陽気に誘われて、箱根へ。ラリック美術館に行ってきた。ほとんどが撮影禁止で、
撮った数少ない1枚。商用でなければ、撮らせた方が周知効果あるのに・・・?
イタリアの名車ブガッティのラジエターキャップに使われたラリックの作品「トンボ」。
アールヌーボー、デコがモダニズムによって吹き飛ぶ寸前の作品だな。
箱根彫刻の森のクリスマス・ローズ。下界では開花時期を過ぎてしまった。
彫刻の森の英彫刻家アントニー・ゴームリーの「密着」。
深刻なテーマではなさそう。素直にフフとすれば良い!
去年に続いて上野で、「オペラの森」の公演、観て来ました。
今年はワグナーの「タンホイザー」新しい解釈でした。何とタンホイザイーは、死なないばかりか、騎士では無く、絵描きなのです。オリジナルと違って、官能が純潔を凌駕しちゃう演出。クライマックスの第3幕は鳥肌が立つほど感激した。
AmazonにDVD、昨夜、頼んだら、今日、来た。早い。氷川きよしも真っ青、国際的クラシック・カルテット。イケメン4人組。クソーッ。オペラ歌手は二人。あと2人は、ポピュラー系。アメリカ、スペイン、フランス、スイス出身。
4人の画像と右は一番人気のウルス。一番、歌、下手。
デジタルシネマの京鹿子娘二人道成寺を見てきた。玉三郎と菊之助のリアルの舞台はまずチケットが取れなかったから、シネマ歌舞伎の存在理由あり。テレビの劇場中継的で物足りなかったが、もう一工夫すれば、間違いなく外国でも受ける。2人の緊張感のある踊りの素晴らしさは、言うまでも無い。玉三郎の余裕、菊之助の若さ。楽しかった。
何を今更と怒られてしまいそうなのだけど、先週末、間違えて同じCD買ってしまった。ノラ・ジョーンズ。いまさらだけど2003年のグラミー賞を総なめにしたジャズヴォーカリスト。改めて聞くとやっぱりすごい。多分27歳かな。信じられない。’feels like home'はカントリーがかっているが、テキサス出身だからね。シビレマス。

飯食べながら何か聞こうと、CDラックをガサったら、クラシックギターのセルシェルが出てきた。セルシェルのビートルズアルバム。聞いているうちにセンチになってしまった。
"the five people you meet in heaven"(「天国で会う5人」)を読んだ。内容的には「天国であなたを待つ5人」と訳したほうが良いかも知れない。アメリカ人作家ミッチ・オルボムの作品。NYタイムズのベストセラーリストのNo1になったことのある小説。先月の出張の際、サンディエゴの空港で買った。通勤の往きの電車の中で(10分間)、ちまちまと読んで、ようやく読了した。タイトルからして教訓的で、中盤までしんどかったのだけど、後半は一気に読んでしまった。泣いたりはしなかったけど、読み進むにつれて、色々な思いが澱になって体の中に沈んで行くような気がした。
翻訳出版されることはないと思うので、ルール違反だけど内容書いてしまいます。主人公はエディー、ラビー桟橋にある遊園地の乗り物の保守点検係。83歳のエディーは、レールから外れて落ちてくる乗り物の下にいた少女をかばおうとして、死んでしまう。即死だったため、少女を救えたかどうかは彼には記憶がない。天国は、彼が思い描いていたような安住の地ではなかった。83年の人生が意味のない、そして、他者に対する罪の意識、また、とりわけ自分に厳しかった父に対する恨みに溢れたものだと思っていたエディの前に、5人が現れる。5人は、生前のエディーの知己ばかりとは限らない。遊園地の見世物、戦場での上官、遊園地の持ち主の妻で遊園地の名に冠されたラビー、妻、そして戦場で意図はなしに死なせてしまったフィリピン人の少女であるが、エディーの人生のある側面を(象徴的に)語ることの出来る人々である。5人はエディーが生きた意味をそれぞれ物語る。最後の少女は「私はあなたに殺されたの」と語るが、エディーが乗り物に押し潰されそうになった少女を助けたことを告げ、エディーの献身的な行為によって、エディを恨んでいた自分も救われたと語る。
