フレーベル少年合唱団は何を歌ったか~2019年秋から2020年春

2020-12-15 12:00:00 | コンサート



フレーベル少年合唱団--ぼくらの演奏会から(キングレコードSKK(H)-284)
一見して団員たち全員がソックスを軽いダブル履きにしているのは、70年代初頭に到るまで、東京の男子小学生は通常、靴下やストッキングの履き口にガーター(パンツのゴムなどで代用した)を入れてとめ、履き口を折って隠しておく必要があったため。これは正しくフォーマルな装着法と考えられていた。


「TFBCは特筆すべき評価として多くのソリストを育ててきた」というもの言いが最近ネット上にしばしば登場する。フレーベル少年合唱団がその来歴として早稲田グリーに依って立ち、育てあげられたものであり、現在は栗友に近いポジションにいる生粋の「合唱する少年たち」であるのに比べ、VBCやTFBCは60年代を終える頃は既に二期会や東京室内歌劇場といった、「オペラやリサイタルへの出演をする声楽家の団体」と深い関係にあった(彼らの練習場が一時、二期会会館や新宿駅周辺にあって、結局それがKDDビル31階のエフエム東京につながったのはこのためである)。VBCの少年たちはチャンバー・オペラや華やかなグランド・オペラの「男の子の役」の童声を担当できるソリストとしても、大人のテナーやバリトンが一人一人カッコイイ持ち味で聴衆を楽しませるのと同じように、子供の個性を十二分に生かすボイトレがすべての団員に対し丁寧に繰り返し施されていた。団員はオペラ子役としても活躍できることを期待され育成されていたのである。一般の児童合唱団ではおそらく全く評価されないであろう特異な持ち味の多くの団員たちがむしろ重用され、先生方も「すっごくイイ声なんだけど(合唱と)音が合わないのよ」「音が落ちるんだけど、かっこいい声でしょ?」「あの子はアルトとしてやる気がないんだけど、すごくいい響きの声でね…」「二枚目がやっぱり良いわー」などと、合唱向きではないことは百も承知で一人一人を丹念に歌い手として育て、確信を持って表舞台で歌わせていた(その中には成人して音楽をなりわいとしている団員たちが何人もいる)。早大グリーから出発してアマチュア合唱を極めようとしてきたフレーベル少年合唱団と、ボーイソプラノの集合団体としても在ったVBC・TFBCでは団体の出演歴や陶冶の方向性を単純に比較することができない。
なぜ、こういうことを冒頭に述べたかというと、私は毎年ここで、何人かの特定のフレーベル団員をめぐって舞台上に目撃した事柄や思いを書いたが、アマチュア合唱団であろうとするフレーベルについても、そうした迫り方で話をしていく方が、実は彼らの合唱の魅力や特長をビビッドに述べることができると確信しているからだ。雑駁でピッチも合いにくい日本の男の子の合唱について、合唱の出来を仔細に語ってみてもろくな結論は出てこないだろう。だが、CD『にじ』の重唱ならば、デビュー後発で変声までを彼らしい真直ぐさでチャーミングに駆け抜けた環ちゃんの猪突猛進ぶりと、黒い軍団を束ね弱きに優しく強きをくじいて結局最後は強きにも優しい鶴岡君のデリシャスな声質を、根っからの高評価で信頼のバイプレーヤー伊澤君がやじろべえのようにそっと支えるあの年のフレーベルにしか創りえない構造…といったら、この歌の導く「人間の本質」を突く深い旨味が分かるだろう(何言ってるのだろう??)。
だが、私が決して忘れてはならないと自身を戒め、現に今現在も私の心の内にあることは以下の通りである。制服をかかえ、家から出ようとするフレーベルのS組団員をつかまえて、「きみはこれから何をしに行くの?」と尋ねたときの答えはおそらく十中八九「仕事です。仕事に行きます。」ではあるが、「誰が歌うの?」と問うたときの即答は「僕たちみんなです。フレーベル少年合唱団です。」でしかありえないのだ。

A組
大人気者のA組である。 
彼らは2019年度のクリスマスも東京メトロ後楽園駅のメトロ・エムでレギュラー尺の駅頭コンサートを打った(2019年12月21日(土)17:00~)。だがしかし超人気者のA組のこと、コンサート開演前から主催者側の想定を遥かに凌駕する数の、彼ら目当ての観客の人垣が膨れ上がったままビル・エントランスを完全(!)にふさぐ騒ぎとなり、ステージへの進入路を断たれた団員たちが地下鉄丸ノ内線改札口のエレベーターに分乗してステージに送り込まれるという空前絶後の事態へと発展した。 コンサートが始まってしまえば、イートンの制服に可愛いマフラーを巻きサンタ帽をかぶっただけのちっこい彼らが、なぜこんな観客動員力を持っているのか。周囲の人々にも皆目見当がつかなかったに違いない。恐るべしA組である。
そこで、厳密には同じメンバー構成ではないが、昨定演に於けるA組の姿を回顧して、その秘密を解き明かしていきたいと思う。
昨定演のA組は堅実な歌うたいの印象がある雨降り熊の子くんやアンパンチ君たちを始めとする上位学年のグループと、きらきらイケイケの「竹友軍団」と、「フレーベル少年合唱団のアルトにはルックスが良くないと配属されない(噂?)」セミプロなアルト・チーム(これがまたステージでは全員モノスゴくカッコいいんだよ!キャー!←個人の感想です)という鉄壁の体制で、「これじゃぁ、完全大人気なワケだわ」と結局私たちは予定調和のような彼らの歌い姿にちょっと嫉妬を覚えたほどだった。「竹友軍団」はB組からの堅実な上進メンバーに直A配属のチャーミングな少年を加えた新しいチームで見ても聞いても元気がもらえ、一方そこに至るまで合唱団を後にした団員たちもS組同様何人もいて、S組に上がってからも苦労した子を含めどの子も綺麗で澄んだ声をしていたのがとても惜しい。
57回定演での、ある少年のショーアップは「隠し球」のようなインパクトを客席に与えた。私は定演当日の客席の状態を「バイキンマンが空の高みに目を回しながら飛んでいくあの状態である」と記している。小さい身体で落ち着いた(魅力的な幼さが共存する)ブレスを繰り、低学年の段階で中声域のビブラートがつきはじめた。昨定演では、その声を生かしMCをプチ演出付きでお池の金魚くんとキュートに掛け合い、客席のA組ファンをニコちゃんマークへ導いている。エンタテイナーでもあるのだ。だが、彼のカッコよさの神髄は実は全くちがうところにもある。地方の国立大学付属小の子が着ているようなちょっとお高そうなワイシャツを纏っている。殆どの観客にはハッキリ見えている事実だが言われなければ気付かない。ベレーからほんのチョットのぞく髪がよく手入れされている。お家のかたがとても気を付けて彼を送り出しているのだ。私たちが彼に対して抱くイメージは「歌への誠意があり実力のある子」だが、彼の魅力はそれとは違うところにも厳然と存在しているのだ。同じことは他の団員にも見られる。お池の金魚くんが出てくるとパッツンマッシュで色白、お目々ぱっちりのルックスに観客の目は行く。だが彼の一番の魅力は手を後ろに組む姿勢が無くなり、アンパンチ君同様、両手が解放されてハッキリするようになった。彼のカッコイイのは一挙手一投足のしぐさ。ただ、気をつけで立っているだけ、無意識に普通に歌っているだけでもポージングがばっちりキマってカッコいい。しかも、それがバレエや舞踊、ダンス、ステージなどエスタブリッシュな芸能から導かれたものではなく、徹底した彼の自然な立ち姿なのだ。昨年度のA組はそうした多くの多彩な団員たちの表に見えてはいてもさりげない隠れた魅力が超満載のチームだった。
Webの画像エンジンで無作為に「フレーベル少年合唱団」とひくと、検索結果の上位に小児がん患者のためのチャリティー公演「ごえんなこんさぁと」(2019年9月29日第一生命ホール)の写真がしばしば登場する。上進組も含め『パプリカ』を演唱するSA混成のチームを写したものだが、よくもこのメンバーを一つの画角に捉えたものだとちょっとビックリさせられる。驚愕である。プロのカメラマンの目を引く魅力が、やはりこの子たちの歌には明らかにあるのだろうと思わずにはいられない。
