偉い人に会って、そして、お話を聞き、その様子を眺めたりして、その穏やかな包容力にほぐされたみたいだね。
影響を受けやすいかあさんは、春からのざわざわがいつの間にか、なくなっているみたい。
偉い人たちは、会員の声を聴くといいつつ、その声を聴いて自分たちの路線をかくにんしているんだよねきっと。
そうじゃなくちゃぁ、1万4千人の会員を支える会長以下首脳陣の仕事は、勤まらないだろうよ。
かあさんは、来年順次発行される新教本に期待を寄せているみたい。
少しずつ増えてきた教本やら副読本やらが、効率よくまとめらるようで、コンパクトになるのかなぁ。
詩吟を習うものにとっての学習の糸口になるのだから、学術書である必要はない。
詩吟に取り上げられている漢詩を一歩進めて研究したい人にはあきたりないものかもしれないけど、最初から小難しく詳しい資料は、却って気持ちが引くよねぇ。
程々の内容で、興味の入口に導いてくれるものがいいよねぇ。
ぼくは、小難しいのはきらいだし、押しつけがましいのも好きじゃない。
それとなく、風のようにひらめいたり、香りが届いたりするのがお好みだよ。
袴をはき脇差を差したら似合いそうな常任理事さんのしゅっとした立ち姿やら、声や言葉の豊かな響きやら、多くの仲間たちが一様に感動したんだってねぇ。
きっと、その映像は、目に焼き付いて、これからも長く影響を与え続けることだろうねぇ。
文字からの理論やら、簡単に手にした情報は、自分の中に定着させるのは、時間がかかるのだけれど、その場にいることは、一瞬で伝わってくるものがある。
かあさんは、吟詠はきけなかったけど、四人の方たちから伝わってくるものに、大いに酔い、大いに影響を受け、得体のしれなかったもやもやを払しょくしたかなぁ。
一方、ぼくは、母さんにいっぱい情報を伝えているというのに、ぼくには肩書がないからかなぁ、それとも馴れ合っているからかなぁ。...。僕のメッセージが伝わってないんだなぁ。
音源から、お気に入りの先生の吟詠を聞くというより、イアホンからの音を聞き流していると、いつの間にか、自分がその吟詠をしているかのような誤解を覚えてしまってるのをかあさんわかってるかなぁ。
たまに、われに返って、自分の声を録音して聞きなおしてみて、あまりのひどさに唖然としてしまうかあさんがいる。
シャワーのように浴びるというけれど、耳という単一の器官からのシャワーは、聞く耳を育てるだけだったのかもしれないよ。
やっぱり、その人となりから発せられるものを受け取らないとね。
だから、母さんは生の吟詠を聞きたい、同じ空気を共有するその先輩の今の思いと声を受け取りたいと、言ったんだろう
自分のありのままを認めることって、むずかしいよねぇ。
ぼくのように、こだわらないで、好きな時に好きなことをする。嫌なものはことさらはっきりと意思表示をする。
これって、楽だよ~。
かあさんは、僕がこの家に来る前の詩吟とのかかわりは、僕のように自由に身勝手だったみたいだねぇ。
なんで、いまは、そんなこだわりをもってるのさ。
ん?そうか、「師範」「指導者」って、ちっちゃいちっちゃい肩書に影響されてる?
はは、、、ばっかじゃない?
かあさんはこだわらなくていいんだよ。
おや、山内先生にお聞きした言葉を、反芻しているみたいだね。
よしよし、ぼくの思いが少しは伝わっているってことかな。
こだわりからはマイナスエネルギーが発生するんだよね。