人生、折り返すと色々な思いが去来しますね。人を幸せにしようとすると、自分が傷つくし、逆に、自分が幸せになろうとすると、人を傷つける。絶対的な幸せなんて無いのですね。そういうことに気づかせるという点では、いい作品だった。でも、所詮、原罪意識の無いアジア人には、わからないところもあります。
「ドイツ芸術の復興なしに民族の興隆なし」=ナチスに弾圧されたバルラッハの作品にもう一度会いたいと思ったのです。別にナチスに弾圧されたから、彼の作品の価値が高まったのではなく、それ以前に見た人の魂を揺さぶる高い芸術性を持った作品群です。「寝巻きを着た2匹のサルの抱擁」とナチスに酷評されたキリストとヨハネの「再会」も来ていました。ボクにとっても14年ぶりの「再会」です。92年4月に旧東ベルリンの国立美術館で開かれた「堕落した芸術展」が出会いでした。
ナチスの宣伝相ゲッペルスによる芸術弾圧と、東独共産党政権による芸術弾圧とは、まさにアナロジーなのです。そんなことは別にして、彼の作品は人間的な優しさに溢れています。悲嘆にくれた人々や悲しみに打ちひしがれた人々に対して、バルラッハの優しい目が注がれています。ナチスに弾圧された晩年、彼がどんな気持ちで過ごしていたのか?最後まで後ろ指を指されることなく、自分の良心に殉じた芸術家の魂が作品に宿っているような気がします。
仕事しにパリに来たとはいえ、仕事だけして帰るにはもったいないので、合間を縫ってルーブルに行って来た。目的はアングル特別展。ルーブルの一般展示は2度ほど見てるので。小僧のころ、多聞に漏れず、主にエロチックな視点からアングルの裸婦像に憧れていた頃があったから・・・・。いやー圧巻だった。絵画80点、スケッチ104点。良くぞここまで集めた! 日本では、オダリスク、泉、浴女と裸婦像ばかり有名だが、本当は「着衣の画家」だったんですね。男も含めて裸を描いたものは、ほんのわずか。肖像ばかりがずらーっと並んでた。レンブラントとは、また違う画風で感動した。緻密にかつスタティックに描いているのだが、顔の表情や服装など、描かれた人物の内面まで見透かしたような描き方だというのがよく分かった。ナポレオンを描いた等身大の2点は、ナポレオンの風圧を感じるほど。天才的バイオリニスト・パガニーニのスケッチもあった。本人もバイオリンを弾き、絵とどちらの道に進むか迷った時期があったそうな。
そして、ボクは自分自身で大発見をしたのだ(みな知ってるんだろうけど)。「泉」なのだけど2つのスケッチの女性と完成した絵の女性の顔が違うのだ。2点のスケッチの女性は、一つはまったく別の女性、もう一つは写真のように表情が違う。アングルの人物画らしくスタティックなのだが、完成バージョンでは、優しい目の輝き、口を半開きにしたアングルらしくない表現。言ってみれば、女神が下界に降りてきた顔。アングルの抑えられない自己表出への欲望がこの絵には凝縮されているような気すらする。フェルメールの真珠の耳飾の少女と通じるところがある。ボクがフランス人だったら、これだけで小説書いちゃうかもしれない。この絵を描くの30年かけたというけど、一体、その間に何があったのか。想像力をかき立てる。急いで回ったけど面白かった。
この後、オルセイで、やはり(別の意味で?)小僧の頃好きだったピサロの特別展があって、急いで行ったのだが、午後5時で切符の発売が終わり、間に合わなかった。クショー。独りで来るといいな。買い物に付き合わなくてイイから。
5回寝たけど(クラシックで寝るって最高の幸せ。至福のときだよね。)、イアーゴ役のラード・アタネッリが素晴らしかった。デスデモーナのブルガリア人ストヤノヴァも声は細いけど通る声で感激した。久々、浮き浮きしました。オケが良かった。
でも、ヴェルディって男の馬鹿さ加減を表現しすぎで不愉快。単純で、嫉妬深くて、惚れっぽくて、暴力的で最悪。女性の方が理性的で・・・・。現実と違うよね。