昨定演のインターミッション・サプライズでS組が先導した『パプリカ』(Nコン合唱バージョン)を例年出演の「第7回下町ジュニアコーラスフェスティバル」に今春(2月15日 かつしかシンフォニーヒルズ)クラス単独参加し最終ステージで披露したのはA組だった。このパフォーマンスは各団の事前の打ち合わせや摺り寄せが殆どできているようには見えないもので(「身振り手振りとか、-中略― そこにあんまり染まってない子どもたちのほうが、美しく魅力的に見えた」と米津玄師はFoorin抜擢の理由をインタビューに応えて言っている:マイナビニュース 2018/08/15)、中高生もいる他団のメンバーに比べ圧倒的に小さくて幼い感じのする彼らは、それでも他の合唱団のダンシングが見劣りのするものに感じられたりしないよう昨年披露した上手な歌い踊りを見るからにセーブして見せていた。他団をひきたてるため懸命に自制している姿がいじらしく、客席の私たちはまたそこに歌う小さな男の子たちのチャーミングさを感じたのである。
フレーベル少年合唱団のA組は来歴として他団の下位チーム(TFBCの予科やグロリアのB組など)とはやや異なるものを持っている。かつてフレーベルの団員は全員A組とB組に振り分けられていた。団員が4年生ぐらいになると一般にA組へ上進し中学2年まで在籍する。団員の最終ステータスは仲間たちとA組の肩書を背負って歌うことだった。だが、1990年代になって、各組内から選抜した団員を「〇組セレクト」といった名称でステージにのせるという慣行が発生。A組の場合、これが今世紀に入ってから「A組セレクト」という呼称で常態化し、のちに「セレクト組」を経て2011年から現在の「S組」となった。だから古くから団を知っている者の印象はあくまでも「フレーベルのメインクラスはA組で、Sはそのセレクトチーム」なのである。一方、一時ABCJの4クラスを擁したフレーベルでは、3年生メインのB組を敢えて合唱団「イチオシ」のチームとしてステージに送り込んだり、所属クラスにこだわらず来る者来たれで出演クルーを募集したり、歌の出来の良さや所属学年を無視し、あえて統率力のある団員を下位クラスに残したりといった組織力重視の配員も存在した。
後楽園駅メトロ・エムのエンタランスを、ニコニコの観客の人垣で塞いだ今日のA組に感じるものは、そのような圧倒的な魅力だ。そこには「A組は、S組の下位クラス」といった劣等や序列は殆ど感じられない。筆者は「フレーベルのA組は日本一の少年合唱チームだ」とまでは言わないにしても、「現在、日本の少年合唱団の低学年チームとしては、質朴さを兼ね備え各自のキャラが全開な日本一の集団エンターテイナーである」ことは認めざるを得ない。指導陣もおそらくそれを十分承知の上でギリギリまで彼らを指導で追いつめ、あとは「もっとやっちゃえ!」と確信犯的に歌わせている。そして客席の私たちはその策略にまんまとド嵌りし、「あー!面白かっタ!あいつら、小さいくせに、ほんとガンバってるよなー。」と心の満腹感にお腹をさすりながら劇場を後にするのである。


ユニフォームについて
冒頭のジャケット写真説明で書いた。一般にフォーマルで格式があるものと考えられていたダブル履きは20世紀の終わりまでスポーツや各種少年団のユニフォームへ形だけ残っていた。これはごく一例で、かつてのフレーベルの制服のディテールは、たとえ闊達でじっとしていない男の子であっても、ステージで照明を浴びている間だけは礼を失しない姿をしていて欲しいという、合唱団を見守る人々の願いを具現していたような気がする。
合唱団は10年ほど前までの一時期、非常にかさのある中折帽を演出ステージにタキシードと組み合わせる形で着帽していた。一方、ベレーは食卓や葬儀中でない限り室内でかぶっていてもマナー違反とはみなされない場合が多い。LSOTもVBCもフレーベルもHBCGや呉も男の子だけの合唱団はかつてベレーを着用していた。これは男の子の髪が殆ど手入れされておらずめしゃめしゃで見苦しいことに対する目隠しや遮蔽を目的に制定されていたアイテムのようにも思える(北九州や旧津山ではセーラー帽をあてている)。上着については現在と同じラペルの無い、青いシャンクボタン・愛らしい底丸のパッチポケットを付けたマリンブルーの3つボタン・シングルイートンだが、組み合わせている白いシャツはトライアングル衿の開襟で、スリーブもしっかりとしたブランドオリジナルだった。これはジャケットの下に半袖を着るのがビジネススーツではなくてもマナー違反だからだ。袖口からシャツが覗いていなくてはいけないという(冒頭のレコードジャケットの団員達も白い袖口の覗いている子が目立つ)。半袖だけを着用する場合は現在の団員達のようにサスペンダーをするか、ベルトをしめていなくてはいけないというマナーの縛りもある。1950年代後半、すぐに成長してサイズアウトすることが前提の子供の服にもまだ「正装」という概念が色濃く残っていたようだ。
