フレーベル少年合唱団は2度微笑んだか?

2021-05-06 17:34:00 | オンエア


たのしい合唱
2021年1月20日午後5時19分。ビデオ撮影のボタンが再度押された。東京都文京区本駒込。株式会社フレーベル館本社上階のホール。フロートガラスのドアを抜け少年たちの綺麗な声は聞こえてくるのだが、身長高の幾枚かのアクリル板の向こうへ遮蔽され、ソーシャルディスタンスを保って置かれた黒いスタック椅子に半ば後臀部をひっかけただけの彼らは12人ほどの矮小な小学生男子の一団でしかない。花霧筋の壁紙に沿った後列の中央部近く、鉄兜のくろがねの髪型に白いクタクタのマスクをかけた少年がチェア上手側の絨毯に持ち物を直置きで散らし、ペラの楽譜を膝上へ投げて見下ろしている。少年たちの膝へ翼のごとく開いたそれらはどれもまだしっかりと紙の腰があり、配られたばかりのものであることがわかった。ソフトビニルに仕込まれた丸ゴシックの名札を胸にきちんと掲げとめてはいたが、彼のオフホワイトのプルオーバーもスキニー気味の黒いパンツも袖、襟ぐりが開き、座ればソックスが丸見えになるほどあちこち縮んでズリ下がってしまっている。足元のバッグに手を伸ばせば背中から下着の腰ゴムも見え、両腕を伸ばせばヘソが丸見えになってしまうかもしれない。彼のことが気になって仕方ない目前の下級生はそれを見咎めて「おへそが見えてる」と揶揄するだろうが、上級生の眼差しは「これには事情があってな。だから協力してくれ。」と訴えていたはずであろう。ちょうど1年前に近い2020年2月、文京シビック大ホールのステージに歌劇『カルメン』のチビ愚連隊役で少年がまとっていた衣装だ。あれは素晴らしいマチネだった。少年たちは舞台狭しと歌い廻り、この子は立ち回りがまるで素に見えるほど生き生きと不敵な笑みをふりまく演技で私たちを魅せた。あのときの舞台を堪能し、「楽しげにのびのびと演じていて気持ちがいい」と大喜びし記憶にとどめていた人々。彼はあの夕べの観客へ「ありがとうございました」と頭を下げる代わりに、今日は普段通りの姿を見せ、ひとまわり大きく少年らしく伸びた身体を反比例のごとく一回り小さくなった衣装に何とか通し入れて通団してきたのだった。
始終ポケットに手を突っ込んで歌っているのはズボンが落ちるからか。初めて彼の歌い姿を見る、事情を知らない者からは「なんて悪い姿勢で歌う、イイカゲンな少年なのだろう」と冷たい睥睨の視線を浴びたに違いない。しかし、真実はその逆だったのかもしれないのだ。男の子は言っているように見える…「このマスクしてるメゾは、あの役でこの服を着て歌っていた僕です。今でも歌いに来ています。オペラを楽しんで観て聴いてくださって、ありがとうございました。こんなに大きくなりました。すぐズボンが落ちちゃって困るケド…」…彼の美しい心の姿勢に気づいた人は、礼をイイカゲンにしない真の姿にまた心打たれたことだろう。

