風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

オープンシステムと助っ人

2018年02月16日 | 詩吟
ここ何回、助っ人に出かけただろうか。

そこに出かけられるのも、初心者の会員さんが、喜んで、「また来てください」と言ってくださるから、出しゃばりと思いながらも、精一杯をやってくる。

そう迷いの中に居るのは、その教場の指導者さんには、確かに「来てください」言われた記憶がないからで、でも、行くと、うれしそうにしてくださるので、行ってもいいのだなぁと思うことにします。
まさか、先輩の横暴とは、思っていないでしょう。

これも、野田 芦孝会長のおっしゃる組織力の一環として、許されることと思えば、できること。

なによりも、新会員さんからの、強い手ごたえがあり、上昇志向に刺激されます。
ですから、予定の合わせられる限りと思って、頑張れる。


東京連絡所と言われていたころから、複数の教場が首都圏に散らばっていましたが、そのころは、まだ、会長も「どこの教場へ行ってもよい」とは、おっしゃっていなかったのですが、すでにそのお気持ちは、おありになっていたのでしょうが。。。

ただ、私の気持ちとしては、最初に所属した、野田 芦孝先生が教えている中央会が、私の教場で、月に1回が少ないと思う気持ちはありませんでした。

他教場へ足しげく出席するようになったのは、長期休眠期間を終えて、復帰した時、ブランクを埋めるために、練習量を増やすため、他教場へ通うようになりました。

そうして通ううちに、まだ、初心者の多かった女性たちが、ご自身の声の高さで、私と合吟すると目に見えて吟詠がかわっていくのを実感して、そちらの「手助け」と思う気持ちにシフトしていったように思います。

男性指導者の低い音で、新しい吟を習い、1回乃至、2回の独吟のチャンスに、急に自分の高さで吟詠するのは、音感の優れた方でない限り、音がつかみにくかったと思います。

自分の吟詠を思いだすために、私は、自分のための練習をさせていただきながら、誰かの役に立てていると思いで、他教場へ行くことへの罪悪感を消していきました。

そんな時に、「芦孝会はどこの教場へも自由に参加してよいです」と、芦孝先生が声高らかにおっしゃったときは、ほっとしたものです。


そして、今では、芦孝会のみなさんは、可能な限りの練習を積むために、所属教室以外へも、当たり前のように足を運んでいらっしゃいます。

それぞれが、それぞれの意義をもって、自分の責任で、複数の指導者のご指導を頂いています。

その中で、偶々のタイミングで、古くからの一つの教場へは、未だ足を運ぶチャンスがなく、それから、新しくできた教場のなかのいくつかには、まだ、伺うことができていません。

芦孝会の画期的システムには、いまだに、ちょっとした齟齬感があります。
何かはっきりとした行かねばならぬ理由付けが、あると、さっさと訪れて、今ある19の全教場に参加したことがあると言えるようになるのですが。

「全部」という記録を作るが如くの気持ちではねぇ。

なんだかだと言いながら、このオープンシステムの中で過ごしていると、だんだんと、垣根が低くなってきたようで、始めてお目にかかった先生に対しても、聞きたいことを遠慮なく質問をしてしまい、気を使わせてしまったという場面もしでかしてしまいました。


いろいろなこだわりと、折り合いを付けながら、一つ一つの出来事から、学ぶことがあり、一つのことを続けていることで、まだまだ、成長しているのかもしれないという実感は、何よりもうれしく、来月大台に乗る年齢をしばし、忘れておりました。


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素読を楽しむ会

2018年02月15日 | 論語と
第三木曜日の今日から、須藤先生は当分休講となります。

第三木曜日は、はじめの一歩が二時間目に有ります。

幸い、私は、元気で、而も詩吟のメンバーは、須藤先生の講義がなくても、詩吟にだけでも参加したいと行ってくださったので、一時間目から、時間を拡大して、「初めの一歩」を開講いたします。

この方たちは、北千住で開講していた時からの生徒さんで、長い方は、4年になります。

たった1時間でも続けることで、かなり上達なさっています。

いつだったか、その方たちのことを「自分のいる場所はわからないものだ、こんなに上達しているのに」と、書いたことがあります。

その通りのことを生徒さんの一人が、おっしゃいました。
「私は、じょうずになっているんですか?」と。


これは大変、その方が、どれだけ上達したかは、何を以てわかって頂いたらよいのだろうか。
比べる相手がいてこそ、あるいは、何かの尺度があって実感できるものなのですよね。

