妻と厳島神社まで足を伸ばしました。四半世紀ぶりの訪問です。
あのころはこんなに飲食店が賑わっていただろうかなどと話しながら、観光客でごった返した路地を抜け、昨年末に修復を終えた大鳥居にたどり着きました。神社は西側回廊の修繕が残っているだけで、工事中の覆いの大部分は外されています。
海面と回廊に反射した陽の光が、本殿に続く祓殿に満ちていて、智恵の光、寂光ともいうべきものを湛えているように見えました。そう言えば、この社殿は仏教的だという理由で、明治維新のころ危うく焼却されそうになったと、聞いたことがあります。
フェリーの時刻がちょうど干潮で、帰りかけた観光客の幾人かが大鳥居に向かっていましたが、我々にはその元気もなく、予定どおり帰りの船に乗りました。
広島駅のなかのお好み焼き屋の、長い長い行列に並んで、やっと席に着いて飲んだ「宮島ビール」の美味しかったこと。
地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜
ひゃくねんたったらだあれもいない
(俵万智 『チョコレート革命』)
夫婦で宮島に初めて来た頃に出た、俵万智の第三歌集のなかの一首です。バブルの恩恵を受けることのない青春を過ごし、バブルのはじけた厳しさだけが身にしみる新婚当時でした。歌の中の地ビールの泡は、そんな過去を吹き払って、視点を百年たったところまで連れて行ってくれます。
長い行列に耐えてお好み焼きにありついた客たちも、さっきまで宮島の路地を埋め尽くしていた観光客も、百年後にはだれも生きてはいません。
それでも、海中の大鳥居は、百年後にも朱色を輝かせてあの場所に立っているのでしょう。私たち夫婦にあと何年だか残された岸辺には、地ビールの泡がひっそりと浮かんでいて、この日の味を思い出させてくれれば、幸せなことだと思います。