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2018-11-04 22:40:00 | コンサート

フレーベル少年合唱団第58回定期演奏会
2018年8月22日(水) 文京シビック 大ホール
開場 午後6時 / 開演 午後6時30分
全席指定2000円

キャラ立ちの強烈な中学1年生、あらゆる意味で全員めちゃくちゃカッコよく子役事務所が開けそうな美男ばかりの5・6年生…と、フレーベル少年合唱団S組を支える高学年の団員たち。その総数に匹敵する25名の下級生は全て昨定演の後、A組から上進してきた優秀でやんちゃな4年生である。実態は昨年までのA組をミラクル&マジカルな一大エンタテイメント集団へとのし上げていたバトル集団。ユースの出現ということもあり、プログラム裏表紙に印刷されている団員名を見て、昨年度定演時の団員構成とあまりにも変化していることに一見して驚かされる。4年生を送り出したクラスの先生方も、4年生を受け入れた側の先生方も、ポイントや観点の違いはあっても各々ご指導にとても苦労なさったはず。私は彼らの存在が、実はフレーベル少年合唱団の一つの時代の終わりの、目に見えぬ端緒になっているのではないかと推察している。

冒頭、合唱団はセレクトの歌声でアバンを打った。昨年は団長挨拶、指導陣の交替前はミュージックベルを鳴らしたり、団員代表の挨拶を入れていたこともある。
58回定演のアバンは、「魔笛」2幕16番三重唱(日本語版)をフォーマット通り1列横隊のショーアップで。レンガ色タキシード姿のS組セレクト9名。尺はコンプリート長。「魔笛」なので人員は3の倍数。8分の6拍子。歌詞は中間部分がかなり巧妙に充て変えられ、タミーノやパパゲーノの名を(客席の)「みなさま」に挿げ替えてオリジナル通り静粛を求める内容の小品に仕立てている。当夜の演目にはZauberflöteやアマデウス関連のものは見当たらないのに、なぜこの曲が冒頭で歌われたのか、毎年フレーベルの定演に来ている者に理由は明白なのだが、ここでは言わないようにしたい。聞かせるのが団員なら客席にいるのもその関係者だったりするのだから。
実際の上演でもユーモラスな場面に少年たちが男の子ぽい滑稽さで歌い上げる曲。施された「しーっ!しーっ!しずかにっ!」の演技も、多くのステージで見られるものだ。シカネーダの台本は古すぎで(18世紀末だ!)20世紀末からは当時指定された衣装で上演されることは少ない。少年たちのコスチュームも幽霊、サッカーユニフォーム、ストリートチルドレン、宇宙服、完全な普段着…と公演の設定に準じ、聴衆もそれを楽しみにやってくる。だからここでも彼らのレギュラー装束であるタキシードを着用したのだ。2015年夏には舞台設定をテレビゲームの世界とした宮本亜門演出のステージにTFBCが出演し、国営テレビでもオンエアされたため少しだけ話題になった。そうした数十年来の舞台をこれまで見続けてきた者がフレーベルの当夜の演唱を聞いた第一印象は、「女の子が歌っているみたい」というものだった。セレクトの9名はもっか合唱団の基幹にいるバリバリのボーイソプラノたち。アマデウスもこの曲をト音記号では書いていないが、今年の彼らが奏でているのは従来の魔笛の三童子にあったボーイズライクなメリハリの効いたカチンとした芯のある歌いではなく、ふんわりと柔らかくソフトでレガートな流れ(スコア上、1音節を表すための2音以上でのみスラーが付けられている)に終始する小首を傾げた少女たちのイメージなのだった。

団長挨拶を巧みにスペーサーへ活用し、S・Aの全隊60名で団歌を朗唱しパート1がリスタート。先のセレクトを早替えで隊列に戻し、今年は全隊統一で安心感のある見慣れたイートンのシルエットだ。ユースのメンバーを擁し、小学4年生メイン60名規模の隊伍の声は半世紀前の懐かしい歌声を思い起こさせる。あの頃、私たちはフレーベル少年合唱団の溌剌とした演奏にかすかな憧れのようなものを感じた。背後のホリゾントへフレーベルの赤い団章が燦めき、100名を超えるマリンブルーのユニフォームがびっしりと山台に並んだ姿は到来する至福のひと時を約束した。時を超える今、私たち観客は彼らの歌声になんと一喜一憂させられて定演の暫時を過ごすことだろう。今年の団歌はそうした意味で良く仕上がっていた。新A組諸君の彼ららしい声が響く一瞬が訪れ看取できたのは、今年の彼らの団員構成が半世紀前の「B組」に戻ってぴったりと重なったことであり、それ以上のクラスを為す歌声が50年の時を経たかつての「A組」へ生年的・年齢構成的に似たということなのだ(当時はS組というクラスは存在していなかった)。