何かの尺度とは、例えば、試験を受けて「昇段」すること。
たくさんの人が集まって、たくさんの吟詠を聞き、がっがりしたり、喜んだりすることも、必要です。


初めの一歩の中だけにいて、先生に「いいですね」と言われるだけでは、もう4年も経ってくると、十分ではないのですねぇ。

初めの一歩は、須藤先生ありきの講座ですが、詩吟を習うためだけにわざわざ遠くへ通うというのも負担に感じてしまうことでしょう。

そして、上昇志向のある方にむけて、何か良い手立てを、先生がたと相談する必要がありますね。

そうではなく、ただ淡々と、ここに来て、詩吟を楽しく吟じるだけで良いという人にも、もっと良い方法は、無いかと、考え込んでしまいました。

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ゲストさん 

2018年02月14日 | 詩吟
松風にゲストさんが二人。

初心者さんなので、ゆっくり進んでいます。

当分、新A-2の教科書を終えるまでは、絶句のお稽古とします。
律詩へは、あるいは、和歌へは次のテキストが必要になったとき、どちらにするか考えます。

ゆっくり、丁寧にをモットーに練習が進んでいますが、吟詠というものは、奥深いもので、初心者と、4段の有段者とがいっしょに、学ぶのだからねぇ。

つい、所属教室やその先生の話題が出てしまう会員さんには、手荒にストップをかけてしまいます。



もう少し、優しく柔らかにと、思うのですが、言葉がストレートに過ぎますねぇ。
そんなわたしのことを、よく知っていてくださるので、許されているなぁと、思います。

自分もできているわけではないのに、人様に、礼儀を説く私は、何て無礼なことか。


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めりはり

2018年02月13日 | 詩吟
昨日の、先生とのお話で、いろいろとお聞きすることができましたが、「めりはり」をつけようと直接的な言い方ではありませんでしたが、助言いただきました。

「風を追う狂浪」のイメージをもっていますか、「春の海」ではいけないんですよと。

瀬戸内のうみだったのかなぁ。精一杯、力の限り「狂浪」を吟じたつもりだったんだけど。
そのように、耳に届かなかったのだから、もっと体力をつけて、そして、前後の、優しさ、柔らかさを、腑抜けにならないように、支えられた声で、静かな、弱い声をださねば。

つまり「めりはり」なんだなぁ。

いつまでも、ただ大きいだけの声を張り上げる吟詠では、ダメなのねぇ。

同じ幅の強さではいけないのよねぇ。

それで、今日の、お稽古では、メリハリをつけたつもりで吟自他のだが、体力がついたわけではないから、結局、先生のおっしゃった、転句よりも弱い声を出してめりはりをつけたつもりになってはいけないよとおっしゃったそのとおりの吟詠になったのだろうと思う。

さて、観客の耳となって、聞いてくださった方々の本当の感想は、どうだったのだろうねぇ。


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一人 3,000回

2018年02月12日 | 詩吟
「一人」「3,000回」の二つのキーワードで、触発されたような、かえって、「しん」と気持ちがすずかになってしまったような、、、
でもやはり、試してみようとできることなら笑顔でと、思ったことでした。

その先生の「ひとり」と、私の「一人」は、まったく質の違う「ひとり」だから、比べようもないけれど、私は私なりの一人で頑張った時期が、長かったなぁ。

最近、同朋を得て、いろいろと意見を頂いたり、相談に乗ってもらったりしているから、「一人で頑張る」なんてできるのだろうかと思う。

一人でやるのは、時間がかかりますと、おっしゃっていました。
自分で自分の姿を思い知るなんてことは、一吟3,000回をやりおおせる先生だからに違いない。

録音をして、他人の耳で聞こうとしても、その音源は、本当のことを聴こうとしていない耳には、やってるつもりの吟詠しか聞こえてこない。

「だから、1週間置いてから、聴くのです。」とおっしゃった。

そしてまたさらに、3,000回の道へと戻っていく。

山に行って、木の葉をその日決めた数だけ取って、その葉っぱが手からなくなるまで、吟じるのだとか。


その環境にないと言ってしまったら、おしまい。

何かの形で、せめて、一吟200回をやってみるか。

期限は決めませんと、おっしゃったので、とりあえず、「正」の字を書いてみよう。
空中に消えてしまう吟詠を、「正」の字で、見える化してみるのも、励みになるのかもしれません。


うちで練習するときは、こたろう様のご機嫌による。
ご機嫌と言うより、私の喉のご機嫌によって、そばにいるときと、すたすたと部屋を出ていってしまうときと。
その差は、歴然。伸びやかに声を出している時は、猫の耳にも心地よいらしい。

