死ねる事は滅多にしない。事故で本当に死んでしまうこともあるのかもしれないが。
だから、遺書などは殆ど書かないし、書いたとしてもそれはきれい事ばかり書かれていて、死を前に覚悟を決めたものではない場合が多い。悲劇に浸りたいだけなのだ。

ところが、本当に死んでしまった人の周囲の話を聞いていると、普段は明るくてどうとか、そんなそぶりは見せていないとか、そんなのばかりである。話を総合すると、本当に死ぬ人間は、むしろ普段より明るく振る舞って、そのまま死んでしまうもののようだ。まさに突発的なもののようである。

つまり、死ぬ死ぬうるさいやつは死なない。むしろなんからの悩みがあるのに死ぬ死ぬ言わない人の方が危険で、両者は全く別物だというのがわかる。
こういう話をすると身に覚えのある人はいるだろう。ヨーグルを引退する引退するといって結局戻ってきたりする人は私の知る限りでも何人もいるし、むしろ何も言わずに来なくなる人の方が何十倍も多い。こういったところでも、やめるとか死ぬとか言う人は、ゲームや生に固執しているからこそ、それに反したことをいって注目を引こうとしているのだろう。

そして、本当に死んでしまう人というのは、まともな精神状態にない。まあ、ある意味病気なのだろう。落ち込んで死にたいと思うことはだれしもあるとしても、本当に死ぬことまでは考えない。なぜかというと、死は恐いのである。死そのものはそう恐くはないのだろう。誰だってそのうち死ぬのだから、もし死そのものが恐いのなら、毎日恐くて生きていけないだろう。
恐いのは死そのものではなく、それに至る過程であろう。どのような手段であれ、その場からすぱっと消えてなくなれるものではない。飛び降りにしても首つりにしても、踏み出す瞬間の恐怖、死ぬまでの恐怖があろう。薬を飲むにしても同じだろう。楽に死ねる方法などそうはありはしない。それに、さあ死ぬとしてどうすればいいのか考えると、意外と死ぬのって大変だし、遺族のことを考えたりして結局死ぬことは現実的ではないと気づく。だからこそ、そうそう人は死なないのだ。

それを乗り越えて死ぬというのは、侍や軍人が覚悟の自決をするようなものも含めて、通常の精神状態にないことがわかる。非常に強い意志があるか、もしくは逆に感情が不安定になっている場合だ。そのヒステリックな状態に、なんらかのきっかけによって飛び降りたり首を吊ったりするのだろう。これはある意味、防ごうとして防げるものではないのかもしれない。
ただ、そういう周囲が通常ではない精神状態に気づき、原因は何か見定めることが出来るとすれば、それは学校ではなく、親の仕事であろう。だからこそ、親がまず自分の至らなさを悔いるべきであって、学校のせいにするなどというのはお門違いだといえよう。

先ほどの報道2001では、いじめや風紀の乱れを撲滅させるために、一切容赦のない処分を行うアメリカの例をやっていた。暴力行為は即退学だの停学だのというふうに、互いの言い分、言い訳を聞かずに問答無用で処分してしまうのだ。そうなれば、それらの行為について慎重になるだろうという。これは古い日本的な処分なんじゃないかと思うのだが、時代には即さないかもしれない。ただ、徹底できれば確かに物理的ないじめは減るだろう。
ただし、精神的ないじめは増えるはずだ。そして、むしろこちらのほうがいじめられる側にダメージを与えるのだ。そう考えるならば、その施策はある意味でいいとはいえるけども、精神的ないじめに対してどう対処するのかという部分までしっかり対策したうえでなければ、たとえば逆にいじめた側にしたてあげるといういじめが生まれる可能性もあることも想定しなければならない。

いじめ自体をなくすことはまずできないだろう。世の中には訳もなく人を攻撃したがる人というのはいるのだ。それはそうすることでしか自己の存在意義を認められない矮小な人格であるのは疑いない。そう、いじめる側もいじめられる側も普通じゃないのは確かだが、あまりに表面化しづらいので対策もしづらい。あまりにがんじがらめに対策してしまうと、自由な生活に支障を来すであろう。
であれば、できることは、いじめによって自殺したり、心を病む人が出ないよう、そのケア、対策に重点を置くべきであり、それが出来るのは親だけだということを、まず親が自覚して、常に自分の子供の考えに目を光らせておくべきだろう。これもがんじがらめにするということではなく、子供が悩みや問題を相談出来る場所を用意することだ。それが親そのものでも、それ以外でも構わないが、それがあるかどうかの確認くらいは出来るだろう。
人間、逃げ場所が必要なのだ。これさえやってれば楽しくてたまらないことを見つけるとか、愚痴る場所を見つけるとか、普通の人は無意識に発散しているものなのだが、精神の発育途上にある子供にそれを自分でやれというのも酷であろう。

結果として死なれてしまったのならば、その親はその対策が甘かった以外のなにものでもないのだ。まともな親のもとに生まれていれば、その子は死なずに済んだのである。死を選ぶのは自分であったとしても、判断力のない状態であれば周りが保護すべきであり、それを怠った親の責任は重大である。

そういうわけで、私はいじめ自殺の報道や、その時に出てくる親がむかついてたまらないのだ。


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