フレーベル少年合唱団のオリジナルの制服からは礼儀正しさ以外にも周囲の人々が寄せた「美しく歌う人であれ」の思いがいくつも感じられる。その一つはグレーの半ズボンの機能デザインだ。筆者はかつて彼らの姿をしてだぶだぶ半ズボンと書いていた。活発な男の子の足さばきが良くなるようにという親心からひかれた型紙なのだろうと思う。しかし、彼らがステージに上がり、両足を肩幅に広げ、手を後ろに組んだとたん、そのシルエットは一変する。組んだ幼い手が腰部を押し、開いていたはずのズボンのすそは一瞬にして適度に締まり(正確に言うと、裾の開きが背中側へ移動するため)精悍な姿に転じる。一人一人の姿は貧弱でも、何十人と揃ってステージライトに照らされたときのインパクトは絶大だ。かつての制服をデザインした方は、彼らのステージでのふるまい一挙手一投足をすべて熟知して意匠を組みなおしたにちがいない。
現在のユニフォームがお披露目されるより以前、合唱団は団歌『ぼくらの歌』の前奏が鳴り始めると同時に緞帳をあげて歌い出す演出スタイルを堅持し定期演奏会をスタートさせていた。ご家族や親戚、学校の先生方や会社の皆さんは少年たちが遊びたいのを我慢して練習に通い続け、この日を迎えたことをよく知っている。現在もそれは同じだが、そんな思いで胸元を押さえ「しっかり歌え!」と前のめりで祈る聴衆の前には客調が落ちたあと、重く硬い緞帳が夜の帳のように下りている。団歌の前奏がファンファーレのごとく聞こえてくる。幕の下端が動く。ピアノの音が次第に明るく輝かしくハッキリと聞こえてくる。漏れ出てくる燦然のステージ照明。団員達の黒い短靴のつま先がわずかに見えて光った刹那、真っ白いソックス、ペールオレンジの両腿、ライトグレーの半パンツ、そしてマリンブルーのジャケットとベレーを阿弥陀かぶりにした真摯な少年たちの面差しが、まるでグラデーションを解放するかのように下からダイヤモンド色、ピュアホワイト、金、銀、紺碧、ネイビーへと段階をふんで次々立ち上がってくる。色彩設計されているのである。そして彼らの全姿が全光の中へ浮かび上がったとたん、歌声が明るくひたすらに客席の人々の胸元へ到達する…

 ぼくらのうたよ (ぼくらのうたよ)

子供たちに愛と勇気と夢を売る会社で考えられた、おそろしいほど劇的で圧巻の開幕演出である。毎年のことだが、客席の人々はこの瞬間「わーっ!」「まぶしい!きれいだ。」「すばらしい!」と思わずときめいたことだろう。かつてのフレーベルの制服は、この瞬間のため周到に企画され、デザインされたゴージャスな輝度の高い演出の一部ではなかったのかと筆者は思っている。制服が現在のものに変わってから、合唱団は定演冒頭で上記に代わるサプライズを手を変え品を変え様々に打っていた。だがその一つとして旧制服を陵駕できたものは無いように感じる*。

子供の体位向上とともに、既製品の衣料は標準サイズと生産ラインの見直しがはかられる。ほぼすべての制服アイテムがレディメードである現在のフレーベルの場合、今後2-3年のうちに隊列全体のシルエットはおそらく変動することになるだろう。

*毎年のようにここで話題にしている定演ステージの箱馬の高さだが、かつてはちょうど平均的なA組(現S組)団員たちのソックス丈へ揃うように1段目から積まれていた。このことでビジュアルは一見して安定し、客席は歌に集中することができていたように思える。


セントポール君は、何故「will shine tonight」なのか
筆者出身学院の後輩で、毎ステージ完全な身びいき(?)にまかせ歌い姿を見ているセントポール君である。
