今年の子供達を伸ばせば何ができるだろうか?という在団員のアビリティーに軸足を置いた指導を舞台上に聞く

2016-09-22 23:51:00 | コンサート

フレーベル少年合唱団第56回定期演奏会
2016年8月24日(水) 文京シビック 大ホール
開場 午後6時 / 開演 午後6時30分
全席指定2000円

 それはあたかも熱射に炙りあげられ、陽光と潮風とに寂れたやんばるの町外れの街路が盆のうくいの夜半、ヒッチャーに掻き混ぜられた手踊りのワラビンチャーの一群に突如席巻され、熱に浮かされ、法悦と興奮とに憑かれたままステージの上へ溢れるが如く実体化したような…。騒然、喧噪、きらびやかな少年たちとその声のとりかえしのつかない素晴らしい時間。
 昨秋、ャXト3・11とNHK学コンを強く印象付ける癒しや勇気の合唱の数々で幕を閉じたフレーベル少年合唱団の定期演奏会はこの夏の終わりに一転、客席をカオスに叩き込む狂乱のステージパフォーマンスで大団円を迎えた。息が上がり、両の頬を紅潮させ、ヨハン=シュトラウスを歌っていた表情とはまるで別人に転生した少年たちの笑顔をボーダーライトのきらめきの中にはっきりと認めたとき、私たちは「歌う男の子」にしか求められないたくさんの魅力がまだ彼ら中にャeンシャルとして数多秘められていることを強く感じ、驚愕させられた。

 ぴっかぴかのウラジロ、紅の大でーく!まんサージもキリリと眩しい新アンコール君+ワルトトイフェルくん。2人がウチナー・チョーデーばりのカッコ良さで「第2アルトと低い声の下級生」連合のぱーらんくーち隊を挟み、フィナーレのナンバー「とーしんどーい!」を煽り立てていく!てーくーち(太鼓隊)の少年らがステージの袖廊下からなだれ込んでくる圧巻の演出。
乱舞の渦中を横切る豆ナレーター君の黒い身体!少年らしい朴訥なバチさばきの少年たち!びんがたのウチカケ、シマ脚絆に地下たび履いて、囃子言葉に上気して。やがて始まる痺れるような指笛の挑発。生演奏のカチャーシー(唄/三線演奏:栗原厚裕)が持たらす躍動感と迫力とスピードと胸熱は、もはや観客にも団員たちにも何かを考えようとする隙すら与えない。

フレーベル少年合唱団はもう何十年もの長い間、「ステージ全面を効果的に使う」というパフォーマンスのノウハウを持っていなかった(彼らは慢性的な団員不足に喘いでいたのである)。一転、ステージ全面へ布陣されているのはA組本隊とS組の高声担当。身体の熟れかけていない高い声だけをレンジに持つ少年たちだ。襦袢代わりの白Tに合唱団ユニフォームのズボン、白クルーに白シューズ、きわめつけのビンガタの打鰍ヘ鮮やかな原色襟。グリーンが萌えるほどに美し過ぎて!文京を拠点とする合唱団所属の少年たちだからこそバシッ!とキマる着付けのカッコ良さ、オシャンティーさだ。A組アルトを頂点とする彼らの柔らかい、出し慣れた高声は実に美しい。昨定演のアンコールのフィナーレで行ってみせたこうした声の特化を今回の演奏会では冒頭のPart1から一貫して聞かせている。彼らは鈴のようにジウテーを鳴き続け、フレーベル少年合唱団が何十年も前から宝物のように持っていた涼やかで高調子の声質を響かせていった。小さい身体はステージ狭しと乱舞する。交錯するヘーシは「ハーイーヤ!ヒーヤーサーサ !」。ほとばしる無限で放埓なリフレイン。島んちゅの声とボーイソプラノとヘーシの嬌声が混じり合い、喪神し、三板(サンバ)三線のリズムを模したピアノが打楽器のごとく色を添える。

 2008年3月のTOKYO FM少年合唱団第24回定期演奏会は陶冶された多くの団員らが各パートの適所に収まり終え、後のTFBCを支えて行くことになる予科生メンバーも出揃った感のある充実した演奏会だった。彼らは「ぼくらのレパートリー集」の中でも過去実力派の先輩方がソロの持ち歌にしていた作品群(「小さい秋みつけた」や「赤とんぼ」など)や力技の求められる「ほたるこい」「未知という名の船に乗り」、さらに当時のフレーベル少年合唱団の活躍を意識したとおぼしき「緑のそよ風」など、気持ちのよい明るい歌を彼ららしい明快な日本語で次々と繰り出し、客席を喜ばせている。このときのプログラムに、さりげなく、控え目に、しかし標準語訳の団員MCを添える丁寧さで「てぃんさぐぬ花」が配されていた。聴衆の評判は良かったらしく、TFBCは女声合唱版の沖縄音楽を翌年も続けて定演プログラムへ取り上げた。このシリーズの印象は「女声合唱版の軽やかさ」であり、TOKYO FM少年合唱団は結局、彼らの「沖縄の歌」をこのイメージから大きく逸脱させることは無かった。

 フレーベル少年合唱団56回定演の目玉…「おきなわ~歌の国、舞の島~」。彼らが沖縄テーマの曲をとりあげたのは2003年の第43回定期演奏会でセレクト組とA組で歌った三線演奏(運天俊彦・鈴木勝己)入りの林光の「沖縄童歌<島こども歌1>」(全7曲)以来のこと(2010年度まで現在のS組はセレクト組、もしくはA組セレクトと呼ばれていた。ちなみに…翌2004年には「B組セレクト」という選抜もあった…)。最終ステージの開幕はハイ上がりでクオリティーの高いS組セレクト12名による「てぃんさぐぬ花」。だが、「島ん人ぬ宝」ではに丸くんたちが野太く鋭い少年の喉でヘーシを叫びあげ、次の「あかだすんどぅんち」でてーくーち隊の団員らがバチを牛皮に振り下ろした瞬間、文京シビック大ホールの音響設定は涼しげなボーイソプラノ向きの音場から、ドンシャリ系で湿気のあるねばっこい土着の空間へと突如変容を遂げたのだった!島尻の小夜の雨端から弱い白熱電球の灯りとともに漏れ聞こえるぺこぺことした三線の音が鮮やかに到来し辺りを席巻する。フレーベル少年合唱団は邦楽に限らず過去にも頻繁に定演へゲストプレーヤーを招聘し、太鼓など和楽器と共演のステージを持ったことがある。また、子どもたちに和装を施し古謡を歌わせた経験も持っている。今回、彼らがその穏当でボーイソプラノの演奏会然としたまとまりから一転、素晴らしい気持ちの良い逸脱を遂げたのは、彼らが昨年から客席に届いた音の変成や観客の心による声の受容を冷静に注意深く見取る力を得てきたこと、低音域のアルトパートが任ぜられ活躍したこと、選曲のャCントが昨年にも増して巧妙になってきたこと、長い間「S組予科」の地位に甘んじてきたA組が諸々の事情からステージコーアとしての魅力と実力を身につけてきたこと、そして2016年度の5年生チームがマックスの頭角をあらわしたことなど、第56回定期演奏会の随所各曲に見られる今年のフレーベル少年合唱団の見所とチャームャCントによるところが大きいとは考えられないだろうか。

 本定演の見所・聴かせどころの一つである「A組がA組であること」の味わいは、チームの魅力と身の丈にあった選曲とによるところが大きい。Part5には沖縄に材をとった歌々が本島民謡からウチナーャbプ、手遊び歌、エイサーまで広範なバラエティーに富むジャンルをめぐって集められ、これをフレーベルの各チームがそれぞれの心身発達やチームカラーの魅力を効かせ歌っていくという新機軸を展開させている。
 A組が単独で奏でたのは70年代ふうのテイストが濃厚にあらわれた「ゆいゆい(ゆいまーる)」だった。
この曲の出自は、プログラム4ページ目の懇切丁寧な曲紹介を読まずとも、A組のハッキリとした日本語の歌声を聞けば初めて耳にしたという観客ですらよくわかる。「♪一人でお仕事疲れるねー 二人でやるとー楽しいよー」という価値観の押し広げ方を聞いてビッグ・マンモスの歌う「火の玉ロック」や「ヒーローになれ!」の歌詞を思い出してしまった人は実は正しい。これはフジサンケイグループの子ども向け番組挿入歌の常套句なのである。この曲がゆいゆいシスターズの出演で発表された番組は、「マル・マル・モリ・モリ!」を歌う子役、鈴木福ほかの司会と歌で進行する現在の「Beャ刀v…20世紀終わりの番組名は「ひらけ!ャ塔Lッキ」。鈴木福の前代には清水優哉などハイ・キーのボーイソプラノという素材から紅白歌合戦で歌った経験も持つ子役がレギュラーをつとめていた。90年代にはTOKYO FM少年合唱団をバックコーラスに据える主題歌で放送されていた時期もある(ちなみに「きかんしゃトーマスのテーマ」はこの番組の挿入曲である)。兄弟番組の「ママとあそぼう!ピンャ塔pン」で、こうした教育効果を持つ曲を歌っていたのはビッグ・マンモスだった。A組団員たちが冒頭から叫ぶ「ハイヤ!ハイヤ!ハイヤ!ヒヤササ!」というあまりにもベタな囃子声にクスりとしてしまった観客は、それで良いのだ。低学年の少年たちが学校の休み時間に軽く口ずさんでモノを覚えるコミカルな歌なのだ。本定演で所狭しと唄い踊るA組の男の子たちを見て不覚にも(?)「かっこいいなぁ!」との想いを抱いてしまった少年合唱ファンの脳裏では、おそらくかつてのボーイソプラノのヒーロー集団…ビッグ・マンモスの姿が彼らと重なって見えたに違いない。「ゆいゆい(ゆいまーる)」の選曲のマジックと落とし所はこうした来歴にあると思う。


  合唱団が開幕にドイツの名曲を聞かせたのは前述の第43回定期演奏会(2003年11月、イイノホール)以来13年ぶりのことだ。このときもオープニングの団歌をセレクト(現S組)とA組で歌いながら緞帳をあげて開演し、「ドイツの調べ」と題して7曲をセレクトだけで歌っている。今回のプログラムが、この定演の前半部分を下敷きにして編まれたことは想像に難くない。その定演を最後にフレーベル少年合唱団はあの懐かしい旧ユニフォームを脱ぎ捨ててしまったが、こんにちの合唱団に通じる道も見えた…スーパーナレーター君の記念すべきB組デビューのステージだったのである。

