おはようございます。今日は寒いですね。
いちょう並木の木々もなんだか寒々としています。
患者さんに紹介していただいた「猫の神様」東良美季著を読んでいます。
まだ途中ですが、涙腺ウルウルしそうで困っちゃいます。
この本の中に以下のような文章がありました。
主人公が、ある売れないミュージシャンに
「お子さん生まれて大変じゃないですか?」
「………正直子供なんて作ってええんかなと思たで。………でも実際生まれて抱いてオムツ代えとかしてるやろ、そしたら『これはちゃうわ』って思てん。………ただ、神様がある時期俺たちに預けてくれたもんやろと。だから親には義務があんねん。預かったものやから、子供をしっかりと育てて社会に出してやる義務がな」
(((子どもは授かりものじゃなくって預かりもの)))
昨日治療させていただいた患者さんにこの話をしたところ、テニスプレイヤーの伊達公子さんのお母さんも言っていたとか。
伊達公子さんのお母さんは「神様」のところを「社会」に置きかえて話をしておられたそうですが、いずれにせよご存知のようでしたので話がとても弾みました。
私がこの言葉を知ったのは何年前のことだろう。
ちょうど子どもを事故に遭わせて気落ちしてた頃、かなり大きなものだったのでずっと気が動転しちゃってて、気がつくと涙が止まらなくなるだなんて初めての経験で。
それから子育てを改心したかというと不安も多いのですが、とにかく生きててくれるだけでありがたいなぁ…なんては思うようになりました。
子どもを育てれば多かれ少なかれ色々な事があると思います。自分ではどうしようもないことだって多々あります。
そんな時に思い出してもらいたいのが、どんな子が生まれようがそれは神様からの預かりもの。
頭でごちゃごちゃ考えずにただただひたすらにその場その場に合わせて子どもを育てればいいだけなんじゃないかなあって事。
神様からの預かりものだと考えれば、その家庭に最も必要な子どもを預けてくれるんじゃないかという考えも生まれます。
家族のお互いが切磋琢磨して成長するためにその家に生まれてきてくれた。
同志と同じことなんじゃないかと思うんです。
元気な子が生まれようが病気がちな子が生まれようが、神様からお預かりした子どもを育てれば良いだけのこと。
だから育てられるか心配だとか、教育費がどうのとか、先天的な病があったらどうしようとか、たとえ病気で生まれる事がわかっていたとしても、そこには人智の及ばない「心」の結びつきがあるからそこに生まれてくるわけで、その縁を頭で考えた事で否定するのはもったいないかなぁ…なんて思ってしまいます。
必要だから…必然だからこそ、その場所に生まれてきた。
自らの意思とか考えとかは脇に置いておいて、そんな感じてみるのもいいかも…
感じる…
感じるといえば→「センス・オブ・ワンダー 」(レイチェル・カーソン 著)
「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない(おおしたブログ、平成10年6月記事)にも書きましたのでお読みくださいね
またまたうちの子の話で申し訳ないのですが、生まれた時に肺が成熟してなくて先ずNICUに入ったんです。
足元から崩れ落ちるってこういう事なんですね。
事故の時は気が動転してたのか全く思い出せず、そういった経験を味わう余裕すらなかったのですが、この時は違っていました。
小児科の先生が
「私が何を言ってもわからないと思いますから、とにかくこのお子さんに触れて感じてみてください。このお子さんが生きたがっているのがよくわかるから」
と言ってくれたのです。
それで子どもを触ってみたんです。
そのとき「あぁ、この子は生きたがっている。もう大丈夫、心配しなくていい」って感じてとっても気が楽になったのを覚えています。
不安だからそう思おうとしただけかもしれません。
実際にそう感じたのかもしれません。
とにかく子どもに触れる事で「よかった、安心した」って思えた事がその後に良い影響を与えたのは絶対だと今でも確信しています。
話は脱線しましたが、子どもの数が多くなるともちろんそれだけ嬉しいことがたくさんあるのですが、その影で辛いこともたくさん巡ってきます。皆さん良いことしか言わないし、私も人に話すまでに時間がかかってしまった話満載だけど、それもこれも生きててくれているから語れるようになったわけで、どんな形でも生きててくれてる事に先ずは感謝しないといけませんね。
ということで「影を活かす生活」(2013年1月)にも書いたように、嬉しいことも辛く悲しいことも善悪で判断するのではなく、どれもこれもよい経験をさせてもらっていると受け入れることも大事かと、話が戻った次第であります。
おっとこんな時間だ、でかけなくては!!
今日も小さなハッピーをたくさん見つけちゃいましょう!!
そして良い日にしましょうね(^。^)