掬水月在手 弄花香満衣
(水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ)
前段の句は秋の掛物に使われ、後段の句は春から初夏にかけて、床の間に掛けられるのをよく見ます。年の初めに当たり、この一対の句を一息に読んでみると、あらためて贅沢な気持ちに満たされるのに気付きます。
もともとの出典である唐の詩人于良史(うりょうし)の「春山夜月」と題された五言律句を訪ねてみると、一層その感は強くなります。
春山多勝事 賞翫夜忘帰 (春山勝事多し 賞翫して夜帰るを忘る)
掬水月在手 弄花香満衣 (水を掬すれば月手に在り 花を弄すれば香り衣に満つ)
興来無遠近 欲去惜芳菲 (興来らば遠近無く 芳菲を惜しんで去かんとす)
南望鳴鐘処 楼台深翠微 (南に鳴鐘の処を望めば 楼台は翠微に深し)
以下が、詩の大意です。
春の山は素晴らしいことが多いので、それらを愛でていると日が暮れても家に帰ることを忘れてしまう。
川の水を手ですくえば月が手中に在り、花にふれれば香りが衣に満ちあふれる。
興が乗れば遠く近くにかかわらず、芳しい花の香を惜しんで何処までも行きたいと思う。
鐘の音が聞こえる南方を望めば、楼台は山の中腹に隠れている。
この世の中は豊かさで満ちている。私たちはその限りない豊かさに驚きとともに包まれているのだ。そう思ってこの詩の世界に遊んでいると、誰に対するともしれない感謝の気持ちが湧き上がってくるようです。
禅語では、水を掬った掌の中にも、花の香りが移った衣にも、春の美しさが宿るように、ひとしく仏性は宿るのだと説かれるのが通例です。だからその時々の「気付き」が大切なのだと。
しかし、そのように解してしまっては、溢れるばかりの贅沢さが減じてしまうようにも思います。
掌中の月は水を掬った瞬間に驚きとともに現れ、花の香りは戸惑うほどに衣に漂い続けるのです。そこに象徴されるようなものは何もない、そうとらえた方が、月の影や花の香りに対する畏れや、愛おしさや、そしてこの瞬間のかけがえのなさも、抜け落ちることはないのだと思います。