 オープニングナンバーは「小鳥がきたよ!」。pfを休ませ、少年たちは無伴奏を味方に軽やかな声で柔和に歌っている…「♪Alle Vögel sind schon da, Alle Vögel, alle!」…「かすみかくもか」「春の訪れ」など、邦訳詞・邦題はその人々の曲に接した環境により違っていても、合唱団の子どもたちはドイツ語詞のみを歌った。アカペラの声…本年度のS組団員一人一人のカラーを小箱入りのプチガトーのように可憐なオーガンジー・リボンをかけ客席へ供した。アイキャッチなメンバー供覧なのである。
 2点気づくところがあった。一つはフレーベル定演が最近あまり打っていなかったアバンの構成であること。近年の定演の開幕は団歌の後に年度リーダーの団員が口火を切るオープニングMCがあり(私は今年度の彼の本番MCが高度に安定したのを聞いて心底良い気分で開演のひとときを過ごした)、1曲目につなげるというパターンだったが、今年はそのルーチンを取らなかった。注目点は構成では無く、ここまでにかかった時間。歌い出された団歌は前奏からもったりとしてテンモェ遅く少年合唱団らしい闊達さに欠けた。さらに団歌の歌い終わりから1曲目の「小鳥がきたよ!」までは(拍手があったとしても)1分30秒間もMC無しの無為な時間が客席に流れた。昨年の定演では隊列と指揮者の整列完了が整然と行われ、歌い終わってからのA組の退場とS組の再整列、MCのマイク前スタンバイが同時。団員入場完了からMCの第一声までを今年の半分量である2分間以内に収めた手際の良さに舌を巻いた。バックステージに詰めているステージドアマンや誘導、ハンドルスタッフの優秀な仕事ぶりが窺えた。だが、今年、ステージで何か動きがあるたびに客席がしばらく待たされるという段取りの傾向は最終ステージまで一貫して散見された。観客は定期演奏会が今回少年たちの夏休み期間にあたる8月の開催に移ったことを知っていて、十分に余裕のある段取りのプローヴェが念入りに繰り返し行われた結果を期待しながら文京シビックのチケットゲートをくぐった。おそらく前日まで台風の上陸やその余波の影響で十分な段取り練習の時間ができなかったということなのだろう。

 ワルトトイフェル君がもし、8年前の10月8日のステージで豆ナレーター君の隣に立っていなかったとしたら…、彼がその後長くの(少なくともステージ上では)辛苦に満ちた4年間の旅路の果てに真の意味での「日本一のボーイアルト」にならなかったとしたら…、その栄誉におぼれ「変声すればただのひと」で早々に団員人生へと幕を下ろしていたとしたら…。第56回定期演奏会のPart1に注目すべき低声アルトの隊列は無く、私たちは何も驚かず、フレーベル少年合唱団の深みを持った新味を聞くこともなく、これが旧態依然としたかつてのレパートリーの再演としか思わなかったろう。2つ目の看取は、合唱団が見抜いて与えたS組低声アルトへの血の通った評価だった。フレーベルはかねてから「今年の子どもたちを伸ばせば何ができるだろうか?」という「在団員のアビリティーに軸足を置いた指導」という傾向を持った合唱団だった。特にこの2年間、その性向は顕著であり、同時に「目に見えるカタチ」でステージ上に示されることが多い。中でも在籍メンバーの構成に味があり、あからさまに「イケメン+美声でないと配属されない」と評される痛快なキャラクター立ちのアルト(メゾソプラノ低声を含まない「アルト・アルト」)の隊列は昨年から惚れ惚れするくらいの人員配置のまま客席をも楽しませている。55回定演では美白男子君とスイッチヒッター君、新アンコール君たちというゴージャスなキャストを2枚岩でパートの境界に繰り込み、信頼の子たちをサンドイッチ状に配し、お茶目で濃さげな4人組を売りに、はに丸くんをメインへ据える超豪華で…「よくもまあ巧妙に考えたものだ…」と呆れるくらい感心させられるアルト隊が聴衆の前へ出現した!
 本年度はこの路線をばっさりと整理し、隊列の中でも最高の信頼を置きたいアルトのメゾ結界にアルト4人組を縦配置。各パートへ分散されていた変声途上の6名を右翼上段のワルトトイフェルくん起点に上下へ結集させ、一見して低声を特化して効かせる特命チームを出現させた。彼らは高低の追っかけっこを丁寧に聞かせてゆくオープニングスピーチ以後の「おお、ひばり」までは徹頭徹尾2部合唱のアルトに一体化していて姿を表さない。簡易なカノンを含めた「追っかけっこ」や小津安二郎ばりの「高低パートの対話」が昨定演から続く聴かせどころの一つであることを彼らは熟知しているからだ。だが、曲がその挙動を抜けフェルマータのついた最後の8小節のコーダに差し鰍ゥると、ふんわり文京シビックの客席に低い声を響かせ始める。美白男子君(彼の気分爽快、正確明快なMCを本定演でもタップリと聞きたかった!かえすがえすも残念…)たちアルト高声の声を安定的に補完しているのである。
 続いてウェルナーの「野ばら」が歌われた。「アカペラ」の逃げ口上と見せかけて、pfの吉田先生はホールの最後列でも聞き取れる、作為的と思わせるほど大きな「音合わせ」のキーをボン!と打ち込んだ。低声アルトの6人がその低い音をトレースした!驚きだった。一見の客にも漫然とドイツリートを楽しもうとしていた客にも、右翼端の隊列を見て「何をしようとしているのだろう?」と判じかねていた観客にとっても、これはまさに「本日のハイライト!」と呼ぶべき1音だった。観客へ故意に聴かせた「音合わせ」だったのである。歌うのはアウガルテン宮殿在住のエスタライヒなゼンガークナーベンや、カツン!と甲高い声に耳殻を擽られるパリ木の十字架少年合唱団であるにせよ、そのカッコイイ合唱を支えているのは体格の良い変声途上の団員たちが繰り出す頼もしい低声アルトとそのコントロールのアクティブさなのだ。だが、これは「フレーベル少年合唱団にも男声パートを作る!」という頭でっかちで融通の利かない「少年合唱ファン」の陥りがちな机上の計画ではなく、「ここに豆ナレーター君や新アンコール君たちがいて歌っているから彼らのために低声アルトのパートを作った」という、目の前の団員たちの歌い姿を愛情をもって見遣り、彼らの「1日でも長く楽しみ、楽しませたい」という団員生活を認め、彼らの心に寄り添った配員計画であると私は思っている。低声アルトの音圧が効いた近年のパリ木の合唱ばりの痛快なサウンドを観客が楽しめたのはとてもよかった。

