犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

したたかに生きる

2020-08-13 14:15:13 | 日記

「ある本を読んで以来、風景が変わって見えてくる」とは陳腐な表現だが、本書には間違いなくその影響力がある、と木原善彦さんが「訳者あとがき」に記しているように、『オーバーストーリー』(リチャード・パワーズ著 新潮社)には、世界の見え方を変える力があります。

表題のオーバーストーリー(overstory) は「林冠層」(森の上部の樹冠が連続している層)を意味しており、カタカナ表記から連想されるイメージとは別物なのですが、敢えて「物語を超える物語」の印象も残すために、日本語表記のタイトルにしたのだそうです。森林の空間や地中において様々な小動物の活動や菌類の情報網、化学物質の伝達を駆使しながら、森は巨大な知性のネットワークとして生きているーー本書を通じて訴えかけられる驚くべき認識です。生命誌のほんの新参者に過ぎない人間が、樹木をただの「材料」として消費し尽くしている罪深さ、それに気づいて行動を起こす人たちの物語は、たがいにオーバーラップしあって、単なる啓蒙書にとどまらない力を放っています。本書は樹木や生命環境について認識を新たにしてくれると同時に、絶望的な戦いのなかで、どうやって自らを鼓舞し続けるのか、について深く考えさせられます。

本書のなかには、王維の一編の詩『酬張少府』が何度も引用されています。

毛沢東に故郷を追われてアメリカにたどり着いた男が命からがら持ち出した阿羅漢の画に記されていた詩。その男がピストルで頭を撃ち抜いて自死する直前に洋皮紙に書き写していた詩。やがて過激な森林保護活動にのめり込むようになるその娘が、時折思い出す詩。そして、樹木どうしのコミュニケーションを説く女性科学者が、人間がいなくなった世界を思い描きながら、ふと目に留める詩。

晩年唯好靜 萬事不關心 (晩年唯だ静を好みて 万事心に関せず)
自顧無長策 空知返舊林 (自ら顧るに長策無く 空しく旧林に返るを知りぬ)
松風吹解帶 山月照彈琴 (松風吹けば帯を解きて 山月照らせば琴を弾ずる)
君問窮通理 漁歌入浦深 (君が窮通の理を問わば 漁歌は浦の深きに入ると)

(大意)

晩年になってからは、ただ静かなのが好きで、すべてのことに関心がない
自ら顧みても処世に優れた手だてはなく、古巣に帰るほかないのを知るばかり
松風はくつろいだ体を吹き、山にかかる月が琴を弾くのを照らす
あなたは世の困窮と栄華の理屈をお尋ねになるが、 
あの漁父の歌が入江深く聞こえているではありませんか

ここでいう「漁父の歌」とは、屈原の『楚辞』漁父のなかの「滄浪の水清らかなら冠の紐を濯うべし 水濁らば足を濯うべし」を指しています。

滄浪(中国湖北省を流れる川)の水の流れがきれいなときは冠のひもを洗おう、濁っているならば足を洗おう

状況に応じて、したたかに生きていこうと歌ったものです。どんなに巨大な相手が、理不尽な行為に及んでも、したたかに生きていこう。希望の見えない状況のなかで、この詩の結句だけが未来を照らしているように思いました。「したたかに生きる」ことは「うまくいく可能性を探る」ことと言い換えることができます。樹木のコミュニケーションを説く前述の科学者は、講演のなかで次のように語ります。

少しでもうまくいく可能性がある戦術はすべて、いずれかの植物が過去4億年の間に試しています。私たちは今ようやく〝うまくいく〟というのがどれほど多様な意味を持つのか気付き始めたばかりです。生命というのは、未来へ語り掛ける方法なのです。それは記憶と呼ばれます。あるいは遺伝子と呼ばれます。未来という問題を解くには、過去を保存しなければなりません。

したたかに生きること、うまくいく可能性を探ることを考えていて、きのうニュースで伝えられたばかりの、香港で弾圧を受けている若者にも、思いを致さざるを得ませんでした。

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