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上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その9)

2009-11-27 19:58:44 | 八ッ場ダム騒動
性懲りもなく継続中の、上毛新聞で 2009年9月23日から22回に渡って掲載された『八ッ場の57年』という連載記事への突っ込み、という謎更新。
今回は、1980年11月~1981年5月31日まで・・・群馬県が出した生活再建案を巡る議論について述べた部分になる。

ここでは、八ッ場ダム水没地区の生活再建案がいかに形成されたか、またこの計画が群馬県と長野原町との「共犯」で議論されたかについて触れている。
そこには、1980年前半という時代状況がよ~く映し出されてるのだが・・・。

つーことで、2009年10月2日分上毛新聞『八ッ場の57年 苦悩の軌跡 9』の文字起こしをしてみた。
ただし、一部表記を変更+強調を入れておく。

---- 以下文字起こし ----
県が再建案提示
「ほど遠い」 地元冷淡

2009年10月2日 上毛新聞


県は「八ッ場ダム建設の前提としない白紙の立場」で策定していた生活再建案をまとめ、1980年11月27日、長野原町と町議会に提示した。

この再建案は、ダムの恩恵を受ける下流と県から財政援助や事業協力の確約を取り付けるなど法的・財源的な裏づけを元に「実施可能な事業」を盛り込んだことが、それ以前に県と国が発表した案との相違点。
全庁を上げて取り組み、清水一郎知事が「ベストの案を作ったつもりだ」と述べる自信作だった。

ダム建設の判断資料と、清水知事ら県幹部が町役場に乗り込んで説明したが、ダム問題の今後について白紙委任された地元の反応は冷ややかだった。

翌日の上毛新聞には「以前の建設省(現国土交通省)の案と同じではないか」という樋田 富次郎町長(86)の感想をはじめ、「もっと町にとってのメリットを打ち出してくれなくては対応のしようがない」「全体的にスケールが小さい」といった町議の声や、「話にならない」「再建案とはほど遠い」などの手厳しい意見も紹介されている。

県がまとめた生活再建案は、水没関係者の生活の再建と安定向上、地域の振興を目的としており、集落整備対策や生活安定対策、道路交通対策、社会生活環境施設対策、農林業対策など11項目で構成。
総事業費は 1600億円を見込んだ。
また、水没関係者に直接関係のある諸対策を重点的、具体的に説明するため、手引きも併せて示された。

川原湯温泉の移転先には川原湯・上湯原と横壁・小倉の2地区を候補にあげ、地元に選択を委ねた。
観光対策として、新温泉街に多目的ホールや温泉保健センターなどの入った観光会館などを整備。
観光客誘致や温泉利用客の増加、雇用安定などを狙いに、新しい施設として「こどもの国」を設置し、国道145号や国鉄吾妻線(現JR吾妻線)などは付け替えることとした。

県はそもそも、調査費を予算計上した 1978年度に再建案を策定する構えだった。
しかし、住民との調整は思ったように進まず、作成の趣旨説明やそのための調査などについて地元と話し合いのテーブルに着くのにも時間がかかった。

当時、水資源課長として再生案に携わった高坂 又四郎(しゃしろう)さん(80)=前橋市=は「最初は建設省と同じだと思われ、話を聞いてもらえなかった。県庁の仕事が終わってから反対派住民の家を尋ね、県がやっていることを話して回った。少しずつ信頼されるようになり、県の考えも広まっていった。そのうち、夜に行くと『上がってお茶でも飲んでいきない(方言)』などと言われるようになった」と語る。

国とは別のスタンスで地元との仲介に乗り出した県だったが、大きな犠牲を強いるダムへの反発と行政への不信感は根強かった。
ようやく独自の生活再建案提示までたどり着いたものの、地区ごとに住民への説明会が始まるのは半年後の 1981年5月末だった。


JR吾妻線

JR上越線渋川駅から分岐し、吾妻郡内を東西に走って嬬恋村の大前駅までの18の駅を結ぶ全長55・6キロの路線。
1945年に開通した。
八ッ場ダム建設で長野原町内の一部区間が水没するため、東吾妻町から長野原町にかけて約10キロの付け替え工事が行われている。

---- 文字起こし以上 ----

実は、八ッ場ダム建設に伴い「日本一短い」トンネルこと樽沢トンネルの運用が廃止される、なんて話も・・・。
樽沢トンネルについては以下を参照(笑)
・吾妻線 失われゆく風景(がんばれ!いなかのバス・電車)

件の『こどもの国(冒険ランド、という仮称らしい)』ってのは、太田市にある『ぐんまこどもの国(群馬県立金山総合公園)』を補完する位置づけになるんだろうか?
その辺については以下を参照。
・ぐんまこどもの国公式ホームページ
・「八ッ場ダム 生活再建計画見直し」-12/4(2006年12月4日 八ッ場あしたの会)


話を戻す。
先程「1980年前半という時代状況がよ~く映し出されてる」と述べたのは、生活再建策として(農業対策もあるけど)観光施設を複数建設するなんてのが盛り込まれたところ。
経済が右肩上がりだった時代だけに、「観光施設を建設しとけばなんとかなる」というノリで計画されたのだろうか?(不謹慎)
無論、八ッ場ダム建設が早期に終了する、ってのを前提にしてたのかもしれんが・・・。

後は、1980年当時、八ッ場ダムに関する議論が国会でどのように行われてたかってことか。
ま、こいつをやるとキリが無くなりそうだが・・・(手抜き)。


おまけ:
第1回目~第8回目については以下を参照(手抜き)。
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その8)(2009年11月25日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その7)(2009年11月20日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その6)(2009年11月18日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その5)(2009年11月15日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その4)(2009年11月11日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その3)(2009年11月10日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その2)(2009年11月7日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その1)(2009年11月5日 flagburner's blog(仮))


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