あらゆることが次々と取り変わってゆく合唱団の事態はこれが2度目のこと。前回は「今、聞いてくれている人たちをどう驚かせ、喜ばせるか」というレーゾンデートルの15年間以上にも及ぶ長大な刷新だった。合唱団はステージ上のローマ君をして客席に向かい「どうぞ前へ来て、写真を撮ってください!」とさえ言わしめている。団歌の間奏・後奏をあっさりと削り去り、定演のステージにフレーベルの団章を引き下ろしさえしたが、ユニフォームを毎回・各ステージごとに着替え、隔週に一度は都内各所で30分レギュラーの一般公開の演奏会を開き、終演時のルーチンをびっくりするようなもので飾った。学校楽器などを上手に仕立てて合唱の合間に聞かせ、外部出演の報告をかなり頻繁に長期間にわたってライブステージで行ない歌ったりもした。それらは客席にいた私たちへの贈り物として受け取られ、このサイトの拙文の中へ大切に保存されている。彼らはそれを見たお客様が思わず「わぁ!すてきねぇ!」と声をあげ、手をたたいて喜ぶ姿を素直な気持ちで眺め、自身への評価とした。今日の客席のために、彼らは様々な変化を打ち続けていたのである。このお客様がたは、どう思うだろうか?が、その驚くべき変化の最大の行動指針だったように思える。
ここ数年、団員たちの出演後のばらしがやや後送りになった印象を受ける。かつて、演奏会終演後、客席でもたもたしていると、先ほどまで歌っていた団員たちがもう着替えてロビーにたまり、保護者の引き取りを待っているという状態だった。それでは現在の団員たちが何をしているか…出待ちをした保護者には我が子の表情をして明らかであろう。彼らはおそらく当日の演唱についてきちんと指導を受けているのだ。フレーベル少年合唱団の2度目の変化の波が、「これまでのお客様を喜ばせるための変化」から、だれを喜ばせるための大きな変化に遷移したか、この例でもはや明解だろう。1度目の変化の最後の10年間の渦中にいたワルトトイフェルくんが「S組アルトの低い声の方」ではなく彼らのための新しいクラスで歌いはじめたのはとても象徴的な出来事のように思える。

当夜のMCは徹頭徹尾昨定演以降多くの場面で活躍してきた団員たち。今年も開演MC担当の褐色王子くんは変声が先週始まったばかりのような状況で、1文を発するだけの職分だが彼の長いステージ人生を知る多くの観客へ思い出のアルバムのように声を投げた。おそらく、この団員がいなかったとしたら現在のフレーベル少年合唱団は気持ちの良いチームワークと心をここまで潤沢に客席へ届けることができなかったろう。MCの声はそういう彼の人柄と団員生活を爽やかに告げている。
チェコ、ハンガリーの調べ(part1)をスメタナのモルダウで歌い始めている。かつてのフレーベル少年合唱団らしい、聞き慣れた穏当なプログラムと出来栄え。8分の6拍子のアウフタクトを気持ちよさげに流して歌う少年らの航行は淀みなく、昨年度S組の基本カラーを遵守した声質が先ほどの褐色王子くんの声を思い起こさせて理運のひととき。一方で今年のチームらしいバランスの良さ、日本語の正確さ、耳の良さからくる柔和で細やかなコントロールなど聴きどころは多い。従来のフレーベルらしい、聴衆を喜ばせる親しみのある選曲だった。

だが、次に一転、「ミクロコスモス」からの3曲が歌われた。曲が合唱でコンサートプログラムに乗るのも、少年の声で供されるのもおそらくこれが日本で初めてのことであろう。実験である。
最初に極めて特徴的で代表的なハンガリー・リズムを用いた「狐の歌」。次が作曲者独特のステレオフォニックな対のイメージと徹底した5度の並行進行伴奏が白眉の「対話」。最後にハンガリー民謡へ極めてバルトーク的なバーバリーな伴奏を施した「新しいハンガリー民謡」(民謡原曲「Erdő, erdő, de magos a teteje」=少年たちも歌った初行がタイトルなのである)。曲集はこの順番では書かれておらず、また作曲年代は3曲とも1938年から39年の春までのほぼ同時期に行われているようだが、これ以外の選択は考えられないという要領を得た曲順で今回ステージに乗せられている。最初に原語歌詞で、続けて日本語で歌うという従来のフレーベル少年合唱団のフォーマットに戻して演奏した。曲間にはMCのタイトル紹介と担当チームのフォーメーションチェンジが挿入される。「新しいハンガリー民謡」のMC担当団員は昨年までA組でキュートかつ印象的な声を聞かせpartエンドの気分を鼓舞するようナレーションをまくしたてていたが今年はカッコよくアルトに落ち着いていた…びっくり!
3曲ともピアノ練習曲集のうちツェルニー30番クラスのものを選んでいる。1曲目は逆付点で後ろに強拍があるリズムを弾く(先行音にストレスが移る場合のシステムも学ぶ)練習曲。2曲目は5度並進行とDモードのレッスン(5度並進行はこの曲だとゆっくりすぎるので、他にリディア旋法のスゴくモダンでカッコいい55番と、巻末に17番練習曲が添えられている)。3曲目は連弾と「ふだんよく耳にする民謡をピアノで弾く」という課題。MCやプログラムにもあったようにピアノのハーモニーを楽しむべき演目だ。少年たちはこのため、巧妙にメンバーチェンジを繰り返しながらオリジナル譜通りユニゾンでピアノの邪魔をしないよう心がけて歌っていた。今年度のメンバーだから達成可能な「小学生っぽさ」と「ちびっこ仕事人ぽさ」の技を爽やかに止揚して完成させている。
1曲目・3曲目はバルトーク本人の採集譜ではないが北ハンガリーとバラトン湖付近で採集されたものと言われている。2曲目の「対話」だけ偶数番目の上行フレーズが、几帳面で理数系ド真ん中のバルトークらしくそれぞれ直前の下行句の正確な鏡映転回形となっているため、作曲家の書斎の机上で一音一語一句綿密に作られたことがわかる。このため、冒頭のフレーズエンドの歌詞
gereblyéd(ゲレビーd)
は、対となる第3フレーズの末尾の
mint tiéd(ミンティイーd)
とアキュートを含めきつく脚韻を踏んでいなくてはならない。少年たちは、これを「gerebl yé」と分けて読んでいた。ハンガリー語のlyはコダーイ(Kodaly)の綴りの末尾に見られるようにエルイプシロン単体の音価で「イー!」と発音する(後半はcsak!とmegfoglak!が正確にライムしていた)のだが、彼らの小さな身体が真夏のパプリカ畑をからからと吹く風に振れるイメージで可愛い。他にも冒頭のvan-e(ヴァ,ネ)を北欧言語ふうに「ヴォーヌ」と読んでいるのが比較言語学的に言ってお茶目で超ラブリーだ。

