犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

スロー・グッバイの始発駅

2018-10-08 10:15:57 | 日記

父の介護の日々を終えて、今感じるのは「あのとき、ああしていればよかった」という後悔の念ばかりです。
もっと頻繁に孫達との食事の機会をつくるべきだった。食事制限が取れ、車椅子で入れる回転寿司をようやく見つけ皆で食事をしたときの、孫達に皿を取ってあげる表情の輝かしかったこと。最晩年の闘病生活で見せた数少ない笑顔の印象でした。使命感に駆られるばかりではなく、介護の日々を素直に受け入れることで、もっと自然なコミュニケーションもあったはずだと、今にして思います。

内藤定一さんの歌集『スロー・グッバイ』(青磁社)は、著者の妻が抱えるアルツハイマーと向き合った、19年の記録です。長い介護の間には、戸惑いや絶望の瞬間もあるはずですが、自分たちの置かれた状況に少しでも前向きに対処しようという姿勢に心を打たれます。

痴呆後の空の広さをわれ知らず異なる思いに妻と歩めり

妻の見ている空は自分の見ている空よりも広く澄んでいるに違いない、著者は願いを込めてそう思います。しかし、妻と共有できない澄んだ空の広がりは、はがゆいことに著者から遠く退いていくようです。

悪意にも知恵にも無縁の妻と来て干潟に下りし鳥を見ている

徘徊癖のある妻を「それゆけハイカイ号」と名付けた自転車で連れ出し、干潟のうえから鳥を並んで見ている様子です。妻の空の広さを共有できないとしても、餌をついばむ鳥の姿を自分たちに重ねて眺めることはできます。ひっそりとこの世の片隅に生の営みを続けるつがいの鳥に自分たちを重ね合わせることで、著者は妻と同じ世界を共有することができたと感じることができたのかもしれません。あるいは、無垢な少女を連れた冒険好きな少年になった心踊る瞬間だったのかもしれない。

失語癖はげしき妻の目を見つむ かすかに意志をみせる目の色

著者が心の底から求めたものは妻との対話でした。言葉を交わすことが難しいのなら、せめて目の表情を読もうとします。これに応えるように妻の目の色に意志の光を見出します。著者の一途な気持ちが報われた瞬間の希望の歌です。

ほんもののやさしさだけしか通じない妻の痴呆に励まされつつ

幼い頃の精神に帰ってしまった妻から頼られている。著者は「ほんもののやさしさ」を持つものとして認められていることを、みずからの励みとして介護の日々を送る覚悟を詠いました。

徘徊はスロー・グッバイの始発駅どこへ行くのか誰も知らない

介護の「覚悟」と言っても、ここには著者の気負いは見られません。
介護の日々を詠んだ「介護詠」が、すぐれて私たちの希望でありうるのは、絶望的な断絶を乗り越えようと取り組む姿が、ひとのコミュニケーションの「原型」として、私たちに感じられるからではないでしょうか。贈り物をおくること、贈り物を受け取ることとしてのコミュニケーションです。

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