 Part1のラストはかっこいいMCをあしらった「美しく青きドナウ」のソロ入り日本語版。本曲の見所・聞き所は当夜の終演までを通底し一貫して鳴る「5年生チームのカッコよさ」に尽きる。MCの少年たちは在団歴の差こそあれ、それぞれ品のある高いクオリティーのナレーションを繰り出せるまでに成長した!観客の殆どは「僕達がこれから歌う『美しく青きドナウ』です」と口上を述べるこの2人がこの後どんな活躍をするか未だこの段階で知る由も無い。曲は40小節以上もある序奏>5つの小ワルツ>コーダからなる王道のウィンナワルツである。低声から攻めて行く第一ワルツ。泰然自若のアルトとマルカート気味で飛んだり跳ねたりのソプラノと…。調が五度圏を2つ反時計周りに上がってワルツ3にも達すれば所々に顔を覗かせるトリルや前打音やちょっと『?』なスラーなどのディテール。だが、歌はがさつな小・中学生男子一般の実像からは遠く、誠心誠意頑張っており男の子らしい闊達さだけが踊っている。そして第4ワルツの冒頭に進み出てきたのはあの2人。彼らはここで1オクターブ半超の飛び石跳躍をソロで2回やってのけるのだが(ソプラノ君の方の2回目がおそらくこの曲の最高音)、面白いこともあった。少年合唱の声は文京シビックでもさりげなくマイク収音され観客にわからないよう注意しながらPAで常時客室に戻している。担当のエンジニアさんはおそらくゲネプロまでを注意深く聞きながらギリギリ+αのところでUVを絞ってあるはずなのだが、はに丸くんの声は呆気なくこれを突き抜けていた。2人は確かに定められたバミリの位置にスタンバイし、おそらく問題なくリハーサルを終えている。あっぱれ、ホンバンに強いはに丸くんらしい高音圧・高音量だったのである。(お客さんがたはちょっとビックリしていた…)
団員たちは「三拍子」感をキープしながら走ったりせずコーダのつなぎまでをフォルテッシモで歌いきっていく。決して完璧なピッチでタップしていないが、ここ20年間のフレーベル少年合唱団の合唱には無かった満足のいく完成度の高い合唱を今回のチームは「美しく青きドナウ」の中に具現した。
聴き終わって高低両パートやトータルに響く声を引き連れているのが他でもない本年度の5年生チームの歌声であることに私たちは気付かされる。後奏の残響の中で、本曲からまさに当夜の演奏会が始まったことを知る。この驚愕と満足感は、当日のほんの序章に過ぎなかったのである。


 Part2は「フレーベル少年合唱団の最年少グループ」B組のステージ。パートタイトルも「Bぐみ、せいかはっぴょう」となっていて、プログラムの田中先生の気持ちよい解説にもある通り、「音感をつける訓練」としての音楽体験を客席にもわかる形で提示している。
オープニングはpf伴奏付きの鍵盤ハーモニカでドイツ民謡の「かっこう」(おそらくPart1の演目へのリスペクトなのだ)。1番のみユニゾンの演奏だが、ソフトで抑制の利いた非常に堪能な演奏を聴かせ耳目を集める。子どもたちの顔色を引き立たせる白クロスのフォールディングテーブル列は今年、他パートのステージでも見られたアークのフォーメーションだが、よく見ると両側に立奏の団員たちが一人ずつ付いて、しかも鈴木楽器のまっすぐな立奏唄口を咥えるものだからタッチメソッドで弾いている!惚れた!カッコ良かった!子どもたちの陶冶が目に見える形で判ったからだ。
続く「うちゅうじんにあえたら」と「ドレミのうた」は、こちらもよくセーブの効いた歌声。5-6歳の男の子たちだからどんな声でもありの演奏だが、メロディオンの立奏同様にピッチ・リズム感とも正確で核となる団員らが、ふんわりと発達途上のメンバーの声を周囲にまとわせつつ歌っていて凛々しさを感じさせた。B組は今、ユニフォーム姿も中味も周囲の団員との関わり方も既に一人前のフレーベル少年合唱団員となった子どもたちを何人も擁しているようだ。
「うちゅうじんにあえたら」に挿入される「♪シュー!」というロケットの擬音とアクションは賑やかで音楽性を感じさせないように聴こえる(実際そうした軽い比重の歌を聴かせる合唱団も普通にあるのだが…)、日本の少年合唱団が本来魅力として身につけているはずの土着の短いメリスマやャ泣^メントを合唱に持ち込む初歩訓練の一つだったとみられた。それはA組ステージ冒頭に聞かれる「おなかのへるうた」の歌い出し他や、パート5ではに丸くんたちが叫びあげたヘーシの声のチャーミングさ、カッコよさを聞くと納得がいく。
 今年は階名唱を披露する代わりにハマースタインの「ドレミの歌」を歌ってエンタテイメント性を添えステージを下りた。客席を楽しませながら、オリジナルの英語歌詞にも挑戦してB組の日常訓練の方向性を明らかにする一方、前奏が簡易でオブリガートを含まない編曲を採用するなど、観客の気にならないところで彼らの発達に寄り添う良心が見える!