パート1最後のコダーイ・ゾルタンのAngyalok és pásztorok(アンギャロケシュパーストロク)邦題「天使と羊飼い」を聞いて、フレーベル少年合唱団もこんな曲を歌えるチームになったのだなぁと嬉しい驚きを隠せなかった。堂々の歌いきりは上の五線譜の頭一つ抜けたGから下は加線2本のGまでがユースクラスの寄与もあって7声(直前に最大8声)で、楽譜1ページまるまる「主イ・エ・ス!」「グローリアー!」という歌詞だけをじりじりソステヌートをかけながら現代ハンガリー合唱らしい倍音いっぱいの和声で叫び続ける。先導し天上へ駆り立てる天使チーム2声の鮮烈で精悍な立ち回り。身体ごとぶつかってくるような体温を感じる男の子らしい羊飼いチームの声の動き。見慣れた少年たちの体からその音像が発せられているのかと思うと、聴衆は自己と現世の同一性をあっさり喪失してしまう。天使チームの配置は声のバランスやラストシーンの物語に陶酔感を与えるためか、当夜は羊飼いチーム同列へ回された。七夕の日の六義園でのデモンストレーション(羊飼いチームには当日、まだガイドピアノが入っていてアカペラではなかった)では、4名の天使チームを前へ出し、スラスト・ベクタリングに長けた少年らしい凛々しいリードをエネルギーの減衰無く客席深く叩き込んだ。特にソプラノ最左翼、「小さい秋(あき)見つけた」君の成長した美麗な歌声は観客の心を深く打ち抜く。安定した彼の心身両面での伸びゆく姿に目を見張ったものである(ブレス収めに兄弟独特の味がある)。PRIDEのセンター君もパワーテイスト全開!アルトの天使チームもすでに野太いマジャール低声をものにしていた。PRIDE君以外は昨年までA組で歌っていたというのに!
パート冒頭の「魔笛~Seid uns zum zweiten mal willkommen」で聞かれた「少年のための歌なのに女の子のような」歌声の印象は、コダーイの少女たちのために作られたと思しきこの曲でもはや逆転し、男の子にしか出せない魅惑のエグ味を付与している。冒頭は13拍ものロングトーンをアルトがアカペラで啼ききるという超カッコいいファンファーレで始まり、この合唱団お得意の「追いかけっこ」の運びも最後まで堪能させてくれる。曲はアタッカで羊飼いの歌へ進むのだが、こちらの方が騎馬遊牧民で「羊飼い」そのものだったハンガリー人の味をよく出して、少年たちも強後打ちのリズム、3度5度と重なった泥臭いハーモニーの並進など、よくわかって気をつけ頑張ってくれている。最後の天使と羊飼いの邂逅はフェルマータで3つの場面に分かたれている。天使の役目はファンファーレに徹し、歌詞は羊飼いの少年たちが導かれるようにしてベツレヘムへ到着し、手を合わせ嬰児に謁見する直前で終わっている。ここから後はもうこの世の物語ではないからだ。目がつぶれるほどの千筋の光の照射、子供達の取り返しのつかない目眩と恍惚と喪心と卒倒。天使役の子供達と羊飼いたちが「グローリア!グローリア!」と唱和して幕を閉じる。映画の大スクリーンで見るような物語の臨場感と言葉を失う光束・光度・輝度の高さを男の子の声が今回再現していたのはすばらしかった。むしろ、男の子っぽい粗野な歌いがそれを可能にしたのではないか。これまで「天使と羊飼い」をおびただしい回数聞いてきているはずなのだが、最後の33小節をこんなにも強烈な閃光に射抜かれて体感したことは無い。ソプラノ側天使チームの「怖れるな!この曲は僕たちに任せろ!」的な面目躍如の大踏ん張りは勿論のこと、逆説的かもしれないがユースメンバーのハーモニクスの効きがその薬効の一つだったろう。また、今年の彼らがこの要求に応えようとがんばってきたことは、部外者の私にもステージの姿を通して感じられた。彼らはいくつかのフェルマータを観客に意識させ思考を切ってしまわないよう細心の注意でまたぎ超えている。また、全体的なデュナーミクの持って行き方にはどうしても体力的な限界を感じさせるが、各所のそれにはきちんと努力の跡が見られる。後半天使チームの入る直前の「…誰がする、うッ?」「…オオカミに、いッ?」の末尾のメゾ・アルトがかなり乱暴に八分音符を吐き足しているように聞こえるが、これは原詩のハンガリー語の特性に見合った妥当な歌いきりだ。同様に以降のアルトの天使チームは目立ってしまったが、寧ろそれでよかった。ハンガリー民謡の正しい語法なのだ。カッコよかった!私たち観客は彼らの歌い姿を以前からよく見知っているので安心して聞くことができ、何より驚くような成長の証が聴け、目立ってくれて大感激!だった。

