哲学者の鷲田清一さんが著書『大事なものは見えにくい』(角川ソフィア文庫)のなかで、松下幸之助さんの言葉を紹介しています。
松下さんは自社の管理職員を前にして、成功するひとが備えていなければならないものが3つあると説いたそうです。それは「愛嬌」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」なのだと。そして、あなたがたはただ運が良かっただけだとオチを付けるのも松下幸之助さんらしいところです。
鷲田さんはこの3つの要素の勘所を手際よく説明していますので、少し長くなりますが引用させていただきます。
「愛嬌」のあるひとにはスキがある。無鉄砲に突っ走って転んだり、情にほだされていっしょに落ち込んでしまったりする。だからまわりをはらはらさせる。わたしがしっかり見守っていないと、という思いにさせる。
「運が強そうな」ひとのそばにいると、何でもうまくいきそうな気になる。そのはつらつとした晴れやかな空気に乗せられて、一丁こんなこともやってみるかと冒険的なことにも挑戦できる。
だれかの「後ろ姿」が眼に焼きつくときには、見ているほうの心に静かな波紋が起こっている。言葉の背後に秘められたある思いに想像力が膨らむ。何をやろうとしているのか、何にこだわっているのか、そのことをつい考える。
そう、見るひとを受け身ではなく、能動的にするのである。無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、そこへと他人の関心を引き寄せてしまうからだ。(前掲書48頁)
これだけでも、ビジネス論、経営者論として非常に示唆に富む内容なのですが、鷲田さんが思いを致すのは「無防備なところ、緩んだところ」についつい関心を引き寄せられる「周り」の人びとについてです。
鷲田さんの表現では、この「隙間、緩み、翳り」こそが、ひとの関心を引き出し、活力を生み出します。言い換えれば、人は人への依存関係ではなく、自分の役割は何なのか、寄与のあり方はどうあるべきかを模索する中で、生き生きと輝き始めるものなのです。
人からの承認があって初めて、人間は生きられるものに相違ないでしょう。しかし受け身の依存関係から得られる承認は、重たく不自由な「しがらみ」でしかありません。無防備なところについ手を出して支えざるを得ないような関係のなかで、自らを生かし人も生かすような、いわば生き生きとした承認が得られるのだと思います。
しかし、そのような承認は得ようと思って得られるものではなく、社会によって「結果的に」与えられるものでしかありません。
鷲田さんが松下幸之助さんの言葉に触れた、そもそものきっかけ次のようなものでした。大きな不祥事などに当たって誰も責任を取ろうとしない、当事者が事の重大ささえ分かっていないようにも見えるケースに人々は苛立つけれども、数多ある経営者論ではその処方箋は提示できないようだ。少なくとも、鷲田さんにとって「味があるなあ」と感心したのは、松下幸之助さんの先の言葉くらいしかない、と。
謝罪会見などに登場するいわゆる責任者の表情には、前述したような「翳りや、隙間」といったものは見られず、上に対してずっと受け身できた「優等生」の表情でしかない、というのが鷲田さんの見立てです。そのような隙間やほころびを許さない、奥行きのない組織に安住してきたことこそが、問題の発端なのではないか。
しかし、それは問題を追及する側にも等しくあてはまることでもあると鷲田さんは指摘します。
これはわたしたちの社会の問題でもある。(中略) 不祥事が起こればすぐに「犯人」を捜しだし、弾劾をはじめるひとびと。「報道」という名のイメージの送信に、思考を介さず直情的に反応してしまう視聴者たち。含みや奥行きや弾力が、この社会からもぐっと失せてきた。(前掲書49頁)
人に承認を与えるものは社会であり、その社会に含みや奥行きや弾力がなくなれば、われわれが生きているといえるための条件も、やせ衰えていきます。不祥事に対するわれわれの苛立ちのありようも、それ自体が病なのかもしれないと、思いを致すことが必要なのだと思います。