 Part2を通じ昨年度と大きく異なるのはMCチームの成長ぶり。彼らのナレーションは明らかに頼もしい変容を遂げている。今年、合唱団は定期演奏会前の六義園レギュラーのコンサートを2ヶ月以上も前の6月中旬に2回打った。もともと決まっていたブッキングだと思うが、B組にとっては異例のスケジュールが逆に功を奏したもよう。昨年度まで、この六義園ライブは定演の予行演習との位置付けで3週間ほど前に行われ、上級生団員たちはそれ以後反省のもとに追い込みをかける。だが、B組の子どもたちにとってはもはや「手遅れ」のことも多く、本番のMCも出たとこ勝負の感が否めなかった。前回までの省察からか合唱団最年少チームの彼らも今年は違っていた。6月の六義園コンサート撤収直後から、ナレーション・チームには念入りなご指導が入ったものと思われ、その後2ヶ月間をかけて当夜のような遜色のないレベルのMCにステップアップされたと考えらえる。恐るべしB組である。音楽監督が終演間際の客席に向け、こう話している…「ちょっと無理をさせたかもしれませんが…」「一番大切にしたいことは、子どもたちの可能性を大人たちが止めてしまわないこと」…具体的な例示は無かったが、今回のB組ナレーションはその好例ではないかと思っている。当日客席で聴いた正直な感想は、B組のMC集団がSABの各チームのナレーションの中で最もクリアかつ澱みなく、また幼少年の言葉の魅力も兼ね備えていて出色だったということだ。
 このステージはスタンバイと楽器セッティングを含めて10分間、歌のみの計時で5分間の配当であったかと思われる。曲のコンパクトさを考えるともう1曲聞きたいと感じさせる時間の使い方だと言えはしないか。冒頭の「かっこう」の後に楽器の撤収、2曲目の「うちゅうじんにあえたら」の後はMCを挟むサンドイッチ構造。団員流し入れと楽器セッティングとMCの3点同時進行や、楽器の間から団員を吸い出して並ばせている間にMCをかぶせるといった段取りは丹念なプローヴェを経た彼らにはもはや可能なレベルのプランなのではないかと、その堪能なステージを見た後に思った。

 出ハケのエスコートを担当する上級生たちは昨年の「母性本能突きまくり」のキューティーなメンバーからさらにパワーアップ!今回は上背のあるS組上段のメンバーから下はA組団員までという学年幅の広レンジ。確信犯的なのかカッコかわいい系の少年たちのうち最適任の子らがさらに厳選されているという贅沢さである。A組の子は、この直後に自身の本番も控えていたわけなのだから。羊飼いの少年のようにB組を引き連れる彼らの姿を見せつけられた客席はその至福の光景に再び大撃沈!B組のステージ経験組を拠り所としてか、今年はエスコート団員たちをテーブルグループごとに集約して配した。


 Part3はA組のステージ「楽しい童謡をあつめて」。プログラムを一見して「童謡」というのが昭和30年代前後に作られた曲を中心とするいわゆる「こどものうた」であることに気づく。阪田寛夫、サトウハチロー、まど・みちおの作詞家陣。大中恩、中田喜直、山本直純といった日本人ならば誰でも知っている作曲家たち…。オープニングの「おなかのへるうた」をめぐる事情は昨定演のレメ[トの冒頭に記しておいた。スキルもカッコ良さも(そして多分、舞台裏での破壊力も)「新メンバーを加えてさらにパワーアップした(今年の定演フライヤー文面による)」A組…。冒頭、第2MCが「僕たちの先輩が50年ぐらい前にNHKのみんなのうたで歌いました。」とクールヴォイスでナレーションをかけると、客席内には呼応するようなニヒルな笑い声が漏れた。これは印象的な光景だった。現役団員のうち最も放埓で容赦なく腕白な低学年軍団の彼らにとって、50期も前の先輩方は一緒に「戦いごっこ」や蟻んコ潰しや無意味な下ネタを楽しんでくれたりしそうもない「得体の知れぬ半世紀も歳上のおじいちゃんたち」でしかないからだ。観客はそれを理解した上で笑んだのだ。実際、本年度のOB合唱は少年たちのこのスタンスや選曲やプログラム構成に少々手こずらされることになる。今年のアンコールのステージに、あわれなるかなOB合唱団の姿は…無かった。
 彼等がこのステージで歌い上げた作品を編み出した大中恩も中田喜直も、フレーベル少年合唱団初代指揮者磯部俶の盟友「ろばの会」の同人たちであったことは当然選曲者の知るところだろう。彼らは「童謡」という言葉を注意深く避けて、創作を「こどものうた」と呼んでいた。だが、私はA組に向けたこの懐かしい一連の選曲が上記のような「おなかのへるうた」へのオマージュから来た机上の計画やどうでもいい誰かの経験を語るつまらないノスタルジーであるとは思っていない。歌を学ぶ少年たちの成長を心から願い、愛情をもって眺め、接してきた指導者たちが、A組全メンバーの柔らかく、体温のある、芯も通った心の本質を的確に見抜き、選びあげた「A組の心」とも言うべきノミネートなのである。いずれの作品も作曲者たちが巧みな技法やセンスを駆使して「何かを思いやる気持ち」や「少年時代にこそ在って欲しい安寧」を可憐でコンパクトな有節歌曲の中に再現しているのはこのためなのだ。