2017年12月12日(火) 、フレーベル少年合唱団は読売日本交響楽団第573回定期演奏会に出演しマーラーの交響曲第3番5楽章を歌った。サントリーホール大ホールのソワレ。指揮コルネリウス・マイスターの読響で、コーラス席には新国立の女声とともにTFBCも着いていた。フレーベルは昨定演後、時機到来と上進したメンバーを擁す22名の団員を送り込み、新S組らしい甘美で爽快な声をヴィンヤードへ響かせた。良く練られたマーラー3番にふさわしい出来の合唱だったが、フレーベル少年合唱団を長年熱心に応援してきた者にとっては永久に忘れることのできない一夜になった。まず、彼らの指定位置は合唱席最奥上方の遠くにあり、ヒロミチのベストを着たあたま数で倍を少し欠くTFBCが見やすい前方の合唱席を占めていた(その事情は分からなくもないのだが口惜しかった)。だが、フレーベルの団員たちは、絵面合わせを言い開くかのように紺ベスト姿で無帽。両手を体側に下ろしたまま歌い通す。演奏は、日本テレビ(!)の番組「読響シンフォニックライブ」の公開収録だったため、翌2018年の1月18日木曜日に楽曲部分ノーカットでオンエアされ、同月28日土曜日にはBS日テレで全国放送されてしまう。楽章の冒頭、奇をてらった妙な演出で起立する様子も映し出された。2013年以降のTFBCの歌声にも諦観的なるものがあり、ここでは何も言わない。ただ、事実としてあるのは、創団以来長きに渡ってフレーベルがトレードマークにしてきた紺ベレーを、できる限り被らないというポリシーが生まれ、S組では手を後ろに組まず横に下ろすという行動指針の確立されたのが、この一夜だったということだ。今回の定期演奏会で歌うS組の姿を見て悄然としたOB、保護者OGやオールドファンは皆無とは言えなかったろう。だが、合唱団は定演での客席の反応を見て、S組だけでなく他のクラスへも「フレーベル少年合唱団は二度と手を後ろに組んで歌わない」というポリシーを1年間のうちにあっさり援用してしまった。(個人的な意見だが、手を横に下ろして歌っても彼らの歌声クオリティーに顕著な変化は見られないように感じる。外見上、手をぶらぶらされたり前で組まれたり半ズボンの裾を握られたりする様子をかなり頻繁に見せられる現在、私は昨年までのように手を後ろで組んで歌ってくれた方がよほど指導の手間がかからなくて良いと思うのだが…)
6年生を来春以降に卒団させるとフレーベル少年合唱団は「年に15名しか新団員を採用しない」というルーチンで厳しく選考されたメンバーだけが歌を紡ぐ精鋭集団になる。観客たちがおそらく意識していないところでもこの少年合唱団は決定的な変転の時を迎えようとしているのだ。

今回、外見的に最も昨年のイメージを継承していたのは年長さんと新1年生で構成されるB組だったのかもしれない。だが、昨定演、退場場面に到るまで徹底的にthis is Froebelなエンタテイメントの見せ場を供していたそのチームは今年一転してボーイソプラノ研修生のふるまいを公開する。堂々の「あんぱんまんたいそう」を前振り代わりに「ドレミファアンパンマン」へ繋げ2曲10分間のステージでキメた前回。今年はプログラムが3曲に増え、反比例するように演奏時間は昨年よりやや凝縮されたような印象を受ける。今回ステージマネージャー(監督)が変わったこともその要因の一つなのか、だが、客席の受け取った率直な印象はB組クルーのポイントとなるストリームが、選曲・指導とも1つ上のチョイスがなされたというものだ。こうした所感はまず登場・退場場面での彼らのアクションや、今年逆に構成年齢を抑えたイメージのA組のクオリティーとあまり差異を感じさせない曲紹介MC(後述するがA組の方が巧みに幼げな愛らしさで客席を魅了する)などで明らかになる。山中+湯浅ゴールデンコンビの「ほんとだよ」で冒頭から突然シャウトとソロをきりっとフィーチャーし、彼らのコ憎らしい妙味を聞かせる。私の耳には場内の拍手(カッコいい)と客席のもらす笑い声(かわいい)が確かに聞こえた。「カッコかわいい」と観客は直感的に高評価しているのである。また、この年齢の子たちがハッキリとした美しい日本語のソロとユニゾン(これはB組ステージを通じて評価されることだった)を繰り出していることも判る。6歳児的な音の落ち方なので記憶的にもハッキリしないのだが、年長さんの男の子にのっけからA#をポンと狙って出させようとした選曲に私は心底惚れた!乳歯の抜けた年長さんと小1プロブレム一切無縁の新1年生のちびボーイソプラノたちへ、定演の演目として「元気で優しくてわけがわからなくてちっともじっとしていない男の子っぽい魅力」と、数年後の未来、立派なS組団員になるため身につけさせたい音楽スキルとそれまでに心身へ刷りこんでおきたい音楽センスと音感とクリエイターへの思いを同時に定演のステージで実現させようとする選曲の審美眼は次の「クラリネットこわしちゃった」でも顕在する。ハンドサインはS組ステージのフィナーレを想起させ、また階名唱を入り口に聴音、楽典、ソルフェージュといったものが小さな男の子にもきちんと学ばれていることを推察させる。鍵盤ハーモニカの吹奏は彼らの日常の活動の充実を思わせる。クラリネットのレプリカを一生懸命「へたくそに吹いている演技」をする少年の仕草の愛らしさ、真剣さ、ひたすらな表情に今年も観客はあっさりノックダウンだ!こういうことがうまくいっていると、「このクラリネット、いったい誰が作ったんだろう?うふふふ」といったことにまで観客が思いを馳せてしまう。楽しいステージになるのである。
選曲の妙はパートフィナーレの「青い空にえをかこう」にも感じられる。上芝はじめという作曲者名はこの曲が小学1年生のために書かれたことを暗示している(JASRAC上の正式登録タイトルが「あおいそらにえをかこう」とひらがな書きになっているのはおそらくこのためだ)。曲の発表された1985年、小学校の音楽教育はまだ「学校音楽校門を出ず」と批判の矢面に立たされていた。小学1年担任をしていた全国の公立学校の教師たちは全放連傘下である無しを問わず音楽の時間の最初の15分間を使って子供たちにNHK教育テレビの番組を視聴させていた。子供たちは元気に振り付きで踊ったり行進したりしながら教室でこうした新1年生向けに特化された新しい挿入歌を歌い、楽しげに帰宅していく。番組名「ワンツー・どん」。85年以降どんくんとともにMCを担当した「リズムのおじさん」が作曲者上芝はじめだった。今回、フレーベルB組がパートの終わりにこの曲をチョイスしたのは、選曲者が目の前にいる1年生の子供たちの成長を的確な目で見据えて下した判断であったことがわかる。かつてこの合唱団の下位クラスの定演ステージでは小学4年生もいるA組のお兄さんたちが年少さんの演目につきあって発達段階に全くそぐわない歌を歌うことはあたりまえだった。当日ユースクラスで歌っていた団員の中にもそうしてS組に上がってきたメンバーはいるだろう。今回B組ステージで1年生向けに作られた曲を1年生たちが彼らの気概で歌いきり舞台を後にしたことも、フレーベル少年合唱団のかつての一時代があきらかに終わったことを象徴的に顕している。全体的にやや走り気味のテンポだったが、カデンツァ(もともとお姉さんやどんくんの独唱部分だが、今回は斉唱で通した)の後のアテンポが綺麗で調和している。「エイヤァ!」の呼号に望まれるのは歌詞と同じ比重で丁寧に、またオリジナルの放送年度によってグー出しを左右交互に混ぜる場合と右拳のみの場合はあるが、最後のポージングで「ヤー!」の声もしくは軍隊式敬礼を添えてみせる低学年担任もいる。

