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上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その3)

2009-11-10 19:50:23 | 八ッ場ダム騒動
唐突に始まってしまった、上毛新聞で 2009年9月23日から22回に渡って掲載された『八ッ場の57年』という連載記事への突っ込み、という謎更新。
第1回目と第2回目については以下参照(手抜き)。
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その1)(2009年11月5日 flagburner's blog(仮))
・上毛新聞の八ッ場ダムに関する連載記事に思ったこと(その2)(2009年11月7日 flagburner's blog(仮))

3回目となる今回は、1950年代から始まった利根川ダム建設ラッシュの裏で建設中止となったダムがあったというお話。
これが八ッ場ダムも含めた利根川水系治水計画にかかわっていたので、「八ッ場ダムと関係ね~ぢゃん?」という突っ込みは禁句。

つーことで、2009年9月25日分上毛新聞『八ッ場の57年 苦悩の軌跡 3』の文字起こしをしてみた。
ただし、一部表記を変更+強調を入れておく。

---- 以下書き起こし ----
幻の巨大ダム
巨大化で反対、白紙に

2009年9月25日 上毛新聞


八ッ場ダムと時を同じくして1952年に閣議決定され、表面化したのが沼田ダム計画。
カスリーン台風の被害を受け、藤原、薗原、相俣、八ッ場、下久保ダムとともに利根川の洪水調節の中核を担うダムとして盛り込まれた。

1953年8月、建設計画が伝わった地元ですぐさま反対運動が起きる。
利根郡町村会が建設、運輸省(共に現国土交通省)に強硬な反対陳情を行い、県は建設省に反対意見書を提出した。

反対運動が高まる中、藤原、相俣ダムが築かれたことで、治水計画は進み、沼田ダム計画は足踏みする。
利根川水系の河川開発は徐々に治水中心から利水と併用する多目的ダム建設に軸足を移行しつつあった。
戦後の高度成長を支え急増する首都圏の水需要にこたえなければならなかったからだ。

それでも国は八ッ場ダム同様、沼田ダムに執着した。
1959年に治水、利水に発電を加えた国内最大の多目的ダムとする最終的な計画が明らかになる。
当初から堤高や貯水量の規模から巨大ダムと表された沼田ダムは、堤高152メートル、総貯水量8億トンに膨らんだ。

沼田市の大部分が飲み込まれ、東京の水を沼田から賄おうという計画に住民は抵抗。
周辺町村も加わって結成された沼田ダム建設反対同名連合会は、1959年10月7日に沼田公園で総決起大会を開き、4日後の沼田市議会はダム建設反対決議を賛成多数で可決した。

1961年6月の県議会では、神田 シン(土へんに申)六知事が「県民あげての重要な問題で、慎重に対処しなければならないが昨年県議会で反対議決を行っても折り、基本的には反対である」と始めて公式に見解を述べた。

受益地では一部に早期ダム建設を推す動きもあったが、再燃した反対運動は官民一体で繰り広げられ、激しさを増すばかりだった。

建設推進の姿勢を崩さなかった佐藤 栄作内閣を引き継いだ田中 角栄内閣は計画を再検討。
1972年9月に木村 武雄建設相が会見し、「多くの水没家屋がある沼田ダム建設は諦めるべきだと考えている。これに匹敵する水対策については数箇所の水源地から求めたい」と白紙撤回する見解を示した。

一方、八ッ場ダムについて木村建設相は「建設の時期は水源地域開発法の成立が前提条件であり、これが成立すればできるだけ早い時期に建設にかかりたい。地元に犠牲を及ぼす問題なので当然地元の了解を取り、経済面での配慮も考えている」と意欲を見せた。

沼田市の助役を務め、市史の編さんに関わった下田 順三さん(72)=同市栄町=は、「首都圏の水がめへダムの目的がシフトしつつあり、沼田ダムは他のダムに比べ計画の規模があまりにも大きすぎた。それに伴う犠牲は計り知れないものがあった」と振り返る。

計画から20年、沼田ダムが幻になった頃、長野原町では再燃した八ッ場ダム建設を巡る闘争が続いていた。


利根川水系8ダム

首都圏への上水道供給などを目的に利根川や支流に建設された多目的ダム群。
矢木沢、藤原、奈良俣、相俣、下久保、草木の各ダムと渡良瀬遊水地が該当する。
この中で総貯水量は矢木沢ダムの2億4300万トンが最大。
堤高では158メートルの奈良俣ダムが最高。

---- 書き起こし以上 ----

沼田ダム、か。
仮にこのダムができていたとしても、八ッ場ダムの建設是非を巡る議論であったけど、洪水を防ぐには全然足りなかったみたいだし。
翻って、沼田ダムの建設中止が決まったのは、官民を挙げて反対運動を展開できたことが大きいかと。
とりわけ、県レベルでの建設反対運動に発展できたのが、(この後の連載記事で紹介されるけど)八ッ場ダムの反対運動との大きな違いになったか。
もっとも、沼田ダムの建設計画が中止したのは、八ッ場ダムの建設計画が進んだからという推測もできなくないが・・・。


それにしても。
国土交通省(というか建設省+運輸省)は、なんたって沼田ダムを建設しようと考えたのやら。


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1 コメント

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知事の名前 (massimo)
2012-04-26 02:45:57
「神田コンロク」知事です。片品村からみなかみ町の藤原方面に抜ける林道に坤六峠と呼ばれる所があります。建設当時の知事の名前です。
長く群馬県知事を務められた方で、平成17年96歳で亡くなられています。
当時、ダム湖になる予定の地域で云われていた事の最たるものは、あまりにも莫大な補償費のために予定倒れになるのではないか。という事でした。
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