1980年代の日々、フレーベル少年合唱団は磯部俶ファミリーの一翼に留まりつつ、尖鋭的な頭声発声のボーイズコーラスのイメージを止揚したいと試みていたように思われる。全国規模・東日本規模の「少年少女合唱祭」のようなものへの参加を楽しみ、数々の子供たちの歌声の連合を堪能し、また自らもひたすらに声を合わせていた。こうして彼らがやんちゃそうな肩をステージに並べ外見上はしかめ面で質朴に歌い出したときの観客の反応はおしなべて「かわいい」のひとことだった。当時「かわいい」「かわゆい」は、時代を代表するキーワードの一つであり、この頃未だ他の形容詞を語頭へ吸引する用法が存在しなかったため、人々は辞書の記載通り単純に「すれてなく、子供っぽい。無邪気で、憎めない。」可評価を彼らの歌い姿へ見たのだった。
とはいえ、古臭い意匠の制服を充てがわれ言われるなりにまとったごくガサツそうな味もそっけもない普通の男の子たちである。「かわいさ」はおろか、一般の人々が「少年合唱」の図像に求める、ガラスの薄片が冷たく放つきらめきのはかない美学や繊細で眉目秀麗な外見からはおよそ程遠い、学校の休み時間の教室で「ジジ抜き」や「消しゴム飛ばし」に興じている男の子を無理やり引っ張ってきてひな壇に並べたような、高貴さからも華やぎからも無縁の少年たちといえた。
ただ、手を後ろに組み二脚を肩幅に開いて歌う彼らの隊列の間から明らかに漏れ出てきていたのは、なんだか人懐こくて安堵を覚える屈託のなさ、悠長さ、天真爛漫さだった。客席の人々はこれをしておもわず「かわいい」と呟いていたのである。フレーベル少年合唱団がステージに登場し歌うと客席は反射的に「かわいい」ともらす。なぜ、数多存在する児童合唱団の中でフレーベル少年合唱団だけが圧倒的にそう言われるのだろう?ときのマネジメントスタッフに繰り返しこの質問をぶつけてみても、返ってくる言葉は「男の子だけしかいないからじゃないですか?」でしかない。自分たちにもよくわかっていないという語調。そもそも当時、日本にはまだ「男の子のみ在籍可」の児童合唱団はいくつもあった。津山も長崎もまだ男の子主体で、蕨や四国のライオンズ高知でさえ男子だけが歌っていた時代なのである。「男の子だけしかいない」と言うのはフレーベル少年合唱団の「かわいさ」を裏付けるときにとりたてて挙げるべき決定的な要因ではなかった。
「フレーベル少年合唱団は2度微笑んだか?」…やがて合唱団は世紀をまたぎ、耳目を驚かせる様々な新規軸をステージ狭しと繰り広げる「アンパンマン少年合唱団」のフェイズへ到達する。少年たちの歌い姿へ相変わらず「かわいい!」と声を掛ける大人たちはいても、「なぜかわいいと感じられるのだろう?」「彼らは2度微笑むのか?」と問う素朴な疑義は、華やかな舞台の影に隠れ、いつの間に忘れ去られていった。

2021年1月23日、『文京区民参加オペラ CITTADINO歌劇団第21期生公演  プッチーニ作曲/歌劇「ラ・ボエーム」<演奏会形式> 2021/02/14 14:00ー』公演の中止・払い戻しが発表された。今年度もフレーベル少年合唱団は出演を予定し、その練習も注意深く留意して進めていたらしい。COVID19禍に怯むことなく、1年間の一般公演オール・キャンセルにもめげず彼らは歌い続けているのである。国内の他の児童合唱団では練習に供する動画コンテンツもアップロードされているようだが「(ここに来ていない)S組団員がビデオを見て練習に用立てる」目的でこの日の練習は録画され、短期間アップもされている。