A組ステージのパート3はB組同様、昨年比2曲増量でこちらはタイミングを約5分間延長し20分間のステージだった。拙文冒頭に記した通りここ数年のフレーベル少年合唱団の動向がA組を中心に展開されていたことを再認識させられる非常に分かりやすい構成となっている。最後の8曲目「いま生きる子どもマーチ」はS組の賛助で歌い、昨年11月のTOPPAN HALL「湯山 昭 童謡トーク&フレーベル少年合唱団コンサート」の隠れた原動力が彼らにあったことを物語る。当時まだA組に所属していたこの応援メンバーたちの活躍は実は2016年には本格化していて、NHKホールの出演や点灯式を含むクリスマスのライブ、テレビ番組収録などをはじめ本来S組が担当すべき出演のほとんどでS・A混成もしくはA組単独という派出が日常的に行われていた。この年はとりわけ定演時期スライドの関係からA→Sの上進が半年以上遅れ、下位クラスの有効活用を余儀無くされるという状況に合唱団は置かれていたように思われる。昨年パート3ステージで歌われていた「歌のメリーゴーランド」をとしまえんカルーセルエルドラドの前で歌ったのも、TOPPAN HALLで「いま生きる子どもマーチ」や「あめふりくまのこ」をメインで歌ったのもこの団員たちだった。卑近の3年間、フレーベル少年合唱団のライブ出演はA組の子供達無しには立ち行かなくなっていたのである。そして彼らの八面六臂の大活躍は、57回定期演奏会の「いぬのおまわりさん」の2番のソリストたちが、消防少年団の訓練礼式にも負けないくらいカッコいいシャープなお辞儀をして隊列に戻り客席の私たちが思わず拍手した瞬間を頂点に収束していく。彼らはその後、正式なS組団員となり修練し続けたからである。21世紀初頭の小学生男子の発達段階としては穏当に、夏休みを終えてステージ上の4年生たちはもうおっかない表情のまま、母性本能をくすぐるようなキュートな表情は見せなくなり、「イケメン&美声」というキャッチフレーズが「美声」中心へ移行した。
フレーベルA組は本来の「S組予科」の立ち位置へ回帰したと言える。だが、そこはお客様を喜ばせてナンボであり続けてきたA組、タダでは引き下がらない。彼らは今年、幼さや舌足らずの可愛さが戻ってきたことを逆手にとり、曲目やMC担当者にラブリーで愛くるしいキャラクターのある選択をしかけてきた。「しまうまのうた」から「やどかりさん」までの4曲はピッチホールド的に一般の低学年男子の手には余るチョイスで、それを「細く頼りなげに聞こえる」声質へ収斂し愛おしく聞かせる。曲の内容は未就学児向けのものばかり(歌詞を見るとそれがハッキリする。「すてきな山のようちえん」だ!)。だが、彼らはこれらの曲から実に多くを学んでいるのである。テンポの速いユニゾンを揃えて少年らしい頭声に持ち込む手腕。冒頭のファルセットのソロを受け取る幼少年たちの遠いメゾピアノがたまらなく良い味を出している。現代っ子らしくポップなリズムも鄙びたワルツもお手のもの。「湯山昭童謡の世界」と銘打ってはいるが、これはまさしく「フレーベル少年合唱団A組の世界」なのである。
続いて湯山作品の一つのキープレーヤーとして「ヨット」が歌われる。現在の文科省検定教科書には取り上げられていないが、本作は昭和時代の最後の改定まで東京書籍(!)と教育出版の小学校4年生用音楽科教科書の重要な教材だった(湯山が東書版音楽教科書「あたらしいおんがく(新しい音楽)」の著者代表だったのである)。昭和の最後の20年間に小学校教育を終えた日本人の多くが、この作品で「四分の三拍子」と「適切なブレスのタイミング」という重点事項を学んでいる。こうした演奏会で歌われることを想定して作られた曲ではないのだ。だが団員たちは徹頭徹尾ソフトボイスで冷たい旋律をストイックに運び、この「教材曲」を、タックでしぶいた潮がジブセールからしたたり落ちるヌヴェルバーグ映画ばりの曇天のホッパー・ヨットのワンシーンへと仕立ててしまった。実物のヤンチャな彼らを見ていると、この仕上がりの物凄さ、秀逸さに怖気付きそうになる。
続く「おはながわらった」は掛け合いのソロのリードで後半カノンへと発展する。フラワースマイルの慈愛とナイーブさは小学校低学年の男の子たちには望むべくも無いが、クオリティー的にはよく揃ってスタジオ録音にも耐える歌いを展開している。明るい声へ転向するメリハリがシッカリと把握されていて同じメロディーを執拗に繰り返しても飽きさせない。ただ、プログラム上あと2曲残っているのに最後の(?)MC君はA組最後の曲になりましたとハッキリ前置きして「あめふりくまのこ」を導いている。昨年のトッパンホールでのコンサートにも一押しで歌われたレパートリーだが、メンバーを入れ替えてなお非常に歌いこまれており、この小さい子達がソロ・オブリガートを含むディビジ3部のアゴーギクの効いたかなり背伸びしたトライアルを平然とこなしているのにはちょっとした憧れのようなものを感じた。彼らも翌月以降には中学生もいるS組に上進して歌うのであろう。そうした彼らの道行きをパート終曲「いま生きるこどもマーチ」でかつてのA組メンバーを擁して歌い、客席の人々の心を少年たちの成長に重ねて楽しませ、心から幸せな気分にさせた。多くのメインクルーを送り出して、技術的にも員数的にも振出しへ戻されてなおA組は「湯山昭の世界」の名を借りてフレーベル少年合唱団の最も素晴らしいひとときを届けてくれた。

