昨日書いたブログ、日曜に行った藤野駅から高尾山往復は無茶苦茶しんどかったです。でも2日経って、筋肉痛が全くない!その小さな成長がとっても嬉しい!
だから患者を診る上で自らが作り上げる治療の物語がとても大切になってくる。患者三様、十人十色、四診で得た情報に、自らの五感をフル動員して精査し、治癒に導く壮大な物語が。
治療方針というフィクション
治療はもちろんエビデンスベースですすめなければいけない。だが東洋医学はそこに感情等、数値では測れないものを加味して治療を組み立てる必要がある。このブログには「患者三様、十人十色、四診で得た情報に、自らの五感をフル動員して精査し、治癒に導く壮大な物語が」と書いたが、エビデンスの枠組みの中、どう治療に結びつける物語を作るかも、鍼灸師に必要な事のような気がする。
治療はフィクションであるとは先達の言葉、結局のところ治療方針は鍼灸師に委ねられる。登り方は違えど、その目的地は同じだと思いたいところだ。
四診より得た情報から身体の状態を探り、物語を作る作業。論拠が確固たれば、それを踏まえて物語を紡ぎ出せる。ただ、人の体は十人十色、うまくストーリーを作れないこともしばしばだ。だから五感を研ぎ澄ませて患者を診ることが大切になる。
脈や見た目、肌の色、患者から醸し出される全てを五行に割り振る作業。まぁ、なかなか上手くは伺えないが。
- 一見穏やかそうに見える女性、脈からは、はらわたが煮えくり返っていそうな感じがする。肝の実が空回りしているのだろうか、やはり怒りと肝実が関係しているのか。
- 仕事も育ちも理系中の理系、理路整然と話をするが、以外にスピリチュアルな感じを醸し出すのは何故だろう。何某かの依存心が脾経を虚せしめ弱々しくしているのだろうか。
前述の通り、感情をも診断の判断基準に組み込まなければいけない東洋医学、情けない話、勉強会等十人鍼灸師が集まれば、大家っぽい人の、言ったもの勝ちの、声の大きい人の意見が通る事が多々ある世界だ。そんな東洋医学というファンタジーというかフィクションというか、それをどう組み立てるか。圧倒的に面倒くさいが、その人間臭い部分にも面白みを感じている。だから続けているのかもしれない。
「名人達が一人の患者を脈診し、脾虚や肝虚・腎虚とばらつきがあるのはおかしい。」
四診より得た情報から身体の状態を探り、物語を作っていく作業、論拠が確固たれば、それを踏まえて物語を紡ぎ出す事で、必ずや治癒への道が開ける。このようなストーリーの作成はとても大切だと思っていたのですが、偉大な先達もしなやかにその作業をしていたのですね。
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