指導者は冗談で「楽譜、棄てないでね。」と注意を促し、子供達は楽しげに「棄てるワケ無いでしょ!」と一瞬絶句して応じる。『カイト』は渡されたばかりの初見ほどの新譜なのだ。怒っておきながら、彼らが「でも、忘れてくるコトはある」と開き直るところは可笑しい。とはいえ、練習が『ふるさとの四季』に移った途端、セントポールくんは「カイト」の楽譜をポンと足元に投げ捨てている。殆どの人にとってこの時点では…彼のこうした弁えのなさ、無骨さが、実は現フレーベル少年合唱団をしっかりと守ったことに考えが及ばなかったことだろう。
先生は子供たちに「八分休符が出てきたら手を叩きましょう」「四分休符が出てきたら足を鳴らしましょう」「それ以外のところでは声をできるだけ伸ばす」といった指示しかしていない。あとは子供たちが求めるままに歌う姿勢づくりを促し、歌詞唱か階名唱を選ばせる。「先生ぃ!おじいさんが3人もいますよ!」と、メゾソプラノで座ったまま歌おうとしている上級生らに、下級生は容赦が無い。先生の返答は、「そう?放っておきなさい。」だけだが、結局上級生たちは後輩のもの言いに起立して歌わざるをえない。そして全員歌う中でアルト担当団員が一人コンプリートでストンプを完了するとすかさず褒めている。指導者のしていることは子供たちにハンドクラップとストンピングをさせながら階名唱、歌詞唱、選抜三重唱で20分間歌わせているだけなのだが、小さな彼らの目と耳と心はロールプレイング・ゲームのパーティー集団さながらに必死で楽譜を追いつづけ、音楽を作り続けた。1小節歌わせてはストップを入れ、「楽譜をきちんと読みなさい」「ここは8部休符なんじゃないですか?」「なんでレガートに歌えないんだ」「凧を空高く押し上げる風の自由さを表現しなさい!」「一人で歌えないと困る」と機関銃のように注意を与えるような指導は一切行われていない。だが、彼らは各自が集中して注意深く楽譜を読まざるを得ない状況に終始追い込まれ続けた。当然、年端も行かぬ彼らは間違いもところどころ犯している。伴奏ピアノが大きく鳴る真横で休符を読み落としタイミングをズラしたまま歌ったソプラノパートメンバーには皆からギャグとばかり楽しげに範唱じみたボーイソプラノのツッコミが入る。歌い出しに自信を欠くアルトにはすぐさま「寂しィー!」「おい!おい!」と他パートから叱咤激励の言葉も飛ぶ。集中力を欠き、私語もおふざけも多いように見える子供たちだが、他の団員の声を常にしっかりと聞きとりながら歌う力がどの子にもきちんとついている。だがら彼ら全員は20分後、休符の箇所と適切な音価とそれ以外の場所で声を切らないことを身体で覚え、暗譜をものにした。子供達の誰も「楽譜を読まされた」「楽譜を覚えさせられた」「二部合唱に仕立て上げられた」とは思っていない。彼らの目に映った光景は「NくんとMくんが途中でふざけてギャグをいっぱいやってくれました。まじ、面白かったー!」だけであろう。Mくんは、途中で先生から完璧にストンプできていたと褒められた団員である。ドラマ『ポイズンドーター』に映った少年聖歌隊役Mくんの容姿の印象が「ザ・眉目秀麗仕事人!」という激震に似た衝撃で変わったのはいつだったろうか。これが今日のフレーベル少年合唱団のごく日常の練習風景である。

S極とN極。地球は巨大な磁石である。メゾソプラノのSくんとN君。彼らはフレーベル少年合唱団2021年の隊列の真ん中にいて、自転軸に対し10度以上傾いた地磁気双極をなす。S極は歌も仕草も合唱団最強の美男子だが、何かを心疚む表情がステージ上の彼のコーラルピンクの面差しや合唱団最強のダンディーアルト弟君の顔に浮かぶのを観客は心から期待してコンサートに足を運ぶ。昨年度まで前列センターの人々の最も目につきやすいところに据えられ歌っていた。だが、この日、彼は竹友軍団長にその席を移譲し、後列に上がりN極の隣で歌っている。何かを恥じるような、人々を魅了する顔ばせはすでに見られない。黒マスクの向こうでほんのちょっとだけ見せてくれる子供っぽいくったくのない笑み。だが、落ち着いて、安定した、頼り甲斐のある、見ているだけで安堵と男の本領と少年の真摯を彼は体現する。
S極は碧白で燦然と美麗に輝く、人々を惹きつけてやまないオーロラの大地だ。国境も時間帯も無く、誰のものでもなく、みんなのもの。氷に覆われていても、私たちにとってかけがえのない、この惑星の真水の7割が氷のかたちでここに存在する。
一方でN極は氷がただぷかぷか浮いているだけのナカミの無い薄っぺらな極点にすぎない。だが、N極の遥か天空にはポラリスが不動で孤高に強く明るく光り輝いている。荒野を進む旅人や大洋のど真ん中で逡巡しかけた船舶に行く手を教える希望の星。かけがえのない道しるべ。N極は私たちにとって、絶対になくてはならない大切な希望の星なのだ。…現在のメゾ系集団の上級生、方位磁石コンビはこういう2少年たちだ。

練習中の団員の間をスタッフが遊撃手のように動き回り、団員らがポジションを離れずに済むようかいがいしく世話を焼いている。スマートフォンは上手側から指揮者の体側をなめて撮っている。確実に姿の映る団員はソプラノ系4名、メゾ系4名。おそらく本年度アルト系の1名が起立練習の体制になるとようやっと映っている。あとのアルトたちは指導の呼名が出てくるだけだが、やはり3名ほどの出席が確認される。明らかな感染防止のための12名取り出し練習だ。
竹友軍団長、クマくんウシくんチームのメゾ、塩男子くん、ホーリーマザー、小児がん征圧キャンペーン、アンパンチくん、セントポールくん…実像の映っている団員はわずかに9名。だが的確な人選構成は一分の隙も冗長も無い。彼らの一般公開の姿はわずか2週に限り40分間の最小限のものだが、2020年3月以降のフレーベル少年合唱団がいったい何であったか、未曾有の事態にどう対処し、どう歌い続けてきたかをしっかりと私たちに伝えている。