服装についてはここ数年、S組のタキシードに下位クラスのイートンというルーチンを堅持し、2017年度からB組のみボウタイをやや浅い赤色のリボンタイ(10年前まで全隊で着用したベルベットの長いものではなく、幼保の制服などによく見られるタイプのリボンタイ)へ変更するにとどめている。58回定演ではアバンの出演団員9名のみタキシード着用で、直後に団長の挨拶MCを挿入して早替えをさせ、終演まで全クラスがイートンという演出をとっている。このちょっと「おや?」と思わせるプランはプログラムの団員名簿を見ると合点が行く。合唱団には4年生サイズのタキシードが明らかに不足しているのだ。彼らのダブルのイートンはボタンが足つきのキャンディボタンになっているだけで同じネイビーのものを大阪の公立の小学生も通学に着ている。だが、見るからに高価そうなタキシードをここ2-3年の定演のためだけにポンと気前よく作り足し以降デッドストックに吊るす余裕など普通無いだろう。今回全クラスが単一のユニフォームを着用して終始したことについて、15年前までのフレーベルのステージに感じられていた「何回幕が上がっても出てくる子供の格好は同じ」という閉塞感を頻繁なポジションチェンジや中学生に長パンツをあてるなどして軽減しようとしている。

休憩を挟んでpart4。「ユースクラス誕生」。登場するのはこの「きみらのうたよ」でも歌うさまに触れてきた人気のOBや先輩団員たち。彼らは長い期間、フレーベルのステージで休むことなく歌ってきた。S組の現役同級生と同じステージで歌って、たくさんのお客様に心からの声援を長いこと得続けていた薫くんの立ち姿を一眼見ることができて私は心底幸せだった。
人々はどう思うのだろう。その隊列に変声中のS組現役団員がいるということは、ユースクラスの練習が、S組練習の(おそらく)終了後などに、別立てで行われたことを意味する。カンタンなことでは無いのだ。
パートはMCによる紹介とインタビューを演奏で挟むようにして成立している。ワルトトイフェルくんが最後にマイクを向けられ、本当に良い表情で微笑んで言葉を切った。彼らはゆずり葉のように自覚してこのチームの成員へと進んだ。「ユースクラス」立ち上げの理由は誰の目にもあきらかだったろう。男声用にしつらえられた「ぼくらのうた」と「さびしいカシの木」の2曲が歌われた。「カシの木」の最終連を調べてみて欲しい。これは歳を経たワルト君たちが結局どうなったのかの結末を描いている。わたしもまた、ワルトくんと、歌詞の文句のように、ほほえみながら立ち尽くすのだった。

今年、あの低声系4人組はどうなったのだろう。
彼らは全員昨年定演の「流浪の民」で重要なポストを担い声を聞かせた。美白男子くんは曲紹介MCで彼らしい口上を述べて客席をわくわくさせ、PRIDEで黄色いモンスターズインクMシャツをキメたMくんは、ワルトトイフェルくんと組んで2重唱を聞かせた。歌声は彼の人柄を誠実に映し出す鏡のような篤厚な出来栄えだった。2人とも昨年度の終わりまで出演があったが、今定演のプログラム上に名前は無い。合唱団とはまた違った人生で真摯に素晴らしい少年時代を送っているのだろう。
あのカッコ可愛いはに丸くんにも穏やかな変声の兆候は見られるが、いずれにせよ彼のハンサムで水もしたたるイイ男然とした精悍な声は歌声・話し声とも全く変わることなくボーイアルト街道驀進中だ。褐色王子くんから引き継いだ会心の終演呼号も客席の人々の心へとチェクメイトを決めている。ボーイズ集団としてのフレーベル少年合唱団が、こうした秀逸なキャラクターの団員を育て続けてきたことは、他団や他の児童合唱のチームに誇るべき実績だと思う。彼もまた、数年後には合唱団と違った人生を素晴らしい心の篤さで生きてゆく。そう思いながら終演後の客席を立つ私たちは本当に幸せだ。
そして最後の一人はS組団員であり、なおかつユースクラスへの上進を決めているスタイリッシュなボーイアルト。
私は昨年のレポートで「様々な幸運と巡り合わせの良さでセンター位置上段やアルト最右翼の一番良いポジションで歌うことが多く、テレビや大規模ホールでの出演とDVD、CDなどの記録を通して常に歌い姿やMCを私たちに見せてくれたように思う。」と書いてすぐに反省した。「様々な幸運と巡り合わせの良さ」という失礼な言い草はなにごとであろう!現在もなお、必ず毎回のステージで心を尽くして歌い、日々の厳しい指導もあろうがへこたれずMCを繰り、「もういいか。頑張って歌ったよナ。俺はもともとこの程度だから。」というボーイアルト人生の終結を自己には決して許さず、腕が折れても声が変わり始めても彼は与えられた全ての出演に全身全霊で歌い続けてきた。たぶんあなたが来週コンサートを打つ興行主で、彼を慮って「大変だったら6年生は出なくてもいいんだよ。お家の方と相談してみたら?お休みしても怒らないから。歌える??」等々慰留してみたところで彼の返事は最初から1つに決まっている…「必ず出演して歌います。」だ。おそらく、毎週の練習にも家での練習にも手を抜くことは無いのだろう。声が落ち始め、身体に変化が見え始めてから1年間のステージでの姿を見てさすがの私も目が覚めた。これは「幸運と巡り合わせの良さ」などでは決して無い。彼のたゆまぬ地道な努力を周囲の人々が澄んだ目で真摯に確信を持って見遣り、敬意をもって評価しているからの非常に高い尊いポジションなのだ。たからといって壮絶な少年合唱団人生を期待してS組の下級生らに彼のことを尋ねてみてたところで、たぶん「優しいし、オモシロい先輩だよー!」としか言わないだろう。これが彼の魅力…おそらくそういう素敵な少年なのだ。