彼のステージデビューの姿は実に印象が悪かった。B組ステージでは滅多に見ることのできない仏頂面。団員の不出来にあまり興味の無い私が覚えているほどだから、彼の不機嫌そうな顔は度を越していたのだろう。だが2020年の今、ステージでの彼の表情は、デビュー時の印象を微塵も残していない。ステージの表情だけを見て、その子どもの団員人生を決して判断してはいけないことを彼は私に教えてくれる。現役SA組メンバーの中で多分一番表情が良く、楽し気に、春の訪れとばかり歌い囀っているのが現在のセントポール君だ。そのマジックと秘訣は何であろう。ソロの記録映像として残っている初期のものは2016年12月8日収録のアニマックスのクリスマス「アニメクリスマス・メドレー:デジモンアドベンチャー02~天使の祈り」。最近の声質は下方域にチャームを持った明るいメゾ。男の子の気品が漂いキュートだが鼻腔の抜けに特徴があってハードなはちみつドロップというイメージの声である。その歌い姿が本領を発揮したのは2月のオペラ、『カルメン』だった。 文京シビック区民オペラでの子役のオンステージは『カルメン』でも衛兵交代から幕切れ、カーテンコールまで全編にわたりタップリ潤沢なのがうれしい。セントポール君も、オフホワイトにまとめた衣装が舞台照明に映え、役柄通りの元気なちびギャングっぽい表情やコミカルな演唱が爽快で楽しく、聴衆の耳目を喜ばせた。このときのプログラム冊子には少年合唱団の練習風景やプローヴェ時の記念写真が何枚か掲載されている。だが、彼の姿はたった1枚。学校の制服のまま、端っこへコメ粒ほどに小さく写っているに過ぎない。彼に限らず、この合唱団に限らず、国私立通団組の子供たちの日々のレッスン時間のやりくりの苦労は、いかばかりのものであろう。ステージ上の表情からは全く想像できない苦労や忍耐を要する処遇と彼らは毎日のように戦いながら歌っているのに違いない。だから、私は彼が『カルメン』のステージであんなにも輝いていたのを(本人の努力や持ち味は当然だが)周囲の方々からのすばらしい賜り物としてありがたく受け取ったのである。
ステージがスタートする刹那、多くの団員らは客席を一瞥して安堵の表情を見せる。比してセントポール君の場合、微笑みはステージを通じ不断に繰り出され、止むことはない。客席のどこかに彼をそうさせている人が必ず存在するのだ。あたかも月や惑星が恒星の光を受けて輝きわたるように、セントポール君は客席に必ず内在するいずこかの光源の光を受けて、ステージの間じゅう、観客の眼を射るようにキラキラ光り輝いている。満天の星と青銀の月の光が夜道を歩む私たちをいかに守り、前を向かせ、安堵させもするか、…人里離れた山奥や絶海の孤島で何年か過ごした経験のある人間であればごく当たり前のこととして落涙するほど切実に理解できるだろう。だから、セントポールくんは、「shines toDAY」ではないのだ。セントポール「will shine tonight」なのだ!彼の歌声は、客席にいるどなたかが私たちに届けてくださった、夜目のおぼつかぬ足元を照らす安心のかけがえのないプレゼントなのだ!
しかし、この発光原理はセントポールくんだけにしか持てない特権などではない…フレーベル少年合唱団を現在、こんなにも光り輝く素敵な少年合唱団に止揚してくれている根本の莫大なシステムは、客席で団員らを見守り、心からの慈愛や応援の気持ちで真剣に彼らの歌を聞いている雑多な年齢層の多くの様々な人々が少年たちに投げている光(これはアレゴリーだ)なのではないかと私は真剣に思い始めている。



『星の王子さま プチ★プランス」(マスター収録=キャニオン CX-43) は2018年12月19日に、デジタル変換されたものが阿久悠の記念CD収録曲として満を持し40年5ヶ月ぶりにリリースされた。3分45秒近くもある尺長のフルバージョン(デジタル化されたものには冒頭の「この物語を…」というナレーションが入っていない)。フレーベル少年合唱団を代表すると言っても過言ではないこの録音のクオリティは様々な意味で非常に高く、団員本人・合唱団マネジメントスタッフ・レコーディングとリリースサイドのスタッフ全員が「良いものを全国の人に届けよう」と邁進していたことが音溝から痛烈に伝わってくるパワフルな作品である。ローアングル・ローポジション寄りに鳴る安心安定感のある団員の担当レンジをコンソール側のプロの手腕でダイナミックに聞かせようと果敢に試みる美しい作為にまずびっくりさせられる。