その伸びやかな声で、200回をとりあえず。

あるいは、一人カラオケで、やってみよう。

一人は、かつての経験で、独りよがりになるから、なるべく避けて、発声練習と喉と胸を開いて、発声することの練習にしたらいいかなぁ。


今日は、哲皚会松戸支部が主宰する関吟の関東連合の初吟交流会。
手作り感満載のこの初吟会は、先生みずから、先頭になって立ち働き、もちろん、東京芦孝会の会長以下参加の幹事さんたちも、もちろん、会員さんまで、設営に、運営に、片付けに快く力を貸して、初吟会が行われました。

かつて、東京支部だったころ、中央会、小岩教室、小金原支部で、ご指導をなさった先生が、地方からお越しいただき、そのころお世話になった方がたとの交流が、にぎやかに行われていました。
その先生が、この二つのキーワードをくださったかたです。

お名前は、存じていましたが、ちょうど休眠期間に、東京にいらっしゃった先生で、すれ違いだったため、顔を合わせるのは、今日が初めてでした。

初吟会のおかげで、よき出会いを下さって、ありがとうございました。

哲皚会松戸支部の初吟会は、毎回、ビンゴで心づくしの商品があたります。また来年、たのしみに、していましょう。
一年の初めに行われる発表会は、とても意義のある会です。
今年一年の、吟詠を占う意味で、今年は特に、私にとって、意味のある会でした。

私の吟題は、去年からのテーマ「海を望む」あれだけ練習をしたのだから、さすがに、舞い上がることはなかった。
17日の日詩協での、良い布石となったのかな?


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こたろうのせぼね

2018年02月09日 | 体を整える
こたろうのせぼねは、一か所だけ、とくにとびでているところがあります。

いままで、うかつにも、そのことを問題視していなかったのですが、ふと気になって先生におたずねしてみました。

最近、気になるので、背中を撫でる時にその背骨に手が当たったときは、しばらくつまんだり撫でたりしています。
そして、背骨の両側を触るとその飛び出ている背骨の体のところだけ、「嫌な感覚があります。
たとえるなら、皮膚の下に砂粒でもあるようなざらついた感じなんです。」と。

こたろうに「これ嫌な感じがするね、悪いものだったらなくなるといいね。」と語りかけながら撫でています。」と。、先生にお伝えしました。


私への施術も、猫さんへの施術も同じです。
無心な赤ちゃんも、背骨を触っていると、自分で体を動かして、正しい方向へと導くような本能的な動きをするそうです。
猫もそうかしらねぇ。
人間は、大人になるとすっかり、その本能を忘れてしまって、すべて、他にゆだねてしまう癖が付いてしまって困りものですよねぇ。

こたろうさんは、ちょっとでも違和感があると、まず逃げ出すでしょうが、触っていても、ゆったりとしっぽを振って、そのまま居続けますから、きっと、心地が良いのでしょう。

知らず知らずのうちに、ずっと受け続けている操法をこたろうに施していたのかもしれません。

先生は、さらに、「導気」をなさいとおっしゃいました。
具体的には、おっしゃらず、ただ「導気」と。

帰ってから、これって「導気?」と鼓太郎に尋ねながら、背骨を触っています。

心なしか、この数日で、背骨の突出具合が、低くなった気がします。

「温タオル」もして見たらと助言くださったので、やってみました。
こたろうは毛皮を着ているから、温度は人間より熱めでいいのかなぁ、、、
気持ちよさそうに、じっとしています。