曲集「ゆずり葉の木の下で」は、ジェンダーを意識させる作品群であるようにも思える。「モン・パパ」で彼らは「ぼうやはもらう…」と歌い出し、「パパはもらううすっぺらな給料袋を」とかかり受ける。「あおいあおい」では「ぼくたちの心のあおが…」が結びの言葉だ。詞に出てくるのは男の子。母さん、父さん…という語彙も印象的に数カ所で用いられている。これは父と母とその息子の歌集なのだ。豊中少年少女と豊中混声の委嘱作は、子供の声部(ディビジ2部の単声、ソロあり)と混声合唱の構成が前提に作曲されている。少年合唱団とそのOBの合唱では狙われているジェンダーの趣向を正確に打ち出すことができない。それにもかかわらず彼らが「ゆずり葉」に寄せるバラードを2年にもわたって歌い続けていることを、聴衆がどう評価しているのか興味がある。
今回はコンプリートの5曲をステージに乗せた。児童合唱のパートはほぼユニゾンのまま、混声のソプラノとアルトをOB合唱団がテノールで手堅く鳴らし良い響きに持って行っている。例えば、1曲目「あおいあおい」の少年たちとOBの徹底した掛け合い(「対話」とでも言うべきもの)で魅力的なのはまずOBが四部でほわんと運んでいく和音の面白さ。子供達はその上に斉唱のまま清潔で純真なメロディーをレモン・シャーベット状に乗せてさっぱりと口どけさせている。100小節ほどの長さの中に、際立って大きなアゴーギクもディナーミクも存在しない適度な清涼感を保ち聴く人の目と心もを冴えわたらせてくれている。単声だけでここまでもってゆける最近のフレーベル少年合唱団の声作りと実力の高さに気づかされた。
2曲目はデ・ラ・メアの「深く澄んだ目が二つ」で、デ・ラ・メアらしいライトなグロテスクさが上手く書かれ、また歌われていた。前の曲でOB合唱のトッピングとして機能していたボーイソプラノは、ここでは大人の声と動物解剖学的な顔部器官数を唱えるカップルゲームを皮切りにモダニズム的和声を響かせあい駆け抜けてゆくというエキセントリックな聞かせ方をしている。曲集の中で、本曲はおそらくスケルッオに相当する位置づけなのだろうか。子供達の声が規則正しいピアノのリズムに乗せて2拍子、3拍子、4拍子の間で目まぐるしく遷移する中、ちょこまか動き回る。後半、頭部感覚器への処理命令が子供達の声であたかもコンピュータのコマンドのように繰り返され、最終的に「頭が心に」考えよと唱える場面ではこの作品唯一の童声ソロが「♪考えよ」と(たったひと声のキャスティングだが、これまでのフレーベル少年合唱団の人選の中でもベストマッチで群を抜いている)歌われ、曲はアンダンテ相当のピアニッシモで冒頭に回帰し幕を閉じる。S組の声質は昨年のものから4年生メインの鳴りに変わっていて、そこはかとないお茶目な響きがスケルッオにぴったり。跳躍力もしっかりとしているし、ピッチホールドも耳の良さも手慣れた歌の手腕も感じる。

3曲目「川」。キャストを入れ替え、歌うのはA組とメゾ客演の布施奈緒子だ。このメンバーチェンジがとても良い!彼らは昨年までB組ステージで「ドレミファあんぱんまん」を歌っていた幼少年たち。幼少年だが非常に優秀なメンバーであることは前述した。合唱団はここでもそれを実に巧妙に意図的に使い曲世界を説明している。ホ長調のワルツだが、曲が同主調にスライドした途端、指導者たちの目論見通り彼らは覚束なげな歌いになり、それを「少年合唱団」らしくシッカリと持ち直そうと頑張るケナゲさで私たち客席の者の心を奪う。彼らの実際の母親のコーホートより弱冠高めの印象で歌った布施のソロも歌詞に説得力を与えかなり効果的だ。だが、驚くべきことに(子供達の声部はほぼユニゾンであると前述したのだが)、なんと声質だけ幼いまま2部で暫く曲を運んでいくのはA組の彼らなのである。後半のリタルダントから美しく愛らしい男の子らのボカリーズが漏れたあと、客席で感極まって声をあげる女性客のなんと多かったことか!合唱団はこの後の2曲からアンコールの「アンパンマンのマーチ」までA組を加えたまま歌いきり、客席の声援に応えさせる。次の「モン・パパ」でも彼らの無邪気さがまた違ったテイストで発揮されるからだ。

