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長崎&熊本・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の旅4原城跡と有馬キリシタン遺産記念館へ

2018-12-08 | 旅 長崎県

ツアー2日目は有馬キリシタン遺産記念館の見学からスタート。

キリスト教の繁栄と弾圧の歴史を持つ南島原市の「原城跡」「日野江城跡」の2つの史跡は、日本のキリシタン史の光と影の証人であり、人類の記憶として後世まで語り継がれる価値を持っているそうです。

雲仙地獄を見たときはそれほど残酷な史実があったことはよく知らずにいたわけですが、こちらの記念館で雲仙地獄で弾圧を知ったときはちょっとショックでした。

長崎&熊本・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の旅3雲仙地獄と「ゆやど雲仙新湯」
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原城跡・日野江城跡は文字通り「跡」なので、事前学習なしで行くとあまりその場所の意義を見出せなくなるらしく、この記念館で予習をしよう!ということらしいです。 

250年間のキリスト教の潜伏を支えた背景とキリスト教弾圧に至った経過や島原・天草一揆の状況をわか
りやすく展示しているので、原城跡・日野江城跡について学べます。
宗教心があまりないためかキリスト教を棄教せず、殉教していった方たちの生き方や信仰心に対してはあまり納得できない自分もいます。時代が何かに頼らなくてはいけなくてそれが宗教だったのかもしれません。
 
 天草四郎は歴史の犠牲になったともいえ、カリスマ性を買われて大抜擢されたようで本人の意思で反乱の大将になったわけでもなさそうなこともわかってきて、掘り下げるとかなり興味持てる内容だと思いました。歴史に動かされた人物の一人なのですね。
 
日野江城跡の階段遺構はお寺の五輪塔などお寺の仏教関係のもの(お墓など)を使って造られたキリシタン大名有馬晴信時代のものとといわれ、仏式の墓を踏まなければ入城出来ないということになります。
そのままにしておくと風化するので今は埋め戻されてVR世界遺産的になっています。

今回は日野江城跡は訪問してないのですが、日野江城は有馬氏の居城で、当時は海に面し、海面に朝日が名城だったそうで、1590年のイエズス会年報には「部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られ、日本にこれほど壮麗な建築物があるとは考えてみなかった」と記載されているそうです。

以下はこちらのサイトからの引用
島原半島一帯を支配する(肥前)有馬氏は、晴純の時代に勢力を伸ばし、有力な戦国大名になった。1552年、それを継いだ義貞はキリスト教や南蛮貿易といった新しい風を取り入れたが、佐賀の龍造寺氏の侵攻に脅かされるようになる。
1571年、領主となった有馬晴信は、当初はキリスト教に好意的ではなかった。しかし、龍造寺氏の攻撃が激しくなると、1580年に洗礼を受け、イエズス会から食糧や資金等の支援を受ける。また、薩摩・島津氏の援軍を得て沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った。危機を脱した晴信は、自領の浦上村をイエズス会に寄進し、有力キリシタン大名大村純忠や大友宗麟亡き後、伴天連追放令が出ても宣教師らを庇護した。日野江城跡は日本キリスト教史における初期の中心地として、国の史跡に指定。
 
金箔瓦
 
 
 
 
最初は弾圧は棄教しなければ殺すということから、拷問して棄教を迫るという狂気なものになっていきます。豊臣秀吉が『バテレン追放令』を出したのが1587年。
理由としては長崎が貿易の中心となって豊かだったため力を持つことを怖れたのが原因と言われているようです。
この記念館で雲仙地獄での拷問攻めの絵は阿鼻叫喚!
え?あの場所が?と複雑な気持ちになりました。
 

原城跡発掘調査で出てきた人骨のレプリカ。
今も原城跡にははたくさんの人骨が埋まっているそうです。 
原城跡は訪問、 南有馬ひまわり観光協会のガイドさんにご案内いただきました。 
 
有馬キリシタン遺産記念館 
〒859-2412     
長崎県南島原市南有馬町乙1395番地
TEL / FAX 0957-85-321
開館時間 9時00分 ~18時00分 
休館日 木曜日・年末年始(12月29日~翌年1月3日)
  