中学2年生(14歳)までの現役A組所属がデフォルトであった当時のフレーベル少年合唱団だから為すことのできた仕事と言える。団員のあらゆる音楽生活の経験と育成と日常指導の質の高さが伺える、1978年7月のリリース以来日本の少年合唱団の歌唱頂点の一つに君臨する仕事である。一所懸命に歌おうとする冒頭から、次第に集中が緩んで本来の子供らしい声質が浸潤する後半まで、少年らしいまっすぐさがストレートに出ている至高の商品録音である。薔薇の頬をした作中の王子さまは両耳の後ろに小さなクリームパンのような掌を広げ笑いながら言うのだろう…「ね?本当に大切なことは目に見えたりなんかしなかったでしょ?」日本人総ショタコン化計画とも呼ぶべき過激さ、燦然たる輝きを放つ記念碑的作品である。
18年にリリースが可能になったのはおそらく関係各位の了承があってのことだろう。僭越ながら感謝の意と敬意の念を全フレーベル少年合唱団ファンになり代わり最大限に奉ずる。


としまえんコンサート
かつて「史上最低の遊園地…来るんじゃなかった!!…楽しくもないし、夢もない。おんぼろ木馬(エルドラド)」と新聞一面広告を打っていた、あのとしまえんである。コピーは以下のように続く。「つまらない乗り物をたくさん用意して、二度と来ない貴方を、心からお待ちしてます」
バブル最盛期、泣く子も黙る西武SAISONグループを代表するアミューズメントパークとして大ウソの広告までを打つ大隆盛を誇ったとしまえん。その真っただ中の来園者世代だった筆者も、若い男女入り乱れて午前中からビール(大)をあおり絶叫マシーンに乗りまくって気持ち悪くなったり、オートスクーターを天井から火花散らして誰かの車へ故意に大激突させたり、お化け屋敷でフライング・パイレーツさながらに大絶叫したり、プールサイドでマッチョポーズとったりと痴態に類する思い出は枚挙にいとまがない。お洋服を着ていない宮沢りえの出てこないサンタフェの扉の実物も見たし…。かつての日々、としまえんは少年合唱団の野外演奏会とはおよそ一切無縁で絶対に相容れない騒然とした酒池肉林の熱狂の乱痴気カオス地帯だったのだ。
東映Vシネマのホラー映画が撮られるほどウソのように寂れてしまったとしまえんにフレーベル少年合唱団はここ数年、毎年出演した。午前午後と野外マチネ30分間営業2本に、SAB全クラスが動員され、公開の記念撮影会有りという、極めてゴージャスなライブパフォーマンスである。だがしかし、としまえんコンサートは私たち聴衆にとってもフレーベルの多くを学ぶことができる絶好の機会だった。9月以降の秋口に打たれることが多い企画で、定演後はじめての公演という位置づけから新年度の団員構成(上進・リーダー団員・新しい隊列の並び順・合唱のトーンの変化)があきらかにされた。また、3つのクラスが入れ替わりオンステージすることになるので、歌っていないクラスがスカイトレインやミニサイクロンの近くで立ったまま休憩したりしていて、オフステージの子供の雰囲気が至近に感じられる。コンサート環境としては、カルーセルエルドラド(回転木馬)やサイクロン(ジェットコースター)がキッチュな音楽を奏でていたり轟音をたてながら疾走したり、乗っている客がわけわからん大悲鳴をあげて絶叫していたりとかなりの「史上最低の遊園地」ぶりで、団員たちの集中も途切れがちだったのが見ていて愉快痛快で楽しかった。
昨年度のとしまえんコンサート。彼らはズボンと靴下だけにレギュラーのスタイルを残し、その他は完全無帽で各自ハロウィンやパークを意識したものを着る自由な着衣だった(おそらくFMのようなかなり厳しい事前審査などは無く、当然の親心から全員ものすごい厚着だった。しかも首には支給品のジャックオーランタンカラーのネッカチをしっかり巻いている!)。そういうこともあって、コンサートが始まってから筆者はS組最前列に一人、FMの団員が混じって歌っていることに気が付いた。その位置はつい先月末までU村先輩が両脚をぴっちり閉じて何年も凛々しく立っていた隣である。私の聞く場所から声は分からないが、歌い姿を見る限り上半身が自由でそれゆえに重心の位置が適切で、FMで「水戸コーモンを絞めなさい」と指導される(されていた?)姿勢である。モスグリーンのジャージを着て、背丈はまだ小さいが、のびのびと気持ちよさげに歌っている。だが、驚いてその団員の顔をもう一度あらためると、FMの団員というのは目の悪い筆者の見間違いで、それはあのアンパンチ君なのだった。小児がん征圧キャンペーンのとき既にボウタイに更新があり、彼は定演後すぐS組に上進していたようだ。筆者はよく現在のフレーベル少年合唱団の立ち姿を「後ろに組んでいた手をただ横に下ろしただけで歌としては何も変わらない。だったらあのままで良かったのでは?」とよく揶揄する。だが、アンパンチ君の場合、両手を横に下ろしたからこそ、上半身は歌うために解放されていたように見えた。手を後ろに組んで歌うがゆえに上半身が堅固にブロックされていたフレーベル少年合唱団60年の歴史を完全に塗り変える団員がついに現れたのだ。本人もお家のかたも、おそらく大笑いで決してそうは思っていないだろう。だが、その事の重大さは、ナザレの町に住むどうということも無い一人のユダヤ男が2000年ぐらいの前のある日「休みの日は神様のためにあるわけじゃない!疲れた人が休むためにあるんだ!」と真剣に言い出し、以後の人類史を大きく決定的に方向づけた事態とよく似ている。
フレーベル少年合唱団は60年目にしてついに、大きな転換のときを迎えたのだ。

2019年にあったこと
在京の少年合唱団のステージ上の子供たちは、歌声を聞きながら顔を眺めるだけでも楽しい。
人口流入のある整った地域ゆえ、彼らはまず(ビシッと整髪はしていなくても)イロイロなヘアスタイルの子がサラダボウルのように混在している。坊主っくり、ソフトモヒカン、ツーブロック、ぱっつん、ナチュラル、カーリー、マッシュ、もちろんスポーツカット。毎年、味のある独特なイメージで聞かせるステージや仕草が自然体の岡本(A)君たちはブロークンアシメをキラキラさせていたりふわっと振ったりしていて見ているだけでパワー全開だ。
また以前にも書いた通り彼らは肌色のバリエーションもマルチだ。イエローベース、ブルーベース…塩男子くんに情熱のアロマ褐色男子、リンゴのほっぺ、コーラル君、夢見るキャラメリゼにピリッとスパイシーなシナモンボーイ等々。眼鏡着用率も抜きん出て高く、本当にいろいろな子が歌いに来ている印象のハッピーな華やかさ。「殺風景で色気も食い気もない男所帯」とはもう言わせない。見ても聞いても美味しい児童合唱に会いたかったらぜひともフレーベル少年合唱団のステージを目でも同時に鑑賞すべきだ。
さて、2019年春。たくさんの団員たちがいちどきにステージから姿を消したことは紛れもない事実だ。例えばその団員を筆者が最後に見たのはとしまえんのそれいゆステージだったろうか。A組の最後の年にはここで繰り返し述べてきた「犬のおまわりさん」のソロをつとめていた(そのときのお茶目な相方君も今はもういない)。18年の定演で彼は開幕の第2の童子のセンターにおり、表情も歌いも終始満点の爽快さだった。S組では現在のアンパンチ君の立ち位置に1年間おり、見ても聞いても楽しいステージを届けてくれていた。彼の姿が隊列の中にすっかり見られなくなり、筆者はそれからしばらくしてEテレの食育戦隊番組で歌い踊っている彼の姿を見かけたような気がした。センターで歌っていた女の子が一見して『それいけアンパンマンクラブ』の毎回エンディングでセンターをつとめていた子役だったのだ。「ああ、こういうことならいい。」と私は納得したが、それは筆者の全くの早合点で人違いだった。彼ら自身が何を思い、いかなる理由で合唱団を後にしたのかは、客席にいる私たちにはわからないし、それでかまわないと思う。だが、今改めて子供たちの顔ぶれを思い起こすとき、筆者はどの子にもかなりの文書量で思い出を書き連ねることができそうだ。どの子も少年らしい良い歌を全身全霊で歌っていたのだ。フレーベルではこういう年がおよそ6年に1度ぐらいの周期で厳然と訪れる。だが、今回は「いつもの…」と安易に言えないほど大規模なものだった。