男の子の歌にとって、男の子の合唱にとって、今回の事態で奪われてしまったものは何なのだろう。半減された私たちのお楽しみは何なのだろう。
彼らが舞台上に歌っているときの表情を誰でも容易にすぐ思い浮かべることができる。淡白であったりネガティブであったり。味もそっけもない。むろん色気も。甘美も薔薇の香も。
だが、歌っている本人は、どうだろう?実のところ彼らは一人一人が自身の歌に各自違う視点で魅力を感じ楽しみながら愛着を持って臨んでいる。それが見えにくく、それゆえに評価できないのは聞いている私たち聴衆だけだ。クマくんウシくんチームのリーダーであれば、自分の声がホールといった環境にどう響いているのかを自分の良い耳で心から楽しんで聞き取り、無限軌道のように歌いつないでいくというタイプの子だった。彼自身はおそらくそれに頓着せず上級生としての自覚で歌っているだけなのだろうが、彼らの歌い姿を眺め続けた者にはハッキリとそう認識できる。変声にあたって、彼がどう向き合いながら自分の声の届く様子を楽しみ続けるのかは予想もつかない一大スペクタクルだ。かたや、クマくんウシくんチームのアルト先輩は、自分の胸腔に自分の声が共鳴して響くのを楽しみ、快く感じながら歌っているように見える。一昨年、「聞いている人のハートを直接温める声」と書いたが、その恩恵を無自覚に世界中の誰よりも享受している「最高の幸せ者」は彼自身だろう。自分の胸郭が温かい波長で打ち震えるひとときを、成長し次第に厚くなる胸板で楽しんでいたに違いない。
これは、ほんの一例だ。同じフレーベル少年合唱団S組の隊列を成してはいても、要求される日本語なりを滑舌(?)よく歌い切ることに楽しみを見出している子もいれば、口腔での鳴りや響きに快感を感じている子、自分の得意な音域がより深く豊かに流れることを目当てにしている子、口唇をできる限り狭めて口の中の部屋にどんな音場が生まれるのかを楽しみに歌う自家製トーンクラスタを試行するペンデレツキーの弟子のような団員もいる。
彼らは今、歌いつなぐため、マスクをしている。
彼らが自己の何を魅力と感じ楽しみに歌っているのかは、ライブ中、ボーイソプラノなりボーイアルトなりの口元を注視することでしか判別のしようがない。だが、こうした少年たち一人一人の持つ「僕が歌うよろこび」は、客席にいる私たちから見ればマスクなどによって殆ど遮蔽されてしまい知ることの能わぬ事態に追い込まれてしまった。少年合唱団員を「この子はこういうところがすごい!努力を惜しまない子なのだ!」と私たちが評価できる貴重な材料をこれで半分以上放棄することになった(照明反射板の様相を呈するフェイス・シールドとて五十歩百歩だ)。