「オテロ」そのものは、救いがなくて、暗くてあまり好きじゃない。
ヒトのブログ見てると、荒川静香さんの金メダルソング・トゥーランドット(Turandot)に関心が集まっているようなので、一くさり。ご存知の通り、プッチーニ(=Puccini:1858-1924)の作品です。どうしても舞台が大掛かりになるので、現代的演出でもない限り、上演されることが無く、ボクもテレビでしか見たことがありません。Shame! ベルリンに同名の日本食レストランがあり、ご主人がこのオペラに惚れて、名前を冠してました。今もあるのかなあ。さて、この物語には悲話が隠されています。んだ。
プッチーニは「トゥーランドット」が初演される2年前に、喉頭がんのため、ブリュッセルで客死しています。「トゥーランドット」は未完の作品だったのです。プッチーニの死後、このオペラのスケッチを基に、弟子のフランコ・アルファーノが最後の2場を完成させました。
○登場人物:中国のトゥーランドット姫、韃靼(だったん)の廃王チムール、その王子カリフ、女奴隷リウ
○あらすじ:舞台は架空の中国北京。カリフ王子は、父王チムール、女下僕のリウとともに北京に。紫禁城の城壁の上に、ペルシャ王子の断頭刑を見守るトゥーランドット姫を見かける。高慢ちきで残酷なトゥーランドット姫は、自分の夫になるためには王子であること、3つの謎を解くこと、さもなければ頸を刎ねると公言し、すでに14人の王子が断頭の刑を受けていた。一目惚れしたカリフ王子は、リウが泣いて翻意を促すのも聞き入れず、挑戦の合図の銅鑼を叩く。カリフ王子は、見事3つの謎を解くが、トゥーランドット姫は結婚に踏み切ろうとしない。そこで、カリフ王子は、「朝までに自分の名を言えば、首を差し出そう」と迫る。この後、カリフ王子が独りになって歌うアリアが「誰も眠らせない(=Nessun Dorma)」。歌詞は後ほどね。中国の兵士がカリフ王子と一緒にいた父王とリウを捕らえ、吐かそうと拷問するが、カリフ王子を愛していたリウは自らの口をふさぐため、兵士の剣を奪って自害してしまう。そして、カリフ王子とトゥーランドット姫は激しい論争の末、結ばれる。
カリフ王子もトゥーランドット姫も、厭なヤツだね。この結婚が幸せなものになるとは思えない!
○「トゥーランドット」余聞:プッチーニが自ら筆を執ったのは、本人の死により「リウの自害」の場面までで、そのあとの部分は弟子が受け継いだらしい。プッチーニ家にはかつてドーラというメイドがいた。ところが、ドーラとプッチーニの関係を怪しんだ妻によってドーラは辞めさせられてしまう。1909年1月、精神を病んだドーラは自殺してしまう。これが、プッチーニの作品に影を落としているというのである。まさに「トゥーランドット」は、現実に起きたことのアナロジーなのだ。と、勝手に想像している。
○「誰も眠らせない(=Nessun Dorma)」の歌詞の邦訳(勝手な訳!):
(王子)誰も眠らせない!誰も眠らせない!おー姫、貴方もだ。冷たい部屋で愛と希望に震えながら星を見るがよい。しかし、私が出した謎の答、それは私の中に封印されている。私の名は誰にもわからない。いや、夜が明けたら、貴方の唇にだけ私の名を明かそう。私の口づけは沈黙を打ち破り、貴方は私のものになる。
(女性コーラス)彼の名を誰も解けない。そして私たちは殺されるのだわ!
(王子)おー夜よ深まれ!星たちよ配置に付け!星たちよ配置に付け!夜明けとともに私は勝つ!私は勝つ!私は勝つ!
最後の部分は一寸自信なし。多分、軍隊用語と想定して訳したんだけどね。学者じゃないし、許してチョ!おおよそこんなコッチャ。愛の歌ではあるけど、ちょっと想像と違うでしょ。最高のアリアだね。
内容は、画家フェルメールと下女のほのかな恋情のやり取りを描いたものです。構図的にはそっくりです。剽窃とはいいませんが。