夏がすき…!! 7月生まれのせいか夏の日差しが好きです…♪

山崎勢津子です!ぐるーぷ・ふらいぱんは10年間活動しましたが解散しました。私は今後、朗読を中心に活動してまいります!

東京大空襲

2009-09-26 | Weblog
 東京大空襲に母が遭遇していたことを今日初めて知りました。びっくり仰天!!です…。
今年の夏は忙しくて母の顔を見に行かれませんでした。親不孝の娘なのでせめてもと、今年の前半は月に一度夕飯をつくりに行っていたのですが、4ヶ月近くご無沙汰をしてしまいました。母は84歳。春頃に比べると少しやせたようです。腰が悪く年齢とともに腰が曲がり「立って用ができない」と嘆いていますが、洗濯、日常の掃除、食事の支度は自分でやっています。同居している妹が日曜日にまとめて掃除をしているそうです。やらないと出来なくなるから…が口癖です。今日は妹が留守でした。

 おしゃべりをしていたら戦争中の話になりました。母の実家は今の台東区・銀座線の稲荷町駅近くで寿司屋をやっていました。戦争中は富山(母の母の故郷は富山県神通)に疎開していたと聞いていたので3月10日の東京大空襲には遭遇していないのだとばかり思っていたのですが、実は空襲で焼け出されたので富山に疎開をしたのだそうです。私が3、4歳のころ近所の工場の昼休みを告げるサイレンが鳴る度に「サイレンが鳴ると空襲を思い出す」と毎日のように言っていた理由が初めてわかりました。…その物言いが普通でないことが子ども心にもわかり、私もサイレンの音が嫌でした。

 空襲の日は兄嫁が留守だったので「義姉さんと自分のとリュックを二つ背負ってお祖母さん(母の祖母)の手を引いて西町小学校に逃げた」のだそうです。次の朝、街は焼けて何もなく上野駅が丸見えだったそうです。西町小学校は今の永寿総合病院ですから上野の駅までは直線だと350Mくらいでしょうか。
「アメリカは上野駅や小学校や白鴎高校などの学校は焼いていない。今になって思えば凄い事だと思う。紙と木で出来ている家はみんな燃えちゃったけど…。日本軍は大事なものでも何でも破壊してるでしょう」なんて言っていました。

確かに目と鼻の先の上野の森の文化財も焼けていないですね。病院になる前の西町小学校に行った事がありますが、モルタルとかではなくとても立派な鉄筋校舎でした。母の卒業した清島小学校も鉄筋校舎で全館スチーム暖房だったそうですから簡単には燃えなかったのでしょうが…。

母は若い頃に飲んだ薬のせいで耳が遠いのです。補聴器はつけているのですが、ここまでの会話もなかなか大変です!

家業が寿司屋だったので業務用の配給があり、飢えることはなかったそうですが、寿司屋なのに米ではなくて芋が配給されたりしたそうです。芋ではシャリにならないのでこっそり近所に分けたとか。富山に買出しに行って(12時間くらいかかったそうですが)母の着物はだいぶ米に代わってしまったようです。米と交換する時は若い娘の着物がやはり喜ばれたのだそうです。寿司といっても握りはつくれず、丼に酢飯をいれておぼろをしいてチラシ寿司をつくったそうです。おぼろの上のチラシのネタは何だったのかしつこく聞きましたが覚えていないようでした。「何だったんだろうね…?」だって!! …昼近くに開店するといれものを持ったお客さんが行列していて、そこに丼のチラシをあけてしまって(つまりネタが下になる)つくった分が無くなったらその日はお終い…という状態だったらしいです。空襲の前には富山に行くと「東京から来た!」とチヤホヤされたのに、店が焼けて疎開をしたら「焼け出され」と言われたのだとか…。

母の子どもの頃の話や、戦時中は飛行機の部品を作る工場で働いたとかの話は聞いたことがあったのですが、東京大空襲のことは初めて聞きました。焼け出されて一年以上は富山にいて工場で働き、帰京して寿司屋を再開し出入り業者??だった父と結婚したようです。