竹友軍団長は多動で私語も多く、とりたてて技巧にたけて超絶美麗とは言えない声質の、ごく普通の左翼側メゾソプラノだ。
だが、A組時代の彼は隊列前列のセンターに配され、「是非この団員を見てください!」と常時ショーアップされライトを浴びて歌っていた。どんなコンサートでもソロやポイントとなるMCを全信頼のもと委託され、やり遂げていた。スキルも魅力もたっぷりとあるA組の上級生や同輩クルーたちの中でも彼の演唱は全く見劣りがしなかった。だから1月20日も最も目立つ練習位置に置かれる。純白のバレエタイツを着けてステージに上げておくだけで彼の柔軟性に富んだ気持ちの良いしなやかな肢体の動きや無意識のうちに成立するキメキメのポーズに観客の誰しもが目も心も大満足させられることだろう。サーカスのごむまり少年や海南島の少年ゲリラ部隊を統率する革命バレエの紅小兵ヒーローと言っても十分通用する圧倒的イメージ。ぱっつんマッシュで甘栗色のシャイニーな輝く前髪さえ底抜けに楽しい!しかも今日、彼があたかも無駄口のように発した数々の言葉は今日のフレーベル少年合唱団を語るうえでどれも一言一句意義深く聞き落すことができない。練習が『ふるさとの四季』の復習に移ることを指導者が述べれば「やったぁ!」と応じ、『カイト』の曲練習を終えてさえも一言「もっと歌ってたかった」と何の衒いも無く声高に独り言ちる。疑う余地も無い彼の本音だろう。そこには絶えず立ち続け、決まりごとにしたがって歌い、皆の前で一人歌を試されもし、パートの皆や他声部の子たちと連合し互助し、力の限り歌を紡いだことに対する疲労や諦念や倦厭は一切感じられない。竹友軍団長にとってこの時間は字句通り「もっと歌っていたかった」有意義な陶冶の時間だったのだ。
「やっば!ラッキです。メゾ一番おーいです!」…標準語に訳せば「僕は非常に嬉しいです。幸運に恵まれて(この曲で今日)メゾソプラノを担当する団員の数は、(他の2パートと比べて)多くなっていますよ」。発言の相手は指導者。少年のこの叫び声に対し彼女は「良かったじゃん」と言葉を返している。軍団長がマスク越しの主張ももどかしく、偶然でどうでもいいようなことをなぜ自分に言ったのか、指導者はよくわかっている。練習が「ふるさとの四季」にスイッチしたとたん、もどかしく楽譜を鞄から引っ張り出す付近の団員たちへ、セントポールくんも声をかける…「ちなみに、この中でメゾ、手を挙げて?」。挙手をさせ何かを問うたり声をかけたりしようというのではない。彼は挙手した子供の顔ぶれを確認し、上級生らしい眼差しで彼らを見まわしてそれでおわりだ。近年、特に目立っていた「パートを固定せず曲によって配置をめまぐるしく浮動させる」合唱指導。一連の楽曲の連続でも団員によってはアルト最右翼からソプラノへ、メゾとソプラノの特定の子供を連続して慌ただしく右へ左へシャッフルするシステムも近年のフレーベルでは正面突破で平然と行われる。だが、セントポール君も軍団長もこれに抗おうとしてメゾのメンバー数を確認しているわけではない。彼らはただ、自分たちの最も近しい仲間たちの声と体温と誠実と力の集合を確かめようとしているだけだ。観客の誰も意識することは無いが、これが彼らの歌唱力の源だ。パートの固定を解かれてもなお、彼らはこの曲を共に歌う仲間の心のありかだけはきちんと確かめておこうとするのだ。

セントポール君と初めて会ったのは彼が低学年の頃だ。群れていた団員たちの中、初対面の彼が機関銃のごとく話したのは、幸せに満ちた家族の話。自身については名乗ることも、また一言の自己紹介をすることも無かったが、ほんの数舜で、彼は名札に書かれた名前と人となりをしっかりと相手に印象付け、懐かしい校章が箔押されたランドセルを背負い、帰っていった。
60歳前後の人々の中にシェーンベルクやウェーベルンを聞いて豊かな詩情や情景を容易に思い浮かべられる者がいるのは、幼い頃から少年期にかけて、夥しい回数の再放送を含め『トムとジェリー』をかなり頻繁に繰り返し見て育ったからに違いない。セントポールくんとお池の金魚くん。彼らの40分間の練習光景は、『星空の演奏会』の回をはじめとする「コンサート中に澄ましてヨハン・シュトラウスなどを奏でつつドタバタ劇を展開し、結局終演で満場の拍手喝采を受けてお辞儀を繰り返す」ネコとネズミの両君の関係を彷彿とさせる。金魚くんは歌っているときと先生が話しているときは前を向いているが、その他の時間は真後ろを向いている。冗談を演じ下級生の自分相手に背後から徹底して楽しいことをしてくれるセントポール君ほか、大好きな上級生たちの方を向いているからだ。かくして彼は歌っているときと、他団員たちが取り出しで歌っているのを聞くとき以外は、腹の皮がねじれるくらい笑っている。
一方、ステージ経験が豊富でいったん伴奏がつけば集中を保持できる彼らは今日、新譜『カイト』の同声2部78小節をモノにしてしまった(覚えるべき残りの楽譜は多分30小節ほどだろう)。ベストセラー源田 俊一郎の『ふるさとの四季』の「故郷(2番・3番)」もバランスを整えておさらいを終えている。「先生ぃ、NくんとMくんが××××ってやってくるんですぅー。」と先生にじゃんじゃん言いつけるお池の金魚くんの口調はしかし「先生ぃ、面白いから先生もいっしょに見てくださいよー!笑っちゃうんだから。」としか聞こえない。先生はこれに「良かったねー」と応じているが、最後は上級生を注意するのを諦め、「嬉しいねぇ、軍団長くん」と、一緒になって笑ってしまう。彼らは大切な、大切な、合唱団の宝物のようなお兄ちゃんたちなのだ。
指導者は説諭をなす代わりに、幾度も幾度も「Nさんッ!」…はっきりと名指しでセントポール君に注意を与えてはいる。「私語は慎みなさい」「歌うときの姿勢ができていません」「集中が欠けている」等々、呼名にはさまざまな指導のニュアンスが込められている。だが、周囲の子供達の誰一人として「まったく、高学年のくせにだらしなくて迷惑だな」という表情はおろか口に出して揶揄することもそんな素振りを見せることもない。団員たちは楽しくて大好きなセントポール君の名前を聞けて少しだけホッとするのだ。合点の早い賢しい子たちは心の片隅ですでに気づいている…僕等みんながそれぞれ注意を受けるべきだったのに、セントポール先輩が代表して、伸びた体にそれを全部引き受けて注意されてくれているのだ、と。
だがしかし、フレーベル少年合唱団を心から応援している大人たちにとって、注意を受けたセントポール君の態度は非常に心やすく楽しく気持ちの良いものだ。恥ずかしい…ごめんなさい…気をつけます…もうしません…大きな図体を小さくし、首をすくめて縮こまり、あるときは『ふるさとの四季』の楽譜で顔を隠し、本当に恥ずかしそうな顔をする。全くもって彼の心から「わるびれた」態度と仕草に、私たちは「21世紀の今もこんな気持ち良い心根の子がいるのだなぁ」と安堵する。「いったいこの子、どこのとんでもない学校から来ている子なんだ?!」(うっ!…)と口では揶揄しながらも、目尻を下げて心から笑んでいる自分に気づく。芝居じみたところも大仰なところも全く無い、叱られる度に見せる彼の姿は「かわいい」の一言に尽きる。

1980年代も2010年代も、フレーベル少年合唱団の子供たちの楽屋や緞帳幕の内側は賑やかであたたかで底抜けに明るかった。室内には、端正で男っぷりの良い、透明でキレイな声を涼しげに振り出して歌う少年たちが群れて居るなどとは想像だに出来ないような、愉快でご機嫌でやんちゃで楽し気な嬌声が、劇場控室のトビラの外にまで漏れ出てきていた。部屋を訪ねてきた後援客は、彼らの内と外のギャップはもちろんのこと、クオリティの高い美しいボーイソプラノ・ボーイアルトが実は年齢の上下やパートの枠を超えて「すれてなく、子供っぽい。無邪気で憎めない」少年たちの本質から鮮やかに導き出されてきていることを思い知った。
読まれてこられた方々は既に気づかれたろう。かつての日々、客席の人々がステージに櫛比した少年たちを見たとたん、「すれてなく、子供っぽい。無邪気で憎めない……かわいい」とあっさり言い当てたフレーベル少年合唱団の中心原理は21世紀の今も不変のままだ。彼らがパンデミックを前に、今もなお合唱団未曽有の憂慮事態を乗り切って、いささかの技術的凋落も組織的破綻もきたさず歌い続けてこれた機序とヒケツは、1959年以来の先輩方から受け継がれてきた幕の内の貴重な「かわいい」天分とプロパティだったのだ。
「フレーベル少年合唱団は2度微笑んだか?」…かつてステージがひけるたびにそう問い続けた者は、実は心得違いの誤想を繰り返している。団員らは間違いなく60年もの長きに渡って、微笑み続け、そして世界が疫病に席巻され悲嘆する今日もなお、賑やかであたたかで底抜けに明るい姿のまま美しく元気いっぱいに歌っている。
公告されていないが、フレーベル少年合唱団は2021年の夏の終わり、捲土重来の定期演奏会開催を射程に入れ地道に歩みを続けているようだ。

 


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