よし、これも効果あり。

その背骨の位置と言うのが、たぶん、腎臓につながるあたり。

高齢猫は、腎臓に問題を抱えることが多いので、これは、17歳になろうとするこれからの猫生の病気予防策として、有効なはずです。

猫は、不具合は、自分で治すことができます。具合の悪いときは、どこか静かな場所を探して、ゆっくり休養をとることで、たいがいのことは治してしまいます。

これからは、その自然治癒力にどれだけ頼っていけるのか、わかりませんから、こんな穏やかな方法で、サメ[トしていけたら、少しでも長生きしてくれるかしらねぇ。



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積み重なって

2018年02月08日 | 詩吟
時間を重ねて、積み重なっても、なかなか、目の出ないことがあり、自分でも、もういやになってしまって。。。

そんな時に、どういう加減か、ちょっとした刺激で、殻が破れて、芽が出ることがある。

そんな場面ではないかなぁと思えることに遭遇しました。

その場所に居た、私ともう一人は、思わず顔がほころんでしまいました。

そしてそのもう一人は、そばで見ていて、いろんな学びがあったと言っています。

いままで、少人数で女性どうしの青葉は、このような場面は望むべくもなかったのです。
最近、ゲストさんが来てくれるようになって、貴重な体験が重なっています。

青葉さんにとっても、同じ現象が起こって、双方が、新しい芽を吹きだしたようです。

ゲストさんのおかげ。

もうこうなると、青葉さん、ゲストさんの分け方ではなく、同袍と言うことになるのだろう。



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こたろうはねこ

2018年02月07日 | こたろう
こたろうは、猫です。

3月26日で、17歳になります。

まだ、足腰は、大丈夫で、キャットタワーをかけ登ります。
さすがに、下りは、ゆっくりになりましたが。。。

食欲もあり、体重は、一定を保っています。

自己管理が行き届いていて、私のように決して甘いものを欲しがったりせず、魚系の食事を好みます。

5年くらい前からは、お父さんとも仲良くなって、仕事から帰ってくると、いそいそと玄関に迎えに行って、愛そう良く「ニャーン」とお迎えまでしています。

目は、もしかしたら、衰えているのかもしれませんが、耳はまだ確かのようで、鰹節の入っている棚の扉を開けた音には、どこにいても反応して、あっという間に足元に、行儀よく座って私を見上げています。

その期待に満ちたまなざしは、どんな憂さも晴らしてくれる魔力をたたえています。

冬の寒い日は、枕元にやってきて、遠慮がちに布団の襟をちょいちょいとタッチして、「はいってもよろしゅうございましょうか」とでも言うように、暖を取りに来ます。

明け方まで滞在する時と、いつの間にか居なくなっている時もあって、温度調節も自己管理抜群です。

目覚ましが鳴る30分くらい前には、また、同じように、「おはよー」と言いながらやってきます。
その合図で、半分目が覚めた状態で、惰眠をむさぼるのは、至福の時。
特に寒い今の季節は、起き抜けの体操も始めがたく、ぬくぬくと居続けます。
この時間は、頭は覚めていて、今の一番のテーマを考えたりするための大事な時間でもあります。

例えば、今は、「海を望む」がテーマです。
そのほか、問題があったときは、ぐるぐると考えが回り続け、あっちかこっちか、最大の振れ幅をもって、考え続けるし、楽しいことがあったときは、「しあわせー」と反芻する。

夜は、ぎりぎりまで起きていて、枕に頭が付いたら、ほぼすぐに眠れるおかげで、考えすぎて、眠れなくなることはありません。
朝の目覚ましにストップがかけられるまでの30分ほどの時間で切り上げられるのが、なかなか良いと思います。

ねことの生活で、更にその我がままに磨きがかかり、猫の自由に生きる様子に、ほれぼれとします。

会社人間として、今でも仕事が続いている夫も、犬的生活を少し顧みて、猫の要素も取り入れようとしているのは、これからの70才突入する私たちの生活には、とても良い気付きだったと、歓迎しています。

       😺こたろうさん😺

      ありがとう! おかげさま!


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わたしのげぼく

2018年02月07日 | こたろう
猫といえば、撫でてもらって、これ以上はないと幸せな時も、ちょっとでも、嫌な場所に触られると、キッと目を剥き、果ては、爪を立てるのです。

これは、猫の思いのままに生きる大きな特徴でしょうねぇ。

たとえ引っかかれても、気分を害するどころか、「申し訳ございません」と、謝るのは、この私。

わたしのげぼく」と言う本が出て、売れているところを見ると、猫と生きている人たちは、「げぼく」と言われようと、ちっとも構わないのだ。




去年から、年に1回のワクチン接種に代わって、健康診断を勧められ、受診したところ、腎臓の数値が異常値に近くなっていました。

猫ちゃんは、腎臓の何らかの症状が表に出るころには、その三分の二がダメになっているとネットで、知りました。

ドクターの指示に従って、薬を飲み始めたのですが、白い半かけの錠剤を嫌がるかと思ったのですが、おやつを添える、あるいは、鰹節をほんの一欠け載せるだけで、問題なく食べてくれます。

猫ちゃんに好まれるように味付け、あるいはにおい付けになっているのか、それとも、かしこいこたろうは、これは必要だと思ったのか。
苦労をしなくて済みました。

そんなこたろうをみて、お正月にそろった娘たちは、何のコメントもありませんでした。
毎日接している私たち夫婦には、見えていない何かを確実に感じたから、敢えて、何も言わなかったのだと、今日突然にわかってしまいました。




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海を望む

2018年02月06日 | 詩吟
12日、哲皚会「初吟会」の出場と、17日日詩協首都圏大会の出場を目前にした、最後の「海を望む」の練習でした。

ここ数か月の特訓で、錆落としをしていただいた吟詠は、結構、いけてるかも。
ただし、壇上で、アクシデントがなければ。
誰でもある、そう言うたぐいのものではなく、私特有の、ミスが無ければね。

その当日のことは、あまり気にしていないと言うと、その気で特訓してくださった先生に申し訳ないのですが、壇上で、力を出しけれるかどうかが、一番の問題。

それにしても、気持ちの良い練習でした。

なかなかできない経験でした。
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