島原の乱の舞台、天草四郎の居城、原城跡へ行く


原城跡を海から眺めたことはあります。口之津からイルカウォッチングのとき遠く海上から断崖絶壁にある原城跡を見上げたわけです。
口之津イルカウォッチングと原城跡/JR九州特急で行く!大人女子旅、ななつ星と熊本、長崎の旅16
海上から見た原城跡

原城跡は心霊スポットとしても名高いわけですが、歴史の中でも重要な「島原の乱」では3万人以上のキリシタンや農民が命を落としたということで原城一帯で後に多くの遺骨が出土されたわけです。有馬キリシタン遺産記念館にはレプリカの人骨の様子もありました。

 


空掘
女性や子供が隠れていた場所
原城本丸跡の少し手前に位置する空掘跡。島原の乱で籠城していた際には防衛用として使われた場所で、戦にでない女性・子どもなどが隠れていたと言われています。


枡形虎口
国内最大級の虎口遺構は原城本丸の正面玄関に相当する虎口(城の主要な入り口)遺構。南北90m・東西80mと非常に大きく、また複雑で戦闘的な構造であったことが分かっています。


ほねかみ地蔵(心霊スポットと聞いて写真撮影してない)
悲劇を今に伝える地蔵尊塔もありました。
島原の乱では3万人以上のキリシタン・農民が命を落とし、。散乱していた遺骨を敵・味方の区別なく拾い集めてその霊をなぐさめたのが、このほねかみ地蔵です。
 

 
 

櫓台跡(天守台跡)
口之津・天草を見渡せる
天主なるものが建っていたのではないかと思われる場所。石垣内の隅の壊された部分から大量の瓦が出土しています。
 
竪穴建物跡群
一揆軍籠城の建物跡
島原の乱で一揆軍が立て籠もった、地面を掘り込んだ半地下式の小屋。この竪穴建物跡群の発掘で、一揆軍の実態が少しずつ明らかになってきているのだそう。

本丸門跡(四郎家)
史料に記されている天草四郎最後の居場所とも一致する遺構。本丸の大規模な虎口の最奥部では、周囲を石垣で囲まれている門の礎石も見ることができます。
 
 
 
 人骨と同時に当時の十字架やメダル、ロザリオ等も発見されたそうです。
 

キリシタンへの弾圧に耐えかねた有馬や天草の領民たちが起こしたした戦いが「島原の乱」
その一揆を指導したと言われているのが天草四郎、16歳の少年
十字架を掲げて戦闘を指揮したと言われています。
 
 
 
 
天草四郎像(島原の乱の総大将)
16歳で島原の乱の総大将となった天草四郎の像。原城本丸で祈りをささげるこの像は、長崎平和祈念像で有名な南島原市出身の彫刻家・北村西望氏の作品。

カリスマ性の高い16歳の美少年だったがために大将に祭り上げられたというのが真相?
定かなことはわかりませんが天草四郎も歴史の中で定められた運命としか言いようがないと思います。

16歳の美少年には妻がいたとされ、妻と原城で暮らしていたのではと推測されています。

天草四郎の墓碑
 

海に向かって立つ三体の石像
談合島を見つめる マルコス フェラーロ神父、四郎、四郎の母
と推測されています。
 
原城跡
住所:  〒859-2412長崎県南島原市南有馬町
電話番号:  0957-76-1800
 
 
南島原ひまわり観光協会 ガイド付ツアーはこちら
 
原城跡へは徒歩だと結構かかるのですが、原城温泉真砂の前からシャトルバスが出ています。
 
〒859-2414 長崎県南島原市南有馬町丁133
TEL:0957-85-3155 FAX:0957-85-3022
 
 

まとめの目次
JR九州プレスツアー長崎&熊本・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産へ☆目次

https://www.t-island.jp/about
https://www.nagasaki-tabinet.com/ 
JR九州
http://www.jrkyushu.co.jp/company/index.html
JR九州東京支社
http://www.jrkyushu.co.jp/tokyo/

JR九州プレスツアーに参加した記事です。

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