私が小学四年生の時だった、学校の教室から多くに飛行機やヘリコプターが飛んでいたのが第一印象
帰宅してテレビを観て解った。
【1965年6月1日】三井山野炭鉱爆発、237人が死亡 繰り返されるヤマの悲劇
テレビを観てると父の妹が帰宅して、下駄の鼻緒が切れたからと替えに戻った。
その時にどうなってるの?と聞いたら大丈夫だからと、言ってそそくさと行った。
母や兄、叔母達も帰って来ず、町も暗い様子でした。
我が家は5人兄弟で兄二人は鉱山に、私から下と婆ちゃんは家で待ってた。
親父は入院して戻ってきたばかり、昭和40年6月1日は土曜だった、母が今日まで休んで月曜から行けばいいじゃないと言ってらしい
まじめな親父は「いやっ今日から行くと」出て行ったらしい
次々に上がって来る遺体のニュースを観ては父ではと思ってました。
結局、父の遺体が上がって来たのは3日目だったかな?
父の仕事は採炭で一番奥深い、237名が亡くなったが父は最後から2番目か3番目だった。
棺に入った父を観た時は一瞬違うと感じたが直ぐに父だと
ガスを吸って胸は赤く、水に浸かってたのでふやけた状態でした、なので違うと感じた。
現実を目の当たりにして、当時の感覚で死が理解できてなかったのかな~、涙も出なかったし
この時に覚えてるのは、237人の死亡で火葬場が順番待ちになったことと、親戚がこんなに居たのかと思った事と
母が双子だった事が衝撃だった
近所の方が母の双子の妹に挨拶するし、妹もお母さんと言うほどそっくりだったね
私が通ってる小学校の講堂で合同慰霊祭があった事も覚えてる、父の写真が飾ってある場所まで覚えてます。
父が亡くなって父方の母のショックも相当なものだったのでしょ、同じ年の10月だったかな他界しました。
父が亡くなった当時は5人兄弟で一番上から長男中学三年生、一年、小四年、小二年、長女6歳、食べ盛りだったので大変だったでしょ
そんな時に、うろ覚えですが何かの撮影が始まりました。
はい!こうやってとか言われ、食事や就寝時などの撮影をした記憶があります。
この撮影はドキュメンタリーだったようで全国放送だったらしくて、観たよと聞いたこともありました。
放送後だったのでしょう、全国から小包がどっさり届きましたΣ(- -ノ)ノ エェ!?
そんな中の独りの方が何年もの間、援助していただきました。
子供だったので仙台の方しか知らないのです、鉄工所を営んでる方の奥さんでした。
母は毎回届く贈り物に感謝してました、この時に仙台名物が「笹かまぼこ」としりました。
母は小学校3年中退で読み書きが苦手でしたので、仙台の方にも返事は出していなかったと思う
私がときどき代筆をしてたので母が言って私が手紙に書いた事もあったような気がしますけどね
母も去年に他界しまして、当時の事は何もわかりません
それと、ドキュメンタリーの映像を私達は観たことがないので、できれば探したいですね
たぶん白黒映像だと思いますけどね、テレビ局に当たれば分かるのかな?
助かって良かったですね