 耳目を集めた「おなかのへるうた」に次ぐ2曲目の「夕方のおかあさん」と3曲目の「お月さんとぼうや」。サトウハチローと中田喜直が最強タッグチームを組む珠玉の名作である。少年たちは今年の「フレーベル少年合唱団A組」が持つきららかな明度の高い声質のカラーで歌っていた。「夕方のおかあさん」の最大の歌唱ャCントは「いったい誰が誰の何と同じなのか?」を子どもたち自身が心底理解できているかということだと思う。本曲の最高音であるd音の連桁で「♪ごはんだよぉー」と歌わせた後、中田はB群の少年たちへ「山彦のように」と指示しながらピアニッシモでリフレインさせる。2回目の「♪ごはんだよぉー」が誰の発した声であるかは、この「山彦」の最後の音がタイで次の小節にはみ出していることによってスペーサーの役割を果たし、引き取る音が1オクターブ下のd音であることから明らかである。…幸せそうな親子猫の夕餉を見つめる男の子は背後からかすかに聞こえた自分の母の「ごはんだよぉー」の声を聞く。意識がふっとこちら側の幸福な少年の日々に戻ってくる。「ぼくにもおいしいごはんを作って待ってるお母さんがいるんだ」と思う。だから、「やっぱり同じだ、同じだな」なのである。当夜のA組の子どもたちに「誰が誰の何と同じなのか?」は理解されていたのだろうか。中田が腐心してインサートした「山彦」の後のペダル記号のpfだけが響く間合いを子どもたちは十分すぎるほど待って再現できていただろうか。
 「夕方のおかあさん」の前後に付された短二度で鳴くエキセントリックな連打は懐かしい「ひぐらし」のオノマトベーだが、パート冒頭の「おなかのへるうた」が60年代ふうのコミカルな「なーんちゃって」SEの不協和音で終えたことへのシャレた尻取り遊びにも聞こえた。不協和なこの響きは次の曲の冒頭に響く第2転回のちょっと物憂げな和音へとつながってゆく。A組ステージの選曲は今年も優れて巧みに良くできている。

「お月さんとぼうや」では曲の後半でホ短調から同主調へのほろ甘い転調が行われ、同じタイミングで美しいまっすぐな声のソリストたちが旋律をひきとって歌い収める。単声部ヨナ抜き音階の全く込み入ったところの無い小品だったが、私はこのソロのショーアップを見て、聞いて、定期演奏会プログラム裏面に掲載された団員名簿を思い起こさずにはおられなかった。リストには各クラスごとに団員名が並んでいる。1980年代以降、ここには長い間A・Bの2つの組の団員一覧があり、A組の団員数は多く、B組は多くてもその半分ちょっとといったところだった。20世紀に入ってSABの3クラス編成になり、一時入団順に氏名だけが冗長に並ぶ表になっていた時期もあったが、クラス名が表示されていればS>A>Bの順で団員数は少なくなっているのが普通だった。ところが2016年6月11日。六義園コンサートのA組の隊列を一見して、通常の年度であれば上進しているはずの優秀な3年生団員たちがA組にとどまり頑張っている姿を確認し興味を覚えた。事実、本定演のプログラムに掲載された所属団員の数はS組26名、A組27名(!)、B組25名で実際の出演団員の数もこれにほぼ準じている。合唱団の総団員数は78名で、入団テストと「決められた練習日に必ず出席できること。」という新しい在団条件が功を奏したのか各クラスほぼ25名前後の定員になっている。2016年現在、A組がフレーベル少年合唱団の中で最も所属団員数の多いコーアに成長していたのである。私がこれらを見て、団員たちの成長を感じて思ったことは、定期演奏会が8月にシフトしたことにより、上進のクラス編成が秋に行われるようになったのかもしれないということと、70年代のフレーベル少年合唱団がA・B・C・Jの4クラス編成を持っていた時期があり、現在のB組にあたるJ組(初期にはフレーベル・ジュニアと呼ばれていたことからこの名前が付いた。彼らJ組の特別ユニフォームはめっちゃ可愛い!!)を除くA・B・Cの3クラスがほぼ並列で陶冶されていたことだった。有名なウィーン少年合唱団が4つのコーアを維持しながらローテーションで公演とサーヴィスにあたっていることはよく知られている。フレーベルのA組の子どもたちも今、「お月さんとぼうや」に聞かれるクオリティーのソロをとれるほどに力を付けてきている。2016年は合唱団にとって記念すべき年になるのかもしれない。

 続いて大中恩サウンド炸裂!のギャロップ・リズムの前奏に担われ「ドロップスのうた」が歌われた。リズムに撹乱されることはないA組コーラスも頼もしさが爆発。ャ泣^メントの美しい愛らしさ、合いの手の明瞭さと的確さ、フレーズの追いかけっこの幼獣チックな痛快さ、アルトの子どもたちの信頼の歌いぶり、年齢差3歳以内の声の均質さ。これらをガナり寸前のフルパワーと美麗な高声のいいとこどりの結節点の中で聴かせまくる。上進の日々を待ち望み、楽屋ではおそらく手加減のないギャングエイジ集団と化している彼らA組団員だからこそ、この歌の正しさと小気味の良さをものにしているにちがいない。タイミング的にはPart3のちょうど中間地点に歌われたこの作品は、最後の「たねのうた」とリズム的・聴かせどころ的に通底している。

