初釜の茶事が無事に終わりました。
師匠のお孫さん夫妻や、茶室を準備してくださるホテルの方など、社中以外の顔ぶれもそろい、和気藹々とした雰囲気で茶事は進みました。
人づてに聞いた話によると、師匠は深夜まで準備をされ、早朝から荷物の運び出しに取りかかるため、2時間ほどの睡眠しかとられていないとのことでした。昨年末から風邪で体調を崩されているにもかかわらず、常に場を和やかに保たれる気力の充実に感服します。
「半東」という「亭主」の補佐役を仰せつかったため、今年は「水屋」(茶事の準備をする部屋)での一日になりました。道具の箱出しから、洗い拭き、道具の設置、膳の上げ下げなど水屋仕事は戦場のような忙しさです。しかもこれを殆ど無言で行わなければならない。茶席での会話の進み具合や、箸を落とす音などを聞き漏らさないようにするためです。茶事の手順や時間配分など、すべて心得ていなければならないので、「茶事は水屋仕事ができて一人前」と言われるのもよく分かります。茶席ではお稽古場とは違う和やかで楽しい時間が過ぎていて、これと並行するように茶事の成功を祈りながら黙々と仕事をする裏方仕事の時間が流れます。
昨年末に読んだ玄侑宗久さんの対談集『多生の縁』(文春文庫)の、鈴木秀子さんとの対話を思い出しました。
シスターでありホスピスの活動にも携わっておられる鈴木さんは、人の死に立ち会って救いを求められる立場です。そのような場で、決まって経験することがあるのだそうです。
間もなく亡くなる人の所へ行くと必ず、仲たがいしている人と仲直りがしたい、そして、家族の大事さをしみじみ思い、自分がそう思っていることを家族に伝えてほしい、と言われるんです。(中略)意識が混濁していた人がふっと意識を取り戻したり、時空を超えて他の人と心を通じ合せるような時があって、本当にさり気ないこと、ちょっとそこにあるお菓子を食べさせてあげたり、小さい時にお母さんにこうしてもらったとか、さり気ないんですけどその人にとっては一番大事な愛を伝えるような時間のことを、「仲良し時間」と呼んでいます。その時は気づかなくても、後から振り返って、その人が精一杯愛を送っている、何か一体感を感じている、そういうことをし遂げなければ人は死ねないっていうのを、私はよく感じるんです。(70頁)
玄侑さんは、鈴木さんの発言を受けて、凝り固まった「私」がほどけることの重要性を述べています。
「私」の中には本来同一ではない自己がたくさんいますが、それでは社会的な生き物としてあまりにも分かりにくいので、アイデンティティを仮に設け、無指向性の自分を無理やり一つにまとめている。ですから、自分の人格だと思っているのも実はフィクションだと私は思っているんです。で、そのアイデンティティは死ぬ間際にほどけるんだと思うんです。(71頁)
アイデンティティがないと社会的に不都合があるので、そのフィクションを背負っているけれども、ふっと、そのフィクションがほどける状態に戻る必要がある。そうやって、ほどける世界を垣間見ることが、人生においてとても大切なのだ、と玄侑さんは述べています。
私はお茶の稽古を「私」というものが「ほどける」時間としてとらえていたので、この対談が身に染みるように感じていました。そして初釜の華やいだ特別な空間を、より大がかりな祝祭空間のようにも感じます。
その祝祭空間の裏方に身を置いてみて、鈴木秀子さんのような「仲良し時間」を支える立場の人にも、もうひとつ踏み込んで考えることができました。