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シンガー・ソング・ライター田中正浩の素顔

福島原発事故―支援の輪を広げて

2012年01月15日 | 出演

2012.1.15(日) 憲法九条を守る木幡・六地蔵の会新年のつどい

開会挨拶、九条の会第3回全国交流集会の報告に続き、福島市出身で「避難者と支援者を結ぶ京都ネットワークみんなの手」を立ち上げて活動しておられる西山祐子さんが「福島原発事故―支援の輪を広げて」と題して講演をされました。

3月11日の直後、情報が錯綜する中、友人から避難を勧めるメールが西山さんに届きました。
以前から反原発の活動をしている友人でした。
福島第一原発が水素爆発を起こし、通常時は0.04μSv/hの放射線量が3月15日には24.24μSv/hに跳ね上がりました。
はじめは家族の反対にあいましたが、避難を決意。18日、飛行機で東京へ。3ヶ月過ごした後、さらに京都へ避難されます。

はじめは外部被曝からの心配、次に内部被曝への心配がありました。2才の娘さんが安心して外で遊べる環境を求めての決断でした。
政府が決めた避難区域の外側であっても、より安心して暮らせる場所へ移住する「自主避難者」は多くおられるそうですが、そうした人々を受け入れている京都市のような自治体は限られています。また、父親の勤務の関係などで母子のみが避難するケースや、週末だけの避難、県内の比較的線量の低い地域へ一時避難している人も大勢います。11月の時点で福島県外に5万人近い人が生活しているそうです。
避難を決意した人、残ることを決意した人、それぞれ、家族のこと、経済的負担、ふるさとへの思い、健康のこと、差別など、様々な問題に直面し、悩んでおられます。
どこに住んでいたかによって補償に差があり、政府から「安全」と見なされた場合には補償が受けられないという現実もあります。そのことで県民の気持ちがバラバラになることをとても憂いておられました。
今後、いつか福島に帰りたいが、先が見えない。山林に降り積もった放射性物質を除染するにはおそらく何十年もかかるでしょう。除染作業をすればするほど、その人が被爆するという矛盾もあります。

国は「20mSv/年」を避難基準として設定。市民団体が求めてきた「選択的避難区域の設定」を拒否し続けています。福島市の中でも渡利地区は放射能汚染が深刻で、6月の調査で3μSv/h以上を観測。市民団体が政府交渉でたびたびこの問題を指摘するも政府側は無視し続けました。除染も効果が上がりません。このような状況の中、渡利の市民団体が国、市に対し要望書を提出、説明会を開かせます。しかし、住民が「線量計が振り切れる箇所があちこちにある」「全世帯を調査せよ」と迫っても国、市は特定避難勧奨地点への指定を拒否。
とうとう10月28日には怒った住民が国の原子力災害対策本部や文科省、原子力安全委員会と直接交渉を行いますが、政府側は「誠意を持って検討する」というお決まりの答弁をするだけでした。
この事態を一刻も放置できない。子どもたちを守ろう、と発足したのが「渡利土湯ぽかぽかプロジェクト」。渡利の子どもを近隣の線量が低い土湯温泉に一時的に避難させようという取組です。「みんなの手」はこのプロジェクトにも積極的に関わっておられます。

西山さんはご自身の心情の変化についても率直に語られました。事故が起こるまで「私一人の力では何も変わらないと思い行動しなかった」自分を責め、地元の農業を守ろうと必死で活動している農家に思いを寄せながら、母親の立場として、子どもを守りたいという気持ちを行動に移された勇気と決断力、物事の本質を見抜く力、そして人とつながり、その輪を広げていこうとする熱意に感動しました。
また、マスコミでは決して報道されない市民団体の粘り強く力強い活動にも希望の光を見た思いがしました。政治の無能さ、情けなさを嘆いてばかりじゃいけないですね。結局は僕たち一人ひとりがしっかりし判断し、行動しなくては…!

講演の後、「まさひろとその仲間」(黒田いづみ、田中正浩)が会場の皆さんと一緒に歌を歌いました。

  • 弥生の空 (田中正浩 作詞・作曲)
  • 原爆を許すまじ (浅田石二 作詞/木下航二 作曲)
  • 私の子どもたちへ (笠木透 作詞・作曲)
  • 愛に生き平和に生きる (岩谷時子 作詞/いずみたく 作曲)

その時の様子です。(ケータイで撮影→wmvファイル「私の子どもたちへ」)
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