 昨年のA組ステージには第48回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲「 未知という名の船に乗り」を選んでいた合唱団、今回の学コン課題曲は1985年第52回課題曲Bの「夕日が背中を押してくる」という学コンをあまり意識させないチョイスに留めている(本来は1968年の「みんなのうた」の挿入曲として書かれたもの)。彼らがここで聴かせているのはPart5まで一貫して鳴り続けるカッコかわいいA組アルト声部のキレの良さ。ただしアゴーギグをいなしたやや早めのテンモナ歌っている。「夕方のおかあさん」の処理でも気になったこの走りぶりは、おそらく15分間の配当時間に6曲と前中後3回8名のMCを聞かせ客席を楽しませるという善意から来るタイトさが災いしているようだ。全体量やプログラム構成を無視できるのであれば、Part3のこの時間配当は観客のためにもS組と同等の20分間でよかったのではないかとさえ思う(だが、「MCを半数に減員し、1曲削ればゆったりと歌いますよ」と先生方から提案を受けたとしたら、私は「いえ、このままでいいです」と即答するだろう)。

 「たねのうた」…の唐突さを危惧するプログラムの解説文とは裏腹に、少年たちの歌声はPart3にマッチしていて楽しく、しかも低学年男子の匂いを強烈に放ち胸のすく思いだった。日本語はここでもハッキリとしており、歌詞の内容はすこぶるA組チックである。前奏の刻むリズムは「ドロップスのうた」を想起させ、冒頭から堪能できる彼ららしいユニゾンの声、喚声域を超えた声の温かさ、快活さ、フレッシュさ。ディナーミクをものともしない心だけで強弱を歌いわけていくひたすらさなど、客席でこれを聞けた私たちは最高にシアワセな気分になれた。さらにトリオ部分以降はアゴーギグを効かせて言葉の明瞭性を確保する一方、かけあい、惚れ惚れとさせられる信頼の低学年アルト、オブリガート的からみ、無造作なトランスメ[ズといった当夜の少年らのウリをきちんと織り込んでコーダまでを引っ張っていった。この曲を聴いてフレーベル少年合唱団A組の真のファンになった人も少なくはないだろう。「たねのうた」こそはまさに、A組の少年たちそのものを歌った作品なのだ。彼らの中味の濃い、底抜けに素敵な少年合唱団員人生をそのまま歌にしたものなのだ。暗い土の中に埋められ、眠り続け、だが最後には羨ましいほど愉快な花を咲かせ、聞く人々をこの上なく幸せで満たされた気分にする…いや、気分にさせるのではなく生まれ変わらせる。それが前奏のリズムから展開の構成から胸声すれすれのコーダの歌い上げまでの音楽に歌う喜びとして具現させている。A組団員たちの誰一人としてこれが自分らの団員生活を謳った曲だとは思っていないだろう。「たねってオモシロい!」「ぼくも楽しく歌いたい!」とだけ思っている。だからこそ、彼らの歌声は人々の心の結ぼれを解き、心から元気にさせ、勇気付けたのだ。小さいながら日本の少年合唱団ナンバーワンのチームの子たちだと我々に納得させたのだ。


 現役団員たちの舞台裏での動きはおそらくこうだ。Part1を終えたS組は、マンサージなどの手の込んだ着付けや大デークをはじめとする楽器類の調整のためバックステージに入りPart5に向けて更衣を開始する。続いてPart2を終えたB組が最終ステージのプローヴェに差し支えないよう休憩時間までの余裕を持って撤収とバラしにかけられ、彼らをエスコートしたS組団員がフィナーレステージの準備に合流する。次にPart3を終えた比較的簡易な更衣のA組がバックステージで合流する。これはもともとインターミッション中の保護者のヘルプを見越しての設定だったはずである。彼ら(特にA組の団員たち)は20分間の休憩と5分間配当と思われる団長挨拶と実質歌唱時間10分のOBステージの計35分の間に、更衣、三線との最終調整、板付等のスタンバイをこなさなくてはならない。毎年新しい出演情報や企画の告知があって客席が心待ちにしている団長先生のごあいさつは今回インターミッション後のPart4開幕前に行われた。このタイミングになっているのは全体の配当時間のバランスと、おそらく時間調整の役割を帯びているからだと思う。
 さて、昨秋の定演まで、現役団員たちのレパートリーの本歌取りでチョイスされた合唱曲集を積極的に歌ってきたOB合唱団は今年、フレーベル少年合唱団初代指揮者磯部俶の男声合唱曲集「七つの子供の歌」を採り上げた。2-3曲目に少年合唱団の最初のレコード『たのしい合唱<とっきゅうこだま>/フレーベル少年合唱団』(キングKH50:1959年)からの2曲が顔をのぞかせていることからも判る通り、この曲集は編集もので、その詳細は定演プログラムの太原会長の記述に詳しい。「のぼろうのぼろう」(1972年)を除く6曲は全て昭和30年代前中期の作品であり、曲集タイトルに「子供の歌」とあり、最後の「おさるのやきゅう」を編んだのが合唱団団歌を作ったまど・みちお+磯部俶のコンビであることを知っていると、OB諸兄がなぜこの曲集を選んだか…選曲と心支度の真意はもはや明らかであろう。
 OB合唱団は現役チームの舞台裏の動きやコスチューム・プローヴェの都合で昨年のようなS組セレクトとの合同演奏が打ちづらかった(磯部も沖縄の歌を作ってはいるが、20世紀生まれの子どもたちは歌ったことがない)。また、配当時間は昨年の二分の一に切り詰められている。このため先輩方が寄り添ったのは自分たちの出番より前のPart3「楽しい童謡をあつめて」の方だったと考えられる。しかし頼みの綱、A組は昭和ノスタルジーを吹き飛ばすはっちゃけぶりでパワー全開のままステージを後にし、20分間のインターミッションが入り、今年は団長先生のごあいさつも挿入された。舞台袖にはビンガタの打鰍ワといパーランクーを握りしめた現役チームが今や遅しと50人もぎっしり詰めている…。OB合唱団がA組団員の歌声につなげようとした「郷愁のハーモニー」はPart4開幕時点で観客の頭の中へ既にほとんど残っていなかったろう。私は今年のOB合唱団が結果的に構成面で大変苦戦を強いられたことや、現役ステージのために辛い役回りを買って出たらしいことを推測する。このため本来「昭和ノスタルジー」の香ばしさを誘引するためにもともと曲中に仕込まれているギミック(例えば「大ずもう」に流れる『嵐を呼ぶ男』ばりのリズム…昭和時代中期にはこれを「ジャズ」や「ゴーゴー」のリズムと呼んでいた…や「とっきゅうこだま」のミュージックホンを模したハミングや、「うしがないた」に響く渋いBassの長閑さや、21世紀にはローカル局ですらオンエアしない東京六大学野球の仕鰍ッがやや楽屋オチの「おさるのやきゅう」のコーダといったもの)がOB諸兄にとっては心なしか遣る瀬なく響いたかもしれない。楽しくのびのびとした気持ちの良い演奏であったことは間違いないのだが、昨年のステージがS組セレクトを上手に巻き込んで超好印象だっただけに、企画構成を担当される方々の苦労がわかるような気がした。