4曲目の「モン・パパ」はS組とOBを呼び戻し、メトロノーム80台のヴィヴァーチェ的なかなり威勢の良いテンポから最終アプローチでの130以上のアジテートまで、子供達のほぼ全編マルカートな面白おかしい声が楽しめる。谷川俊太郎だ。「川」の詞があまり「痛快」な谷川では無かったのに比べ、本曲の歌詞は図に乗って言葉遊びの谷川俊太郎らしさをいかんなく発揮してくれる。男声はおそらく混声四部の下声部をトレースし、少年たちもディビジ2部で対抗する。5度ぐらいボコンと落ちる素っ頓狂な冒頭の歌い出しや、中間部へ唐突に出現する4分の1+5拍子の立ち上がりなど、「10歳ぐらいの男の子だからこそできる」ヘタウマなのか、「小学生の男の子も訓練次第で歌うことができる」技量なのか、客席へ「どっちだと思います?」と問いかけているお茶目なスタンスが腹を抱えるほど愉快で楽しい!だが、彼らの最近の実力をあらかた承知している者たちにとって、「モン・パパ」はフレーベル少年合唱団のカッコ良さ、凛々しさ、精悍さを味わう貴重な1曲になっていた。それはまず、ボーイソプラノが本来混声合唱の女声で歌うべきパートをいくつか(かなり?)あからさまに食っていること。しかも、ママさんコーラス的な鳴りではなくあくまでも少年の歌声で。もう一つは冒頭部分の結びの「♪薄っぺらな給料袋!」に聞きとれた彼らの耳の良さと心のきめ細かさ。少年たちは事前に厳しく指導されていたのだろうか、自分たちと声を合わせている男声が「定期演奏会に毎年やってくる大人の声で歌うどこかのおじさんたち」ではなく、自分たちの心も目も耳も先達としてよく知りぬいているフレーベル少年合唱団の先輩方であることを納得した上で、旋律を巧妙に煽っている。先輩方を心底信頼しているのだ。昨年、私はOB合唱団をして「損な役回り」と同情して書いた。だが、今年は一転、「こんな小さな頼もしい現役たちに完全に信頼され、安心して声を乗せてもらえる」幸福で果報者の男たち、と嫉妬心から記しておきたいと思う。

演奏会は「ゆずり葉」に寄せるバラードで幕を閉じる。
曲集はへ長調ではじまり、下属の「深く澄んだ…」から「川」で1個下の調に渡り、「モン・パパ」で変イ長調に飛んで、最後は主調へ回帰する。なんとなくドラマチックでライトシンフォニー的なカッコ良さを感じさせる構成だ。フレーベルのあの楽しく面白い少年たちがそれをペロリと歌い上げてしまうというところもオシャレ!大団円だが歌にはハッタリのようなものが無く、非常に穏当に仕上げられている。メンバーにはユースクラスを加え、合唱団は今年LIBERA(リベラ)ばりの派手なフォーメーションを組んだ。だが、S/Aの子供達がとても熱心に練習を積んでこの日に備えてきたことがわかる演奏で好感が持てた。アンコールに「リフレイン」と「アンパンマンのマーチ」を歌っている。

ママさんコーラスとともに、日本中の少年合唱もエンタテイメントという視点から近年明らかな結節点を迎えているのだろう。地味なドレスをまといどんぐりまなこで歌うママさんコーラスがもう国内のどこにも無いのと同じように、十年一日のボウタイ姿に直立不動のまま終演まで朴訥に歌う男の子の合唱団というのは国内からそろそろ姿を消そうとしているのかもしれない。それがいかなるベクトル変動によってもたらされたものなのか、客席やロビーを闊歩する人々や彼らの鑑賞を見て感覚的にせよ会釈できたように思える一夜だった。
合唱団が本拠を置く文京区の年少人口は21世紀に入って漸増を続けていたが(現在のS組が50人規模の隊列を維持してこれたのはこのためだ)2020年の近い将来、減少へ転ずる。問題なのは、文京の生産人口・老齢人口ともに2025年で頭打ちとなり以後ほぼ横ばいの推移を見せるという統計結果(RESASシステムによる)。ゆずり葉のような団塊の世代の退出がその主な要因と見られている。団塊人口の少年期は1950年代後期から60年代。フレーベル少年合唱団の誕生が1959年であることを知れば、それが何を意味するかもはや明確であろう。「観客を喜ばせる合唱の終焉」の夥しいひたむきな「観客」こそ、自身もまた少年少女時代、児童合唱を身近に聞きながら育ってきた団塊以降10年の人々なのである。だから、彼らは高度に音楽的で技巧的にもきちんとまとまった秀麗で確実な児童合唱を聴くよりは、ある程度子供らしい不器用さが残り、上手くいかなくても頑張って歌う健気な少年たちの合唱を聞き、歌い姿を眺めることの方がずっと大切なのである。それはとりもなおさず、自らの少年時代の大切な大切な思い出を、男所帯でやんちゃできかん坊そうでふとした時に仲間を守ってやったり無垢で優しげな眼差しを向けたりするフレーベルの子供たちの歌い姿へ見ているからに違いない。合唱団は5年後を見据えて早々とそうした観客を喜ばせる合唱から大きく舵を切った気がする。
フレーベル少年合唱団は団塊でも団塊ジュニアでも老人でもない聴衆にさえ、この長きにわたり心和ませる数多の至福を与え続けてくれた。だから、今日はT.フリードマンの安らかな美しい水を湛えた井泉のような言葉を彼らに贈り拙文を閉じておきたい。Thank you for being late…遅刻してくれて、ありがとう。



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