筆者は冒頭、この合唱団とVBC・TFBCとの明らかな差異を述べた。同様の理由から、今日も団員一人一人を陶冶するというイメージを強く持っているのは2013年まではとくにFMで、一方、合唱と歌の中でなんとか「少年らを歌う集団として統べよう」と努力しているのはフレーベル少年合唱団であるように見える。FMの団員らは予科の1年生から本5の最上級生まで舞台へ無造作に放り込まれたとたん姿勢やブレスが揃い、団員同志の立ち位置の間隔やMC・ソロへの登壇ルーチンなども乱れることが無い(逆説的なようだが指導の対象は一人一人なのだ)。金髪碧眼の海外の合唱団の男の子たちが個人名で追っかけを享受していた時代から、VBCの隊員らもまたビッグマンモスのように隊員個人を対象としたティーンエージャーのファンを抱え、『アーバサクサ』(後にNHKうたのおにいさんとなるひなたおさむ等を主に応援していた)などの堅実なファンクラブを導いていた。
一方、出版社を母体とし成立しているフレーベル少年合唱団の場合、初期の指導については雑誌『合唱界』(1956-1969)と後継誌『合唱界ヤング』(1970-1972/1973 いずれも出版者は東京音楽社ほか)に詳しい。団員個人についての言及は勿論無く、人々がフレーベルを「合唱団」として心から応援していたことは間違い無い。
磯部俶率いる指導陣の苦悩は「ドレミ」と歌わせても決してその通りには声を出してくれない男の子たちの音を「いかに合わせるか」の闘いであったようだ。これらの記述の行間からは当時の団員のピッチ感への符合要求は強く感じるが、「彼らの標準語の発音をいかに美しく揃え止揚するか」ということへの言及が思ったほどに見受けられない。指導者自身が純粋でネイティブな山手標準語話者で、しかも東京都心の練習場から団員募集をかけていた合唱団ゆえ、「日本語の発音を整える」ということについては第2順位もしくは団員任せの局面がかなりあったのではないかと筆者は想像している。そして2019年の合唱団でも後者は同じだったのではないか。彼らに対するプラスの評価はこれらの事柄と強く関係があるのではないかと筆者は考えた。

おわりに
定演の幕開けにあたり少年合唱団はここ数年、モーツアルトの「魔笛」2幕16番三重唱を歌っている。昨定演では後奏にあたる伴奏部分を略し端折って見せ、いかにもの現体制の合理を見せた。客席に対し静粛鑑賞を求めるプロローグと見るのが常識的な見解だろうが、フレーベル少年合唱団の応援歴の長い者にとっての意見は少し違っている。1990年代を通して、フレーベル少年合唱団は合唱団として未曽有の存亡の機とも言える危機的状況に陥った。団員本人達には無論戦うすべなどはなく、定期演奏会はガラガラのabcホール(客席数500、港区芝公園、ホールとしては現存せず)に団員の親・親戚とOB関係の観客が前方中央の席を埋めるだけの寂しいコンサートだった。横一列に並んで全員終わりの隊列はなけなし(?)で背の順に並ばせてもパート間で派手な凹凸がある。その歌声も決して秀逸とは言えなかったし、当時の声は少人数で膨大な声量を賄えるほど充実したものでは無かった。「ああ、もう来年はこの定期演奏会もフレーベル少年合唱団も無いのだな。」と、その寂しい客席でため息まじりに諦観したことを今でも思い出す。あの時、団員だった少年たちは、どんな思い出と共に今を生きているのだろう。2020年の今、既に創団半世紀を超える少年合唱団の開演アバンに並ぶ選ばれしS組9名の団員達の姿を見るとき、私は前世紀末の休日の昼の演奏光景がどうしても脳裏に強く蘇ってしまう。フレーベル少年合唱団は今日、それを毎年真摯に年をかさねる大切な定期演奏会の冒頭で見せることによって、彼らが幾度もやり直しまき直しを重ね、何度も何年も生き返るようにここまでやってきたことを私たちに教える。その時々の齢10歳前後の少年たちが何かを祈念し、何かを夢見ながら胸を張って歌ってきたという気高い真実。60年という月日を順風満帆に、鏡のような水面を滑るがごとく歌い過ごし今日に至った安寧では決してないことを彼ら21世紀の9名の隊列は頼もしく無邪気に真摯に語っている。おそらくどの少年も合唱団の来歴を耳にしたことなど無いに違いない。それでもなお、今の団員達の歌い姿に苦しかったあの頃のひたすらな少年たちの図像が具現されるのは、合唱団の夥しい先輩方の不断の歌声と通団の日々が畢竟、合唱団の名と歴史のもと「青空はるか希望の星へ」と優しく歌いかけているからに違いない。