 昨年に準じ団員MCはインターミッション前に集約され、後半ステージでは音楽監督のマイク以外子どもの声でのMCは最後の挨拶号令まで一切入らなかった。Part5ではこうした構成上のハイセンスさが貫かれている。例えばほぼ緩急の曲配置が最後のアンコールまでチームカラーを縦糸に織り込んでリズムを刻み続けていること。Part冒頭の「てぃんさぐぬはな」は、13年前の定演で歌った林光(?!)編曲版を選ぶというちょっと(かなり?)のエキセントリックさ(伴奏)。「選ばれし12人」がャ潟tォニー状態でこれに合わせていくものだから、彼らの声は際立ってハッキリと鳴るのだった。A組軍団の破壊力が炸裂する「ゆいまーる」を挟んで、S組各パートのいいとこ取り…第2アルトもカッコよく声を聞かせる(これはクラッシックやジャズのカデンツァというべきではなく、ライブコンサートのステージでアーチストが演奏中途中、プレイヤーを紹介するのに似ている。さしずめそのライブなら「今年のアルト低声、…シブくてカッコいいこの面々ーン!」とでも紹介されるのだろうか…)「しまんちゅぬだから」は目の詰まったBEGINの歌詞を誠意をもって聞かせ、後半はに丸くん独壇場の惚れ惚れさせられるへーしがこれでもかと客席に投げつけられる。感涙を溢しつつ彼の声を腕の中へ抱き止める私たち…。シアワセである。一転、A組の秘めた心と声のリリシズムが手遊び動作とあいまって、訓練された男の子が鳴き続ける高声の肌触りの良さ、優しさ、柔らかさ、温かさ、吹き抜ける島風の清涼感がたっぷりと味わえる「あかたすんどぅんち」。肘、ウオノメ、耳…シーヤープーと唱えながら手遊びで彼らヤマトンチュの8月の白い肌を指差す仕草が、カラダの芯までカフェモカ色した沖縄の男の子の肌色と違っていて何だか妙に可笑しく可愛い。三線もテークーちも彼らの声を邪魔していないどころか共振させ、共鳴させているのは前述の通り。

 フィナーレの「とうしんどーい」の爆発の後、アンコールには今回、「わらびがみ」のウチナーヤマトゥグチのバージョン(歌詞の最初の2行を標準語にした沖縄弁の構成バージョン)をフルコーラス、客席と声を合わせることを想定したのかスローテンモナほぼユニゾンのまま歌い終えた。ボカリーズのディビジ合唱でふんわりと収めた子どもたちの最後の声がホールの音場に消えると、お客様がたは大喜び!今年もここで指揮の音楽監督と少年たちのお約束のアイコンタクトがあり、「アンパンのマーチ」(ファンファーレの入らない高ピッチの版)で打ち上げ、全演目を終えている。お客様方は手拍子をしていて気付かないが、毎年歌われる本曲の今年のこの少年たちのトーンは、Part1の最初の声から一貫して不易のまま美しい。フレーベル少年合唱団の通史後半の中でも非常に高いクオリティに仕上がった豊作年のひとつだと思った。それは、開催時期や在団条件の改正などさまざまな好条件が重なったことと、子どもたちあっての少年合唱を構築できたことなど、多くのファクターの積み重ねによりもたらされた結果であるように思える。ここまでの一気呵成さと迫真の歌い上げは、アンコール部分のトータルタイム10分間という正確さをものにしている。曲の前に挿入された音楽監督の言葉は「トーク」というライトな感覚を持ちながら先の「子どもたちの可能性を大人たちが止めてしまわないこと」といった団員の歌い姿に裏打ちされた、聴衆の心に響く(どこの定演の指導者挨拶でも聞かれるようなイージーな文言ではない)印象的な言葉でまとめられている。真夏の開催で注目されていた少年たちのユニフォームは、後半沖縄ステージのものに更衣されるが、前半は驚くべきことにレンガ色のタキシードとAB組のイートン+ボウタイだった。


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