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上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その5)

2009-11-15 19:57:28 | 八ッ場ダム騒動
性懲りもなく継続中の、上毛新聞で 2009年9月23日から22回に渡って掲載された『八ッ場の57年』という連載記事への突っ込み、という謎更新。
今回は、1965年に八ッ場ダム建設計画が再び持ち上がった後~1967年8月に建設省(当時)が行った住民への説明会までのお話。
第1回目~第4回目については以下を参照(手抜き)。
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その4)(2009年11月11日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その3)(2009年11月10日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その2)(2009年11月7日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その1)(2009年11月5日 flagburner's blog(仮))

しかし、今回はつかみどころの無い記事なもんで扱いに困った・・・。

つーことで、2009年9月27日分上毛新聞『八ッ場の57年 苦悩の軌跡 5』の文字起こしをしてみた。
ただし、一部表記を変更+強調を入れておく。

---- 以下文字起こし ----

賛否″色分け″
地域の人間関係に影

2009年9月27日、上毛新聞


ダム計画に反対する住民は1965年5月、「八ッ場ダム連合委員会」を結成した。
ところが1、2回程度の会合を開いただけで、結成から半年後の同年12月に解散する。
原因について、委員長だった故萩原 好夫さんは、著書『八ッ場ダムの戦い』(岩波書店)の中でこう分析している。

<(住民が)それぞれの方向に走り出し、賛成、反対、中立というような色分けが自然に生まれ始めていた>

同月の長野原町報にも解散を伝える記事が掲載された。

<反対の線をはっきり出したほうがいいという意見と、どうせできるのなら条件闘争で行くほうが良い、という意見とに分かれ、現段階では統一した足並みで進むことが無理だということになった>

反対派住民の思いを振り返れば、先祖代々の土地を手放したくないという気持ちがあった。
住民が犠牲になるのは明らかだとし、近くに適切な代替地や農地がない事を問題視した。

これに対し条件付賛成派は、国を相手に主張を通しきれるか疑問に思っていた。
どうしても造らなければならないのなら、環境の整備など充分な生活再建や補償がまず必要と主張していた。

「(川原湯地区では)ダムに反対の人賛成の人が同じ日の夜、それぞれ別の旅館に集合してグループ分けが行われた。私は反対のほうに参加した。みんな将来の事を真剣に考えていた」。
後に八ッ場ダム建設反対期成同盟委員長を務めた竹田 博栄さん(79)=中之条町西中之条=は、その日の事を今も覚えている。

当初、一丸となって反対運動を繰り広げた住民。
反対派、条件付賛成派、中立派などに分かれた背景には、ダムそのものへの賛否だけでなく、地域や立場、価値観の違いなどが絡み合う複雑な事情があった。

賛否の構図が地域の人間関係に影を落とし、近所や親戚の間で口を聞かなくなったり、いがみ合うことも。
67年8月の上毛新聞はこう報じている。

<商店街では賛成派、反対派がそれぞれ自派以外との商取引をやめるなど八ッ場ダム問題は日常生活にまで発展している>

竹田さんは「今にして思うと、立場は違っても、みんな精神的な面で大変苦労した。ダムと時代の流れに翻弄された」と振り返る。

町議会も揺れ動いた。
66年2月「八ッ場ダム建設反対に関する決議」を全会一致で可決した。
しかし67年6月には「ダム建設絶対反対」と「条件付き賛成」の二つの請願書が住民から同時に提出され、混迷の度を深める。

同年8月、建設省(現国土交通省)による水没住民への説明をめぐって問題が生じる。
当時の桜井 武町長が会場として町内の小学校を提供することに、反対派が強く反対した。
町長は結局、小学校の使用を撤回し、説明会は会場を変えて開かれた。


長野原町の人口

1967年4月当時の長野原町全体の人口は 7838人。
水没関係地区は川原畑 316人、川原湯 646人、横壁 236人、林 512人、長野原 1737人、今年8月現在の町人口は 6401人で、40年余りの間に 1400人以上減少している。

---- 文字起こし以上 ----

ちなみに、『~期成~』という名称自体は色んな運動で使われているので特に珍しい言葉ではない(らしい)。


話を変える。
この記事を読んでて疑問に思ったのは、1953年に八ッ場ダム建設計画が中断された後 1965年に至るまで長野原町で何が起きていたかってこと。
とりわけ、住民の間にあった八ッ場ダム建設反対の意思を変えるだけの「何か」についてあまり触れられてないんだよな。
強いて書くなら、「~地域や立場、価値観の違いなどが絡み合う複雑な事情があった」と軽く触れられてるだけか。
ま、『八ッ場ダムの戦い』を読めば一発で済む話かもしれんけど・・・。

後、気になるのは、長野原町の人口が減少した原因か。
単に、八ッ場ダム騒動だけで人口が減るとは思えないしな~。


さて、これはどういうことだろうか?


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