今日は長崎に原爆が投下された日ですが、私は広島のお話をします。
移動演劇「桜隊」は、1945年8月6日広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し、居合わせた劇団員9名の内5名は即死、逃げ延びた4名も放射能に命を奪われ劇団ごと全滅してしまったのです。
メンバーには、存命であれば戦後の演劇界を大きく変えたであろうといわれる、名優丸山定夫。元宝塚スターで「映画無法松の一生」で全国のファンを魅了した園井恵子。裸体にシーツをまとい復旧1号列車で帰京して東大病院へ入院、原爆症一号患者として亡くなった仲みどりなどがいます。新藤兼人監督映画「さくら隊散る」、井上ひさし作「紙屋町さくらホテル」などの作品にもなりました。
当時の日本は戦時体制化で、演劇も厳しく国家的な規制を受けていました。戦時国策に沿わない劇団は強制解散させられ、多くの演劇人が投獄されました。劇団は移動演劇連盟に組織されていきました。1945年に入ると空襲などで都市中心の舞台演劇活動は事実上不可能となり、劇団ごとの地方疎開が実行されました。俳優座は静岡県、文学座は石川県という具合です。桜隊は広島駐留となり6月12日に着任しています。着任した地域の駐屯部隊、工場、病院などで巡演活動を行ったのです。架設の舞台で一日に三回公演なども記録をみると出てきます。上演作品はいわゆる戦意高揚を目的に書かれた作品ですが、舞台のことですからね、俳優は黒を白と演ずることも可能ですもの…。平和運動家の黒川万千代さんは当時女学生、広島で桜隊の公演を観劇しています。「ガヤガヤと歓楽気分の客席が舞台に吸い寄せられるように集中していった。初めて観た演劇に感動して芝居が好きになった」とおっしゃっています。演目は何だったのでしょう…。
戦後、徳川夢声氏の呼びかけで、多くの関係者の協力により目黒の五百羅漢寺に「桜隊原爆殉難碑」が建立され、今日まで毎年8月6日に「移動演劇・桜隊原爆忌」として追悼会を催しております。
私が23年間所属していた劇団文化座は桜隊原爆忌の会の活動に熱心でした。初めて広島に公演に行った時、先輩に「明日は桜隊の碑に行くから10時集合」と言われて平和公園の近くの殉難碑に出かけ、清掃し、お参りし、八田元夫先生の「ガンマ線の臨終」などの書籍が回覧されてきたのが 私と桜隊との出会いです。演劇も映画も文学も歌謡曲も…あらゆる芸術をも戦争に協力させようとした当時・・何とか芝居を続けたいと頑張った先達がいたことを、私もたくさんの人たちに伝えようと思い事務局に参加しています。
今年は演劇評論家の菅井幸雄先生と女優の丹阿弥谷津子さんをメインゲストに迎えました。また映画「日本の青空」の脚本を書かれた池田太郎さんの講演もありました。池田太郎さんの亡くなられたお父様は俳優の池田生二さんとおっしゃり、桜隊のいわば生き残りです。家族を沼津に疎開させていた池田さんは7月に沼津が空襲されて広島を離れていたのです。私が初めて参加した頃の原爆忌の会は、ご遺族やお仲間の方が大勢でご法事のような雰囲気でした。原爆投下から63年たって関係者は少なくなっているはずなのに原爆忌の会に参加する人は増えてきています。今年の参加者は151名でした。
桜隊原爆忌の会のホームページは「桜隊」で検索するとすぐ出てきます。活動をご覧ください。
移動演劇「桜隊」は、1945年8月6日広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し、居合わせた劇団員9名の内5名は即死、逃げ延びた4名も放射能に命を奪われ劇団ごと全滅してしまったのです。
メンバーには、存命であれば戦後の演劇界を大きく変えたであろうといわれる、名優丸山定夫。元宝塚スターで「映画無法松の一生」で全国のファンを魅了した園井恵子。裸体にシーツをまとい復旧1号列車で帰京して東大病院へ入院、原爆症一号患者として亡くなった仲みどりなどがいます。新藤兼人監督映画「さくら隊散る」、井上ひさし作「紙屋町さくらホテル」などの作品にもなりました。
当時の日本は戦時体制化で、演劇も厳しく国家的な規制を受けていました。戦時国策に沿わない劇団は強制解散させられ、多くの演劇人が投獄されました。劇団は移動演劇連盟に組織されていきました。1945年に入ると空襲などで都市中心の舞台演劇活動は事実上不可能となり、劇団ごとの地方疎開が実行されました。俳優座は静岡県、文学座は石川県という具合です。桜隊は広島駐留となり6月12日に着任しています。着任した地域の駐屯部隊、工場、病院などで巡演活動を行ったのです。架設の舞台で一日に三回公演なども記録をみると出てきます。上演作品はいわゆる戦意高揚を目的に書かれた作品ですが、舞台のことですからね、俳優は黒を白と演ずることも可能ですもの…。平和運動家の黒川万千代さんは当時女学生、広島で桜隊の公演を観劇しています。「ガヤガヤと歓楽気分の客席が舞台に吸い寄せられるように集中していった。初めて観た演劇に感動して芝居が好きになった」とおっしゃっています。演目は何だったのでしょう…。
戦後、徳川夢声氏の呼びかけで、多くの関係者の協力により目黒の五百羅漢寺に「桜隊原爆殉難碑」が建立され、今日まで毎年8月6日に「移動演劇・桜隊原爆忌」として追悼会を催しております。
私が23年間所属していた劇団文化座は桜隊原爆忌の会の活動に熱心でした。初めて広島に公演に行った時、先輩に「明日は桜隊の碑に行くから10時集合」と言われて平和公園の近くの殉難碑に出かけ、清掃し、お参りし、八田元夫先生の「ガンマ線の臨終」などの書籍が回覧されてきたのが 私と桜隊との出会いです。演劇も映画も文学も歌謡曲も…あらゆる芸術をも戦争に協力させようとした当時・・何とか芝居を続けたいと頑張った先達がいたことを、私もたくさんの人たちに伝えようと思い事務局に参加しています。
今年は演劇評論家の菅井幸雄先生と女優の丹阿弥谷津子さんをメインゲストに迎えました。また映画「日本の青空」の脚本を書かれた池田太郎さんの講演もありました。池田太郎さんの亡くなられたお父様は俳優の池田生二さんとおっしゃり、桜隊のいわば生き残りです。家族を沼津に疎開させていた池田さんは7月に沼津が空襲されて広島を離れていたのです。私が初めて参加した頃の原爆忌の会は、ご遺族やお仲間の方が大勢でご法事のような雰囲気でした。原爆投下から63年たって関係者は少なくなっているはずなのに原爆忌の会に参加する人は増えてきています。今年の参加者は151名でした。
桜隊原爆忌の会のホームページは「桜隊」で検索するとすぐ出てきます。活動をご覧ください。