
毎日会派の入り口にこんなことを書いているの(^。^)
無茶苦茶当てまくる占い師って本当にいるみたいですね。初対面なのに友達すらも知らない不倫を、それも複数の女性がいることまで指摘し、その付き合い方を指南するとか。家族しか知らない病気をその病名まで言い当てるとか。本人が本当だと言うのだから本当なのでしょう、そんなびっくりするような話を聞く機会がこれまで何度もありました。
良縁や、不幸からの回避方法を占い師に教えてもらいたいのはよくわかります。だって私達は予測できない事の連続の中で生きていかなければいけないのですから。人間なんて弱い生き物、困った事が起これば誰かを頼りたくなるもよくわかります。でもそれが占い師への依存につながるケースもあったので、ちょっと注意が必要かな、って思ったりもするのです。
どこの馬の骨ともわからない人間に占ってもらって良縁をいただく。でも年を経て振り返ってみると、あの選択は果たして正しかったのか、と後悔することもあるでしょうし、逆に占い師の言うことに逆らうような行動をした結果、一番の取引先が手を引いた。それで破産したけど、そのおかげで早くに違う道を模索し立て直すことできた。あのタイミングで方向転換できたから今がある。そんな話もあると思うのです。
私は私の人生を誰にも指図されたくないと思っています。そして何が起きるかわからない世の中、良いも悪いも占い等に頼ることなく、全てをひっくるめて生きていきたいとも思っています。より良く生きるためには、人生が問うてくる問題を一つ一つ自らの意思でこなしていくしかないのですから。
そう思っているので、子どもも自分自身の決心で生きてもらいたい。そんな思いから、良い学校だの就職だの、大切な選択権を親がぶんどり、さもそれしか道がないかのような教育に憤りを感じるのです。親がそういう狭い世界しか提示できないから、一つがポシャるだけでパニックになり、占いにすがりたくなってしまうのです。
そうさせないために、親は次善の策を教える必要があると思います。そう、完璧でなくても良いということを。そして「これがダメでもあれがある」とか、どんな状況に置かれようとも「しぶとく生きてやるぜ、待ってな人生!」といったことを。そのためには子どもの「好き」を奪っちゃ絶対ダメ。そして日本で生きていくために必要な生活の基本、例えば挨拶する時は頭をちゃんと下げるとか、もしも左利きの子ならば、箸を使う時は左手にいる人を気づかうとか。葬式に派手なネクタイをつけないとか、結婚式に新婦よりもゴージャスなドレスを着ないといったこともそう。例えはちょっと盛っちゃいましたが、当たり前のことが自然とできるように教育するのが本当は一番大切なのではないかと思うのです。
生きているだけでもすごい事なのに、子どものペースを無視してああだこうだと子育てに邁進する親御さん。子どもを見ずに子どもを育てるから、子どもは自分の「好き」がわからなくなるのです。子どもの「好き」を守るためには、何をしても、何もしなくても許される、そんな安心できる場所を提供するだけで良いと思うのです。
どれだけ人を傷つけないように注意しても、傷つけてしまうこともあるでしょう。細心の注意を払っていても、飛び込んでくる車を避けられない時もあるでしょう。そんな不確実な世界で生きていかなければならないからこそ、人間万事塞翁が馬とか、災い転じて福となる、といった言葉への意識が大切になります。ひいてはそれが、未来を他者に委ねず、自分自身でその態度を決めることに繋がる、そんな気がしてなりません。小さなことも大きなことも自分が決める。そう決心して毎日をなんとかやり過ごしつつ、他者に依存しない自立した生き方か模索できたらいいな、なんて思っています。
吉本隆明さんのこの言葉、もっと早く知っておきたかったなぁ。
- 時間をこま切れにされたら、人は何ものにもなることができない。
- ぼくには子どもが二人いますが、子育ての時に気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。それは「子どもの時間を分断しないようにする」ということです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます